Giacomo Puccini (Italy, 1858 - 1924) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - "In quelle trine morbide" (Act 2) from Manon Lescaut.
今日はイタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニ没後100年の命日です。今回はプッチーニ作曲の4幕のオペラ「マノン・レスコー」第2幕より「この柔らかなレースの中で」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第5曲 Melodia (dall'opera; Manon Lescaut) (6-7頁) として収録されています。
プッチーニ家はトスカーナ大公国ルッカ (Lucca) を拠点としていた音楽家一族で、音楽家としては4代前の高祖父で同名のジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini (I), 1712 - 1781) までさかのぼることができます。
ジャコモ・プッチーニは1858年12月22日にミケーレ・プッチーニ (Michele Puccini, 1813 - 1864) の子としてルッカで生まれました。1874年からルッカのパチーニ音楽院 (Istituto Musicale Pacini) で、叔父 (母の弟) のフォルトゥナート・マージ (Fortunato Magi, 1839 - 1882) の下で音楽を学びはじめ、カルロ・アンジェローニ (Carlo Angeloni, 1834 - 1901) に管弦楽法を師事しました。1877年作曲のモテット「プラウディーテ・ポプリ Plaudite populi 」と「クレド」で最初の成功を収め、1880年から1883年までミラノ音楽院でアントニオ・バッジーニ (Antonio Bazzini, 1818 - 1897)、アミルカレ・ポンキエッリ (Amilcare Ponchielli, 1834 - 1886)、アミントーレ・ガッリ (Amintore Galli, 1845 - 1919) に師事しました。音楽院時代の作品には「クレド」(1877) を転用した「4声のミサ曲」(1880)、「交響的前奏曲 イ長調」(1882)、卒業制作作品である「交響的奇想曲」(1883) などがあります。
オペラ第1作「レ・ヴィッリ」(1884年ミラノ初演)、第2作「エドガール」(1889年ミラノ初演) に続く、第3作「マノン・レスコー」(1893年トリノ初演) の成功によりオペラ作曲家としての地位を確立し、 「ラ・ボエーム」(1896年トリノ初演)、「トスカ」(1900年ローマ初演)、「蝶々夫人」(1904年ミラノ初演)、「西部の娘」(1910年米国ニューヨーク初演)、「つばめ」(1917年モナコ公国モンテカルロ初演)、「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」の三部作 (1918年ニューヨーク初演)、「トゥーランドット」(遺作、未完) といった、現代でも主要なレパートリーとなっている作品を残しました。1924年11月29日に旅先のベルギー王国ブリュッセルで、喉頭癌の緊急手術のあとに起きた心臓発作のために亡くなりました。遺作となった「トゥーランドット」はフランコ・アルファーノ (Franco Alfano, 1875 - 1954) により補筆され、1926年にミラノで初演されました。
出典:
- Grove Music Online. Retrieved 2024-11-29.
- Girardi, Michele (2001). “Puccini, Giacomo (Antonio Domenico Michele Secondo Maria)(ii)”.
- Ravenni, Gabriella Biagi (2001). “Puccini, Michele”.
- 船山信子「プッチーニ」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 コトバンク. Retrieved 2024-11-29.
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