2024-03-03

200th Death Anniversary of Giovanni Battista Viotti

Giovanni Battista Viotti (Italy, 1755 - 1824) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Violin Concerto No. 28 in A minor; II. Andante sostenuto (F major).

今日はイタリア出身の作曲家・ヴァイオリン奏者・興行主、ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ没後200年の命日です。今回はヴィオッティ作曲「ヴァイオリン協奏曲第28番 イ短調」より第2楽章 ヘ長調の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第82曲 Melodia (dal XXVIII Concerto per violino) (118頁) として収録されています。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティは1755年5月12日に、サルデーニャ王国フォンタネット・ポー (Fontanetto Po) で鍛冶屋の子として生まれ、9歳頃までにはヴァイオリンを学んでいました。1766年に、チステルナ・ダスティ公ジュゼッペ・アルフォンソ (Giuseppe Alfonso dal Pozzo, IV principe di Cisterna d'Asti, 1748 - 1819) の庇護の下で赴いたトリノで教育を受けました。トリノでは最初に、チェロニアート氏 (Signor Celoniat)、おそらくカルロ・アントニオ・チェロニアーティ (Carlo Antonio Celoniati, ca. 1730 - 1791) に師事し、次いで1769年にロンドンから帰還したガエターノ・プニャーニ (Gaetano Pugnani, 1731 - 1798) に師事しました。1773年からトリノのレージョ劇場 (Teatro Regio di Torino) 管弦楽団の第2ヴァイオリン奏者を、1775年からサルデーニャ王国宮廷管弦楽団の第1ヴァイオリン奏者を務めました。1779年から師プニャーニとともに演奏旅行に出発し、スイスドレスデンベルリンワルシャワサンクトペテルブルクモスクワを巡り、1781年に再びベルリンを訪れました。ベルリンでは最初の出版楽譜である「ヴァイオリン協奏曲 イ長調」(現在では第3番の番号で知られる) を出版しました。その後、師と別れ (プニャーニはトリノに帰還)、単身でパリに向かいました。

パリでは私的演奏会に出演したのち、1782年3月17日にコンセール・スピリチュエルでパリでのデビューを果たしました。デビューから1年半は頻繁に演奏会に出演して名声を高めましたが、1783年9月8日の演奏会ののち公開演奏会から引退し、ヴェルサイユで王妃マリー・アントワネット (Marie-Antoinette, reine de France et de Navarre, 1755 - 1793) に仕え年金を得るようになりました。プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ (後のフランス国王ルイ18世 Louis XVIII, 1755 - 1824) の後援を得て、1788年にムッシュ劇場 (1791年7月にフェドー劇場 Théâtre Feydeau と改称) を設立。ルイジ・ケルビーニ (Luigi Cherubini, 1760 - 1842) を作曲家として雇用し、1786年から6年間ケルビーニと共有していたアパルトマンでは日曜日にマチネーの音楽会を開きました。作曲家としての活動も充実し、出版作品のうちのおそらく半数は10年間のこの最初のパリ時代に出版されています。

1792年7月にフランス革命から逃れ英国ロンドンに渡りました。ロンドンでのデビューとなる、1793年2月7日のヨハン・ペーター・ザーロモン (Johann Peter Salomon, 1745 - 1815) 主催のハノーヴァー・スクエア・ルームズでの演奏会で成功を収めました。1797年にヴィルヘルム・クラーマー (Wilhelm Cramer, 1746 - 1799) の後任として国王劇場とオペラ・コンサートの管弦楽団のコンサートマスター兼監督に就任しました。ところが、1798年2月に英国政府にジャコバン派支持者と疑われたために国外退去を命じられました。この追放には演奏旅行でロンドンを訪れていたかつての弟子ピエール・ロード (Pierre Rode, 1774 - 1830) も巻き込まれ、ロードはパリに帰還しました。ヴィオッティ自身はこの疑惑をタイムズ紙に掲載された声明と自叙伝「ヴィオッティの生涯の概要 Précis de la vie de J. B. Viotti 」で否定しています。1799年7月までの1年半の間、ホルシュタイン公国シェーネフェルト (Schenefeld) の知人宅に滞在しました。同年、英国に戻り、渡英後に親しくなっていた資産家のチナリー夫妻、財務省官吏のウィリアム (William Bassett Chinnery) とピアノの名手マーガレット (Margaret Chinnery) の住むロンドン郊外の邸宅ギルウェルに寄寓しました。1811年に英国永住市民権 (denizenship) を取得。1813年にロンドン・フィルハーモニック協会の創設者の一人となり、理事に選出されました。1818年に革命前から続けていたワイン事業に失敗し、英国の友人たちに対して多くの借金を負うことになりました。

1819年11月にパリ国立オペラとしても知られる王立音楽アカデミー (Académie Royale de Musique) とイタリア劇場 (Théâtre italien de Paris) の監督に就任。フランスではかつての後援者であるプロヴァンス伯が国王に即位しルイ18世となっていました。音楽アカデミー監督になって間もない1820年2月にベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワ (Charles Ferdinand d'Artois, duc de Berry, 1778 - 1820) が国立劇場から出るところをボナパルト派の馬具屋ルイ=ピエール・ルヴェル (Louis-Pierre Louvel) に暗殺されたことで、民衆から批判の的となったヴィオッティはしばらく苦しむこととなりました。音楽監督としての評価もそれほど上がることはなく、借金を返済できないまま失意のうちにパリを去りました。1823年11月に英国の支援者マーガレット・チナリーとともに再びロンドンに渡り、1824年3月3日にロンドンのポートマン・スクエアの借家で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

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