2024-02-16

250th Birth Anniversary of Pierre Rode

Jacques-Pierre-Joseph Rode (France, 1774 - 1830) - 24 Caprices en forme d'études pour le violon seul dans les vingt-quatre tons de la gamme. Dediés à Monseigneur le Prince de Chimay; No. 12. Commodo (G sharp minor). Arrangement for piano and transposed to G minor by Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945).

今日はフランスの作曲家・ヴァイオリン奏者、ピエール・ロード生誕250年の誕生日です。今回はロード作曲「ヴァイオリン独奏のためのエチュードの形式による24の奇想曲」より第12番 嬰ト短調の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲 (ト短調に移調) を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第70曲 Capriccio (dal Capricci per violino solo). Allegro comodo (100-101頁) として収録されています。「24の奇想曲」は24の全ての調を使って作曲されており、シメイ公フランソワ=ジョゼフ=フィリップ・ド・リケ・ド・カラマン (François-Joseph-Philippe de Riquet de Caraman, prince de Chimay, 1771 - 1843) に献呈されています。また、作品番号の22については生前の版では確認できませんでしたが、1868年の Schott 新版 (Nouvelle édition. Mainz: Schott) に書かれているようです。

ピエール・ロードは1774年2月16日にフランス王国南西部のボルドー (Bordeaux) で生まれました。6歳から8年間、アンドレ=ジョゼフ・フォヴェル (André-Joseph Fauvel) に師事し、12歳のときにはボルドーでの演奏会で協奏曲を弾きました。1787年にフォヴェルに率いられ他の彼の優秀な弟子たちとともに首都パリに赴き、そこでロードはジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ (Giovanni Battista Viotti, 1755 - 1824) に才能を認められ、ヴィオッティの弟子となりました。1790年に師ヴィオッティ作曲のヴァイオリン協奏曲第13番を演奏してパリでのデビューを果たし、1792年にはヴィオッティの新作である第17番と第18番の協奏曲の初演を任されます。これらの公演はヴィオッティが音楽監督を務めていたムッシュ劇場 (Théâtre de Monsieur. 後のフェドー劇場 Théâtre Feydeau) で行われました。

1795年11月22日に、新設されて間もないパリ音楽院 (Conservatoire de musique) のヴァイオリンの教授に任命されました。パリでの教え子にシャルル=フィリップ・ラフォン (Charles-Philippe Lafont, 1781 - 1839)、ジャン=アンリ・シモン (Jean-Henri Simon, 1783 - 1861) がいます。休暇を取ってオランダ、ドイツ、英国ロンドンを巡る演奏旅行をしたのち、1799年に音楽院に復職し、オペラ座での独奏者を務めました。1799年の暮れにはスペインのマドリードで演奏し、当地でルイジ・ボッケリーニ (Luigi Boccherini, 1743 - 1805) の友人となりました。この頃作曲した「ヴァイオリン協奏曲第6番」をスペイン王妃マリア・ルイサ (María Luisa de Borbón-Parma, 1751 - 1819) に献呈しています。1800年にパリに戻ると第一執政ナポレオン・ボナパルト (Napoléon Bonaparte, 1769 - 1821) の下でヴァイオリン独奏者に指名され、代表曲となる「ヴァイオリン協奏曲第7番 イ短調 Op. 9」を初演しました。

1803年にはロシアに赴くことを決意し、道中のドイツ各地で演奏しました。ブラウンシュヴァイクでの演奏はルイ・シュポーア (Louis Spohr, 1784 - 1859) を魅了しました。1804年から1808年までロシア帝国の首都サンクトペテルブルクにおいて、皇帝アレクサンドル1世 (Aleksandr I, 1777 - 1825) の下でヴァイオリン独奏者を務めました。同時期のロシア宮廷では作曲家のフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー (François-Adrien Boieldieu, 1775 - 1834) も活動していました。

1808年12月22日にはパリで再び演奏会を開き、「ヴァイオリン協奏曲第10番 ロ短調 Op. 19」を演奏しました。ペテルブルクではハンガリー出身のヨーゼフ・ベーム (Joseph Böhm, 1795 - 1876) を指導しました。1811年に再びヨーロッパを巡る演奏旅行を行い、1812年12月にヴィーンで、ピアノのルドルフ大公 (Rudolph von Österreich, 1788 - 1831) とともにルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827) 作曲のヴァイオリンソナタ第10番を初演しました。1814年にプロイセン王国の首都ベルリンに移り、プロイセン宮廷画家の娘カロリーネ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ・ヴェローナ (Caroline Sophie Wilhelmine Verona) と結婚しました。ベルリンではフェーリクス・メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn, 1809 - 1847) のヴァイオリンの師で友人として知られるエドゥアルト・リッツ (Eduard Ritz, 1802 - 1832) を指導しました。1819年頃に家族を伴いフランスに戻り、生地のボルドーに定住しました。1828年の、息子エドモン (Edmond Rode, b. 1816) の教育のために訪れた久々のパリでの演奏会は失敗に終わり、その失敗の原因と考えられる麻痺 (脳血管障害) の悪化により、1830年11月25日にダマザン (Damazan) 近郊にある自邸であるブルボン邸 (Château de Bourbon) で亡くなりました。

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