Gaspare Luigi Pacifico Spontini (Italy, 1774 - 1851) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Impitoyables dieux! (O Nume, tutelar degli infelici. Act 2) from La vestale.
今日はイタリアの作曲家ガスパーレ・スポンティーニ生誕250年の誕生日です。今回はスポンティーニ作曲のオペラ「ヴェスタの巫女」第2幕より「無慈悲な女神よ」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第45曲 Preghiera (dall'opera: La Vestale) (66頁) として収録されています。
ガスパーレ・スポンティーニは1774年11月14日に教皇領のマイオラーティ (Maiolati. 現在のイタリア領マイオラーティ Maiolati Spontini) で、職人兼小自作農の子として生まれました。楽才が認められたため、1793年にナポリのピエタ・デイ・トゥルキーニ音楽院 (Conservatorio della Pietà dei Turchini. 現在のナポリ音楽院の前身校の一つ) に入学しました。音楽院ではニコラ・サーラ (Nicola Sala, 1713 - 1801)、ジャコモ・トリット (Giacomo Tritto, 1733 - 1824) に師事したと考えられていますが、スポンティーニ自身はドメニコ・チマローザ (Domenico Cimarosa, 1749 - 1801) の弟子であると主張していました。1796年の最初のオペラ・ブッファの初演以後、イタリアでオペラ作曲家として活動し、1802年の末に統領政府期フランスの首都パリに移りました。
パリでは声楽教師として活動を始めますが、やがてフランス皇后ジョゼフィーヌ (Joséphine de Beauharnais, 1763 - 1814) の庇護を得てオペラを発表し、「ヴェスタの巫女」(1807年パリ・オペラ座初演)、「フェルナン・コルテス、またはメキシコ征服」(1809年パリ・オペラ座初演) で大成功を収めました。1817年にフランス国籍を取得。1814年よりプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (Friedrich Wilhelm III, 1770 - 1840) から招聘を受け、1820年にプロイセン王国の首都ベルリンに赴き宮廷音楽家として音楽総監督 (Generalmusikdirektor) に就任しました。外国人作曲家でありながら宮廷音楽家として高い地位にいたスポンティーニを快く思わないものは多く、1840年6月のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の死後、その後ろ盾を失ったスポンティーニは激しい攻撃にさらされ、1841年7月には不敬罪 (不得手なドイツ語での声明中の語句について告発された) により禁固9ヶ月の刑が確定し職を解かれます。1842年5月に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (Friedrich Wilhelm IV, 1795 - 1861) によりその判決は取り消されたものの、スポンティーニはイタリアに帰国しました。1850年9月に生地マイオラーティに戻り、1851年1月24日に同地で亡くなりました。
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