2022-12-31

100th Death Anniversary of Richard Zeckwer

Richard Zeckwer (Germany/USA, 1850 - 1922) - Notturno and Album Leaf (To Miss Marie d'Invilliers. Philadelphia: Louis Meyer, 1873); No. 2. Album Leaf. Andante (D major).

今日はドイツ出身の米国の作曲家・オルガン奏者・音楽教師、リヒャルト・ツェクヴァー (リチャード・ゼクワー) 没後100年の命日です。今回はツェクヴァー作曲「夜想曲とアルバムの綴り」より第2曲「アルバムの綴り ニ長調」を弾きました。2曲とも、のちに彼の妻となるマリー・ダンヴィリエ (Marie d'Invilliers, 1850 - 1918) に献呈されています。

リヒャルト・ツェクヴァーは1850年4月30日にプロイセン王国ザクセン州シュテンダール (Stendal) で、カール・ツェクヴァー (Carl Zeckwer) とエミーリエ・ツェクヴァー (旧姓シュトレーマー. Emilie Zeckwer geb. Ströhmer) の子として生まれました。シュテンダールのギムナジウム、ライプツィヒ大学ライプツィヒ音楽院で学び、イグナーツ・モシェレス (Ignaz Moscheles, 1794 - 1870)、モーリツ・ハウプトマン (Moritz Hauptmann, 1792 - 1868)、エルンスト・フリードリヒ・リヒター (Ernst Friedrich Richter, 1808 - 1879)、ローベルト・パペリツ (Robert Papperitz, 1826 - 1903)、カール・ライネッケ (Carl Reinecke, 1824 - 1910) に師事しました。1869年に米国に渡り、ペンシルベニア州フィラデルフィアに移住。フィラデルフィア音楽アカデミー (Philadelphia Musical Academy. 芸術大学 Academy of Music の前身校の一つ) で教師となり、1876年から1917年の引退まで学長を務めました。1874年にフィラデルフィアでマリー・ダンヴィリエと結婚。1871年から1878年までジャーマンタウンの聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ教会 (Church of St. Vincent de Paul) オルガン奏者、1879年から1880年までフィラデルフィアの聖ペトロ・パウロ大聖堂 (Cathedral Basilica of Saints Peter and Paul) オルガン奏者を務め、1880年にカトリック教徒となりました。1922年12月31日にフィラデルフィアで亡くなりました。

ツェクヴァーの子供たちには著名な音楽家、画家、医学者になったものがいます。息子のカミル・ゼクワー (Camille Zeckwer, 1875 - 1924) は作曲家・音楽教師となり、1917年にはリヒャルトの後任としてフィラデルフィア音楽アカデミーの学長となりました。娘のエミリー・ゼクワー・ドゥーナー (Emilie Zeckwer Dooner, 1877 - 1973) はペンシルベニア美術アカデミー (Pennsylvania Academy of Fine Arts) で学んだのち奨学金を得てパリ、スペイン、ブルターニュ、イタリアに留学し、画家となりました。娘のマリー・アデレイド・ゼクワー=ホルト (Marie Adelaide Zeckwer-Holt, b. 1883) はフィラデルフィア音楽アカデミーで学んだのち、パリでマティルデ・マルケージ (Mathilde Marchesi, 1821 - 1913)、フランク・キング・クラーク (Frank King Clark)、ヴァルテル・ストララム (Walther Straram, 1876 - 1933) に師事し、ソプラノのオペラ歌手となりました。娘のイゾルダ・テリーズ・ゼクワー (Isolde T. Zeckwer, 1892 - 1980) はブリンマー大学 (Bryn Mawr College) で学士 (A. B., 1915) を、ペンシルベニア女子医科大学 (Woman's Medical College of Pennsylvania) で医学士 (M. D., 1919) を取得して病理学者となり、ペンシルベニア大学医学部病理学科の教授などを務めました。

出典:

2022-12-30

150th Death Anniversary of Prosper Zborowski

Prosper Zborowski (Poland, 1807 - 1872) - 3 Krakowiaki ułożone na fortepian i poświęcone na korzyść pogorzelców miasta Krakowa / 3 Krakowiaks composées pour le piano au profit des incendiés de la ville de Cracovie (Kraków: Juliusz Wildt, 1851); No. 1. Krakowiak (C major).

ポーランドの作曲家プロスペル・ズボロフスキ没後150年ということで、ズボロフスキ作曲「ピアノのための3つのクラコヴィアク」より第1番 ハ長調を弾きました。楽譜の表紙には「クラクフ市の火災の被災者への支援を届けるために i poświęcone na korzyść pogorzelców miasta Krakowa / au profit des incendiés de la ville de Cracovie 」とあり、この出版で得た利益を1850年のクラクフ大火 (Pożar Krakowa w 1850 roku) の被災者への義援金とする、ということのようです。当時のクラクフ市とその周辺はオーストリア帝国クラクフ大公国に属していました。

2022-12-29

100th Death Anniversary of Pyotr Petrov-Boyarinov

Pyotr Alekseyevich Petrov-Boyarinov (Пётр Алексеевич Петров-Бояринов, P. Petrow-Boyarinow, Russia, 1880 - 1922) - 4 Esquisses pour piano, Op. 5 (Moskva: P. Jurgenson, 1909); No. 2. Andante (E minor).

ロシアの作曲家・合唱指揮者、ピョートル・ペトロフ=ボヤリノフ没後100年ということで、ペトロフ=ボヤリノフ作曲「4つの素描 Op. 5」より第2番 ホ短調を弾きました。曲集は、音楽サークル「現代音楽の夕べ Вечера современной музыки 」創設者の一人であるピアノ奏者でサンクトペテルブルク音楽院のピアノ教師 (1914年に二級教授 профессор 2-й степени)、アレクサンドル・メデム (Aleksandr Medem, 1871 - 1925) に献呈されています。

ピョートル・アレクセーエヴィチ・ペトローフは1880年に生まれました。 教会聖歌シノド学校 (Синодальное училище церковного пения) を卒業し、1901年から1906年までニコライ・リムスキー=コルサコフ (Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908) のクラスで学んでペテルブルク音楽院を卒業。作曲家、レーゲント、雑誌「合唱とレーゲントの記録 Хоровое и регентское дело 」(1909-1917) の編集・発行者、「宗教音楽作品集 дух.-муз. сочинений 」の著者となり、ピョートル・ペトロフ=ボヤリノフを自身の筆名としました。1922年に亡くなりました。

出典:

2022-12-28

200th Birth Anniversary of Marceli Madejski

Marceli Madejski (Marcel Madeyski, Poland, 1822 - 1886) - Feuille d'album. Polka mazurka. Moderato (F major. À Mademoiselle Cécile de Cybutska. Lemberg [Lviv]: H. W. Kallenbach, 1856).

ガリツィア出身のオーストリアの作曲家・政治家・弁護士、マルツェリ・マデイスキ生誕200年ということで、マデイスキ作曲「アルバムの綴り、ピアノのためのポルカ・マズルカ ヘ長調」を弾きました。

マルツェリ・マデイスキは1822年1月1日にオーストリア帝国ガリツィア・ロドメリア王国ランツト (Łańcut. ドイツ語: ランツフート Landshut, 現在はポーランド領)で生まれました。レンベルク (リヴィウ、現在はウクライナ領) でヨハン・ルックガーバー (Johann Ruckgaber, 1799 - 1876) にピアノを学ぶ一方で、 レンベルク大学で法律を学んで1846年に法学博士 (Juris Doctor) を取得しました。 ゾンボル (サンビル Sambir) とレンベルクで弁護士として活動し、 1872年から1882年までガリツィア・ロドメリア国会議員、 1877年から1879年までレンベルクの副市長 (ドイツ語: Stadt-Vizepräsident, ポーランド語: wiceprezydent miasta) を務め、 1883年に首都ヴィーンにある帝国裁判所の裁判官に任命されました。 1886年9月6日にオーストリアのバート・アウセー (Bad Aussee) で亡くなりました。

出典:

2022-12-27

100th Death Anniversary of Nikolay Shcherbachyov

Nikolay Vladimirovich Shcherbachyov (Николай Владимирович Щербачёв ; N. Stcherbatcheff, Russia, 1853 - 1922) - Fantaisies-Etudes, Op. 26 (Leipzig: M.P. Belaieff, 1887); No. 7. Andantino mosso (A minor).

ロシアの作曲家・ピアノ奏者、ニコライ・シチェルバチョーフ没後100年ということで、シチェルバチョーフ作曲「ファンテジー・エチュード集 Op. 26」より第7番 イ短調を弾きました。

ニコライ・シチェルバチョーフは1853年8月24日 (ユリウス暦8月12日) にサンクトペテルブルク (Sankt-Peterburg) で生まれ、同地でピアノを学んだのち、イタリアのローマフランツ・リスト (Franz Liszt, 1811 - 1886) からレッスンを受けました。1871年からミリイ・バラキレフ (Mily Balakirev, 1837 - 1910) のサークル「力強い集団 Могучая кучка 」 (ロシア五人組) に参加し、ピアノ曲や管弦楽曲を作曲しました。作曲家としては、モデスト・ムソルグスキー (Modest Musorgsky, 1839 - 1881) からは「ピアノのための練習曲 ロ長調」について賞賛を受け、ヴラジーミル・スターソフ (Vladimir Stasov, 1824 - 1906) からはムソルグスキーとアレクサンドル・ボロディン (Aleksandr Borodin, 1833 - 1887) に次ぐ高い評価を与えられました。ロシアの作曲家たちによる合作の、ピアノ連弾 (3手、5手) のための「パラフレーズ集 Paraphrases. 24 Variations et 14 petites pièces pour piano sur le thème favori et obligé, dédiées aux petits Pianistes capables d’exécuter le thème avec un doigt de chaque main 」(Hamburg: Rahter, 1879) に、自作の「ビガリュール Bigarrures. Petit supplément aux Paraphrases 」(Hamburg: Rahter, 1880) という曲を、1881年第2版で追加されたリスト作曲「変奏 Variation 」とともにその新版 (Hamburg: Rahter, 1887) で付け加えています。

ロシア語版ウィキペディアには1922年10月1日にフランス共和国パンタン (Pantin) で亡くなったとする出典不記載の記述がありますが、そのほかの信頼できる情報源では確かめられませんでした。グローヴ音楽事典 (Grove Music Online) に書かれた親族の証言では、没年は不明でモナコモンテカルロ (Monte Carlo) で亡くなったとしています。典拠は不明ですがバーチャル国際典拠ファイル (VIAF) では没年を1922年としています。

グローヴ音楽事典はニコライ・シチェルバチョーフを「ヴラジーミル・シチェルバチョーフのおじ」(the uncle of Vladimir Vladimirovich Shcherbachyov) としていますが、同姓のアンドレイ・シチェルバチョーフ (Andrey Shcherbachyov, 1869 - 1916) とヴラジーミル・シチェルバチョーフ (Vladimir Shcherbachyov, 1889 - 1952) はニコライの遠縁にあたるようです。

出典:

2022-12-26

100th Death Anniversary of Jules Bertain

Jules-Victor Bertain (France, 1861 - 1922) - Série rose pour piano (Paris: G. Siéver, 1908); No. 2. Pensée naïve. Mélodie. Moderato (C major. À Mademoiselle Germaine Lefeuvre).

フランスの作曲家・オーボエ奏者・音楽教師、ジュール・ベルタン没後100年ということで、 ベルタン作曲のピアノのための「ばら色の組曲」(全9曲) より第2曲「素直な思い、メロディ ハ長調」を弾きました。

ジュール・ベルタンは1861年12月16日にフランス共和国の首都パリで生まれました。パリ音楽院に入学し、1884年にソルフェージュ科で3等メダルを、オーボエ科で1等賞を取得。教育功労章 (1888年に大学区の将校 officier d’académie, 1896年に公教育の将校 officier de l’Instruction publique) 受章。1922年8月23日に亡くなりました。

出典:

  • Pierre, Constant, ed. (1900). “Bertain (Jules-Victor)”. Le Conservatoire national de musique et de declamation : documents historiques et administratifs. Paris: Imprimerie nationale. page 698.
  • Jules Bertain (1861-1922)”. Bnf Data. Bibliothèque nationale de France. Retrieved 2022-12-26.

2022-12-25

150th Birth Anniversary of Eduardo Torres

Eduardo Torres (Spain, 1872 - 1934) - Communion pour orgue ou harmonium. Andante quasi allegretto (G flat major. À Joaquín Turina).

スペインの作曲家・オルガン奏者、エドゥアルド・トーレス生誕150年ということで、トーレス作曲「オルガンまたはハルモニウムのためのコミュニョン (聖体拝領)」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第3巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912) の192-193頁に収録されており、ホアキン・トゥリーナ (Joaquín Turina, 1882 - 1949) に献呈されています。

エドゥアルド・トーレスは1872年にスペイン王国バレンシア県アルバイダ (Albaida) で生まれました。バレンシア大聖堂 (Catedral de Valencia) 楽長のフアン・バウティスタ・グスマン・マルティネス (Juan Bautista Guzmán Martínez, 1846 - 1909) に学んだのち、アントニオ・マルコ (Antonio Marco) に和声法を、サルバドル・ヒネル (Salvador Giner Vidal, 1832 - 1911) に作曲法を師事し、1895年にトルトザ大聖堂 (Catedral de Tortosa) の楽長に、1909年にセビリア大聖堂 (Catedral de Sevilla) の楽長に就任しました。1934年12月23日 (または1937年) にセビリア県セビリア (Sevilla) で亡くなりました。

出典:

150th Birth Anniversary of Arthur Dodement

Arthur Dodement (France, 1872 - 1912) - 3 Fuguettes à 3 voix pour orgue ou harmonium (À Monsieur l'abbe J. Joubert); No.2. Andantino (D minor).

フランスの作曲家・オルガン奏者、アルテュール・ドードマン生誕150年ということで、ドードマン作曲「オルガンまたはハルモニウムのための3つの3声の小フーガ (フゲッタ)」より第2番 ニ短調を弾きました。この小フーガ集の楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第1巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912) の89-91頁に収録されており、この曲集の編纂者であるジョゼフ・ジュベール (Joseph Joubert, 1878 - 1963) に献呈されています。

アルテュール・ドードマンは1872年8月20日にフランス共和国ルーアンで生まれました。パリ音楽院に入学して1889年にソルフェージュ科で1等メダルを取得。1892年にサン=ルイ=アン=リル教会 (Église Saint-Louis-en-l'Île) の大オルガンのオルガン奏者に就任しました。作品にミサ曲、モテット、オラトリオ、付随音楽、管弦楽のための組曲などがあります。また、セザール・フランク (César Franck, 1822 - 1890) 作曲の声楽曲のオルガン用編曲をいくつか手がけています。1912年2月に亡くなりました。

出典:

  • Joubert, Joseph (1912). “Arthur DODEMENT”. Notices biographiques et bibliographiques. Maîtres contemporains de l’orgue, pièces inédites pour orgue ou harmonium, Volume 1. page 3. Paris: Senart, Roudanez & Cie.
  • Pierre, Constant, ed. (1900). “Dedement (Arthur-Louis-Victor)”. Le Conservatoire national de musique et de declamation : documents historiques et administratifs. Paris: Imprimerie nationale. page 742.

2022-12-15

100th Death Anniversary of Louis-Edme Dessaux

Louis-Edme Dessaux (France, d. 1922) - Avant le bal. Polka mignonne pour piano (C major. Paris: Lissarrague, 1877). À Madame Cécile Delaplace.

今日はフランスの作曲家ルイ・デソー没後100年の命日です。今回はデソー作曲「舞踏会の前に、かわいいポルカ ハ長調」(セシル・ドラプラス夫人に献呈) を弾きました。

ルイ・デソーは1922年12月15日に亡くなりました。

出典: “Louis-Edme Dessaux (18..-1922)”. Bnf Data. Bibliothèque nationale de France. Retrieved 2022-12-14.

2022-12-12

250th Death Anniversary of Johann Gottfried Seyfert

Raccolta delle più Nuove Composizioni di Clavicembalo di Differenti Maestri ed Autori per l'Anno 1756 fatta stampare dal Sgr. Feder. Guiglielmo Marpurg (Leipzig: Johann Gottlob Immanuel Breitkopf, 1756).
Partita Seconda. I. Balletto (Ballet). Allegro (D major). dal Sgr. Seyfarth. page 5.

Partita Settima. I. Gavotte (A major). dal Sgr. Seyfarth. page 32.

今日はドイツの作曲家・鍵盤楽器奏者、ヨハン・ゴットフリート・ザイフェルト (Johann Gottfried Seyfert, 1731 - 1772) 没後250年の命日です。今回はフリードリヒ・ヴィルヘルム・マルプルク (Friedrich Wilhelm Marpurg, 1718 - 1795) 編纂「様々な大家と作曲家による1756年の最新チェンバロ曲選集」より、パルティータ第2番第1楽章のザイフェルト作曲「バレット ニ長調」とパルティータ第7番第1楽章のザイフェルト作曲「ガヴォット イ長調」を弾きました。

ヨハン・ゴットフリート・ザイフェルトは1731年5月11日に神聖ローマ帝国自由帝国都市アウクスブルク (Augsburg) で、聖アンナ教会 (Kirche St. Anna) 聖歌隊指揮者を務めていた作曲家ヨハン・カスパー・ザイフェルト (Johann Caspar Seyfert, 1697 - 1767) の子として生まれました。父に音楽の手ほどきを受けたのち、ヤン・ツァハ (Jan Zach, 1699 - 1773) などに鍵盤楽器を師事しました。奨学金を得て1747年にバイロイトを訪れ、3年の間 "Leitdorfer" (Mertens, 1788, S. 472) の弟子となりました。この Leitdorfer はヨハン・ダニエル・ロイトハルト (Johann Daniel Leuthard, 1706 - 1762) のことだと考えられています。その後、ライプツィヒドレスデンベルリンを訪れ、ドレスデンではヨハン・アドルフ・ハッセ (Johann Adolph Hasse, 1699 - 1783) から教えを受け、ベルリンではカール・フィーリプ・エマヌエル・バッハ (Carl Philipp Emanuel Bach, 1714 - 1788) の弟子となり、クリスティアン・ゴットフリート・クラウゼ (Christian Gottfried Krause, 1717 - 1770)、カール・ハインリヒ・グラウン (Carl Heinrich Graun, 1704 - 1759)、ヨハン・ゴットリープ・グラウン (Johann Gottlieb Graun, 1703 - 1771) らと知り合いました。1752年の末に一旦アウクスブルクに戻ったのち、ヴェネツィアヴィーンを訪れ、ヴィーンでゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル (Georg Christoph Wagenseil, 1715 - 1777) に師事しました。1753年の末にアウクスブルクに戻ると父の助手となり、1766年に父の後を継いで聖アンナ教会の音楽監督となりました。1772年12月12日にアウクスブルクにおいて、41歳で亡くなりました。

出典:

2022-12-10

200th Birth Anniversary of César Franck

César Franck (France, 1822 - 1890) - L'organiste. 63 Pièces pour harmonium (Paris: Enoch & Cie., 1896); 7 Pièces en fa dièse mineur et sol bémol majeur; No. 2. Chant Béarnais. Poco allegretto (G flat major).

Joseph Béesau (Russia/France, 1871 - 1940) - Invocation à César Franck pour piano. Andantino (A flat major). À Monsieur H. Delalande.

今日はベルギー出身のフランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、セザール・フランク生誕200年の誕生日です。今回はフランク作曲「オルガニスト、ハルモニウムのための63の小品 FWV 41」の「嬰ヘ短調と変ト長調による7つの小品」より第2曲「ベアルンの歌 変ト長調」を弾きました。

また、以前に弾いたジョゼフ・ベゾ作曲「セザール・フランクへの祈り 変イ長調」を再掲します。

セザール・フランクは1822年12月10日にネーデルラント連合王国リエージュ州(現在のベルギー・ワロン地域のリエージュ州)の州都リエージュ (Liège) に生まれました。父のニコラ=ジョゼフ (Nicholas-Joseph Franck, 1794 - 1871) は南ネーデルラントに属していたリンブルフ公国ジェメレシュ (リンブルフ語: Jömelech / フランス語: ジェメニシュ Gemmenich) の地主の家に生まれた市場仲買人で、母のカテリーヌ・バルブ (旧姓フリングス, Catherine Barbe Franck née Frings, 1788 - 1861) はドイツ人でアーヘンの商家に生まれました。セザールの4人の兄弟妹のうち、夭逝しなかった唯一の生き残りである弟のジョゼフ (Jean-Hubert-Joseph Franck, 1825 - 1891) もまた兄と同様にリエージュとパリの音楽院で学び、作曲家・オルガン奏者となっています。

幼い頃から楽才を示したセザールは1830年10月にリエージュ王立音楽院 (Conservatoire royal de Liège) 入学してフェリクス=エティエンヌ・ルダン (Félix-Étienne Ledent, 1816 - 1886) にソルフェージュを、アントワーヌ・ジャロー (Antoine Jalheau) にピアノを師事し、1832年にソルフェージュで、1834年にピアノでそれぞれ一等賞を取得。1833年から1835年まで音楽院院長のジョゼフ・ドーソワーニュ=メユール (Joseph Daussoigne-Méhul, 1790 - 1875) に和声法を師事しました。1835年の春にリエージュ、ブリュッセル、アーヘンを巡って演奏会を開催。この頃にはすでに演奏会用の楽曲の作曲も始めています。同年フランス王国の首都パリに移りジョゼフ・ジメルマン (Joseph Zimmerman, 1785 - 1853)、アントニーン・レイハ (Antonín Rejcha, 1770 - 1836)、イポリト=レモン・コレ (Hippolyte-Raymond Colet, 1808 - 1851) のレッスンを受け、その費用をまかなうためにテノール歌手ジュリオ・マルコ・ボルドーニ (Giulio Marco Bordogni, 1789 - 1856) の声楽教室でピアノ伴奏者を務めました。詳細は分かりませんでしたが、作曲家・ピアノ奏者でありピアノ教師もしていたアンリ=ジャン・リジェル (Henri-Jean Rigel, 1770 - 1852) もまたセザールの師の一人だと伝わっています。

フランス国籍を取得後、1837年10月にパリ音楽院に入学。引き続きジメルマンにピアノを、エメ・ルボルヌ (Aimé Leborne, 1797 - 1866) に対位法を、アンリ=モンタン・ベルトン (Henri-Montan Berton, 1767 - 1844) に作曲法を、フランソワ・ブノワ (François Benoist, 1794 - 1878) にオルガンを師事し、1838年にピアノで、1840年に対位法でそれぞれ一等賞を取得。オルガンでは1841年に二等賞まで取得しましたが、コンサート・ピアニストへの道へ進ませたかった父の意向もあり1842年4月に音楽院を退学しました。

1843年から1844年にかけて作品1となる「3つのピアノ三重奏曲」(Hamburg/Leipzig: Schuberth & Co.) を出版。1846年1月4日に公開初演されたオラトリオ「ルツ Ruth」は聴衆に不評という結果となり、同年の夏には両親と住んでいた家を離れました。学校の教師や個人教授をして生計を立て、1847年にはノートル=ダム=ド=ロレット教会 (Église Notre-Dame-de-Lorette) のオルガン奏者の職を得ます。1848年に両親 (Desmousseaux, Madame Desmousseaux) がコメディ=フランセーズ (Comédie-Française) の俳優であったフェリシテ・サイヨ・デムソー (Félicité Saillot Desmousseaux, 1825 - 1918) と結婚。1851年にマレ地区サン=ジャン=サン=フランソワ教会 (Église Saint-Jean-Saint-François) のオルガン奏者に、1858年にサント=クロティルド聖堂 (Basilique Sainte-Clotilde de Paris) のオルガン奏者に就任。1860年代にはイエズス会コレージュ (Collège des jésuites de l'Immaculée-Conception) などで非常勤の教員となり、同校でアンリ・デュパルク (Henri Duparc, 1848 - 1933) やアルテュール・コカール (Arthur Coquard, 1846 - 1910) に指導しました。1872年のフランソワ・ブノワのパリ音楽院オルガン教授退任ののち彼の後任のオルガン教授となりました。1890年に胸膜炎を発症してほどなく、同年11月8日にパリで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典: