2021-04-27

150th Death Anniversary of Sigismond Thalberg

Sigismond Thalberg (Switzerland/Austria, 1812 - 1871) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - La partenza: “Non so frenare il pianto”. Andante (E major).

今日はスイス出身の作曲家・ピアノ奏者、ジーギスムント・タールベルク (シジスモン・タールベルク) 没後150年の命日です。今回はタールベルク作曲、歌曲「別れ」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第51曲 La partenza として収録されています。この曲はタールベルク自身によっても「出発 Le départ. Romance en forme d'étude, Op. 55 」としてピアノ独奏のために編曲されました。詞はピエトロ・メタスタージオ (Pietro Metastasio, 1698 - 1782) によるオペラ台本「デメートリオ Demetrio 」第2幕のアルチェステ (Alceste) のアリア「僕は涙を抑えられない」を使っています。

ジーギスムント・タールベルクは1812年1月8日にジュネーヴ近郊のパキ (Pâquis) で生まれました。オーストリアの貴族であるモーリツ・フォン・ディートリヒシュタイン伯爵 (Moritz von Dietrichstein, 1775 - 1864) とヴェツラー男爵夫人 (Baronin Wetzlar) の私生児だと古くから伝えられてきましたが、出生証明書 (Geburtsurkunde) によると両親はフランクフルト・アム・マインの人で、ヨーゼフ・タールベルク (Joseph Thalberg) とフォルテュネ・シュタイン (Fortunée Stein) とされています。10歳で移ったヴィーンで宮廷歌劇場首席ファゴット奏者のアウグスト・ミターク (August Mittag) に学び、次いでジーモン・ゼヒター (Simon Sechter, 1788 - 1867) に音楽理論を、ヨハン・ネポムク・フンメル (Johann Nepomuk Hummel, 1778 - 1837) にピアノを師事し、1830年から1835年にかけて、パリヨハン・ペーター・ピクシス (Johann Peter Pixis, 1788 - 1874) とフリードリヒ・カルクブレンナー (Friedrich Wilhelm Kalkbrenner, 1785 - 1849) に、ロンドンイグナツ・モシェレス (Ignaz Moscheles, 1794 - 1870) にピアノを師事しました。

1836年にはパリで成功を収め、彼の作品の評価をめぐるフランツ・リスト (Franz Liszt, 1811 - 1886) とフランソワ=ジョゼフ・フェティス (François-Joseph Fétis, 1784 - 1871) の誌上での論争、クリスティーナ・ベルジョジョーゾ公爵夫人 (Cristina Trivulzio Belgiojoso, 1808 - 1871) のサロンにおける1837年3月31日のリストとの競演などもあって、タールベルクの名声は高まっていきました。その後リストとは和解し、タールベルク、リストのほか、ヨハン・ペーター・ピクシス、アンリ・エルツ (Henri Herz, 1803 - 1888)、カール・チェルニー (Carl Czerny, 1791 - 1857)、フレデリク・ショパン (Frédéric Chopin, 1810 - 1849) が各変奏を担当して作曲した「ヘクサメロン Hexaméron 」が1839年に出版されました。ヴィンチェンツォ・ベッリーニ (Vincenzo Bellini, 1801 - 1835) の歌劇「清教徒 I puritani 」の「ラッパを吹きならせ Suoni la tromba 」の主題による変奏曲です。

1844年にルイージ・ラブラーシュ (Luigi Lablache, 1794 - 1858) の娘チェッキーナ (Francesca "Cecchina" Lablache) と結婚しました。1855年にブラジルハバナまで渡り、演奏家、教師、オペラ企画者としてその後数年を米国で暮らしました。1858年に両シチリア王国 (1861年以降はイタリア王国) のナポリ近郊にあるポジッリポ (Posillipo) に邸宅を購入しました。それから5年間は演奏旅行を続け、引退してからポジッリポでワイン醸造家となりました。1871年4月27日に同地で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:


2021-04-24

300th Birth Anniversary of Johann Philipp Kirnberger

Johann Philipp Kirnberger (Germany, 1721 - 1783) - Prelude in E minor, EngK 17. Edited by Nikolay Kuvshinnikov (Николай Николаевич Кувшинников, 1888 - 1970).

今日はドイツの作曲家・ヴァイオリン奏者・鍵盤楽器奏者・音楽理論家、ヨハン・フィーリプ・キルンベルガー生誕300年の受洗日です。 今回はキルンベルガー作曲「前奏曲 ホ短調 EngK 17」を弾きました。 楽譜はニコライ・クフシンニコフ校訂の Педагогический репертуар для фортепиано. ДМШ. 5 класс. No. 15 (Moscow: Muzgiz, 1952. Plate М. 22834 Г.) に収録されているものを使用しました。

ヨハン・フィーリプ・キルンベルガーは神聖ローマ帝国ザクセン=ザールフェルト公国 (Herzogtum Sachsen-Saalfeld) の首都ザールフェルト (Saalfeld) に生まれ、1721年4月24日に受洗しました。幼少期からヴァイオリンとチェンバロを習い、コーブルクのギムナジウムで学びました。グレーフェンローダヨハン・ペーター・ケルナー (Johann Peter Kellner, 1705 - 1772) にオルガンを、次いで1738年からゾンダースハウゼンシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国宮廷音楽家のマイル (Meil) にヴァイオリンを、ハインリヒ・ニコラウス・ゲルバー (Heinrich Nikolaus Gerber, 1702 - 1775) にオルガンを師事しました。フリードリヒ・ヴィルヘルム・マルプルク (Friedrich Wilhelm Marpurg, 1718 - 1795) とエルンスト・ルートヴィヒ・ゲルバー (Ernst Ludwig Gerber, 1746 - 1819) によると、キルンベルガーは1739年にライプツィヒに赴き、それから2年間ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (Johann Sebastian Bach, 1685 - 1750) に作曲とクラヴィーア演奏を師事したということですが、別の史料 (Ausweis seines (fragmentarisch erhaltenen) Stammbuchs) では、1740年秋にゾンダースハウゼンに、1741年1月と同年3月にライプツィヒに、同年6月にドレスデンに滞在した記録が残っています。

1741年6月にポーランドに移り、その後10年間に幾人かのポーランドの貴族に仕え、ルヴフ (リヴィウ) のベネディクト会修道院では音楽監督を務めました。1751年にドイツに戻ると、ドレスデンで短期間ヴァイオリンを学んだのちに、ベルリンプロイセン王立宮廷楽団 (Königliche Hofkapelle zu Berlin) でヴァイオリン奏者となりました。 1758年以降は音楽家でもあるプロイセン王女アンナ・アマーリエ (Anna Amalie von Preußen, 1723 - 1787) に仕え、彼女の音楽の師となりました。1783年7月26日夜または27日にベルリンで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:


2021-04-14

100th Death Anniversary of Oscar Weil

Oscar Weil (USA, 1839 - 1921) - Vignettes. 6 Piano-forte Pieces for Small Hands, Op. 12; No. 6. Humoresque. Allegro (A minor)

今日は米国の作曲家・音楽教師・批評家、オスカー・ワイル没後100年の命日です。今回はワイル作曲「ヴィニェット集、小さな手のための6つのピアノ小品 Op. 12」より第6曲「ユモレスク イ短調」を弾きました。

1839年6月2日にニューヨーク州コロンビア郡リヴィングストン (Livingstone, Columbia County, NY) でドイツ系ユダヤ人の両親の元に生まれたオスカー・ワイルは、州都オールバニの私立学校で学んだのち、ライプツィヒパリに留学しました。南北戦争 (1861-1865) に従軍したのちの1868年にサンフランシスコに移り、サンフランシスコ音楽研究所 (San Francisco Institute of Music) の設立者の一人となりました。サンフランシスコで最初の室内楽演奏会のシリーズを開催し、ブッシュ・ストリート劇場 (Bush Street Theater) 総監督を務めました。1881年にサンフランシスコを離れてボストンに移り、ボストニアンズ (Bostonians) の音楽監督を4年間務めました。1898年にサンフランシスコに戻り、教師をしながら同市を本拠とする新聞アルゴノート (The Argonaut) で音楽批評を書きました。音楽理論と作曲の教え子にアルバート・エルカス (Albert Elkus, 1884 - 1962) がいます。1921年4月14日にサンフランシスコで亡くなりました。

出典:

  • Grove Music Online. Retrieved 2021-04-11.
  • Boyd, Charles N., ed. (1920). “Weil, Oscar”. Grove's Dictionary of music and musicians : American supplement. Philadelphia: Theodore Presser Co. page 42. Retrieved 2021-04-11.

2021-04-07

300th Birth Anniversary of Matthias Vanden Gheyn

Matthias Vanden Gheyn (Belgium, 1721 - 1785) - 4 Morceaux fugués; Morceau fugué No. 1. Allegro (G minor)

今日はベルギーの作曲家・オルガン奏者・カリヨン奏者・釣鐘鋳造師マティアス・ファンデン・ヘイン生誕300年の誕生日です。今回はファンデン・ヘイン作曲「4つのフーガ小品」より第1番 ト短調を弾きました。

ファンデン・ヘイン家 (Vanden Ghein ; Van den Ghein) は、16世紀から20世紀前半まで続くフランデレン地域の釣鐘鋳造師・カリヨン製作者・カリヨン奏者の一族です。1721年4月7日にオーストリア領ネーデルラントティーネン (Tienen) で生まれたマティアス・ファンデン・ヘインは、1727年に家族とともにルーヴェン (Leuven) に移り、1741年から同地の聖ペトロ教会 (Sint-Pieterskerk) のオルガン奏者を、1745年から同地の市カリヨン奏者を務めました。作曲家としては鍵盤楽器やカリヨンのための作品があり、その厳格な構成とトッカータ風の様式から「カリヨンのバッハ Bach van de beiaard ; Bach of the Carillon 」の異名で知られています。師と考えられているのは前任の聖ペトロ教会オルガン奏者 (1726-1741) であるデュドネ・ライク (Dieudonné Raick, 1703 - 1764) です。弟のアンドレアス・ヨゼフ・ファンデン・ヘイン (Andreas Jozef Vanden Gheyn, 1727 - 1793) は釣鐘鋳造師として一族の中でも高く評価されています。

出典: Grove Music Online. Retrieved 2021-04-05.


2021-04-03

200th Birth Anniversary of Louis Lewandowski

Louis Lewandowski (Poland/Germany, 1821 - 1894) - Synagogen-Melodieen für Harmonium (Orgel oder Klavier), Op. 47 (Berlin: Carl Simon, 1895); No. 5. Sündenbekenntnis (Onu towau). Versöhnungstag. Molto lento (D major)

今日はプロイセン王国ポズナン大公国出身のドイツの作曲家・合唱指揮者、ルイ・レヴァンドフスキ生誕200年の誕生日です。生年については1823年とする資料もあります。今回はレヴァンドフスキ作曲、ハルモニウム (またはオルガン、ピアノ) のための「シナゴーグ旋律集 Op. 47」より第5曲「罪の告白、贖罪の日 ニ長調」を弾きました。

ルイ・レヴァンドフスキはポーランド系ユダヤ人として1821年4月3日にヴレシェン (Wreschen. ヴジェシニャ Września) で生まれました。ベルリンでアドルフ・ベルンハルト・マルクス (Adolf Bernhard Marx, 1795 - 1866) に師事したのち、同地の王立プロイセン芸術アカデミー (Königlich Preussische Akademie der Künste) の作曲学校でカール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲン (Carl Friedrich Rungenhagen, 1778 - 1851) とアウグスト・ヴィルヘルム・バッハ (August Wilhelm Bach, 1796 - 1869) とエドゥアルト・グレル (Eduard Grell, 1800 - 1886) に師事しました。同校への入学を認められたのはユダヤ人としては初めてということです。1840年からベルリンのシナゴーグの音楽監督を務めました。1866年に王室音楽監督 (Königlicher Musikdirektor) の称号を得て、同年竣工したベルリンの新シナゴーグ (Neue Synagoge) の音楽監督に任命されました。1894年2月3日にベルリンで亡くなりました。

出典:

  • Singer, Isidore; Sohn, Joseph (1904). “Lewandowski, Louis”. The Jewish Encyclopedia. 8. New York: Funk and Wagnalls. page 66. Retrieved 2021-04-01.
  • Louis Lewandowski”. Encyclopaedia Britannica. 2021-01-31. Retrieved 2021-04-01.