2026-08-29

150th Death Anniversary of Félicien David

Félicien-César David (France, 1810 - 1876) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Lalla-Roukh, Act 2, No.11. Barcarolle et ensemble (A flat major).

今日はフランスの作曲家・指揮者、フェリシアン・ダヴィド没後150年の命日です。今回はダヴィド作曲のオペラ・コミック「ララ・ルーク」より第2幕第11番「舟歌とアンサンブル」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第14曲 Barcarola (dall'opera: Lalla-Roukh). Andantino (21頁) として収録されています。

フェリシアン・ダヴィドは1810年4月13日にフランス帝国ヴォクリューズ県カドネ (Cadenet) で生まれました。生後間もなく母マリ=アンヌ・フランソワーズ・アルキエ (Marie-Anne Françoise Arquier) を亡くし、5歳のときには金細工師でアマチュアのヴァイオリン奏者でもあった父シャルル・ニコラ・ダヴィド (Charles Nicolas David, d. 1815) も亡くしたため、姉の一人に引き取られました。パリ・オペラ座首席オーボエ奏者のジョゼフ=フランソワ・ガルニエ (Joseph-François Garnier, 1755 - 1825) の勧めにより、1818年からエクス=アン=プロヴァンスサン=ソヴール大聖堂 (Cathédrale Saint-Sauveur d'Aix-en-Provence) の聖歌隊員養成所でミシェル神父 (Abbé Michel) とマリウス・ルー (Marius Roux) にソルフェージュ、和声法、声楽を学び、作曲を始めました。1825年にエクスのイエズス会サン=ルイ学院 (Collège des jésuites Saint-Louis) に入学し、1828年の閉校まで学びました。エクス劇場副指揮者や裁判所書記として短期間働いたのち、母校のサン=ソヴール大聖堂聖歌隊員養成所で楽長に就任しました。サン=ソヴール大聖堂に1年勤めたのち、パリに移ることを決意。パリ音楽院に入学してエドゥアール・ミヨー (Édouard Millault, 1808 - 1887) に対位法を、フランソワ=ジョゼフ・フェティス (François-Joseph Fétis, 1784 - 1871) に対位法とフーガを、フランソワ・ブノワ (François Benoist, 1794 - 1878) にオルガンを師事し、そのほかにナポレオン=アンリ・ルベル (Napoléon-Henri Reber, 1807 - 1880) から個人指導を受けました。音楽院で学びながら音楽教師で生計を立てていたものの、1831年には賞を獲得しないまま音楽院を去り、サン=シモン主義者となりました。

1832年に政府の命によりサン=シモン教団が解散させられると、少数の友人たちとともにサン=シモン主義を広める中東への旅に出発しました。リヨンマルセイユ(1833年3月22日出航)、イスタンブールイズミルヤッファを経て、エジプトに到着しました。道中は旅行用の小型ピアノを持ち歩き、東洋風の歌曲やピアノ曲などを作曲しました。2年近くカイロに滞在し、音楽教師や砂漠探検をして過ごしましたが、ペストの流行によりエジプトを離れざるを得なくなりました。陸路でベイルートに行き、そこから航路でジェノヴァを経由して1835年6月にマルセイユに到着しました。1836年、中東の旋律に基づくピアノ曲集「東洋風旋律集 Mélodies orientales 」(Paris: Pacini, 1836) を出版。1844年7月に代表作となるオード交響曲「砂漠 Le désert 」を完成し、同年12月8日に初演して成功を収めました。1859年にグランド・オペラ「エルキュラニュム Herculanum 」を初演。1862年にトマス・ムーア (Thomas Moore, 1779 - 1852) の長詩「ララ・ルーク、東洋のロマンス Lalla Rookh 」に基づくオペラ・コミック「ララ・ルーク Lalla-Roukh 」を初演。同年、レジオンドヌール勲章オフィシエを受章。1869年にエクトル・ベルリオーズ (Hector Berlioz, 1803 - 1869) の後任としてフランス学士院の会員に選出され、パリ音楽院図書館長に就任しました。1876年8月29日にセーヌ=エ=オワーズ県サン=ジェルマン=アン=レー (Saint-Germain-en-Laye) で亡くなりました。

出典:

  • Bartoli, Jean-Pierre (2016). “David, Félicien”. MGG Online. Retrieved 2026-08-29.
  • Macdonald, Hugh; Locke, Ralph P. (2001/2021). “David, Félicien(-César)”. Grove Music Online. Retrieved 2026-08-29.

2026-08-06

150th Birth Anniversary of Mortimer Wilson

Mortimer Wilson (USA, 1876 - 1932) - Silhouettes from the Screen for Piano, Op. 55 (New York: Composers’ Music Corporation, 1919); No. 3. Mary Pickford. Andante, molto cantabile (E flat major).

今日は米国の作曲家・指揮者・音楽教師、モーティマー・ウィルソン生誕150年の誕生日です。今回はウィルソン作曲「ピアノのための銀幕からのシルエット集」より第3曲「メアリー・ピックフォード」を弾きました。楽譜の各曲の左上に角括弧書きでウィリアム・S・ハート (William S. Hart, 1864 - 1946)、チャールズ・チャップリン (Charles Chaplin, 1889 - 1977)、メアリー・ピックフォード (Mary Pickford, 1892 - 1979)、セダ・バラ (Theda Bara, 1885 - 1955)、ダグラス・フェアバンクス (Douglas Fairbanks, 1883 - 1939) の5人の映画俳優の名が記されています。メアリー・ピックフォードはサイレント映画時代の大スターであり、「農場のレベッカ Rebecca of Sunnybrook Farm 」(1917)、「小公女 A Little Princess 」(1917)、「孤児の生涯 Daddy-Long-Legs 」(1919) 等の可憐な少女役で人気を博しました。

モーティマー・ウィルソンは1876年8月6日にアイオワ州シェアリントン (Chariton) で生まれました。1894年から1900年までシカゴで、サイモン・E・ジェイコブソン (Simon E. Jacobsohn, 1839 - 1902)、フレデリック・グラント・グリーソン (Frederick Grant Gleason, 1848 - 1903)、ヴィルヘルム・ミデルシュルテ (Wilhelm Middelschulte, 1863 - 1943) に師事しました。1901年から1907年までネブラスカ州リンカンネブラスカ大学音楽学部で音楽理論の教師を務めたのち、ドイツライプツィヒで3年間、ハンス・ジット (Hans Sitt, 1850 - 1922)、マックス・レーガー (Max Reger, 1873 - 1916) に師事しました。

1911年よりジョージア州アトランタアトランタ音楽院 (Atlanta Conservatory of Music) の教師とアトランタ交響楽団の指揮者を務め、1916年から1918年までジョージア州ゲインズビルブレノー・カレッジ (Brenau College) で教師となり、その後、ニューヨークアカデミー・オブ・ミュージック (Academy of Music) でコンサルティング・エディターを務めました。1932年1月27日にニューヨークで亡くなりました。

出典

  • Butterworth, Neil (2013). “Wilson, Mortimer”. Dictionary of American Classical Composers (2nd edition). New York/London: Routledge. page 498.
  • Thompson, Oscar; Bohle, Bruce, eds. (1975). “Wilson, Mortimer”. The International Cyclopedia of Music and Musicians (4th edition). London: Dodd, Mead & Company. page 2470.
  • メリーピックフォード」『20世紀西洋人名事典』日外アソシエーツ. コトバンク. Retrieved 2026-08-05.

2026-08-01

100th Death Anniversary of Karl Zuschneid

Karl Zuschneid (Germany, 1854 - 1926) - 3 Salonstücke, Op. 72; No. 2. Gavotte (Humoreske). Grazioso (F major).

今日はシュレージエン出身のドイツの作曲家・指揮者・音楽教師、カール・ツーシュナイト没後100年の命日です。今回はツーシュナイト作曲「ピアノのための3つのサロン小品 Op. 72」より第2曲「ガヴォット (フモレスケ) ヘ長調」を弾きました。楽譜は「新音楽新聞 Neue Musik Zeitung 」1905年第8号 (26. Jahrgang, No. 8, Stuttgart/Leipzig: Carl Grüninger, 1905) に掲載されたものを使いました。新音楽新聞の楽譜は曲名をフモレスケ (Humoreske) としていますが、ホーフマイスター社の「音楽文芸月報 Musikalisch-literarischer Monatsbericht 」1906年5月号の242頁では Op. 72 No. 2 の曲名をガヴォット (Gavotte) としています。

カール・ツーシュナイトは1854年5月29年にプロイセン王国シュレージエン州のオーバーグローガウ (Oberglogau. 現在のポーランド領グウォグヴェク Głogówek) で生まれました。バーデン大公国フライブルク・イム・ブライスガウで書店員として働いたのち、1876年にシュトゥットガルト王立音楽院 (Königliches Konservatorium für Musik) に入学し、ジークムント・レーベルト (Sigmund Lebert, 1821 - 1884)、ルートヴィヒ・シュタルク (Ludwig Stark, 1831 - 1884)、ディオニュス・プルックナー (Dionys Pruckner, 1834 - 1896)、ラインホルト・ザイエルレン (Reinhold Seyerlen, 1848 - 1897)、インマヌエル・ファイスト (Immanuel Faißt, 1823 - 1894) に師事しました。

1879年から1889年までゲッティンゲンに居住して大学の音楽監督助手、合唱指揮者、音楽教師を務め、1890年にはミンデン音楽協会 (Musikverein Minden) 会長に就任しました。1897年から1907年までエアフルトに居住し、ゾラー音楽協会 (Der Sollersche Musikverein) とエアフルト男声合唱団 (Erfurter Männergesangverein) の指揮者、実科ギムナジウムの声楽教師を務めました。ヴィルヘルム・ボップ (Wilhelm Bopp, 1863 - 1931) の後任として1907年から1917年までマンハイム高等音楽学校 (Hochschule für Musik in Mannheim) の学長を務めました。1914年には大公国教授 (Großherzoglicher Professor) の称号を得ています。その後、バート・ホンブルクヴァイマル (Weimar) に移り、1926年8月1日にヴァイマルで亡くなりました。

出典:

  • Einstein, Alfred, ed. (1929). “Zuschneid, Karl”. Hugo Riemanns Musik-Lexikon. 11th edition. Leipzig: Max Hesse. page 2090.
  • SL; Hauschild, Peter (2007/2016). “Zuschneid, Karl”. MGG Online. Retrieved 2026-07-30.