Félicien-César David (France, 1810 - 1876) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Lalla-Roukh, Act 2, No.11. Barcarolle et ensemble (A flat major).
今日はフランスの作曲家・指揮者、フェリシアン・ダヴィド没後150年の命日です。今回はダヴィド作曲のオペラ・コミック「ララ・ルーク」より第2幕第11番「舟歌とアンサンブル」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第14曲 Barcarola (dall'opera: Lalla-Roukh). Andantino (21頁) として収録されています。
フェリシアン・ダヴィドは1810年4月13日にフランス帝国ヴォクリューズ県カドネ (Cadenet) で生まれました。生後間もなく母マリ=アンヌ・フランソワーズ・アルキエ (Marie-Anne Françoise Arquier) を亡くし、5歳のときには金細工師でアマチュアのヴァイオリン奏者でもあった父シャルル・ニコラ・ダヴィド (Charles Nicolas David, d. 1815) も亡くしたため、姉の一人に引き取られました。パリ・オペラ座首席オーボエ奏者のジョゼフ=フランソワ・ガルニエ (Joseph-François Garnier, 1755 - 1825) の勧めにより、1818年からエクス=アン=プロヴァンスのサン=ソヴール大聖堂 (Cathédrale Saint-Sauveur d'Aix-en-Provence) の聖歌隊員養成所でミシェル神父 (Abbé Michel) とマリウス・ルー (Marius Roux) にソルフェージュ、和声法、声楽を学び、作曲を始めました。1825年にエクスのイエズス会サン=ルイ学院 (Collège des jésuites Saint-Louis) に入学し、1828年の閉校まで学びました。エクス劇場副指揮者や裁判所書記として短期間働いたのち、母校のサン=ソヴール大聖堂聖歌隊員養成所で楽長に就任しました。サン=ソヴール大聖堂に1年勤めたのち、パリに移ることを決意。パリ音楽院に入学してエドゥアール・ミヨー (Édouard Millault, 1808 - 1887) に対位法を、フランソワ=ジョゼフ・フェティス (François-Joseph Fétis, 1784 - 1871) に対位法とフーガを、フランソワ・ブノワ (François Benoist, 1794 - 1878) にオルガンを師事し、そのほかにナポレオン=アンリ・ルベル (Napoléon-Henri Reber, 1807 - 1880) から個人指導を受けました。音楽院で学びながら音楽教師で生計を立てていたものの、1831年には賞を獲得しないまま音楽院を去り、サン=シモン主義者となりました。
1832年に政府の命によりサン=シモン教団が解散させられると、少数の友人たちとともにサン=シモン主義を広める中東への旅に出発しました。リヨン、マルセイユ(1833年3月22日出航)、イスタンブール、イズミル、ヤッファを経て、エジプトに到着しました。道中は旅行用の小型ピアノを持ち歩き、東洋風の歌曲やピアノ曲などを作曲しました。2年近くカイロに滞在し、音楽教師や砂漠探検をして過ごしましたが、ペストの流行によりエジプトを離れざるを得なくなりました。陸路でベイルートに行き、そこから航路でジェノヴァを経由して1835年6月にマルセイユに到着しました。1836年、中東の旋律に基づくピアノ曲集「東洋風旋律集 Mélodies orientales 」(Paris: Pacini, 1836) を出版。1844年7月に代表作となるオード交響曲「砂漠 Le désert 」を完成し、同年12月8日に初演して成功を収めました。1859年にグランド・オペラ「エルキュラニュム Herculanum 」を初演。1862年にトマス・ムーア (Thomas Moore, 1779 - 1852) の長詩「ララ・ルーク、東洋のロマンス Lalla Rookh 」に基づくオペラ・コミック「ララ・ルーク Lalla-Roukh 」を初演。同年、レジオンドヌール勲章オフィシエを受章。1869年にエクトル・ベルリオーズ (Hector Berlioz, 1803 - 1869) の後任としてフランス学士院の会員に選出され、パリ音楽院図書館長に就任しました。1876年8月29日にセーヌ=エ=オワーズ県サン=ジェルマン=アン=レー (Saint-Germain-en-Laye) で亡くなりました。
出典:
- Bartoli, Jean-Pierre (2016). “David, Félicien”. MGG Online. Retrieved 2026-08-29.
- Macdonald, Hugh; Locke, Ralph P. (2001/2021). “David, Félicien(-César)”. Grove Music Online. Retrieved 2026-08-29.
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