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2025-06-03

150th Death Anniversary of Georges Bizet

Georges Bizet (France, 1838 - 1875) / Paul Blumenthal (Germany, 1843 - 1930) - Carmen. Opéra-comique en 4 actes; Act IV, No. 26. Si tu m'aimes, Carmen.

今日はフランスの作曲家ジョルジュ・ビゼー没後150年の命日です。今回はビゼー作曲「カルメン」より第4幕第26曲「もしお前が俺を好きなら、カルメン」の、パウル・ブルーメンタールによるハルモニウム独奏編曲を弾きました。楽譜はパウル・ブルーメンタール編纂の楽譜集「ハルモニウム・アルブム Harmonium-Album 」第3巻 (Frankfurt an der Oder: Georg Bratfisch, No. 38, 1923) の15頁に第11曲 Lied „Liebst du mich“ aus der Oper: Carmen. Andantino (D major) として収録されています。

ジョルジュ・ビゼーは1838年10月25日にフランス王国の首都パリで、いずれも声楽教師のアドルフ=アルマン・ビゼー (Adolphe-Armand Bizet, 1810 - 1886)、エメ・ビゼー (Aimée Bizet née Delsarte, 1815 - 1861) の子として生まれました。母から音楽の手ほどきを受け、その兄である伯父の音楽家フランソワ・デルサルト (François Delsarte, 1811 -1871) からも大きな影響を受けました。幼くして楽才を示し、10歳の誕生日を迎える手前の1848年10月9日にパリ音楽院に入学しました。アントワーヌ・マルモンテル (Antoine-François Marmontel, 1816 - 1898) のピアノのクラスで学び始め、入学から半年も経たないうちにソルフェージュで一等賞を獲得。マルモンテルの前任者であるピエール=ジョゼフ・ジメルマン (Pierre-Joseph-Guillaume Zimmerman, 1785 - 1853)、ジメルマンの娘婿であるシャルル・グノー (Charles Gounod, 1818 - 1893) からもピアノとソルフェージュの個人レッスンを受け、1852年にピアノで一等賞を獲得。また、1852年からフランソワ・ブノワ (François Benoist, 1794 - 1878) にオルガンを、1853年からフロマンタル・アレヴィ (Jacques-Fromental Halévy, 1799 - 1862) に作曲法を師事し、1855年にオルガンと作曲法で一等賞を獲得しました。ローマ賞では1856年に第二等首席を、1857年に第一等首席を受賞し、同年12月からローマに留学しました。

1860年9月に友人で同じくローマ賞第一等受賞者 (1859年) のエルネスト・ギロー (Ernest Guiraud, 1837 - 1892) との北イタリア旅行中のヴェネツィアで母の病を知り、単身パリに帰還。帰国後は主にオペラの作曲家として活動しました。1862年に家政婦のマリ・レテール (Marie Reiter) との間に私生児であるジャン・レテール (Jean Reiter) を儲けました。1869年に師アレヴィの遺子であるジュヌヴィエーヴ (Geneviève Halévy-Bizet-Straus, 1849 - 1926) と結婚し、1872年に息子のジャック・ビゼー (Jacques Bizet, 1872 - 1922) が生まれます。1872年に付随音楽「アルルの女 L'Arlésienne 」を完成・上演。1874年に4幕のオペラ=コミック「カルメン」を完成し、1875年3月3日に初演しました。同年5月末にパリ近郊のブージヴァル (Bougival) に移住。セーヌ川に泳ぎに行ったのち、5月30日に重度のリウマチ発作に、その後2度の心臓発作に襲われ、6月3日にブージヴァルにおいて36歳で亡くなりました。6月5日にサントトリニテ教会 (Église de la Sainte-Trinité de Paris) で葬儀が執り行われ、ペール・ラシェーズ墓地 (Cimetière du Père-Lachaise) に埋葬されました。

出典: Grove Music Online. Retrieved 2025-06-03.

2025-05-07

200th Death Anniversary of Antonio Salieri

Antonio Salieri (Italy/Austria, 1750 - 1825) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - "Pantomime" (Act 3) from Les Danaïdes (1784).

今日はイタリア出身のオーストリアの作曲家・指揮者・音楽教師、アントーニオ・サリエーリ (アントニオ・サリエリ) 没後200年の命日です。 今回はサリエーリ作曲、5幕の抒情悲劇「ダナオスの娘たち」(1784) より第3幕終曲「パントミム (パントマイム)」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第45曲 Pantomima (dall'opera: Le Danaidi) (64-65頁) として収録されています。

アントニオ・サリエーリは1750年8月18日にヴェネツィア共和国レニャーゴ (Legnago) で生まれ、兄のフランチェスコ・サリエーリ (Francesco Salieri, 1741 - 1826) と当地のオルガン奏者ジュゼッペ・シモーニ (Giuseppe Simoni) にヴァイオリンと鍵盤楽器を学びました。1763年に母が1765年に父が相次いで亡くなるとヴェネツィアに移り、テノール歌手のフェルディナンド・パチーニ (Ferdinando Pacini) に声楽を、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペシェッティ (Giovanni Battista Pescetti, 1704 - 1766) に作曲法を師事しました。1766年にヴェネツィアで自作のオペラ「スキュロス島のアキレウス Achille in Sciro 」制作の監督をしていたフローリアン・レオポルト・ガスマン (Florian Leopold Gassmann, 1729 - 1774) に才能と野心を見いだされ、ガスマンに連れられてハプスブルク帝国の首都ヴィーンに移り彼の弟子となりました。間もなくオペラを書く機会を得て、1769年に最初の上演されたオペラである「女文士たち Le donne letterate 」が作曲されました。1771年7月には「アルミーダ Armida 」が上演され、高く評価されました。1774年にガスマンが亡くなると、後任としてハプスブルク宮廷の室内楽作曲家 (Kammerkomponist)、イタリア・オペラ監督に就任。パリ国立オペラからの委嘱作品に手が回らなくなっていたクリストフ・ヴィリバルト・グルックChristoph Willibald Gluck, 1714 - 1787) の依頼によりフランス王国の首都パリを訪れ、1784年にパリで「ダナオスの娘たち」を上演し成功を収めました。1787年には同じくパリでフランス・オペラ3作目となる「タラール Tarare 」を上演して大きな成功を収めましたが、これはオペラにおけるサリエーリの最高傑作とも評されています。1788年にジュゼッペ・ボンノ (Giuseppe Bonno, 1711 - 1788) の後任としてハプスブルク宮廷楽長に就任。1790年に庇護者でもあった神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世 (Joseph II, 1741 - 1790) が亡くなると、楽長業務のうち劇場でのリハーサルや指揮などを弟子のヨーゼフ・ヴァイグル (Joseph Weigl, 1766 - 1848) に委譲しました。1815年のヴィーン会議では音楽行事の企画・指揮を担当。1825年5月7日にヴィーンで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2024-12-14

100th Death Anniversary of Victor Herbert

Victor Herbert (UK/Germany/USA, 1859 - 1924) / Harold Sanford (USA, 1879 - 1945) - I Might Be Your "Once-In-A-While" (Moderato con espressione. F major. Act I, No. 1. New York: T.B. Harms & Francis, Day & Hunter, 1919) from the Comedy with Music 'Angel Face' (1919).

今年の5月26日は英国出身の米国の作曲家・チェロ奏者・指揮者、ヴィクター・ハーバート没後100年の命日でした。今回はハーバート作曲、3幕の音楽付き喜劇「天使の顔」(1919) より第1幕第1場「僕は君の『ときどき』になるかもしれない」の、ハロルド・サンフォードによるピアノ独奏編曲を弾きました。

ヴィクター・ハーバートは1859年2月1日に既婚者ファニー・マスプラット (Frances "Fanny" Muspratt née Lover) の婚外子として生まれました。ヴィクターが母から伝え聞いたということで出生地はアイルランド (当時は英国領) のダブリンとされてきましたが (Ledbetter, Krasner 2001/2024; Linhardt 2002/2016)、実際はおそらくイギリス海峡の英国王室属領ガーンジー島 (Guernsey) だろうということです (Casey 2017)。母方の祖父であるアイルランド人著述家・作曲家のサミュエル・ラヴァー (Samuel Lover, 1797 - 1868) とともにロンドン郊外のセヴノークスで育ちました。1864年 (Casey 2017) または1866年 ((Ledbetter, Krasner 2001/2024) に母がウィンブルドン在住のドイツ人医師と再婚し、1867年に家族とともにヴュルテンベルク王国の首都シュトゥットガルトに移りました。1874年から1876年までバーデン大公国バーデン=バーデンベルンハルト・コスマン (Bernhard Cossmann, 1822 - 1910) にチェロを師事しました。

ロシア人貴族パーヴェル・フォン・デルヴィース男爵 (Paul von Derwies, 1826 - 1881) の楽団で1年間、その後1880年から1年間独奏者としてヴィーンエドゥアルト・シュトラウス (Eduard Strauss, 1835 - 1916) の楽団で、1881年から1886年までシュトゥットガルトのヴュルテンベルク王国宮廷楽団でチェロ奏者を務めました。宮廷チェロ奏者時代にシュトゥットガルトの王立音楽院マックス・ザイフリッツ (Max Seifriz, 1827 - 1885) に作曲法を師事し、「チェロと管弦楽のための組曲 Op. 3」(1884) 、「チェロ協奏曲第1番 Op. 8」(1884) という大規模な協奏的作品を作曲して自ら独奏者として演奏しました。王立シュトゥットガルト宮廷劇場で知り合ったテレーゼ・フェルスター (Therese Foerster, 1861 - 1927) と1886年8月16日に結婚し、その直後に米国のニューヨークに渡りました。

ニューヨークに渡るとニューヨーク弦楽四重奏団 (New York String Quartet) などでチェロ奏者を務めたほか、ブライトン・ビーチでの夏季演奏会でアントン・ザイドル (Anton Seidl, 1850 - 1898) の下で副指揮者を務めました。おそらく1889年秋に、ナショナル音楽院 (National Conservatory of Music of America) の教員に採用され、1893年から7年間、パトリック・ギルモア (Patrick Sarsfield Gilmore, 1829 - 1892) により設立されたニューヨーク陸軍州兵第22連隊軍楽隊の音楽監督を務めました。1894年に最初のオペレッタ「アナニヤ王子 Prince Ananias 」を劇団ザ・ボストニアンズ (The Bostonians) のために作曲し、以後オペレッタ作曲家として成功を収めます。1898年にピッツバーグ交響楽団 (Pittsburgh Symphony Orchestra) 指揮者に就任して同団の発展に寄与したものの、経営陣と対立したために1904年に辞任。その後、自身の楽団であるヴィクター・ハーバート・オーケストラを結成し、各地を巡ってライトミュージックを演奏しました。1908年に国立芸術文学院 (National Institute of Arts and Letters) の会員に選出。また、作曲家の法的権利の保護について積極的に訴え、1914年に米国作曲家作詞家出版者協会 (American Society of Composers, Authors and Publishers. 略称: ASCAP) の創設者の一人となり、亡くなるまで同会副会長兼理事を務めました。1917年に演奏権をめぐる最高裁判所での裁判で勝訴し、作曲家が演奏料を徴収する権利を獲得しました。1924年5月26日にニューヨークで亡くなりました。

出典:

  • Casey, Marion R. (2017). “Was Victor Herbert Irish?18th–19th - Century History, Features. 25 (1). Retrieved 2024-05-20.
  • Ledbetter, Steven; Krasner, Orly Leah (2001/2024). “Herbert, Victor (August)”. Grove Music Online. Retrieved 2024-05-20.
  • Linhardt, Marion (2002/2016). “Herbert, Victor”. MGG Online. Retrieved 2024-05-20.

2024-11-29

100th Death Anniversary of Giacomo Puccini

Giacomo Puccini (Italy, 1858 - 1924) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - "In quelle trine morbide" (Act 2) from Manon Lescaut.

今日はイタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニ没後100年の命日です。今回はプッチーニ作曲の4幕のオペラ「マノン・レスコー」第2幕より「この柔らかなレースの中で」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第5曲 Melodia (dall'opera; Manon Lescaut) (6-7頁) として収録されています。

プッチーニ家トスカーナ大公国ルッカ (Lucca) を拠点としていた音楽家一族で、音楽家としては4代前の高祖父で同名のジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini (I), 1712 - 1781) までさかのぼることができます。

ジャコモ・プッチーニは1858年12月22日にミケーレ・プッチーニ (Michele Puccini, 1813 - 1864) の子としてルッカで生まれました。1874年からルッカのパチーニ音楽院 (Istituto Musicale Pacini) で、叔父 (母の弟) のフォルトゥナート・マージ (Fortunato Magi, 1839 - 1882) の下で音楽を学びはじめ、カルロ・アンジェローニ (Carlo Angeloni, 1834 - 1901) に管弦楽法を師事しました。1877年作曲のモテット「プラウディーテ・ポプリ Plaudite populi 」と「クレド」で最初の成功を収め、1880年から1883年までミラノ音楽院アントニオ・バッジーニ (Antonio Bazzini, 1818 - 1897)、アミルカレ・ポンキエッリ (Amilcare Ponchielli, 1834 - 1886)、アミントーレ・ガッリ (Amintore Galli, 1845 - 1919) に師事しました。音楽院時代の作品には「クレド」(1877) を転用した「4声のミサ曲」(1880)、「交響的前奏曲 イ長調」(1882)、卒業制作作品である「交響的奇想曲」(1883) などがあります。

オペラ第1作「レ・ヴィッリ」(1884年ミラノ初演)、第2作「エドガール」(1889年ミラノ初演) に続く、第3作「マノン・レスコー」(1893年トリノ初演) の成功によりオペラ作曲家としての地位を確立し、 「ラ・ボエーム」(1896年トリノ初演)、「トスカ」(1900年ローマ初演)、「蝶々夫人」(1904年ミラノ初演)、「西部の娘」(1910年米国ニューヨーク初演)、「つばめ」(1917年モナコ公国モンテカルロ初演)、「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」の三部作 (1918年ニューヨーク初演)、「トゥーランドット」(遺作、未完) といった、現代でも主要なレパートリーとなっている作品を残しました。1924年11月29日に旅先のベルギー王国ブリュッセルで、喉頭癌の緊急手術のあとに起きた心臓発作のために亡くなりました。遺作となった「トゥーランドット」はフランコ・アルファーノ (Franco Alfano, 1875 - 1954) により補筆され、1926年にミラノで初演されました。

出典:

2024-11-14

250th Birth Anniversary of Gaspare Spontini

Gaspare Luigi Pacifico Spontini (Italy, 1774 - 1851) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Impitoyables dieux! (O Nume, tutelar degli infelici. Act 2) from La vestale.

今日はイタリアの作曲家ガスパーレ・スポンティーニ生誕250年の誕生日です。今回はスポンティーニ作曲のオペラ「ヴェスタの巫女」第2幕より「無慈悲な女神よ」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第45曲 Preghiera (dall'opera: La Vestale) (66頁) として収録されています。

ガスパーレ・スポンティーニは1774年11月14日に教皇領のマイオラーティ (Maiolati. 現在のイタリア領マイオラーティ Maiolati Spontini) で、職人兼小自作農の子として生まれました。楽才が認められたため、1793年にナポリピエタ・デイ・トゥルキーニ音楽院 (Conservatorio della Pietà dei Turchini. 現在のナポリ音楽院の前身校の一つ) に入学しました。音楽院ではニコラ・サーラ (Nicola Sala, 1713 - 1801)、ジャコモ・トリット (Giacomo Tritto, 1733 - 1824) に師事したと考えられていますが、スポンティーニ自身はドメニコ・チマローザ (Domenico Cimarosa, 1749 - 1801) の弟子であると主張していました。1796年の最初のオペラ・ブッファの初演以後、イタリアでオペラ作曲家として活動し、1802年の末に統領政府期フランスの首都パリに移りました。

パリでは声楽教師として活動を始めますが、やがてフランス皇后ジョゼフィーヌ (Joséphine de Beauharnais, 1763 - 1814) の庇護を得てオペラを発表し、「ヴェスタの巫女」(1807年パリ・オペラ座初演)、「フェルナン・コルテス、またはメキシコ征服」(1809年パリ・オペラ座初演) で大成功を収めました。1817年にフランス国籍を取得。1814年よりプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (Friedrich Wilhelm III, 1770 - 1840) から招聘を受け、1820年にプロイセン王国の首都ベルリンに赴き宮廷音楽家として音楽総監督 (Generalmusikdirektor) に就任しました。外国人作曲家でありながら宮廷音楽家として高い地位にいたスポンティーニを快く思わないものは多く、1840年6月のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の死後、その後ろ盾を失ったスポンティーニは激しい攻撃にさらされ、1841年7月には不敬罪 (不得手なドイツ語での声明中の語句について告発された) により禁固9ヶ月の刑が確定し職を解かれます。1842年5月に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (Friedrich Wilhelm IV, 1795 - 1861) によりその判決は取り消されたものの、スポンティーニはイタリアに帰国しました。1850年9月に生地マイオラーティに戻り、1851年1月24日に同地で亡くなりました。

出典:

  • Gerhard, Anselm (2001). “Spontini, Gaspare (Luigi Pacifico)”.Grove Music Online. Retrieved 2024-11-14.
  • 2022-04-06

    350th Birth Anniversary of André Cardinal Destouches

    André Cardinal Destouches (France, 1672 - 1749) / Isidor Philipp (Hungary/France, 1863 - 1958) - Amadis de Grèce, tragédie en musique en un prologue et 5 actes; Canaries (Act 4).

    今日はフランスの作曲家アンドレ・カルディナル・デトゥーシュ生誕350年の受洗日です。今回はデトゥーシュ作曲、抒情悲劇「ギリシャのアマディス」第4幕より「カナリー」の、イジドール・フィリップによるピアノ独奏編曲を弾きました。楽譜はフィリップ編纂「フランス・ピアノ音楽のアンソロジー」第1巻「初期の作曲家」(Anthology of French Piano Music. Volume 1: Early Composers. Boston: Oliver Ditson Co., 1906) に収録されています。原曲の総譜は、アンドレ・ダニカン・フィリドール1世 (André Danican Philidor l'ainé, ca.1652 - 1730) による1699年の手稿譜が残されています (フランス国立図書館)。

    アンドレ・カルディナル・デトゥーシュは、裕福なパリの商人のエティエンヌ・カルディナル、セニュール・デ・トゥーシュ・エ・ド・ギユヴィル (Etienne Cardinal, Seigneur des Touches et de Guilleville) の子として生まれ、1672年4月6日に洗礼を受けました。1681年から1686年までサンジャック通りイエズス会による教育を受けたのち、1687年1月からギ・タシャール神父 (Gui Tachard, 1651 - 1712) に随行してサヤーム (タイ王国の古称) へ向かう使節団の一員となり、1688年7月に帰国。その4年後にフランス王室の軍人となり、黒色銃士隊 (mousquetaires noir) として1692年のナミュール包囲戦に参加。軍務のかたわらにギターを学んで作曲を試み、ついには音楽に専念するために1694年に軍を退役しました。

    アンドレ・カンプラ (André Campra, 1660 - 1744) の弟子となり、カンプラのオペラ=バレ「優雅なヨーロッパ L'Europe galante 」の1698年改訂版にはデトゥーシュ作曲の3つのエアを加えることを許可されました。1697年10月7日にフォンテーヌブローで初演された最初のオペラである英雄的牧歌劇「イセ Issé 」は成功を収めました。この作品に非常に満足したフランス国王ルイ14世 (Louis XIV, 1638 - 1715) により「リュリ以降これほどの喜びを与えてくれる音楽はなかった」(Titon du Tillet, Évrard. « le Roi l’assura que depuis Lulli aucune musique ne lui avait fait plus plaisir ».)という言葉とともに200ルイを贈られました。デトゥーシュはルイ14世のお気に入りの音楽家となり、1713年1月8日に新設された役職である王立音楽アカデミー (Académie royale de musique. 現在のパリ国立オペラ Opéra de Paris) 総監 (inspecteur général) に任命されました。

    1718年2月8日、ミシェル=リシャール・ド・ラランド (Michel-Richard de Lalande, 1657 - 1726) の要請により、宮廷室内音楽隊監督 (surintendant de la musique de la chambre) に就任。1724年1月15日、アンヌ=アントワネット・ド・レイノルド・ド・ラ・フェリエール (Anne-Antoinette de Reynold de la Ferrière) と結婚。1727年9月28日、亡くなったド・ラランドの後任として宮廷室内音楽隊楽長 (maître de musique de la chambre) に就任。1728年2月8日、引退するジャン=ニコラ・ド・フランシーヌ (Jean-Nicolas de Francine, 1662 - 1735) の後任として王立音楽アカデミー総長 (directeur) に就任しましたが、1730年6月1日に総長・総監を辞任。1725年以降、王妃マリー・レクザンスカ (Marie Leszczyńska, 1703 - 1768) のために演奏会を企画・監督し、1745年まで王妃の演奏会を管理しました。70歳のときに、国王ルイ15世 (Louis XV、1710 - 1774) の王女たちの仮面舞踏会を指揮しました。1749年2月7日にパリで亡くなりました。

    出典:

    2021-12-22

    200th Birth Anniversary of Giovanni Bottesini

    Giovanni Bottesini (Italy, 1821 - 1889) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Opera: Ero e Leandro. Tragedia lirica in 3 atti (Libretto by Arrigo Boito). Atto 3: La torre della vergine. Scena 1: "Splendi, splendi! erma facella" (Ero). Larghetto (D flat major).

    今日はイタリアの作曲家・コントラバス奏者・指揮者、ジョヴァンニ・ボッテジーニ生誕200年の誕生日です。今回はボッテジーニ作曲のオペラ、3幕の悲劇「エーロとレアンドロ」(アッリーゴ・ボーイト (Arrigo Boito, 1842 - 1918) による台本) より第3幕第1場のエーロのアリア Splendi, splendi! erma facella の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第9曲 Melodia (dall'opera Ero e Leandro) として収録されています。

    ジョヴァンニ・ボッテジーニは1821年12月22日にオーストリア帝国ロンバルド=ヴェネト王国クレーマ (Crema. 現在のイタリアのロンバルディア州クレモナ県の都市) で生まれました。クラリネット奏者・作曲家である父ピエトロ・ボッテジーニ (Pietro Bottesini, b. 1792) に音楽の手ほどきを受け、父の友人であるカルロ・コリアーニ (Carlo Cogliati, 1756 - 1834) にヴァイオリンを習いました。1835年に父がミラノ音楽院に入学させようとしたところ、奨学金を受けられる専攻にファゴットとコントラバスのみが残っていました。数週間でジョヴァンニは理事を満足させるほどにコントラバス演奏を習得し、同年11月に入学した音楽院でルイージ・ロッシ (Luigi Rossi) にコントラバスを、ガエターノ・ピアンタニーダ (Gaetano Piantanida, 1768 - 1835)、フランチェスコ・バジーリ (Francesco Basili, 1767 - 1850)、ピエトロ・ライ (Pietro Ray, 1773/1775 - 1857)、ニコーラ・ヴァッカイ (Nicola Vaccai, 1790 - 1848) に和声学、対位法、作曲を師事しました。1839年に300フランの賞金を得て音楽院を早期卒業し、その賞金でカルロ・ジュゼッペ・テストーレ (Carlo Giuseppe Testore) 作の3弦コントラバスを購入しました。

    1840年のクレーマ市立劇場でのコンサートデビューは成功し、コントラバス奏者としての名声を得ました。首席奏者となったヴェネツィアのサン・ベネデット劇場 (Teatro San Benedetto) ではジュゼッペ・ヴェルディ (Giuseppe Verdi, 1813 - 1901) と知り合い、生涯の友となりました。1846年にはキューバ総督領ハバナに渡り、タコン劇場 (Teatro de Tacón) 首席奏者を務めたほか、自作の最初のオペラ「クリストフォーロ・コロンボ Cristoforo Colombo 」を指揮しました。その後、ニューオーリンズ、ニューヨーク、ロンドン、メキシコ、パリ、サンクトペテルブルク、パレルモ、バルセロナ、マドリード、ポルトガル、フィレンツェ、カイロなどを訪れ国際的な活躍をしました。その演奏技巧からヴァイオリンの名手ニコロ・パガニーニになぞらえて、「コントラバスのパガニーニ」と呼ばれるようになります。1879年にトリノレージョ劇場 (Teatro Regio di Torino) で「エーロとレアンドロ」を上演。1889年1月にはヴェルディの推薦によりパルマ音楽院の院長に就任しましたが、半年後の同年7月7日にイタリア王国パルマ (Parma) で亡くなりました。

    出典:

    • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1919). “Claussen, Wilhelm”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd edition). New York: G. Schirmer. page 106.
    • Casellato, Cesare (2000) 2016. “Bottesini, Giovanni”. In: MGG Online, edited by Laurenz Lütteken. Bärenreiter, Metzler, RILM, 2016–. Retrieved 2021-12-21.
    • Slatford, Rodney (2001). “Bottesini, Giovanni”. Grove Music Online. Retrieved 2021-12-21.


    2020-12-17

    150th Death Anniversary of Saverio Mercadante

    Saverio Mercadante (Italy, 1795 - 1870) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Il giuramento; Act I. Bella, adorata Incognita (Biblioteca d'oro. Vol. 3 No. 37. Cavatina dall' opera: Il giuramento. Andante mosso (B flat major))

    今日はサヴェリオ・メルカダンテ没後150年の命日です。今回はメルカダンテ作曲の歌劇「誓い Il giuramento 」第1幕よりアリア「美しく愛しき謎の女よ Bella, adorata Incognita 」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第37曲 Cavatina dall' opera: Il giuramento として収録されています。

    サヴェリオ・メルカダンテは、ナポリ王国アルタムーラで貴族の私生児として生まれました。1799年に一時期成立したパルテノペア共和国が王国側の反撃で倒れ、その際の略奪により一家は財産を失いますが、1806年以後のフランス占領下のナポリで父が官吏となったため、一家はナポリに移りました。

    異母兄からギターとクラリネットを学び楽才を示したメルカダンテは、1808年にサン・セバスティアーノ音楽院 (ナポリ音楽院の前身校) に入学し、ヴァイオリン、フルート、声楽を学んだほか、ジョヴァンニ・フルノ (Giovanni Furno, 1748 - 1837) に通奏低音を、ジャコーモ・トリット (Giacomo Tritto, 1733 - 1824) に対位法を、1813年から音楽院の新院長に就任したニコロ・アントニオ・ジンガレッリ (Niccolò Antonio Zingarelli, 1752 - 1837) に作曲を師事しました。同音楽院では作曲と声楽の教師であるルイージ・カポトルティ (Luigi Capotorti, 1767 - 1842) にも学んでいます。

    音楽院在学中には代表作の一つである「フルート協奏曲第2番 ホ短調」を作曲し、活動初期には室内楽曲 (主にフルートのための) の出版により収入を得ています。1819年8月19日初演 (ナポリ、サン・カルロ劇場) の最初のオペラ「ヘラクレスの神格化 L’apoteosi d’Ercole 」は成功を収め、1821年10月30日初演 (ミラノ、スカラ座) の7作目のオペラ「エリーザとクラウディオ Elisa e Claudio 」の成功は国外にも名声を広めました。1823年の春に興業主のドメニコ・バルバイア (Domenico Barbaia, 1778 - 1841) に3年間の契約で雇われ、ジョアキーノ・ロッシーニ (Gioacchino Rossini, 1792 - 1862) の後任としてサン・カルロ劇場のオペラ作曲家を務めました。1826年初めの「スペインの女王カリテア Caritea, regina di Spagna 」(ヴェネツィア初演) の成功ののち、同年にマドリードにある劇場の音楽監督に就任しました。1827年7月にリスボンに、1829年初めにカディスに移り、1830年にイタリアに戻りました。

    1837年3月11日にスカラ座で初演された「誓い Il giuramento 」は、メルカダンテのオペラの中でも最高傑作とされています。1838年に炎症により片目の視力を失いました。1840年にナポリ音楽院院長に就任し、1845年から1856年まで音楽院院長との兼任でサン・カルロ劇場音楽監督を務めました。1852年に両シチリア王国宮廷軍楽隊監察官に任命されました。1861年にイタリア王国が成立すると、音楽院からの要望によりサン・カルロ劇場音楽監督に再任されました。1862年に発症した脳卒中により、全盲となりました。視力を失いながらも音楽院では院長の地位にとどまり、学生に新作を口述筆記させることを通して作曲を教え、完成した最後のオペラである「ヴィルジニア Virginia 」(1866年4月7日にナポリで初演) も成功を収めました。脳卒中の再発後ほどなくして1870年12月17日にナポリで亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:


    2018-11-13

    150th Death Anniversary of Gioachino Rossini

    Gioachino Rossini (Italy, 1792 - 1868) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Otello; Act 3, Scene 1, No. 10b. Assisa a piè d'un salice

    今日はイタリアの作曲家、ジョアキーノ・ロッシーニ没後150年の命日です。今回はロッシーニ作曲のオペラ「オテロ」より「柳の下に腰をおろして (柳の歌)」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第17曲として収録されています。