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2026-08-29

150th Death Anniversary of Félicien David

Félicien-César David (France, 1810 - 1876) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Lalla-Roukh, Act 2, No.11. Barcarolle et ensemble (A flat major).

今日はフランスの作曲家・指揮者、フェリシアン・ダヴィド没後150年の命日です。今回はダヴィド作曲のオペラ・コミック「ララ・ルーク」より第2幕第11番「舟歌とアンサンブル」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第14曲 Barcarola (dall'opera: Lalla-Roukh). Andantino (21頁) として収録されています。

フェリシアン・ダヴィドは1810年4月13日にフランス帝国ヴォクリューズ県カドネ (Cadenet) で生まれました。生後間もなく母マリ=アンヌ・フランソワーズ・アルキエ (Marie-Anne Françoise Arquier) を亡くし、5歳のときには金細工師でアマチュアのヴァイオリン奏者でもあった父シャルル・ニコラ・ダヴィド (Charles Nicolas David, d. 1815) も亡くしたため、姉の一人に引き取られました。パリ・オペラ座首席オーボエ奏者のジョゼフ=フランソワ・ガルニエ (Joseph-François Garnier, 1755 - 1825) の勧めにより、1818年からエクス=アン=プロヴァンスのサン=ソヴール大聖堂 (Cathédrale Saint-Sauveur d'Aix-en-Provence) の聖歌隊員養成所でミシェル神父 (Abbé Michel) とマリウス・ルー (Marius Roux) にソルフェージュ、和声法、声楽を学び、作曲を始めました。1825年にエクスのイエズス会サン=ルイ学院 (Collège des jésuites Saint-Louis) に入学し、1828年の閉校まで学びました。エクス劇場副指揮者や裁判所書記として短期間働いたのち、母校のサン=ソヴール大聖堂聖歌隊員養成所で楽長に就任しました。サン=ソヴール大聖堂に1年勤めたのち、パリに移ることを決意。パリ音楽院に入学してエドゥアール・ミヨー (Édouard Millault, 1808 - 1887) に対位法を、フランソワ=ジョゼフ・フェティス (François-Joseph Fétis, 1784 - 1871) に対位法とフーガを、フランソワ・ブノワ (François Benoist, 1794 - 1878) にオルガンを師事し、そのほかにナポレオン=アンリ・ルベル (Napoléon-Henri Reber, 1807 - 1880) から個人指導を受けました。音楽院で学びながら音楽教師で生計を立てていたものの、1831年には賞を獲得しないまま音楽院を去り、サン=シモン主義者となりました。

1832年に政府の命によりサン=シモン教団が解散させられると、少数の友人たちとともにサン=シモン主義を広める中東への旅に出発しました。リヨン、マルセイユ(1833年3月22日出航)、イスタンブール、イズミル、ヤッファを経て、エジプトに到着しました。道中は旅行用の小型ピアノを持ち歩き、東洋風の歌曲やピアノ曲などを作曲しました。2年近くカイロに滞在し、音楽教師や砂漠探検をして過ごしましたが、ペストの流行によりエジプトを離れざるを得なくなりました。陸路でベイルートに行き、そこから航路でジェノヴァを経由して1835年6月にマルセイユに到着しました。1836年、中東の旋律に基づくピアノ曲集「東洋風旋律集 Mélodies orientales 」(Paris: Pacini, 1836) を出版。1844年7月に代表作となるオード交響曲「砂漠 Le désert 」を完成し、同年12月8日に初演して成功を収めました。1859年にグランド・オペラ「エルキュラニュム Herculanum 」を初演。1862年にトマス・ムーア (Thomas Moore, 1779 - 1852) の長詩「ララ・ルーク、東洋のロマンス Lalla Rookh 」に基づくオペラ・コミック「ララ・ルーク Lalla-Roukh 」を初演。同年、レジオンドヌール勲章オフィシエを受章。1869年にエクトル・ベルリオーズ (Hector Berlioz, 1803 - 1869) の後任としてフランス学士院の会員に選出され、パリ音楽院図書館長に就任しました。1876年8月29日にセーヌ=エ=オワーズ県サン=ジェルマン=アン=レー (Saint-Germain-en-Laye) で亡くなりました。

出典:

  • Bartoli, Jean-Pierre (2016). “David, Félicien”. MGG Online. Retrieved 2026-08-29.
  • Macdonald, Hugh; Locke, Ralph P. (2001/2021). “David, Félicien(-César)”. Grove Music Online. Retrieved 2026-08-29.

2025-05-07

200th Death Anniversary of Antonio Salieri

Antonio Salieri (Italy/Austria, 1750 - 1825) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - "Pantomime" (Act 3) from Les Danaïdes (1784).

今日はイタリア出身のオーストリアの作曲家・指揮者・音楽教師、アントーニオ・サリエーリ (アントニオ・サリエリ) 没後200年の命日です。 今回はサリエーリ作曲、5幕の抒情悲劇「ダナオスの娘たち」(1784) より第3幕終曲「パントミム (パントマイム)」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第45曲 Pantomima (dall'opera: Le Danaidi) (64-65頁) として収録されています。

アントニオ・サリエーリは1750年8月18日にヴェネツィア共和国のレニャーゴ (Legnago) で生まれ、兄のフランチェスコ・サリエーリ (Francesco Salieri, 1741 - 1826) と当地のオルガン奏者ジュゼッペ・シモーニ (Giuseppe Simoni) にヴァイオリンと鍵盤楽器を学びました。1763年に母が1765年に父が相次いで亡くなるとヴェネツィアに移り、テノール歌手のフェルディナンド・パチーニ (Ferdinando Pacini) に声楽を、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペシェッティ (Giovanni Battista Pescetti, 1704 - 1766) に作曲法を師事しました。1766年にヴェネツィアで自作のオペラ「スキュロス島のアキレウス Achille in Sciro 」制作の監督をしていたフローリアン・レオポルト・ガスマン (Florian Leopold Gassmann, 1729 - 1774) に才能と野心を見いだされ、ガスマンに連れられてハプスブルク帝国の首都ヴィーンに移り彼の弟子となりました。間もなくオペラを書く機会を得て、1769年に最初の上演されたオペラである「女文士たち Le donne letterate 」が作曲されました。1771年7月には「アルミーダ Armida 」が上演され、高く評価されました。1774年にガスマンが亡くなると、後任としてハプスブルク宮廷の室内楽作曲家 (Kammerkomponist)、イタリア・オペラ監督に就任。パリ国立オペラからの委嘱作品に手が回らなくなっていたクリストフ・ヴィリバルト・グルック(Christoph Willibald Gluck, 1714 - 1787) の依頼によりフランス王国の首都パリを訪れ、1784年にパリで「ダナオスの娘たち」を上演し成功を収めました。1787年には同じくパリでフランス・オペラ3作目となる「タラール Tarare 」を上演して大きな成功を収めましたが、これはオペラにおけるサリエーリの最高傑作とも評されています。1788年にジュゼッペ・ボンノ (Giuseppe Bonno, 1711 - 1788) の後任としてハプスブルク宮廷楽長に就任。1790年に庇護者でもあった神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世 (Joseph II, 1741 - 1790) が亡くなると、楽長業務のうち劇場でのリハーサルや指揮などを弟子のヨーゼフ・ヴァイグル (Joseph Weigl, 1766 - 1848) に委譲しました。1815年のヴィーン会議では音楽行事の企画・指揮を担当。1825年5月7日にヴィーンで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2024-11-29

100th Death Anniversary of Giacomo Puccini

Giacomo Puccini (Italy, 1858 - 1924) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - "In quelle trine morbide" (Act 2) from Manon Lescaut.

今日はイタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニ没後100年の命日です。今回はプッチーニ作曲の4幕のオペラ「マノン・レスコー」第2幕より「この柔らかなレースの中で」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第5曲 Melodia (dall'opera; Manon Lescaut) (6-7頁) として収録されています。

プッチーニ家はトスカーナ大公国ルッカ (Lucca) を拠点としていた音楽家一族で、音楽家としては4代前の高祖父で同名のジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini (I), 1712 - 1781) までさかのぼることができます。

ジャコモ・プッチーニは1858年12月22日にミケーレ・プッチーニ (Michele Puccini, 1813 - 1864) の子としてルッカで生まれました。1874年からルッカのパチーニ音楽院 (Istituto Musicale Pacini) で、叔父 (母の弟) のフォルトゥナート・マージ (Fortunato Magi, 1839 - 1882) の下で音楽を学びはじめ、カルロ・アンジェローニ (Carlo Angeloni, 1834 - 1901) に管弦楽法を師事しました。1877年作曲のモテット「プラウディーテ・ポプリ Plaudite populi 」と「クレド」で最初の成功を収め、1880年から1883年までミラノ音楽院でアントニオ・バッジーニ (Antonio Bazzini, 1818 - 1897)、アミルカレ・ポンキエッリ (Amilcare Ponchielli, 1834 - 1886)、アミントーレ・ガッリ (Amintore Galli, 1845 - 1919) に師事しました。音楽院時代の作品には「クレド」(1877) を転用した「4声のミサ曲」(1880)、「交響的前奏曲 イ長調」(1882)、卒業制作作品である「交響的奇想曲」(1883) などがあります。

オペラ第1作「レ・ヴィッリ」(1884年ミラノ初演)、第2作「エドガール」(1889年ミラノ初演) に続く、第3作「マノン・レスコー」(1893年トリノ初演) の成功によりオペラ作曲家としての地位を確立し、 「ラ・ボエーム」(1896年トリノ初演)、「トスカ」(1900年ローマ初演)、「蝶々夫人」(1904年ミラノ初演)、「西部の娘」(1910年米国ニューヨーク初演)、「つばめ」(1917年モナコ公国モンテカルロ初演)、「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」の三部作 (1918年ニューヨーク初演)、「トゥーランドット」(遺作、未完) といった、現代でも主要なレパートリーとなっている作品を残しました。1924年11月29日に旅先のベルギー王国ブリュッセルで、喉頭癌の緊急手術のあとに起きた心臓発作のために亡くなりました。遺作となった「トゥーランドット」はフランコ・アルファーノ (Franco Alfano, 1875 - 1954) により補筆され、1926年にミラノで初演されました。

出典:

2024-11-14

250th Birth Anniversary of Gaspare Spontini

Gaspare Luigi Pacifico Spontini (Italy, 1774 - 1851) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Impitoyables dieux! (O Nume, tutelar degli infelici. Act 2) from La vestale.

今日はイタリアの作曲家ガスパーレ・スポンティーニ生誕250年の誕生日です。今回はスポンティーニ作曲のオペラ「ヴェスタの巫女」第2幕より「無慈悲な女神よ」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第45曲 Preghiera (dall'opera: La Vestale) (66頁) として収録されています。

ガスパーレ・スポンティーニは1774年11月14日に教皇領のマイオラーティ (Maiolati. 現在のイタリア領マイオラーティ Maiolati Spontini) で、職人兼小自作農の子として生まれました。楽才が認められたため、1793年にナポリのピエタ・デイ・トゥルキーニ音楽院 (Conservatorio della Pietà dei Turchini. 現在のナポリ音楽院の前身校の一つ) に入学しました。音楽院ではニコラ・サーラ (Nicola Sala, 1713 - 1801)、ジャコモ・トリット (Giacomo Tritto, 1733 - 1824) に師事したと考えられていますが、スポンティーニ自身はドメニコ・チマローザ (Domenico Cimarosa, 1749 - 1801) の弟子であると主張していました。1796年の最初のオペラ・ブッファの初演以後、イタリアでオペラ作曲家として活動し、1802年の末に統領政府期フランスの首都パリに移りました。

パリでは声楽教師として活動を始めますが、やがてフランス皇后ジョゼフィーヌ (Joséphine de Beauharnais, 1763 - 1814) の庇護を得てオペラを発表し、「ヴェスタの巫女」(1807年パリ・オペラ座初演)、「フェルナン・コルテス、またはメキシコ征服」(1809年パリ・オペラ座初演) で大成功を収めました。1817年にフランス国籍を取得。1814年よりプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (Friedrich Wilhelm III, 1770 - 1840) から招聘を受け、1820年にプロイセン王国の首都ベルリンに赴き宮廷音楽家として音楽総監督 (Generalmusikdirektor) に就任しました。外国人作曲家でありながら宮廷音楽家として高い地位にいたスポンティーニを快く思わないものは多く、1840年6月のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の死後、その後ろ盾を失ったスポンティーニは激しい攻撃にさらされ、1841年7月には不敬罪 (不得手なドイツ語での声明中の語句について告発された) により禁固9ヶ月の刑が確定し職を解かれます。1842年5月に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (Friedrich Wilhelm IV, 1795 - 1861) によりその判決は取り消されたものの、スポンティーニはイタリアに帰国しました。1850年9月に生地マイオラーティに戻り、1851年1月24日に同地で亡くなりました。

出典:

  • Gerhard, Anselm (2001). “Spontini, Gaspare (Luigi Pacifico)”.Grove Music Online. Retrieved 2024-11-14.
  • 2024-03-27

    200th Birth Anniversary of Luigi Luzzi

    Luigi Luzzi (Italy, 1824/1828 - 1876) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - La rosa. Lento (E minor).

    今日はイタリアの作曲家ルイージ・ルッツィ生誕200年の誕生日です (異説あり)。今回はルッツィ作曲、歌曲「ばら」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第29曲 La Rosa (Romanza per canto) (44-45頁) として収録されています。ルッツィの作品から同名曲を探すとピアノ伴奏独唱曲集「4つのメロディ 4 Melodie 」(Milano: Ricordi, 1868) に第1曲として収録された「ばら La Rosa, Op. 95 」あります。この作品の編曲の可能性がありますが、確認できていません。

    ルイージ・ルッツィはサルデーニャ王国のモルターラ近郊にあるオレーヴァノ・ディ・ロメッリーナ (Olevano di Lomellina) で生まれました。生年月日については1824年3月27日 (Archivio Storico Ricordi)、1828年3月28日 (Izzo 2001) などの説があります。トリノ大学で医学と人文学を学び、1853年にトリノのレージョ劇場でオペラ「キアリーナ Chiarina 」を上演し作曲家としてデビューしました。作品にオペラ、歌曲、ピアノ小品などがあります。1876年2月26日にイタリア王国のストラデッラ (Stradella) で亡くなりました。

    出典:

    • Izzo, Francesco (2001). “Luzzi, Luigi”. Grove Music Online. Retrieved 2023-03-27.
    • “Luigi Luzzi”. COLLEZIONE DIGITALE. Archivio Storico Ricordi. Retrieved 2023-03-27.

    2024-03-03

    200th Death Anniversary of Giovanni Battista Viotti

    Giovanni Battista Viotti (Italy, 1755 - 1824) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Violin Concerto No. 28 in A minor; II. Andante sostenuto (F major).

    今日はイタリア出身の作曲家・ヴァイオリン奏者・興行主、ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ没後200年の命日です。今回はヴィオッティ作曲「ヴァイオリン協奏曲第28番 イ短調」より第2楽章 ヘ長調の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第82曲 Melodia (dal XXVIII Concerto per violino) (118頁) として収録されています。

    ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティは1755年5月12日に、サルデーニャ王国のフォンタネット・ポー (Fontanetto Po) で鍛冶屋の子として生まれ、9歳頃までにはヴァイオリンを学んでいました。1766年に、チステルナ・ダスティ公ジュゼッペ・アルフォンソ (Giuseppe Alfonso dal Pozzo, IV principe di Cisterna d'Asti, 1748 - 1819) の庇護の下で赴いたトリノで教育を受けました。トリノでは最初に、チェロニアート氏 (Signor Celoniat)、おそらくカルロ・アントニオ・チェロニアーティ (Carlo Antonio Celoniati, ca. 1730 - 1791) に師事し、次いで1769年にロンドンから帰還したガエターノ・プニャーニ (Gaetano Pugnani, 1731 - 1798) に師事しました。1773年からトリノのレージョ劇場 (Teatro Regio di Torino) 管弦楽団の第2ヴァイオリン奏者を、1775年からサルデーニャ王国宮廷管弦楽団の第1ヴァイオリン奏者を務めました。1779年から師プニャーニとともに演奏旅行に出発し、スイス、ドレスデン、ベルリン、ワルシャワ、サンクトペテルブルク、モスクワを巡り、1781年に再びベルリンを訪れました。ベルリンでは最初の出版楽譜である「ヴァイオリン協奏曲 イ長調」(現在では第3番の番号で知られる) を出版しました。その後、師と別れ (プニャーニはトリノに帰還)、単身でパリに向かいました。

    パリでは私的演奏会に出演したのち、1782年3月17日にコンセール・スピリチュエルでパリでのデビューを果たしました。デビューから1年半は頻繁に演奏会に出演して名声を高めましたが、1783年9月8日の演奏会ののち公開演奏会から引退し、ヴェルサイユで王妃マリー・アントワネット (Marie-Antoinette, reine de France et de Navarre, 1755 - 1793) に仕え年金を得るようになりました。プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ (後のフランス国王ルイ18世 Louis XVIII, 1755 - 1824) の後援を得て、1788年にムッシュ劇場 (1791年7月にフェドー劇場 Théâtre Feydeau と改称) を設立。ルイジ・ケルビーニ (Luigi Cherubini, 1760 - 1842) を作曲家として雇用し、1786年から6年間ケルビーニと共有していたアパルトマンでは日曜日にマチネーの音楽会を開きました。作曲家としての活動も充実し、出版作品のうちのおそらく半数は10年間のこの最初のパリ時代に出版されています。

    1792年7月にフランス革命から逃れ英国ロンドンに渡りました。ロンドンでのデビューとなる、1793年2月7日のヨハン・ペーター・ザーロモン (Johann Peter Salomon, 1745 - 1815) 主催のハノーヴァー・スクエア・ルームズでの演奏会で成功を収めました。1797年にヴィルヘルム・クラーマー (Wilhelm Cramer, 1746 - 1799) の後任として国王劇場とオペラ・コンサートの管弦楽団のコンサートマスター兼監督に就任しました。ところが、1798年2月に英国政府にジャコバン派支持者と疑われたために国外退去を命じられました。この追放には演奏旅行でロンドンを訪れていたかつての弟子ピエール・ロード (Pierre Rode, 1774 - 1830) も巻き込まれ、ロードはパリに帰還しました。ヴィオッティ自身はこの疑惑をタイムズ紙に掲載された声明と自叙伝「ヴィオッティの生涯の概要 Précis de la vie de J. B. Viotti 」で否定しています。1799年7月までの1年半の間、ホルシュタイン公国シェーネフェルト (Schenefeld) の知人宅に滞在しました。同年、英国に戻り、渡英後に親しくなっていた資産家のチナリー夫妻、財務省官吏のウィリアム (William Bassett Chinnery) とピアノの名手マーガレット (Margaret Chinnery) の住むロンドン郊外の邸宅ギルウェルに寄寓しました。1811年に英国永住市民権 (denizenship) を取得。1813年にロンドン・フィルハーモニック協会の創設者の一人となり、理事に選出されました。1818年に革命前から続けていたワイン事業に失敗し、英国の友人たちに対して多くの借金を負うことになりました。

    1819年11月にパリ国立オペラとしても知られる王立音楽アカデミー (Académie Royale de Musique) とイタリア劇場 (Théâtre italien de Paris) の監督に就任。フランスではかつての後援者であるプロヴァンス伯が国王に即位しルイ18世となっていました。音楽アカデミー監督になって間もない1820年2月にベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワ (Charles Ferdinand d'Artois, duc de Berry, 1778 - 1820) が国立劇場から出るところをボナパルト派の馬具屋ルイ=ピエール・ルヴェル (Louis-Pierre Louvel) に暗殺されたことで、民衆から批判の的となったヴィオッティはしばらく苦しむこととなりました。音楽監督としての評価もそれほど上がることはなく、借金を返済できないまま失意のうちにパリを去りました。1823年11月に英国の支援者マーガレット・チナリーとともに再びロンドンに渡り、1824年3月3日にロンドンのポートマン・スクエアの借家で亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:

    2024-02-16

    250th Birth Anniversary of Pierre Rode

    Jacques-Pierre-Joseph Rode (France, 1774 - 1830) - 24 Caprices en forme d'études pour le violon seul dans les vingt-quatre tons de la gamme. Dediés à Monseigneur le Prince de Chimay; No. 12. Commodo (G sharp minor). Arrangement for piano and transposed to G minor by Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945).

    今日はフランスの作曲家・ヴァイオリン奏者、ピエール・ロード生誕250年の誕生日です。今回はロード作曲「ヴァイオリン独奏のためのエチュードの形式による24の奇想曲」より第12番 嬰ト短調の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲 (ト短調に移調) を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第70曲 Capriccio (dal Capricci per violino solo). Allegro comodo (100-101頁) として収録されています。「24の奇想曲」は24の全ての調を使って作曲されており、シメイ公フランソワ=ジョゼフ=フィリップ・ド・リケ・ド・カラマン (François-Joseph-Philippe de Riquet de Caraman, prince de Chimay, 1771 - 1843) に献呈されています。また、作品番号の22については生前の版では確認できませんでしたが、1868年の Schott 新版 (Nouvelle édition. Mainz: Schott) に書かれているようです。

    ピエール・ロードは1774年2月16日にフランス王国南西部のボルドー (Bordeaux) で生まれました。6歳から8年間、アンドレ=ジョゼフ・フォヴェル (André-Joseph Fauvel) に師事し、12歳のときにはボルドーでの演奏会で協奏曲を弾きました。1787年にフォヴェルに率いられ他の彼の優秀な弟子たちとともに首都パリに赴き、そこでロードはジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ (Giovanni Battista Viotti, 1755 - 1824) に才能を認められ、ヴィオッティの弟子となりました。1790年に師ヴィオッティ作曲のヴァイオリン協奏曲第13番を演奏してパリでのデビューを果たし、1792年にはヴィオッティの新作である第17番と第18番の協奏曲の初演を任されます。これらの公演はヴィオッティが音楽監督を務めていたムッシュ劇場 (Théâtre de Monsieur. 後のフェドー劇場 Théâtre Feydeau) で行われました。

    1795年11月22日に、新設されて間もないパリ音楽院 (Conservatoire de musique) のヴァイオリンの教授に任命されました。パリでの教え子にシャルル=フィリップ・ラフォン (Charles-Philippe Lafont, 1781 - 1839)、ジャン=アンリ・シモン (Jean-Henri Simon, 1783 - 1861) がいます。休暇を取ってオランダ、ドイツ、英国ロンドンを巡る演奏旅行をしたのち、1799年に音楽院に復職し、オペラ座での独奏者を務めました。1799年の暮れにはスペインのマドリードで演奏し、当地でルイジ・ボッケリーニ (Luigi Boccherini, 1743 - 1805) の友人となりました。この頃作曲した「ヴァイオリン協奏曲第6番」をスペイン王妃マリア・ルイサ (María Luisa de Borbón-Parma, 1751 - 1819) に献呈しています。1800年にパリに戻ると第一執政ナポレオン・ボナパルト (Napoléon Bonaparte, 1769 - 1821) の下でヴァイオリン独奏者に指名され、代表曲となる「ヴァイオリン協奏曲第7番 イ短調 Op. 9」を初演しました。

    1803年にはロシアに赴くことを決意し、道中のドイツ各地で演奏しました。ブラウンシュヴァイクでの演奏はルイ・シュポーア (Louis Spohr, 1784 - 1859) を魅了しました。1804年から1808年までロシア帝国の首都サンクトペテルブルクにおいて、皇帝アレクサンドル1世 (Aleksandr I, 1777 - 1825) の下でヴァイオリン独奏者を務めました。同時期のロシア宮廷では作曲家のフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー (François-Adrien Boieldieu, 1775 - 1834) も活動していました。

    1808年12月22日にはパリで再び演奏会を開き、「ヴァイオリン協奏曲第10番 ロ短調 Op. 19」を演奏しました。ペテルブルクではハンガリー出身のヨーゼフ・ベーム (Joseph Böhm, 1795 - 1876) を指導しました。1811年に再びヨーロッパを巡る演奏旅行を行い、1812年12月にヴィーンで、ピアノのルドルフ大公 (Rudolph von Österreich, 1788 - 1831) とともにルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827) 作曲のヴァイオリンソナタ第10番を初演しました。1814年にプロイセン王国の首都ベルリンに移り、プロイセン宮廷画家の娘カロリーネ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ・ヴェローナ (Caroline Sophie Wilhelmine Verona) と結婚しました。ベルリンではフェーリクス・メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn, 1809 - 1847) のヴァイオリンの師で友人として知られるエドゥアルト・リッツ (Eduard Ritz, 1802 - 1832) を指導しました。1819年頃に家族を伴いフランスに戻り、生地のボルドーに定住しました。1828年の、息子エドモン (Edmond Rode, b. 1816) の教育のために訪れた久々のパリでの演奏会は失敗に終わり、その失敗の原因と考えられる麻痺 (脳血管障害) の悪化により、1830年11月25日にダマザン (Damazan) 近郊にある自邸であるブルボン邸 (Château de Bourbon) で亡くなりました。

    出典:

    2022-01-26

    100th Death Anniversary of Luigi Denza

    Luigi Denza (Italy, 1846 - 1922) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Canto della fanciulla nubiana. Andante (A minor).

    今日 (または明日) はイタリアの作曲家・歌手、ルイージ・デンツァ没後100年の命日です。今回はデンツァ作曲「ヌビアの少女の歌 イ短調」、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第87曲として収録されています。

    1846年2月24日に両シチリア王国のカステッランマーレ・ディ・スタービア (Castellammare di Stabia) で生まれたルイージ・デンツァは、ナポリのサン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院 (Conservatorio di musica San Pietro a Majella) でサヴェリオ・メルカダンテ (Saverio Mercadante, 1795 - 1870) とパオロ・セッラオ (Paolo Serrao, 1830 - 1907) に作曲を師事しました。また、声楽をカルロ・コスタ (Carlo Costa, 1826 - 1888)、ミケランジェロ・ルッソ (Michelangelo Russo, 1830 - 1891)、アルフォンソ・グエルチャ (Alfonso Guercia, 1831 - 1890) に学びました。1880年に代表曲である「フニクリ・フニクラ」(Funiculì funiculà) を作曲、発表しましたが、この曲はヴェスヴィオ山の山麓と火口を結ぶケーブルカーであるヴェズヴィアナ鋼索線 (Funicolare Vesuviana) のための宣伝歌として書かれたものでした。1887年にロンドンに移住して、王立音楽アカデミーの理事や声楽教授を務め、1922年1月の26日 (Burton et Horner 2001) または27日 (Lamacchia 2008/2016) にロンドンで亡くなりました。

    出典:

    • Burton, Nigel; Horner, Keith (2001). “Denza, Luigi”. etrieved 2022-01-25.
    • Lamacchia, Saverio (2008) 2016. “Denza, Luigi”. In: MGG Online, edited by Laurenz Lütteken. Bärenreiter, Metzler, RILM, 2016–. Retrieved 2022-01-25.

    2021-12-22

    200th Birth Anniversary of Giovanni Bottesini

    Giovanni Bottesini (Italy, 1821 - 1889) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Opera: Ero e Leandro. Tragedia lirica in 3 atti (Libretto by Arrigo Boito). Atto 3: La torre della vergine. Scena 1: "Splendi, splendi! erma facella" (Ero). Larghetto (D flat major).

    今日はイタリアの作曲家・コントラバス奏者・指揮者、ジョヴァンニ・ボッテジーニ生誕200年の誕生日です。今回はボッテジーニ作曲のオペラ、3幕の悲劇「エーロとレアンドロ」(アッリーゴ・ボーイト (Arrigo Boito, 1842 - 1918) による台本) より第3幕第1場のエーロのアリア Splendi, splendi! erma facella の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第9曲 Melodia (dall'opera Ero e Leandro) として収録されています。

    ジョヴァンニ・ボッテジーニは1821年12月22日にオーストリア帝国ロンバルド=ヴェネト王国のクレーマ (Crema. 現在のイタリアのロンバルディア州クレモナ県の都市) で生まれました。クラリネット奏者・作曲家である父ピエトロ・ボッテジーニ (Pietro Bottesini, b. 1792) に音楽の手ほどきを受け、父の友人であるカルロ・コリアーニ (Carlo Cogliati, 1756 - 1834) にヴァイオリンを習いました。1835年に父がミラノ音楽院に入学させようとしたところ、奨学金を受けられる専攻にファゴットとコントラバスのみが残っていました。数週間でジョヴァンニは理事を満足させるほどにコントラバス演奏を習得し、同年11月に入学した音楽院でルイージ・ロッシ (Luigi Rossi) にコントラバスを、ガエターノ・ピアンタニーダ (Gaetano Piantanida, 1768 - 1835)、フランチェスコ・バジーリ (Francesco Basili, 1767 - 1850)、ピエトロ・ライ (Pietro Ray, 1773/1775 - 1857)、ニコーラ・ヴァッカイ (Nicola Vaccai, 1790 - 1848) に和声学、対位法、作曲を師事しました。1839年に300フランの賞金を得て音楽院を早期卒業し、その賞金でカルロ・ジュゼッペ・テストーレ (Carlo Giuseppe Testore) 作の3弦コントラバスを購入しました。

    1840年のクレーマ市立劇場でのコンサートデビューは成功し、コントラバス奏者としての名声を得ました。首席奏者となったヴェネツィアのサン・ベネデット劇場 (Teatro San Benedetto) ではジュゼッペ・ヴェルディ (Giuseppe Verdi, 1813 - 1901) と知り合い、生涯の友となりました。1846年にはキューバ総督領ハバナに渡り、タコン劇場 (Teatro de Tacón) 首席奏者を務めたほか、自作の最初のオペラ「クリストフォーロ・コロンボ Cristoforo Colombo 」を指揮しました。その後、ニューオーリンズ、ニューヨーク、ロンドン、メキシコ、パリ、サンクトペテルブルク、パレルモ、バルセロナ、マドリード、ポルトガル、フィレンツェ、カイロなどを訪れ国際的な活躍をしました。その演奏技巧からヴァイオリンの名手ニコロ・パガニーニになぞらえて、「コントラバスのパガニーニ」と呼ばれるようになります。1879年にトリノのレージョ劇場 (Teatro Regio di Torino) で「エーロとレアンドロ」を上演。1889年1月にはヴェルディの推薦によりパルマ音楽院の院長に就任しましたが、半年後の同年7月7日にイタリア王国のパルマ (Parma) で亡くなりました。

    出典:

    • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1919). “Claussen, Wilhelm”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd edition). New York: G. Schirmer. page 106.
    • Casellato, Cesare (2000) 2016. “Bottesini, Giovanni”. In: MGG Online, edited by Laurenz Lütteken. Bärenreiter, Metzler, RILM, 2016–. Retrieved 2021-12-21.
    • Slatford, Rodney (2001). “Bottesini, Giovanni”. Grove Music Online. Retrieved 2021-12-21.


    2021-10-11

    200th Birth Anniversary of Angelo Mariani

    Angelo Maurizio Gaspare Mariani (Italy, 1821 - 1873) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Melodia dalla Romanza per canto « Dolore e Speranza ». Andantino (E major).

    今日はイタリアの作曲家・指揮者・ヴァイオリン奏者、アンジェロ・マリアーニ生誕200年の誕生日です。今回はマリアーニ作曲、歌曲「苦痛と希望」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第30曲として収録されています。

    1821年10月11日に教皇領ラヴェンナ (Ravenna) で生まれたアンジェロ・マリアーニは、生地のアカデミア・フィラルモニカ (Accademia filarmonica di Ravenna) でピエトロ・カザリーニ (Pietro Casalini) とジョヴァンニ・ノスティーニ (Giovanni Nostini) にヴァイオリンを、ラヴェンナ大聖堂オルガン奏者ジェロラモ・ロベルティ (Gerolamo Roberti) に対位法を師事しました。サンターガタ・フェルトリア、リミニ、マチェラータ、ファエンツァ、トレント、ボローニャ、メッシーナ、ナポリ、ミラノとイタリア各地で活動したのち、1847年のコペンハーゲンを経て、1848年9月から2年間はイスタンブールのナウム劇場 (Théâtre Naum) の音楽監督を務めました。コペンハーゲンではデンマーク王立管弦楽団音楽監督の職を持ちかけられたものの、1848年革命が起きると兵役志願を理由としてイタリアに戻りました。革命の戦闘に参加したかは不明です。1852年にジェノヴァのカルロ・フェリーチェ劇場 (Teatro Carlo Felice) 常任指揮者に就任。1857年のジュゼッペ・ヴェルディ (Giuseppe Verdi, 1813 - 1901) 作曲の歌劇『アロルド』初演の指揮を契機にヴェルディと親密になりましたが、1868年以後のヴェルディ作品の指揮やマリアーニの婚約者でソプラノ歌手のテレーザ・シュトルツ (Teresa Stolz, 1834 - 1902) などをめぐるいざこざにより1871年に2人の関係は破綻しました。1871年11月1日のリヒャルト・ヴァーグナー (Richard Wagner, 1813 - 1883) 作曲『ローエングリン』、1872年11月11日の同『タンホイザー』のボローニャでのイタリア初演ののちジェノヴァに戻り、1873年6月13日に腸癌のために同地で亡くなりました。

    出典: Phillips-Matz, Mary Jane; Budden, Julian (2001). “Mariani, Angelo (Maurizio Gaspare)”. Grove Music Online. Retrieved 2021-10-09.

    2021-04-27

    150th Death Anniversary of Sigismond Thalberg

    Sigismond Thalberg (Switzerland/Austria, 1812 - 1871) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - La partenza: “Non so frenare il pianto”. Andante (E major).

    今日はスイス出身の作曲家・ピアノ奏者、ジーギスムント・タールベルク (シジスモン・タールベルク) 没後150年の命日です。今回はタールベルク作曲、歌曲「別れ」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第51曲 La partenza として収録されています。この曲はタールベルク自身によっても「出発 Le départ. Romance en forme d'étude, Op. 55 」としてピアノ独奏のために編曲されました。詞はピエトロ・メタスタージオ (Pietro Metastasio, 1698 - 1782) によるオペラ台本「デメートリオ Demetrio 」第2幕のアルチェステ (Alceste) のアリア「僕は涙を抑えられない」を使っています。

    ジーギスムント・タールベルクは1812年1月8日にジュネーヴ近郊のパキ (Pâquis) で生まれました。オーストリアの貴族であるモーリツ・フォン・ディートリヒシュタイン伯爵 (Moritz von Dietrichstein, 1775 - 1864) とヴェツラー男爵夫人 (Baronin Wetzlar) の私生児だと古くから伝えられてきましたが、出生証明書 (Geburtsurkunde) によると両親はフランクフルト・アム・マインの人で、ヨーゼフ・タールベルク (Joseph Thalberg) とフォルテュネ・シュタイン (Fortunée Stein) とされています。10歳で移ったヴィーンで宮廷歌劇場首席ファゴット奏者のアウグスト・ミターク (August Mittag) に学び、次いでジーモン・ゼヒター (Simon Sechter, 1788 - 1867) に音楽理論を、ヨハン・ネポムク・フンメル (Johann Nepomuk Hummel, 1778 - 1837) にピアノを師事し、1830年から1835年にかけて、パリでヨハン・ペーター・ピクシス (Johann Peter Pixis, 1788 - 1874) とフリードリヒ・カルクブレンナー (Friedrich Wilhelm Kalkbrenner, 1785 - 1849) に、ロンドンでイグナツ・モシェレス (Ignaz Moscheles, 1794 - 1870) にピアノを師事しました。

    1836年にはパリで成功を収め、彼の作品の評価をめぐるフランツ・リスト (Franz Liszt, 1811 - 1886) とフランソワ=ジョゼフ・フェティス (François-Joseph Fétis, 1784 - 1871) の誌上での論争、クリスティーナ・ベルジョジョーゾ公爵夫人 (Cristina Trivulzio Belgiojoso, 1808 - 1871) のサロンにおける1837年3月31日のリストとの競演などもあって、タールベルクの名声は高まっていきました。その後リストとは和解し、タールベルク、リストのほか、ヨハン・ペーター・ピクシス、アンリ・エルツ (Henri Herz, 1803 - 1888)、カール・チェルニー (Carl Czerny, 1791 - 1857)、フレデリク・ショパン (Frédéric Chopin, 1810 - 1849) が各変奏を担当して作曲した「ヘクサメロン Hexaméron 」が1839年に出版されました。ヴィンチェンツォ・ベッリーニ (Vincenzo Bellini, 1801 - 1835) の歌劇「清教徒 I puritani 」の「ラッパを吹きならせ Suoni la tromba 」の主題による変奏曲です。

    1844年にルイージ・ラブラーシュ (Luigi Lablache, 1794 - 1858) の娘チェッキーナ (Francesca "Cecchina" Lablache) と結婚しました。1855年にブラジルやハバナまで渡り、演奏家、教師、オペラ企画者としてその後数年を米国で暮らしました。1858年に両シチリア王国 (1861年以降はイタリア王国) のナポリ近郊にあるポジッリポ (Posillipo) に邸宅を購入しました。それから5年間は演奏旅行を続け、引退してからポジッリポでワイン醸造家となりました。1871年4月27日に同地で亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:


    2020-02-26

    250th Death Anniversary of Giuseppe Tartini

    Giuseppe Tartini (Italy, 1692 - 1770) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Sonata per violino. Il trillo del diavolo (G minor); I. Larghetto affettuoso

    今日はイタリアの作曲家・ヴァイオリン奏者、ジュゼッペ・タルティーニ没後250年の命日です。今回はタルティーニ作曲「ヴァイオリンソナタ ト短調 『悪魔のトリル』」より第1楽章の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第7曲 Larghetto dalla Sonata per violino. Il trillo del diavolo として収録されています。

    ヴェネツィア共和国ピラーノ (現在のクロアチア領ピラン) に生まれたジュゼッペ・タルティーニは、1708年に郷里を離れパドヴァ大学で法律を学びました。1710年の2歳年長のエリザベッタ・プレマゾーレ (Elisabetta Premazore) との結婚における確執のために、アッシジの聖フランチェスコ修道院 (Sacro Convento di San Francesco) に身を寄せます。同地の教会堂でオルガン奏者を務めていたボフスラフ・マチェイ・チェルノホルスキー (Bohuslav Matěj Černohorský, 1684 - 1742) に作曲を師事しました。1714年にはアンコーナ歌劇場の管弦楽団に所属し、以後ヴァイオリン奏者として活動します。1721年にサンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂のヴァイオリン首席奏者・指揮者 (primo violino e capo di concerto) に就任。1723年に神聖ローマ皇帝カール6世のボヘミア王としての戴冠式に関連するプラハでの演奏会に出演し、そのまま同地に滞在して1726年までフランツ・フェルディナント・キンスキー伯爵 (Franz Ferdinand Kinsky, 1678 - 1741) に仕えました。1728年にはパドヴァにヴァイオリンを教える音楽学校「諸国民の学校」 (La Scuola delle Nazioni) を設立します。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典: