2023-10-06

150th Death Anniversary of Friedrich Wieck

Friedrich Wieck (Germany, 1785 - 1873) - Pianoforte-Studien, herausgegeben von Marie Wieck (Leipzig & Berlin: C. F. Peters, 1875); 1. Abschnitt, No. 65. Studie (D flat major).

今日はドイツの音楽教師・作曲家・音楽著述家・楽器商・興行師、フリードリヒ・ヴィーク没後150年の命日です。今回はヴィーク作曲「ピアノフォルテ練習曲集」第1部より練習曲第65番 変ニ長調を弾きました。この練習曲集はヴィークの死後に、彼の娘の一人、マリー・ヴィーク (Marie Wieck, 1832 - 1916) による校訂で出版されました。

フリードリヒ・ヴィークは1785年8月18日に神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領プレッチュ (Pretzsch. 現在はバート・シュミーデベルク Bad Schmiedeberg の一部) で、貧しい商人の子として生まれました。1800年から1804年までトルガウのギムナジウムに通い、この頃にヨハン・ペーター・ミルヒマイヤー (Johann Peter Milchmeyer, 1750 - 1813) から無償でピアノのレッスンを受けました。1804年から1808年までヴィッテンベルクで神学を学び、その後はテューリンゲンザクセンで家庭教師として働き、ヨアヒム・ハインリヒ・カンペ (Joachim Heinrich Campe, 1746 - 1818)、アウグスト・ヘルマン・ニーマイヤー (August Hermann Niemeyer, 1754 - 1828) の著作を読んで教育法を習得しました。

クリスティアン・アドルフ・ゼッケンドルフ (Christian Adolph von Seckendorff, 1767 - 1833) 男爵邸での家庭教師の同僚であるピアノ教師アドルフ・バルギール (Adolf Bargiel, 1783 - 1841) と親しくなったことを契機に1813年か1814年にライプツィヒでピアノ教師として活動を始め、ヨハン・ベルンハルト・ロギーア (Johann Bernhard Logier, 1777 - 1846) のメソッドを基に技術練習と音楽理論の指導を組み合わせた独自の指導法を築きました。1817年にゲオルク・クリスティアン・ゴットホルト・トロムリッツ (Georg Christian Gotthold Tromlitz, 1765 - 1825) の娘であるピアノ奏者・歌手のマリアーネ・トロムリッツ (Mariane Tromlitz, 1797 - 1872) と結婚し、彼女との間にはクララ (Clara Wieck, 1819 - 1896)、アルヴィン (Alwin Wieck, 1821 - 1885) を含む5人の子が生まれました。1818年には妻マリアーネとともに楽器販売 (1840年まで) と音楽貸本 (1835年まで) の事業を始めました。1824年にマリアーネと離婚。マリアーネは離婚の数ヶ月後に前述のアドルフ・バルギールと再婚し、作曲家ヴォルデマール・バルギール (Woldemar Bargiel, 1828 - 1897) の母となります。1828年にヴィークは2番目の妻となるクレメンティーネ・フェヒナー (Clementine Fechner) と再婚し、彼女との間にはマリーを含む3人の子が生まれました。1839年から1840年にかけて、結婚を望む娘クララ、教え子ローベルト・シューマン (Robert Schumann, 1810 - 1856) と、それに反対するヴィークとの間で裁判となりました。結果はヴィークの敗訴となり、二人の結婚は認められることになりました。1840年にドレスデンに移住。ピアノ教師としての活動のほか、音楽批評の執筆や、同地の楽器製作者である甥ヴィルヘルム・ヴィーク (Wilhelm Wieck) の楽器販売に協力することもありました。1873年10月6日にドレスデン近郊のロシュヴィッツ (Loschwitz) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:


2023-10-05

100th Death Anniversary of Henri Messerer

Henri Messerer (France, 1838 - 1923) - Lamento pour orugue ou harmonium. Largo (C sharp minor).

今日はフランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、アンリ・メスレル没後100年の命日です。今回はメスレル作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「哀歌 嬰ハ短調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第2巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912) の32-33頁に収録されています。

アンリ・メスレルは1838年5月19日にフランス王国南部の港湾都市マルセイユ (Marseille) で、アルザス出身の家族に生まれました。家具職人・ピアノ製作者である父の意向によりストラスブール音楽院 (Conservatoire de Strasbourg) で学ぶこととなり、同院のジョゼフ・シフマシェル (Joseph Schiffmacher, 1827 - 1888) に師事しました。1850年代にマルセイユに戻り、オルガン奏者であるルイ・ビニョン (Louis Bignon, 1827/1828 - 1874) にオルガン、和声法、対位法、作曲法を師事し、ニコラ・マルタン (Nicolas Martin, 1811 - 1882) からも作曲法を学びました。

サン=ジャン=バティスト教会 (Église Saint-Jean-Baptiste de Marseille) オルガン奏者、サン=マルタン臨時大聖堂 (Cathédrale provisoire de Saint-Martin à Marseille) オルガン奏者を経て、1873年にサン=シャルル教会 (Église Saint-Charles de Marseille) 大オルガン (アリスティド・カヴァイエ=コル (Aristide Cavaillé-Col, 1811 - 1899) 製作) のオルガン奏者に就任しました。音楽教師としてはオルガン、和声法、フーガ、作曲法を教え、1883年にマルセイユ音楽院 (Conservatoire de Marseille) の院長 (在任: 1883-1884, 1889-1898, 1903-1904) に就任。楽器店、コンサートホール、音楽出版業の経営も行いました。1923年10月5日にマルセイユで亡くなりました。

マルセイユ市はメスレルに敬意を表し、市内のある街路にアンリ・メスレル通り (Rue Henri Messerer) と名付けました。

出典:

  • Geoffroy, Olivier (June 2017). “Henri Messerer”. Musica et Memoria. Retrieved 2023-10-05.
  • Joubert, Joseph (1912). “Henri MESSERER”. Notices biographiques et bibliographiques. Maîtres contemporains de l’orgue, pièces inédites pour orgue ou harmonium, Volume 2. Paris: Senart, Roudanez & Cie. pages 1-2.
  • PRÉSENTATION”. Conservatoire Pierre Barbizet de Marseille. Retrieved 2023-10-05.