2020-10-29

100th Death Anniversary of Ernst Perabo

Johann Ernst Perabo (Germany/USA, 1845 - 1920) - Die Schule ist aus! (After School). 6 Klavierstücke (6 Easy Pieces for the Piano), Op. 7 (Meiner lieben kleinen Freundin Miss Alice Ahlborn gewidmet. Boston: G. D. Russell & Co., 1874); No. 6. Ein Pic-nic (A Picnic); b. Das Caroussel [Karussel] (The caroussel [carousel ; merry-go-round]). Allegro vivace (G major)

今日はドイツ出身の米国の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、エルンスト・ペーラボ (アーネスト・ペラボウ) 没後100年の命日です。今回はペーラボ作曲「授業は終わり! (放課後)、6つのピアノ小品 Op. 7」の第6曲「ピクニック」より第2楽章「回転木馬 (カルーセル)」を弾きました。この曲集は「下校 Austritt aus der Schule ; Leaving School 」、「兵隊ごっこ Soldatenspielen ; Playing Soldier 」、「小鳥の葬式 Vögleins Begräbniss ; Bird's Funeral 」、「馬跳び Bockspringen ; Leap-Frog 」、「舟漕ぎ Rudern ; Rowing 」、「ピクニック Ein Pic-Nic ; A Picnic 」の6曲からなり、このうち「ピクニック」は「木立への到着 Ankunft im Gehölz ; Meeting in the grove 」、「回転木馬 Das Caroussel ; The caroussel 」、「湖上にて Auf dem See ; On the lake 」、「小さな喧嘩 Kleiner Streit ; Little quarrel 」、「出発 (帰宅) Der Aufbruch ; Going home 」の5楽章からなります。

ナッサウ公国の首都ヴィースバーデンに生まれたペーラボは、5歳で父ヨハン・ミヒャエル・ペーラボ (Johann Michael Perabo) にピアノを習い始め、12歳にはヨハン・ゼバスティアン・バッハ (Johann Sebastian Bach, 1685 - 1750) 作曲「平均律クラヴィーア曲集」全48曲を暗譜して演奏できるようになりました。1852年に家族とともに渡米してニューヨーク市に2年間、ニュー・ハンプシャー州ドーヴァーに2年間、ボストン (Boston) に1年間滞在しました。ニューヨーク市ではペーラボの後援者となるピアノ奏者・音楽出版業者のウィリアム・シャルフェンベルク (William Scharfenberg, 1819 - 1895) と知り合いました。ボストンではフランク・ヒル (Frank Hill) に学んだほか、のちにメンデルスゾーン五重奏クラブ (Mendelssohn Quintette Club) 第1ヴァイオリン奏者 (1859-1877) となるウィリアム・ヘンリ・シュルツェ (William Henry Schultze, 1828 - 1888) にヴァイオリンを師事しました。

1858年9月1日にニューヨーク港を出港した蒸気船「ザクソニア Saonia 」(Ehlers 船長) で単身ドイツに戻り、ハンブルク近郊のアイムスビュテル (Eimsbüttel) でヨハネス・アンドレースン (Johannes Andresen, またはヨハン・アナスン (Johann Andersen)) の寄宿学校 (1858-1862) でヨハネス・アンドレースンのほか、ヘンリエデ・アンドレースン (Henriette Andresen)、アウグスト・シューラー (August Schüler)、マイヤーホーフ (Meyerhof)、メンヒ (Mönch)、シュルツ (Schulz)、ハインリヒ・ヨアヒム (Heinrich Joachim) に学びました。1862年にライプツィヒ音楽院 (Conservatorium der Musik. 現在のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ) に入学し、イグナツ・モシェレス (Ignaz Moscheles, 1794 - 1880)、エルンスト・フェルディナント・ヴェンツェル (Ernst Ferdinand Wenzel, 1808 - 1880) にピアノを、ローベルト・ベンヤミン・パペリツ (Robert Benjamin Papperitz, 1826 - 1903)、エルンスト・フリードリヒ・リヒター (Ernst Friedrich Richter, 1808 - 1879)、モーリッツ・ハウプトマン (Moritz Hauptmann, ) に和声法を、カール・ライネッケ (Carl Reinecke, 1824 - 1910) に作曲を師事しました。1865年5月4日の音楽院の公開試験では、出版後間もないノルベルト・ブルクミュラー (Norbert Burgmüller, 1810 - 1836) 作曲「ピアノ協奏曲 嬰ヘ短調 Op. 1」(Leipzig: Fr. Kistner) の第2、第3楽章を演奏しました。

1865年11月1日にライプツィヒを離れ、蒸気船「アレマニア Allemania 」(Trautmann 船長) でニューヨーク港に向かいました。両親が当時住んでいたオハイオ州サンダスキー (Sandusky) のほか、インディアナ州ラーフィーエット (Lafayette)、シカゴクリーヴランドで演奏会を催し、1866年3月にニューヨークに戻りました。同年4月19日、ボストンのハーヴァード音楽協会 (Harvard Musical Association) 主催のシーズン最終公演で演奏したヨハン・ネポムク・フンメル (Johann Nepomuk Hummel, 1778 - 1837) 作曲「七重奏曲 第1番 Septet No. 1, Op. 74」は好意的な批評を受け、ボストンにおける名声を確立しました。1878年から1879年にかけてライプツィヒ音楽院に戻り再び学んでいます。のちにボストンを拠点とし、ピアノ教師としても評価されました。ピアノの教え子にはエイミー・ビーチ (Amy Marcy Beach, 1867 - 1944) がいます。作曲家としてはピアノ独奏曲がほとんどで、性格的小品や舞曲といったオリジナル作品のほか、他の作曲家の作品によるピアノ編曲があります。1920年10月29日にボストンで亡くなりました。

出典:

  • Herndon, Richard; Bacon, Edwin Monroe, eds (1896). “Perabo, Johann Ernst”. Men of progress : one thousand biographical sketches and portraits of leaders in business and professional life in the Commonwealth of Massachusetts. Boston: New England Magazine. pages 906-908.
  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1919). “Perabo, (Johann) Ernst”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd edition). New York: G. Schirmer. page 693.
  • Rezits, Joseph (2001). “Perabo, (Johann) Ernst”. Grove Music Online.

2020-10-16

100th Death Anniversary of Alberto Nepomuceno

Alberto Nepomuceno (Brazil, 1864 - 1920) - 4 Peças infantis, SN1.28; No. 4. Insistência. Andantino (A minor)

今日はブラジルの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、アウベルト・ネポムセーノ没後100年の命日です。今回はネポムセーノ作曲「4つの子供の小品」より第4曲「おねだり」を弾きました。曲名の insistência は英語の insistence に相当して「主張」などと訳されますが、「おねだり」という訳語が『ブラジル・メキシコ ピアノ作品集 : ラテン・クラシックを弾こう』(宮崎幸夫 編. 音楽之友社. 2003)、『新・イメージであそぶぴあの : 生き生きとした音楽表現のヒントがいっぱい』(辻本健市 監修. サーベル社. 2011)、『ちいさな手のためのラテン・ピアノ曲集 : はじめてのはっぴょうかい Latin Piano Collection for Small Hands 』(宮崎幸夫 編. ドレミ楽譜出版社. 2013/2020) で採用されています。

ブラジル帝国セアラー州の州都フォルタレザ (Fortaleza) に生まれたアウベルト・ネポムセーノは、レシフェでピアノとヴァイオリンを学び始め、1880年から同地のエウクリデス・フォンセカ (Euclides Fonseca, 1853/1854 - 1929) に、1884年に移ったリオデジャネイロで、ミゲル・カルドーゾ (Miguel Cardoso, 1850 - 1912) に和声法を師事しました。レシフェでは18歳のときにカルロス・ゴメス・クラブ (Clube Carlos Gomes) の演奏会で指揮者として、リオデジャネイロではベートーヴェン・クラブ (Clube Beethoven) でピアノ奏者・ピアノ教師として活動をしています。ピアノ奏者としてはチェロ奏者のフレデリコ・ナシメント (Frederico Nascimento, 1852 - 1924) と演奏旅行もしています。

1888年に渡欧し、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア (Accademia Nazionale di Santa Cecilia) でエウジェーニオ・テルツィアーニ (Eugenio Terziani, 1824 - 1889) とチェーザレ・デ・サンクティス (Cesare De Sanctis, 1824 - 1916) に和声法を、ジョヴァンニ・ズガンバーティ (Giovanni Sgambati, 1841 - 1914) にピアノを師事しました。ベルリンではアカデミッシェ・マイスターシューレ (Akademische Meisterschule für musikalische Komposition) とシュテルン音楽院 (Stern'sches Konservatorium) で学び、ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク (Heinrich von Herzogenberg, 1843 - 1900)、テオドル・レシェティツキ (Theodor Leschetizky, 1830 - 1915)、アルノ・クレッフェル (Arno Kleffel, 1840 - 1913)、マックス・ブルッフ (Max Bruch, 1838 - 1920) に師事しました。パリではパリ音楽院スコラ・カントルム (Schola Cantorum) でアレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant, 1837 - 1911) にオルガンを師事しました。

1895年にリオデジャネイロに戻ると、リオデジャネイロ音楽院 (Conservatório de Música do Rio de Janeiro) のオルガン教師となり、1902年には同音楽院院長 (1902-1903, 1906-1916) に就任しました。先天性四肢障害で右腕を欠損している娘シグリッド (Sigrid Nepomuceno) のために、「5つの小品」(1906) と「2つの夜想曲」(1907) などの左手のためのピアノ曲を作曲しています。1910年にブリュッセル万国博覧会で指揮をするために再び渡欧し、パリとジュネーヴでは自作や他のブラジルの作曲家の作品を演奏しました。1920年10月16日にリオデジャネイロで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。


2020-10-08

150th Birth Anniversary of Louis Vierne

Louis-Victor-Jules Vierne (France, 1870 - 1937) - 24 Pièces en style libre pour orgue ou harmonium, Op. 31; No. 3. Complainte. Andante moderato (D flat major. Dedicated to Albert Périlhou)

今日はフランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、ルイ・ヴィエルヌ生誕150年の誕生日です。今回はヴィエルヌ作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「自由な様式による24の小品 Op. 31」より第3曲「コンプラント 変ニ長調」を弾きました。曲はアルベール・ペリルー (Albert Périlhou, 1846 - 1936) に献呈されています。

ルイ・ヴィエルヌは先天性白内障のために視覚障害があり、長じるとほぼ盲目となりました。ポワティエ (Poitiers) に生まれ、1880年に家族とともにパリに移り、1881年に国立青年盲学校 (Institution Nationale des Jeunes Aveugles) に入学してソルフェージュ、和声法、ピアノ、ヴァイオリンを含む教養科目を学びました。試験審査員として来校したセザール・フランク (César Franck, 1822 - 1890) にオルガン演奏を勧められ、1886年秋からルイ・ルベル (Louis Lebel, 1831 - 1888) にオルガンを師事しました。 1888年から個人教授でフランクに和声法を師事し、パリ音楽院でフランクのオルガンクラスに加わりました。1890年11月にフランクが亡くなると、シャルル=マリー・ヴィドール (Charles-Marie Widor, 1844 - 1937) に引き続き師事し、サン=シュルピス教会 (Église Saint-Sulpice de Paris) のオルガン奏者を務めていたヴィドールに1892年から同教会の代理オルガン奏者を任されました。1894年に音楽院でオルガンの第一等を取得しました。卒業後は音楽院でヴィドールの、1896年以降は後継のアレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant, 1837 - 1911) の助手となり、1900年にパリのノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Paris) のオルガン奏者となりました。ギルマンの死後、望んでいたパリ音楽院での教授職を得ることはありませんでしたが、1912年からスコラ・カントルムで、1931年からエコール・セザール・フランク (École César Franck) でオルガン教師となりました。ノートルダム大聖堂でオルガンを演奏中に起きた心臓発作のために亡くなりました。弟に同じく作曲家・オルガン奏者のルネ・ヴィエルヌ (René Vierne, 1878 - 1918) がいます。

教え子に以下の人物がいます。

出典: Grove music online.


2020-10-05

200th Birth Anniversary of Anton Rée

Anton Hartvig Rée (Denmark, 1820 - 1886) - Sonatine, Op. 9; II. Allemande. Moderato (F major)

今日はデンマークの作曲家・ピアノ奏者、アントン・レー生誕200年の誕生日です。今回はレー作曲「ピアノのためのソナチネ Op. 9」より第2楽章「アルマンド ヘ長調」を弾きました。このソナチネは「セレナーデ」、「アルマンド」、「エチュードの形式によるフィナーレ」からなる3楽章構成です。

オーフス (Aarhus) に生まれたアントン・ハートヴィ・レーは、 1835年から自由ハンザ都市ハンブルクヤーコプ・シュミット (Jacob Schmitt, 1803 - 1853) とカール・アウグスト・クレプス (Karl August Krebs, 1804 - 1880) に、1839年からオーストリア帝国のヴィーンでアントン・ハルム (Anton Halm, 1789 - 1872) に師事したのち、1841年にフランスのパリに移りピアノ奏者として演奏会を催しました。パリではフレデリク・ショパン (Frédéric Chopin, 1810 - 1849) のレッスンを受けています。1842年にコペンハーゲンに移り、教師・著述家として活動しました。1866年に王立デンマーク音楽院 (Det kongelige danske musikkonservatorium) が設立されると、同音楽院で教師を務めます。教え子にアウゴスト・ヴィンディング (August Winding, 1835 - 1899) とエドムント・ノイペルト (Edmund Neupert, 1842-1888) がいます。作曲家としてはピアノ曲と歌曲を残しています。

出典:

  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1919). “Claussen, Wilhelm”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd edition). New York: G. Schirmer. page 746.
  • Levysohn, Salomon Frederik (1924). “Rée, Anton”. In Blangstrup, Christian (ed.). Salmonsens konversationsleksikon 19 (2nd edition). København: J. H. Schultz Forlagsboghandel. page 1001.