2023-12-29

200th Death Anniversary of Daniel Steibelt

Daniel Steibelt (Germany/France/Russia, 1765 - 1823) - Exercice No. 4. Allegro in A minor. Méthode de piano ou l'art d'enseigner cet instrument (Paris: Imbault, 1805). page 138.

ドイツ出身の作曲家・ピアノ奏者、ダニエル・シュタイベルト没後200年 (グレゴリオ暦1823年10月2日没) ということで、シュタイベルト著「ピアノ教程またはピアノ教授法」に収録された「エチュード集とエグゼルシス集 Études and exercices (8つのエグゼルシス)」よりエグゼルシス第4番 イ短調を弾きました。

ダニエル・シュタイベルトは1765年10月22日に神聖ローマ帝国プロイセン王国の首都ベルリンで、プロイセン陸軍将校で後にピアノ・チェンバロ製作者となる父と、フランスから亡命したユグノーの家庭出身の母の間に生まれました。プロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム (後のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世) の後援で、ベルリンのヨハン・フィーリプ・キルンベルガー (Johann Philipp Kirnberger, 1721 - 1783) に師事することとなり、1782年には最初の出版作品である8小節の歌曲が歌曲集の一曲として出版されました。父からプロイセン軍への入隊を強いられたために1784年にプロイセン国外に逃れ、しばらく旅をしながらピアノ奏者として暮らしました。

1788年にはミュンヒェンで「ソナタ集 Opp. 1-4」を出版。1789年にはザクセンハノーファーで演奏会を開き、1790年にはパリの永住権を得てます。フランス宮廷におけるヨハン・ダーヴィト・ヘルマン (Johann David Hermann, 1764 - 1852) との作曲勝負では、ヘルマンとシュタイベルトがそれぞれ変ロ長調のアレグロの楽曲を作曲しており、それらを2つの楽章としたフランス王妃マリー・アントワネットのためのソナタ「ラ・コケット La coquette 」が後に出版されています。この勝負の存在によりシュタイベルトがフランス革命前 (1789年以前) にはパリを訪れたことがあると考えられています。1793年に、パトロンでもあるジョゼフ=アレクサンドル・ド・セギュール (Joseph-Alexandre de Ségur, 1756 - 1805) の台本に付曲したオペラ「ロメオとジュリエット Roméo et Juliette 」が、パリのフェドー劇場 (Théâtre Feydeau) で初演されました。このオペラの成功により、シュタイベルトは作曲家・音楽教師としての名声を得ました。その後の15年間をパリとロンドンを拠点に活動し、ヨーロッパの主な首都のほとんどを演奏旅行で巡りました。1798年3月19日にロンドンでピアノ協奏曲第3番 ホ長調「嵐」 (嵐の模倣を序奏とするロンド・パストラルを第3楽章に持つ) を演奏。ロンドンでキャサリン (Catharine) という名のイングランド人ピアノ奏者・タンブラン奏者と結婚し、結婚後は自作の多くにタンブランやトライアングルのパートを加えました。1799年後半から1年間の演奏旅行ではハンブルクドレスデンプラハ、ベルリン、ヴィーンを訪問。ヴィーンのモーリツ・フォン・フリース伯爵 (Moritz von Fries, 1777 - 1826) 邸でのルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827) との有名なピアノ演奏技能勝負はフェルディナント・リース (Ferdinand Ries, 1784 - 1838) 著『ベートーヴェンに関する伝記的覚え書 Biographische Notizen über Ludwig van Beethoven 』(Koblenz: Bädeker, 1838) に書かれています。1800年8月にはパリに戻り、同年12月24日にオペラ座にてフランス第一執政ナポレオン・ボナパルト (Napoléon Bonaparte, 1769 - 1821) の御前でヨーゼフ・ハイドン (Joseph Haydn, 1732 - 1809) 作曲セギュール訳「天地創造 Die Schöpfung 」を上演、1802年3月3日にはオペラ座でバレエ「ゼピュロスの帰還 Le retour de Zephyr 」を上演し、いずれも成功しました。1805年に「ピアノ教程またはピアノ教授法」を出版。

1808年秋に、増えすぎた債務による投獄から逃れるようにパリを離れ、フランクフルト・アム・マインライプツィヒ、ブレスラウ (ヴロツワフ)、ワルシャワ、ヴィルナ (ヴィリニュス、この地ではポーランド語訳のハイドン「天地創造」を指揮)、リガを巡って、1809年春に終焉の地となるサンクトペテルブルクに到着しました。1810年頃にフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー (François-Adrien Boieldieu, 1775 - 1834) の後任として同地のフランス・オペラ座の監督に就任。1812年にフランス皇帝となったナポレオン1世 (Napoléon Ier) 率いるフランス軍がモスクワを占領すると、ロシア国家に献げられたピアノのための幻想曲「モスクワ大火 L'incendie de Moscou 」を作曲しました。1820年3月16日に合唱を伴うバッカナール風ロンドを終楽章に持つピアノ協奏曲第8番を初演。痛みのある病に冒され、1823年10月2日 (ユリウス暦9月20日) にペテルブルクで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2023-12-28

Pere Astort - Coquette. Habanera in F major

T. Stropdorea, pseudonym of Pere Astort i Ribas (Pedro Astort Ribas. Spain/Catalonia, 1872 - 1925) - Les petits pierrots. 5 Danses faciles pour piano; No. 2. Coquette. Habanera (F major).

スペイン・カタルーニャの作曲家・ピアノ奏者であるペラ・アストルト (ペドロ・アストルト) 作曲「小さなピエロたち、ピアノのための5つの易しい舞曲」より第2曲「コケット、ハバネラ ヘ長調」を弾きました。楽譜はT・ストロプドレア (T. Stropdorea) という変名で出版されています。ほかにも英語風のクリフトン・ワーズリー (Clifton Worsley) という変名でも知られています。当初は生誕150年の記念にと思い選曲したのですが、後述するように1873年9月24日生まれ (Farré) ではなく出生登録簿に基づく1872年9月24日生まれが正しいようです。

ペラ・アストルトは1872年9月24日にスペイン王国カタルーニャ州バルセロナで生まれました (バルセロナ市出生登録簿 «Registre naixements. Any 1872. Registre núm.4586». arxiu municipal contemporani de barcelona. 1872-09-24)。バルセロナのラ・メルセ教会 (Basílica de la Mercè) の聖歌隊学校で音楽を学び、それからピアノを学びました。音楽出版者・楽譜商のラファエル・グアルディア (Rafael Guardia i Granell) の店舗カン・グアルディア (Can Guardia. 後にカザ・ベートーヴェン Casa Beethoven と改称) で働き、1895年にグアルディアの義理の姉妹であるメルセ・グレザ (Mercè Gresa) と結婚しました。

1899年、アストルトはクリフトン・ワーズリーの名義で「ボストン・ワルツ Boston-Waltz」(To Charles Test Dalton. Barcelona: Rafael Guardia) を出版しました。この出版に関しては次のような逸話が残されてます。ボストン・ワルツの出版の前のこと、米国の音楽家チャールズ・ダントン (Charles Danton) がカン・グアルディアを訪れたときに店員のアストルトがピアノを弾いていて、それを聴いたダントンが「ボストンで流行していたワルツのように聞こえる」と言い、アストルトに米国風の名を名乗るよう勧めたということです。被献呈者とダントンの名が似ていますが、これは同一人物でダントン (Danton) はダルトン (Dalton) の誤りなのかもしれません。

作曲家としてはピアノのための数多くの舞曲のほか、歌曲、オペレッタを作曲しています。1925年3月13日にバルセロナで亡くなりました。

出典: Farré, Martí. “The enigma of Clifton Worsley, pioneer of jazz in Barcelona”. Barcelona Metròpolis. Retrieved 2023-12-27.

2023-12-27

150th Birth Anniversary of Maurice Blazy

Maurice Blazy (France, 1873 - 1933) - 3 Préludes pour orgue ou harmonium; No. 1. Andante (A minor). À Mademoiselle Jeanne Montjovet.

フランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、モーリス・ブラジ生誕150年ということで、ブラジ作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「3つの前奏曲」より第1番 イ短調を弾きました。曲集の楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第4巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1914) の35-38頁に収録されています。

モーリス・ブラジは1873年9月16日にフランス共和国セーヌ県シャティヨン (Châtillon) で生まれました。幼少期に視力を失い、国立パリ青少年盲学校 (Institution Nationale des Jeunes Aveugles de Paris) で、ジュリアン・エリ (Julien Héry) にソルフェージュと和声法を、ジャック・ブレ (Jacques Brès) にヴァイオリンを、ヴィクトル・ポール (Victor Paul) にピアノと和声法を、アドルフ・マルティ (Adolphe Marty, 1865 - 1942) にオルガンと対位法とフーガと作曲法を師事しました。同校では学友のルイ・ヴィエルヌ (Louis Vierne, 1870 - 1937) からも助言やレッスンを受けました。

盲学校卒業後、1894年または1895年に母校である同校のピアノ教師 (ヴィクトル・ポールの後任) となり、サン=メダール教会 (Église Saint-Médard de Paris) オルガン奏者を経て、1901年にパリのサン=ピエール・ド・モンルージュ教会 (Église Saint-Pierre de Montrouge) オルガン奏者に就任しました。1908年に視覚障害者支援組織であるヴァランタン・アユイ協会 (Association Valentin Haüy) 理事に就任。また、同協会の点字楽譜図書館の責任者を務め、点字印刷機の開発に取り組みました。 雑誌「ル・ヴァランタン・アユイ Le Valentin Haüy 」の音楽批評の執筆や、雑誌「ラ・ルヴュ・ブライユ La revue braille 」の編集者としても活動しました。1933年12月21日の昼過ぎにヴァランタン・アユイ協会の近くの歩道にいたところを後退する貨物自動車に轢かれ、病院に搬送されたのちに自身の希望でパリの自宅に戻り、その日のうちに亡くなりました。

盲学校での教え子にジャン・ラングレー (Jean Langlais, 1907 - 1991) がおり、ラングレーはブラジの死後の1934年に後任としてサン=ピエール・ド・モンルージュ教会オルガン奏者を引き継ぎました。

出典:

2023-12-26

150th Birth Anniversary of Hubert Cuypers

Hubert Cuypers (Netherlands, 1873 - 1960) - Méditation I pour orgue ou harmonium. Andante con moto (F major). À Monsieur l'Abbé Joseph Joubert, Sympathique hommage.

今日はオランダの作曲家・オルガン奏者・指揮者、ヒューベルト・カイペルス生誕150年の誕生日です。今回はカイペルス作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「瞑想曲第1番 ヘ長調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第3巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912) の35-36頁に収録されており、この曲集の編纂者であるジョゼフ・ジュベール (Joseph Joubert, 1878 - 1963) に献呈されています。

ヒューベルト・カイペルスは1873年12月26日にオランダ王国リンブルフ州バークセム (Baexem) で生まれました。父のフランス・カイペルス (Frans Cuypers, 1833 - 1886) から音楽の手ほどきを受けたのち、14歳のときにドイツ帝国アーヘンアーヘン大聖堂少年聖歌隊員となり、同地の聖グレゴリウス=ハウス教会音楽学校 (Kirchenmusikschule St. Gregorius-Haus) でフランツ・ネーケス (Franz Nekes, 1844 - 1914) に教会音楽を学びました。

1891年にアムステルダムの聖アルフォンシュス合唱団 (Sint Alphonsuskoor Amsterdam) オルガン奏者兼監督に就任。また、アムステルダムではのちにスコラ・カントルム (Schola cantorum) と改称されたアムステルダム芸術協会 (Amsterdamse Kunstkring) を設立し、ベルナルド・ズヴェールス (Bernard Zweers, 1854 - 1924) に和声法と作曲法を師事しました。1897年にアンナ・マチルダ・フックス (Anna Mathilda Fuchs) と結婚。1904年にアムステルダムの合唱団アルティー・エト・レリギオーニー (Arti et Religioni) とユトレヒト・パレストリーナ合唱団 (Utrechtsch Palestrinakoor) の指揮者に就任。1924年から1954年までアムステルダムの聖アグネス教会 (Sint-Agneskerk in Amsterdam) 指揮者を務めました。1960年2月22日にアムステルダムで亡くなりました (満86歳)。

出典:

  • Hubert Cuypers”. Onze Musici (2nd edition). 1911. Rotterdam: Nijgh & Van Ditmar. page 50.
  • Hubert Cuypers”. Onze Musici (3rd edition). 1923. Rotterdam: Nijgh & Van Ditmar. page 34.
  • Hubert Cuypers”. Muziekencyclopedie. Nederlands Instituut voor Beeld en Geluid. Retrieved 2023-12-25.

2023-12-25

100th Death Anniversary of Richard Barth

Richard Barth (Germany, 1850 - 1923) - 5 Klavierstücke, Op. 13 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1896); No. 4. Ein Gedenkblatt (Commémoration, Commemoration). Leicht bewegt, frei vorzutragen (A flat major).

今日はドイツの作曲家・ヴァイオリン奏者・指揮者、リヒャルト・バルト没後100年の命日です。今回はバルト作曲「5つのピアノ小品 Op. 13」より第4曲「思い出の一葉 変イ長調」を弾きました。

リヒャルト・バルトは1850年6月5日にプロイセン王国ザクセン州グロース・ヴァンツレーベン (Groß Wanzleben. 現在のヴァンツレーベン=ベルデ Wanzleben-Börde) で、磁器絵付師・磁器工場主のヨハン・ローレンツ・バルト (Johann Lorenz Barth, 1822 - 1887) とアウグステ・テレーゼ・バルト (Auguste Therese Barth) の子として生まれました。

1856年からマクデブルクのコンツェルトマイスターであるフランツ・ベック (Franz Beck) に、1863年から1867年までハノーファーヨーゼフ・ヨアヒム (Joseph Joachim, 1831 - 1907) にヴァイオリンを師事しました。幼少期の事故のために、右手で押弦し左手で運弓するという、通常とは左右の役割を入れ替えた奏法の演奏家となりました。1867年にユリウス・オットー・グリム (Julius Otto Grimm, 1827 - 1903) によりミュンスターに招かれ、1882年にはクレーフェルト、次いでマールブルクと、ドイツ各地で弦楽四重奏団の第一奏者や管弦楽団の指揮者に招聘されました。マールブルクでは1887年から1894年までフィーリプ大学マールブルクの音楽監督 (Musikdirektor) も務め、ヨハネス・ブラームス (Johannes Brahms, 1833 - 1897) とその友人らによるサークルに参加しました。

1895年に、ユリウス・フォン・ベルヌート (Julius von Bernuth, 1830 - 1902) の後任としてハンブルク・フィルハーモニカー (Philharmoniker Hamburg) とハンブルク・ジングアカデミー (Hamburger Singakademie) の音楽監督に就任。1904年に「ヨハネス・ブラームスとその音楽 Johannes Brahms und seine Musik」(Hamburg: Otto Meißners Verlag, 1904) を出版。1908年にハンブルクのクレーア音楽院 (Klaer'sches Konservatorium in Hamburg-Blankenese. 現在のハンブルク音楽院) 院長に就任。同じく1908年にフィーリプ大学マールブルクより名誉博士号 (Doctor philosophiae honoris causa) を授与されました。1913年までハンブルク教員合唱団 (Hamburger Lehrer-Gesangverein) を率いてしばしば演奏旅行をしました。1923年12月25日にマクデブルクで亡くなりました。

出典:

  • Bollert, Werner (1953). “Barth, Richard”. Neue Deutsche Biographie 1. page 606.
  • Jones, Gaynor G.; Fifield, Christopher (2001). “Barth, Richard”. Grove Music Online. Retrieved 2023-12-23.

2023-12-24

250th Birth Anniversary of Joseph Woelfl

Joseph Woelfl (Austria/England, 1773 - 1812) - 12 Walses pour piano forte; Waltz No. 6 in C minor.

今日はオーストリア出身の英国の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、ヨーゼフ・ヴェルフル生誕250年の誕生日です。今回はヴェルフル作曲「ピアノフォルテのための12のワルツ」より第6番 ハ短調を弾きました。

ヨーゼフ・ヴェルフルは1773年12月24日に、ザルツブルク大司教領の行政法曹 (Verwaltungsjurist) のヨハン・パウル・ヴェルフル (Johann Paul Wölfl) とテレジア (Theresia, verwitwete von Sechzern, geb. von Preysing) の子として、神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領の首都ザルツブルクで生まれました。 ヴェルフル家と親交のあったザルツブルク宮廷音楽家のレオポルト・モーツァルト (Leopold Mozart, 1719 - 1787) におそらく楽才を認められ、レオポルトとその娘のマリア・アンナ・モーツァルト (Maria Anna (genannt „Nannerl“) Mozart, 1751 - 1829) の教え子となり、7歳のときにはザルツブルクでヴァイオリン協奏曲を公開演奏しました。1783年から1786年までザルツブルク大聖堂少年聖歌隊員となり、聖歌隊員としてレオポルト・モーツァルトとミヒャエル・ハイドン (Michael Haydn, 1737 - 1806) から指導を受けるようになりました。1790年に父のすすめでヴィーンに赴きました。レオポルトの子ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart, 1756 - 1791) に師事するための移住でしたが、実際にヴェルフルとW・A・モーツァルトの間にどの程度の親交があったのかはよく分かっていません。

ミハウ・カジミェシュ・オギニスキ (Michaƚ Kazimierz Ogiński, 1730 - 1800) に仕え (一説によるとW・A・モーツァルトの推薦)、1791年または1792年にスウォニム (Słonim. 現ベラルーシ領スロニム Slonim) の楽長に就任。1792年にはピアノ奏者としてワルシャワでデビュー。ワルシャワでは演奏家・ピアノ教師として名声を得ましたが、1795年の第三次ポーランド分割でワルシャワがプロイセン王国領となると、ヴィーンに戻りました。1795年に最初のオペラ「地獄の山 Der Höllenberg」(エマヌエル・シカネーダー Emanuel Schikaneder 台本) を上演。1798年に歌手のテレーゼ・クレム (Therese Klemm) と結婚。1799年にはブルノプラハドレスデンライプツィヒハンブルクベルリンパリを巡る演奏旅行に出発し、各地で好評を博しました。1801年からフランス共和国の首都パリ、1805年5月から英国の首都ロンドンを拠点に活動し、劇音楽、交響曲、室内楽曲、ピアノ曲の作曲家としても高く評価されました。主要な器楽作品としては「3つのピアノソナタ 3 Sonates pour le piano-forte, Op. 6」(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven に献呈)、「ピアノ協奏曲第4番 ト長調『静けさ』Piano Concerto in G major "Le calme", Op. 36」、「交響曲第1番 ト短調 Symphoniy No. 1 in G minor, Op. 40」(ルイジ・ケルビーニ Luigi Cherubini に献呈)、「ノン・プルス・ウルトラ、ピアノのための大ソナタ ヘ長調 Non plus ultra. A Grand Sonata for the Piano Forte in F major, Op. 41」、「50の訓練課題からなるピアノのための実践教本 Practical School for the Piano Forte, consisting of 50 Exercises, Op. 56」があります。1812年5月21日にロンドンで、38歳という若さで急死しました。

教え子に以下の人物がいます。

  • シャルル=フランソワ・デュモンショ (Charles-François Dumonchau, 1775 - 1821)
  • チャールズ・ニート (Charles Neate, 1784 - 1877)
  • チプリアーニ・ポッター (Cipriani Potter, 1792 - 1871)

    出典:

  • 2023-12-19

    200th Death Anniversary of Nicolas-Joseph Hüllmandel

    Nicolas-Joseph Hüllmandel (Alsece/France, 1756 - 1823) - 3 Sonates pour le piano forte ou le clavecin avec accompagnement d'un violon ad libitum, Op. 10 (1788); Sonata No. 3 (G minor); II. Tempo di Minuetto (G minor).

    今日はアルザス出身のフランスの作曲家・クラヴサン奏者・ピアノ奏者・グラスハーモニカ奏者・音楽教師、ニコラ=ジョゼフ・ヒュルマンデル (ユルマンデル) 没後200年の命日です。今回はヒュルマンデル作曲「任意のヴァイオリン伴奏つきのピアノフォルテまたはクラヴサンのための3つのソナタ Op. 10」の「ソナタ第3番 ト短調」より第2楽章「メヌエットのテンポで ト短調」を弾きました。

    ニコラ=ジョゼフ・ヒュルマンデルは、1756年5月23日にストラスブール大聖堂のヴァイオリン奏者ミシェル・ヒュルマンデル (Michel Hüllmandel) とマリ=アンヌ・ディール (Marie-Anne Diel) の婚外子としてフランス王国アルザス地方ストラスブール (Strasbourg) で生まれました (ストラスブール教区記録簿に Joannes Nicolaus の名で記載)。ニコラ=ジョゼフの義理の母 (父ミシェルの妻) にあたるマリ=アンヌ (Marie-Anne Hüllmandel) は、ヴァイオリン奏者・ホルン奏者のジャン=ジョゼフ・ロドルフ (Jean-Joseph Rodolphe, 1730 - 1812) の姉妹でした。

    ヒュルマンデルが帝国自由都市ハンブルクに滞在していたとする史料はありませんが、1808年にパリでヒュルマンデルに会ったフランソワ=ジョゼフ・フェティス (François-Joseph Fétis, 1784 - 1871) の証言によると、ヒュルマンデルがハンブルク在住のカール・フィーリプ・エマヌエル・バッハ (Carl Philipp Emanuel Bach, 1714 - 1788) に学んでいたとされます。

    ヒュルマンデルは1770年代前半に英国の首都ロンドンで駐英フランス大使アドリアン・ルイ・ド・ボニエール (Adrien Louis de Bonnières, 1735 - 1806) に仕え、1771年から1773年にかけてロンドンで少なくとも6度の公開演奏会に出演してピアノ奏者として協奏曲などを弾きました。「任意のヴァイオリン伴奏を伴うクラヴサンまたはピアノフォルテのための6つのソナタ 6 Sonates, Op. 1」(当時の王太子妃マリー・アントワネット (Marie Antoinette, 1755 - 1793) に献呈) の出版のために、1773年から1774年にかけてパリに滞在していたと考えられています。1775年のイタリア旅行ののち、1776年頃にパリに定住しました。

    パリでは程なく貴族の集うサークルで成功を収め、「クラヴサンまたはピアノフォルテのための小アリア 第1集 (6つのディヴェルティスマン) 1er recueil de petits airs (6 Divertissements), Op. 2」をタレーラン男爵夫人ルイーズ・フィデル・デュラン・ド・サントゥジェーヌ=モンティニ (Louise-Fidèle Durand de Saint Eugène-Montigny, b. 1751) に、「クラヴサンまたはピアノフォルテのための3つのソナタ 3 Sonates, Op. 4」をロンドン時代の主であるギネス公アドリアン・ルイ・ド・ボニエールに献呈しました。画家のエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブラン (Élisabeth-Louise Vigée Le Brun, 1755 - 1842) と経済学者・著述家のアンドレ・モレレ (André Morellet, 1727 - 1819) の回想録には、ヒュルマンデルが彼らの催すサロンにしばしば参加したことが書かれており、とりわけ彼の優れたグラスハーモニカ演奏が賞讃されています。

    1789年にフランス革命が勃発すると、ヒュルマンデルは妻のカミーユ・オロール (Camille Aurore Hüllmandel née Ducazan) を伴ってロンドンに亡命し、当地で演奏家・教師として活動しました。亡命後、作曲家としては「音楽の原理 Principles of Music, chiefly calculated for the Piano Forte or Harpsichord with Progressive Lessons, Op. 12」を除いてオリジナル作品を残しておらず、公開演奏をすることもありませんでした。1823年12月19日にロンドンで亡くなりました。フランス国立中央文書館パリ公証人記録中央保存所にあるヒュルマンデルの死亡診断書にはジョゼフ・ニコラ Joseph Nicolas の名で72歳で死亡したと書かれているため、これを典拠に生年を1851年としている文献もあります。

    子にシャルル・ジョゼフ・ヒュルマンデル (Charles Joseph Hullmandel, 1789 - 1850) とエヴェリーナ・ヒュルマンデル (Evelina Adelaide Charlotte Hullmandel, d. 1839) がいます。シャルル・ジョゼフはリトグラフ技術の発展に寄与した石版画家となり、石版印刷による楽譜出版も手がけました。エヴェリーナは音楽教師となってピアノ編曲「魔弾の射手カドリーユ集 A Set of Quadrilles from Der Freischütz 」(1825)、音楽学習用カードゲーム「音楽の思い出、あるいは子供たちのための新年の贈り物 Musical Souvenir, or a New Year's Gift for Children 」(1827)、ピアノ曲「マリブランの思い出、ディヴェルティメント Souvenirs de Malibran. A Divertimento for the Piano-forte 」(1829) を出版し、1827年に植物水彩画家のヴァレンタイン・バーソロミュー (Valentine Bartholomew, 1799 - 1879) と結婚しました。

    教え子に以下の人物がいます。このうちヴィクトワール・グノーは作曲家シャルル・グノー (Charles Gounod, 1818 - 1893) の母として知られています。

    出典:

    on ad libitum, Op. 10; Sonata No. 3 (G minor); II. Tempo di Minuetto (G minor).

    2023-12-15

    150th Birth Anniversary of Arthur Lieber

    Arthur Lieber (USA, 1873 - 1953) - A Little Song. Andante (G major). To Miss Babette Straus (The Etude. Volume 20 No. 4. Philadelphia: Theodore Presser Company. April 1902. pages 18-19).

    今日は米国の作曲家・ピアノ奏者・オルガン奏者、アーサー・リーバー生誕150年です。今回はリーバー作曲「小さな歌 ト長調」を弾きました。楽譜は音楽雑誌「ジ・エチュード The Etude」第20巻第4号 (1902年4月) 付録楽譜の18-19頁に収録されています。

    アーサー・リーバーは1873年12月15日に米国ケンタッキー州ルイヴィル (Louisville, KY) で生まれました。ルイヴィルとミズーリ州セントルイス (St. Louis, MO) で音楽を学び、教会オルガン奏者 (Central Christian Church, Union Methodist Episcopal Church, Church of the Messiah, Second Baptist Church, United Hebrew Temple)、合唱指揮者 (Apollo Club, Grand-Leader Choral Club, Orpheus Club, University of Washington Glee Club, Schubert Club (East St. Louis))、音楽監督 (Smith Academy, Hosmer Hall)、ピアノとオルガンの教師として活動しました。1953年11月29日にセントルイスで亡くなりました。

    出典:

    • Krohn, Ernst Christopher (1924). “Lieber, Arthur”. A Century Of Missouri Music. Saint Louis: Privately Printed. page 117.
    • Lieber, Arthur, 1873-1953”. LC Name Authority File (LCNAF). The Library of Congress. Retrieved 2023-12-15.

    2023-12-10

    200th Birth Anniversary of Theodor Kirchner

    Fürchtegott Theodor Kirchner (Germany, 1823 - 1903) - Walzer für Klavier, Op. 34 (Leipzig and Winterthur: J. Rieter-Biedermann, 1878). Herrn Geh. Justizrath Dr. Adolf Schubring in Dessau gewidmet; No. 6. Poco lento (B flat minor).

    今日はドイツの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者・音楽教師、テオドール・キルヒナー生誕200年の誕生日です。今回はキルヒナー作曲「ワルツ集 Op. 34」(全7曲) より第6番 変ロ短調を弾きました。曲集はデッサウ出身・在住の司法枢密顧問官 (Geheimer Justizrat)・音楽批評家のアドルフ・シュブリング (Adolf Schubring, 1817 - 1893) に献呈されました。

    テオドール・キルヒナーは1823年12月10日にザクセン王国ケムニッツ近郊にあるノイキルヒェン (Neukirchen/Erzgebirge) で生まれました。幼少から楽才を示し、8歳の頃には熟達したオルガン奏者となっていました。1838年にライプツィヒに移り、ユリウス・クノル (Julius Knorr, 1807 - 1861) にピアノを、カール・フェルディナント・ベッカー (Carl Ferdinand Becker, 1804 - 1877) にオルガンと音楽理論を師事し、フェーリクス・メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn, 1809 - 1847) から助言を受け、ローベルト・シューマン (Robert Schumann, 1810 - 1856) のサークルに参加しました。1842年6月にドレスデンに移り、ヨハン・ゴットロープ・シュナイダー2世 (Johann Gottlob Schneider junior, 1789 - 1864) にオルガンを師事しました。

    最初の出版作品である「10の歌曲 10 Lieder, Op. 1」(Leipzig: F. Whistling, 1842) を出版すると、1843年4月13日の新音楽時報 (Neue Zeitschrift für Musik) 第18巻第30号の記事 "Lieder und Gesänge (Schluß)" (120-121頁) においてこの歌曲集がシューマンに高く評価されました。1843年にライプツィヒに戻り、設立されたばかりのライプツィヒ音楽院 (Conservatorium der Musik) で最初の学生として学びました。メンデルスゾーンの推薦によりスイスヴィンタートゥールのオルガン奏者の職に就き、音楽教師・作曲家としても活動しました。キルヒナーのオルガン演奏はハンス・フォン・ビューロー (Hans von Bülow, 1830 - 1894)、フランツ・リスト (Franz Liszt, 1811 - 1886)、リヒャルト・ヴァーグナー (Richard Wagner, 1813 - 1883) に賞讃され、ヴァーグナーからは「ニーベルングの指環 Der Ring des Nibelungen 」のリハーサルに参加するよう請われました。1862年にチューリヒに移って会員制定期演奏会や合唱団の指揮者を務め、後に聖ペテロ教会 (St. Peter in Zürich) のオルガン奏者に就任しました。この頃にはヨハネス・ブラームス (Johannes Brahms, 1833 - 1897)、クララ・シューマン (Clara Schumann, 1819 - 1896)、ユリウス・シュトックハウゼン (Julius Stockhausen, 1826 - 1906) と友人になっていました。1872年にザクセン=マイニンゲン公国宮廷ピアニストと、ザクセン=マイニンゲン公ゲオルク2世 (Herzog Georg II. von Sachsen-Meiningen, 1826 - 1914) の娘である公女マリー・エリーザベト (Marie Elisabeth von Sachsen-Meiningen, 1853 - 1923) の音楽教師を一年間務めました。 1873年から1875年までヴュルツブルク王立音楽院 (Königliches Musikinstitut in Würzburg) の院長に就任。1875年から1883年までライプツィヒで教師となり、1883年から1890年までドレスデン音楽院で室内楽の教師となりました。ドレスデン音楽院での教え子にパーシー・シャーウッド (Percy Sherwood, 1866 - 1939) がいます。1890年からハンブルクに移り、1903年9月18日に同地で亡くなりました。

    出典:

    2023-12-02

    100th Death Anniversary of Tomás Bretón

    Tomás Bretón Hernández (Spain, 1850 - 1923) - La hamaca y la ola. Danzas para piano (Madrid: Andrés Vidal hijo); No. 1. La hamaca. Americana (D minor). A mi amigo Eduardo Aulés.

    今日はスペインの作曲家・ヴァイオリン奏者・指揮者・音楽教師、トマス・ブレトン没後100年の命日です。今回はブレトン作曲「寝網と波、ピアノのための2つの舞曲」より第1曲「寝網 (ハンモック)、アメリカ舞曲 ニ短調」を弾きました。楽曲はブレトンの友人である劇作家・法律家のエドゥアルド・アウレス (Eduardo Aulés, 1839 - 1913) に献呈されています。

    トマス・ブレトンは1850年12月29日にスペイン王国レオン地方サラマンカ県の県都サラマンカ (Salamanca) で生まれました。1859年から1865年まで生地のサン・エロイ芸術学校 (Escuela de Nobles y Bellas Artes de San Eloy) の音楽科でヴァイオリンを学びました。片親の家庭に育ち、12歳の時点で生地でヴァイオリン演奏を生業としていましたが、1865年に首都マドリードに移り、スペイン各地を訪れてサルスエラやサーカスの楽団で演奏や指揮をしながら、マドリード音楽院 (Real Conservatorio Superior de Música de Madrid) でヴァイオリン、ピアノ、和声法を学んだほか、エミリオ・アリエタ (Emilio Arrieta, 1821 - 1894) に作曲を師事しました。同じくアリエタに学んだルペルト・チャピ (Ruperto Chapí, 1851 - 1909) とともに1872年に音楽院で作曲部門の一等賞を受賞しました。

    1880年に王立サン・フェルナンド芸術アカデミー (Real Academia de Bellas Artes de San Fernando) からの奨学金を得て、ローマヴェネツィアミラノ (1881年)、ヴィーン (1882年)、パリ (1883年) へ留学。帰国後に芸術音楽連合 (Unión Artístico-Musica) を結成し、指揮者として数多くのスペインや諸外国の新作を演奏しました。その後、マドリード音楽院の教師、院長となり、マドリード音楽会協会 (Sociedad de Conciertos de Madrid)、マドリード交響楽団 (Orquesta Sinfónica de Madrid) の指揮者を務めました。1891年には友人のイサーク・アルベニス (Isaac Albéniz, 1860 - 1909) とともにロンドンに渡り、二度のスペイン音楽の演奏会を指揮して成功を収めています。作曲家としてはオペラ「テルエルの恋人たち Los amantes de Teruel 」、オペラ「悲しみ La Dolores 」、サルスエラ「パロマの前夜祭 La verbena de la paloma 」などの劇音楽が知られています。王立サン・フェルナンド芸術アカデミー会員。カルロス三世勲章 (Orden de Carlos III) 十字章 (Cruz) およびアルフォンソ十二世文民勲章 (Orden Civil de Alfonso XII) 大十字章 (Gran Cruz) 受章。1923年12月2日にマドリードで亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:

    2023-11-25

    150th Birth Anniversary of Dirk Schäfer

    Dirk Schäfer (Dietrich Schäfer, Netherlands, 1873 - 1931) - 6 Klavierstukken, Op. 12 (Middelburg: A. A. Noske, 1916); No. 5. Andante grave e sostenuto (E flat minor. Juni 1915, Amsterdam).

    今日はオランダの作曲家・ピアノ奏者、ディルク・シェーフェル生誕150年の誕生日です。 今回はシェーフェル作曲「6つのピアノ小品 Op. 12」より第5曲 変ホ短調 (1915年6月、アムステルダム) を弾きました。 曲集はジャーナリスト・批評家のウィレム・ニコラース・フレデリク・シプマヘル・ゼイネン (Willem Nicolaas Frederik Sibmacher Zijnen, 1859 - 1926) に献呈されています。

    ディルク・シェーフェルは1873年11月25日にオランダ王国ロッテルダムで生まれました。1888年からロッテルダムのトーンクンスト音楽学校 (Toonkunst-muziekschool) でピアノなどを学び、ヨハネス・ヘンドリクス・シケメイエル (Johannes Hendrikus Sikemeier, 1838 - 1920)、テオドール・ヴェルヘイ (Theodoor Verhey, 1848 - 1929)、フリードリヒ・ゲルンスハイム (Friedrich Gernsheim, 1839 - 1916)、リヒャルト・フォン・ペルガー (Richard von Perger, 1854 - 1911) に師事しました。オランダ政府より奨学金を得て、1891年から1894年7月までケルン音楽院 (Conservatorium der Musik in Coeln) でマックス・パウアー (Max Pauer, 1866 - 1945) にピアノを、グスタフ・イェンゼン (Gustav Jensen, 1843 - 1895) に音楽理論を、フランツ・ヴュルナー (Franz Wüllner, 1832 - 1902) に作曲法を師事しました。1894年9月29日にプロイセン政府よりピアノ奏者としてメンデルスゾーン奨学金 (Mendelssohn-Preis) を取得。

    オランダに帰国してデン・ハーグに移り、ドイツ、フランス、オーストリア、ベルギーを巡る多くの演奏旅行を行いました。1904年にアムステルダムに移住。同年にフランクフルト・アム・マインの音楽家祭 (Frankfurt am Main Tonkünstlerfest) で演奏した「ピアノ五重奏曲 Quintett für Pianoforte, 2 Violinen, Viola und Violoncell, Op. 5」(Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1903) が好評を博します。1910年にベルリンでフレッシュ・カーロイ (Flesch Károly, 1873 - 1944) との共演で「ヴァイオリンソナタ第1番 ニ長調 Sonate No. 1 voor Viool en Piano, Op. 4」(Middelburg: Noske, 1901) と「ヴァイオリンソナタ第2番 ヘ長調 Sonate für No. 2 Violine und Pianoforte, Op. 6」(Leipzig: Breitkopf & Härtel, 1904) を演奏。チェロ奏者のジェラール・エキング (Gérard Hekking, 1879 - 1942) ともしばしば共演しました。1913年から1915年にかけて11回の連続演奏会「バードからドビュッシー、シェーンベルクに至るクラヴィーア作品」(Klavierlitteratuur von af Byrd tot en met Debussy en Schönberg) を開催しました。管弦楽のための「ジャワ狂詩曲 Rhapsodie javanaise, Op. 7」(Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1906) と「田園組曲 Suite Pastorale, Op. 8」(Middelburg: Noske, 1908) はアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団により何度も演奏されました。1931年2月16日にアムステルダムで亡くなりました。

    教え子にマルキュス・ヴァン・クレヴェル (Marcus van Crevel, 1890 - 1974) がいます。

    出典:

  • Dirk Schäfer”. Onze Musici (2nd edition). Rotterdam: Nijgh & Van Ditmar. 1911. page 196.
  • Dirk Schäfer”. Onze Musici (3rd edition). Rotterdam: Nijgh & Van Ditmar. 1923. pages 160-162.
  • Grove Music Online. Retrieved 2023-11-12.
  • 2023-11-12

    200th Death Anniversary of Emanuel Aloys Förster

    Emanuel Aloys Förster (Germany/Austria, 1748 - 1823) - 30 Fughetten für die Orgel oder das Klavier, als Fortsetzung der practischen Beispiele zu seiner Anleitung des Generalbasses (Wien: Artaria); No. 23. Fughette G-Dur.

    今日はシュレージエン出身のオーストリアの作曲家・音楽教師、エマヌエル・アロイス・フェルスター没後200年の命日です。今回はフェルスター作曲「通奏低音の手引きの実践例集の続編としてのオルガンまたはクラヴィーアのための30のフゲッタ」より第23番 ト長調を弾きました。

    エマヌエル・アロイス・フェルスターは1748年1月26日に、第一次シュレージエン戦争 (1740-1742) 後にハプスブルク帝国領からプロイセン王国領となっていたシュレージエンのニーダーシュタイネ (Niedersteine. 現在のポーランド領シチナフカ・ドルナ Ścinawka Dolna) で、農場管理人 (Gutsverwalter) アントン・ルートヴィヒ・フェルスター (Anton Ludwig Förster) とアンナ・マリア・フェルスター 旧姓トイバー (Anna Maria Förster, geb. Teuber) の子として生まれました。独学で作曲を始めたのち、フィグラールムジーク (Figuralmusik) のレッスンを受けました。1764年に北ボヘミアのブロウモフ (Broumov) にあるベネディクト会のギムナジウムを卒業すると、管理人の父が勤めていたフェター・フォン・デア・リーリー (Vetter von der Lilie) 伯爵の官房で助手として働きました。1766年から1768年までプロイセン王国のハインリヒ・アウグスト・ド・ラ・モット・フーケ (Heinrich August de la Motte Fouqué, 1698 - 1774) 将軍が率いる歩兵連隊でオーボエ奏者を務めました。1768年からミッテルヴァルデ (Mittelwalde. 現在のポーランド領ミェンジレシェ Międzylesie) に移り、同地でヨハン・ゲオルク・パウゼヴァング (Johann Georg Pausewang, 1738 - 1812) からオルガンと音楽理論のレッスンを受けました。1776年から1779年の間に、プラハでオルガン奏者ヨゼフ・セゲル (Josef Seger, 1716 - 1782) に師事した可能性があります (Müller 2019)。

    1779年からヴィーンに定住し、音楽教師として名声を得て作曲家としても活動しました。ヴィーンでは宮廷楽団への仕官を希望したこともありましたが叶わず、その後の生涯にわたり特定の王侯貴族に仕えることのないフリーランスの音楽家でした。1792年頃からカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー (Karl Alois von Lichnowsky, 1761 - 1814) 侯爵の邸宅に通うようになり、リヒノフスキー侯爵邸での室内楽演奏会のために「6つの弦楽四重奏曲 6 Quatuors pour deux violons, alto et basse, Op. 7」(Offenbach: Johann André, 1794) を作曲しました。また、リヒノフスキー侯爵邸で知り合ったルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827) と親交を深めました。1795年にエレオノーラ・フォン・レツカ (Eleonora von Reczka (Rezka), 1775/1776 - 1852) と結婚。1805年に「通奏低音の手引き Anleitung zum General-Bass 」(Wien: Johann Träg und Sohn, 1805) を出版。その続編として「実践例集 Practische Beyspiele 」と、オルガンまたはクラヴィーアのための「30の前奏曲 30 Praeludien 」(Wien: Artaria) と、前述の「30のフゲッタ 30 Fughetten 」を作曲しています。1805年からアンドレイ・ラズモフスキー (Andrey Razumovsky, 1752 - 1836) 伯爵の邸宅での室内楽演奏会にベートーヴェンとともに参加し、ピアノ奏者としてばかりではなく、ヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者としてシュパンツィク四重奏団 (Schuppanzigh-Quartett) の団員としばしば共演しました。この頃に18曲の弦楽四重奏曲を作曲しています。1808年にヴィーンで出版されたジュゼッペ・カルパーニ (Giuseppe Carpani, 1752-1825) の同一の詞への様々な作曲家の付曲によるオムニバス歌曲集「この暗い墓の中に In questa tomba oscura 」に、一曲のピアノ伴奏独唱歌曲 (第33番) を提供。1823年11月12日にヴィーンで亡くなりました。死後に出版された『祖国芸術家協会 Vaterländischer Künstlerverein 』(Wien: A. Diabelli & Co, 1824) 第2部「アントン・ディアベッリのワルツによる50の変奏曲」に、フェルスター作曲の「カプリッチョ Capriccio. Allegro 」が第8変奏として収録されました。作品に、ピアノソナタなどのピアノ曲、室内楽曲があります。

    子に作曲家・ピアノ奏者のエレオノーラ・フェルスター (Eleonora (Eleonore) Förster, b. 1798)、作曲家・チェロ奏者・ピアノ奏者のヨーゼフ・フェルスター (Joseph Förster, b. 1800)、ピエトロ・ロヴェッリ (Pietro Rovelli, 1793 - 1838) の妻となる作曲家・ピアノ奏者のジャコミーナ・ロヴェッリ=レーデラー旧姓名ミヒャエラ・フェルスター (Giacomina Rovelli-Rederer, geb. Michaela (Michelina) Förster, b. 1802) がいます。

    教え子に以下の人物がおり、このうちニートやポッターはベートーヴェンの紹介により弟子になっています。

    出典:


    2023-11-10

    150th Birth Anniversary of Roderich Bass

    Roderich Bass (Czech/Austria, 1873 - 1933) - Schmeichelkätzchen (Allegretto grazioso. D major. Seinem lieben Schüler Alex. Kummer. Heim-Musik der Sirius-Mappe, 2. Jahrgang, 1. Heft. Wien: Sirius-Verlag, 1932).

    今日はチェコ出身のオーストリアの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、ローデリヒ・バス生誕150年の誕生日です。今回はバス作曲「おねだり上手な子猫ちゃん ニ長調」を弾きました。

    ローデリヒ・バスは1873年11月10日に、教師であるヨーゼフ・バス (Josef Bass) の子としてオーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア王国パルドゥビツェ (Pardubice. パルドゥビツ Pardubitz) で生まれました。1886年から1892年までヴィーン楽友協会音楽院で学び、同院で1886年から1889年までヴィルヘルム・ラウフ (Wilhelm Rauch) に、1889年から1892年までローベルト・フィシュホフ (Robert Fischhof, 1856 - 1918) にピアノを師事しました。また、1891年から1893年まで作曲を学びました。

    音楽院卒業後、ピアノのヴィルトゥオーゾとしてオーストリア、西欧、北欧を巡り演奏旅行をしました。1901年のザルツブルク音楽祭 (Salzburger Musikfest) では独奏者となり、ヴィーン交響楽団チェコ・フィルハーモニー管弦楽団ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の独奏者も務めました。1924年からラーディオ・ヴィーン (Radio Wien) でバスの演奏が放送されました。ピアノ教師としては、個人教授ののち、1917年の秋からフリードリヒ・シュピーグル (Friedrich Spigl, b. 1860) が校長を務めるエドゥアルト・ホーラク音楽学校 (Eduard Horak'sche Musikschule. 現在のフランツ・シューベルト音楽院 Franz Schubert Konservatorium) で、1920年から1933年まで新ヴィーン音楽院 (Neues Wiener Konservatorium) で教えました。1933年5月24日にヴィーンで亡くなりました。

    教え子にマリアンネ・ガングルベルガー (Marianne Ganglberger, 1900-1978)、カール・シスケ (Karl Schiske, 1916 - 1969) がいます。

    出典: Oesterreichisches Musiklexikon online. Retrieved 2023-11-05.

    2023-11-04

    200th Birth Anniversary of Karel Komzák I

    Karel Komzák starší ; Karl Komzák I ; Karl Komsak I (Czech, 1823 - 1893) - Concordia. Polka-Mazurka für das Pianoforte (A major. Praha: Christoph & Kuhé, 1858).

    今日はチェコの作曲家・オルガン奏者・指揮者・バンドマスター、カレル・コムザーク1世 生誕200年の誕生日です。今回はコムザーク作曲「コンコルディア、ポルカ・マズルカ イ長調」を弾きました。楽曲はプラハ民間射撃兵団指揮官のヴィンツェンツ・ホリー (Vincenz Holly) に献呈されています。

    カレル・コムザーク1世は1823年11月4日にオーストリア帝国ボヘミア王国南部の村ネチェホヴィツェ (Netěchovice) で生まれました。コロジェイェ・ナド・ルジュニツィー (Koloděje nad Lužnicí)、下オーストリア大公国ヴァイケルトシュラーク・アン・デア・ターヤ (Weikertschlag an der Thaya)、チェスキー・クルムロフ (Český Krumlov) で学んだのち、1839年から1840年までプラハ・オルガン学校 (Varhanická škola v Praze) で学び、1841年から1842年までプラハの聖インドジフ学校の師範科 (Pedagogický kurz u Sv. Jindřicha v Praze) を修了しました。学生時代にはヴァーツラフ・ヤン・トマーシェク (Václav Jan Tomášek, 1774 - 1850) の支援を受けていました。

    1842年から1847年までコロジェイェで教師・オルガン奏者として活動。1847年から1866年までプラハの精神医学研究所 (現在のカレル大学第一医学部附属精神科診療所 Psychiatrická klinika 1. LF UK a VFN) の事務員兼オルガン奏者、アレクサンドリアの聖カテジナ教会 (Kostel svaté Kateřiny Alexandrijské) オルガン奏者を務め、同時期の1847年から1865年までプラハ民間射撃兵楽隊の楽隊長を務めました。また、1854年には自身の楽団を設立し、1865年までこの楽団を率いました。このコムザーク楽団では若き日のヤン・オンドジーチェク (Jan Ondříček, 1832 - 1900)、アントニーン・ドヴォジャーク (Antonín Dvořák, 1841 - 1904) も団員として参加していました。コムザーク楽団は1862年にプラハの仮劇場で演奏するようになり、1865年には公式の劇場管弦楽団となりました。1865年にコムザークはオーストリア帝国陸軍歩兵連隊の軍楽隊長に就任し、帝国全土で演奏会を行うようになりました。作曲では舞曲、行進曲、組曲、幻想曲などを書き、チェコの民族音楽を好んで使用するなど民族主義的であり、曲名にもそれが表れています。1893年3月19日に生地のネチェホヴィツェで亡くなりました。

    子にカレル・コムザーク2世 (Karel Komzák mladší ; Karl Komzák II, 1850 - 1905)、孫 (カレル2世の子) にカレル・コムザーク3世 (Karl Komzák III, 1878 - 1924) がおり、いずれも作曲家・指揮者として活動しました。

    出典:


    2023-11-01

    150th Birth Anniversary of Charles Quef

    Charles-Paul-Florimond Quef (France, 1873 - 1931) - Prière. Andante sostenuto, Op. 50 No. 4 (C sharp minor. Internationaal Harmonium Album, Vol. II. Amsterdam: Seyffardt's Muziekhandel, 1919).

    今日はフランスの作曲家・オルガン奏者、シャルル・ケフ生誕150年の誕生日です。今回はケフ作曲、ハルモニウムのための「祈り 嬰ハ短調 Op. 50 No. 4」を弾きました。

    シャルル・ケフは1873年11月1日にフランス共和国北部のリールで生まれました。リール音楽院 (Conservatoire de Lille) で学んだのち、パリ音楽院でエルネスト・ギロー (Ernest Guiraud, 1837 - 1892)、テオドール・デュボワ (Théodore Dubois, 1837 - 1924)、シャルル=マリー・ヴィドール (Charles-Marie Widor, 1844 - 1937)、アレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant, 1837 - 1911) に師事しました。1898年に同音楽院のオルガン科と即興演奏科で一等賞を取得し、入学審査員とクラス試験委員に任命されました。バティニョルサント=マリー教会 (Église Sainte-Marie des Batignolles)、パリサン=ローラン教会 (Église Saint-Laurent de Paris) などのオルガン奏者を経て、1901年に師ギルマンの後任としてパリのサント=トリニテ教会 (Église de la Sainte-Trinité de Paris) 大オルガンのオルガン奏者に就任しました。フランスと英国で数多くのオルガン演奏会を開き、作曲家としては、オルガン曲、ハルモニウム曲のほかに管弦楽曲 (フランドル組曲、森にて)、ピアノと管弦楽のための作品 (幻想曲、葬送前奏曲)、室内楽曲などを書いています。1931年7月2日に生地のリールで亡くなりました。

    出典:


    2023-10-06

    150th Death Anniversary of Friedrich Wieck

    Friedrich Wieck (Germany, 1785 - 1873) - Pianoforte-Studien, herausgegeben von Marie Wieck (Leipzig & Berlin: C. F. Peters, 1875); 1. Abschnitt, No. 65. Studie (D flat major).

    今日はドイツの音楽教師・作曲家・音楽著述家・楽器商・興行師、フリードリヒ・ヴィーク没後150年の命日です。今回はヴィーク作曲「ピアノフォルテ練習曲集」第1部より練習曲第65番 変ニ長調を弾きました。この練習曲集はヴィークの死後に、彼の娘の一人、マリー・ヴィーク (Marie Wieck, 1832 - 1916) による校訂で出版されました。

    フリードリヒ・ヴィークは1785年8月18日に神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領プレッチュ (Pretzsch. 現在はバート・シュミーデベルク Bad Schmiedeberg の一部) で、貧しい商人の子として生まれました。1800年から1804年までトルガウのギムナジウムに通い、この頃にヨハン・ペーター・ミルヒマイヤー (Johann Peter Milchmeyer, 1750 - 1813) から無償でピアノのレッスンを受けました。1804年から1808年までヴィッテンベルクで神学を学び、その後はテューリンゲンザクセンで家庭教師として働き、ヨアヒム・ハインリヒ・カンペ (Joachim Heinrich Campe, 1746 - 1818)、アウグスト・ヘルマン・ニーマイヤー (August Hermann Niemeyer, 1754 - 1828) の著作を読んで教育法を習得しました。

    クリスティアン・アドルフ・ゼッケンドルフ (Christian Adolph von Seckendorff, 1767 - 1833) 男爵邸での家庭教師の同僚であるピアノ教師アドルフ・バルギール (Adolf Bargiel, 1783 - 1841) と親しくなったことを契機に1813年か1814年にライプツィヒでピアノ教師として活動を始め、ヨハン・ベルンハルト・ロギーア (Johann Bernhard Logier, 1777 - 1846) のメソッドを基に技術練習と音楽理論の指導を組み合わせた独自の指導法を築きました。1817年にゲオルク・クリスティアン・ゴットホルト・トロムリッツ (Georg Christian Gotthold Tromlitz, 1765 - 1825) の娘であるピアノ奏者・歌手のマリアーネ・トロムリッツ (Mariane Tromlitz, 1797 - 1872) と結婚し、彼女との間にはクララ (Clara Wieck, 1819 - 1896)、アルヴィン (Alwin Wieck, 1821 - 1885) を含む5人の子が生まれました。1818年には妻マリアーネとともに楽器販売 (1840年まで) と音楽貸本 (1835年まで) の事業を始めました。1824年にマリアーネと離婚。マリアーネは離婚の数ヶ月後に前述のアドルフ・バルギールと再婚し、作曲家ヴォルデマール・バルギール (Woldemar Bargiel, 1828 - 1897) の母となります。1828年にヴィークは2番目の妻となるクレメンティーネ・フェヒナー (Clementine Fechner) と再婚し、彼女との間にはマリーを含む3人の子が生まれました。1839年から1840年にかけて、結婚を望む娘クララ、教え子ローベルト・シューマン (Robert Schumann, 1810 - 1856) と、それに反対するヴィークとの間で裁判となりました。結果はヴィークの敗訴となり、二人の結婚は認められることになりました。1840年にドレスデンに移住。ピアノ教師としての活動のほか、音楽批評の執筆や、同地の楽器製作者である甥ヴィルヘルム・ヴィーク (Wilhelm Wieck) の楽器販売に協力することもありました。1873年10月6日にドレスデン近郊のロシュヴィッツ (Loschwitz) で亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典: