2026-02-24

200th Birth Anniversary of Victorine Farrenc

Victorine Louise Farrenc (France, 1826 - 1859) - Romance pour le piano-forte. Andante (E flat major).

昨日はフランスの作曲家・ピアノ奏者、ヴィクトリーヌ・ファランクの生誕200年の誕生日でした。今回はファランク作曲「ピアノのためのロマンス 変ホ長調」を弾きました。楽曲は、グスタフ・シリング (Gustav Schilling, 1805 – 1880) により編纂された様々な作曲家や著述家の作品や弔詞を収めた追悼集「ベートーヴェン・アルバム Beethoven-Album. Ein Gedenkbuch dankbarer Liebe und Verehrung für den grossen Toten, gestiftet und beschrieben von einem Vereine von Künstlern und Kunstfreunden aus Frankreich, England, Italien, Deutschland, Holland, Schweden, Ungarn und Russland 」(Stuttgart: Hallberger-sche Verlahandlung, 1846) の283-285頁に収録されています。

ヴィクトリーヌ・ファランクは1826年2月23日にフランス王国の首都パリで、音楽出版者・フルート奏者・音楽学者のアリスティード・ファランク (Aristide Farrenc, 1794 - 1865) と作曲家・ピアノ奏者・音楽教師のルイーズ・ファランク (Louise Farrenc, née Dumont, 1804 - 1875) の娘として生まれました。5歳半から母ルイーズの指導の下で音楽を学び始め、15歳の頃にはヨハン・ゼバスティアン・バッハの「平均律クラヴィーア曲集」を見事な腕前で演奏しました。1843年の初めにパリ音楽院に入学すると同校でピアノ教授を務めていた母のクラスで学び、翌年の1844年にピアノで一等賞を獲得。卒業後、特にバッハのフーガとベートーヴェンの作品に心を奪われ、熱心に取り組んでいました。1845年のブリュッセルとパリにおける母ルイーズの「交響曲第1番 ハ短調 Op. 32」の演奏会で、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op. 73 (皇帝)」を演奏。1846年には多くの演奏会に出演し、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K. 466」などを演奏しました。これらベートーヴェンの皇帝とモーツァルトの二短調の協奏曲の演奏は高く評価されました。作曲においても母の弟子であり、合唱曲、歌曲、ピアノ曲を残しています。1847年頃に病を得て演奏活動を控えるようになり、1859年1月3日のヴェルサイユにおいて32歳の若さで亡くなりました。

出典:

  • Fétis, François-Joseph (1866-1868). “Farrenc (Victorine-Louise)”. Biographie universelle des musiciens et bibliographie générale de la musique. Volume 3. Paris: Firmin-Didot. page 188.
  • Friedland, Bea (2001). “Farrenc family”. Grove Music Online. Retrieved 2026-02-24.
  • Heitmann, Christin (2001/2016). “Farrenc, Victorine(-Louise)”. MGG Online. Retrieved 2026-02-24.

2026-02-20

150th Birth Anniversary of Théodore Akimenko

Fedir Stepanovych Yakymenko (Федір Степанович Якименко, Фёдор Степанович Акименко, Théodore Akimenko, Ukraine/France, 1876 - 1945) - Album pittoresque. 8 Morceaux pour piano, Op. 59 (St. Petersburg: W. Bessel & Cie.); No. 3. Méditation. Andante sostenuto (F major).

今日はウクライナ出身の作曲家・ピアノ奏者・合唱指揮者、フョードル・ステパーノヴィチ・アキメンコ (フェーディル・ステパーノヴィチ・ヤクィメンコ、テオドール・アキメンコ) 生誕150年の誕生日 (異説あり) です。今回はアキメンコ作曲「ピトレスクなアルバム、ピアノのための8つの小品 Op. 59」より第3曲「瞑想曲 ヘ長調」を弾きました。曲集はロシアの美術家・画家・デザイナーのリュボーフィ・ポポーヴァ (Lyubov Popova, 1889 - 1924) に献呈されています。

フョードル・アキメンコは1876年2月15日 (ユリウス暦2月3日, Алейников 2012) または2月20日 (ユリウス暦2月8日, Baley 2001) にロシア帝国ハリコフ県クーピャンスク・ウエズドペースキ (Peski, 現在のウクライナ領ハルキウ州クープヤンシク・ラヨンのピスクィー Pisky) で生まれました。1886年に弟のヤーコフ・アキメンコ (ヤーキウ・ステポヴィイ, Yakiv Stepovy, 1883 - 1921) とともにサンクトペテルブルクの帝室礼拝堂合唱団 (Императорская придворная певческая капелла) の団員となり、1895年まで同団の音楽学校でピョートル・クラスノクツキー (Pyotr Krasnokutsky, 1849 - 1900) にヴァイオリンを、ゴルブノーフ (A. Ya. Gorbunov) にピアノを、アナトーリー・リャードフ (Anatoly Lyadov, 1855 - 1914) に和声法を師事しました。そのほかにミリイ・バラキレフ (Mily Balakirev, 1837 - 1910) とセルゲイ・リャプノフ (Sergey Lyapunov, 1859 - 1924) にも指導を受け、彼らの影響で作曲を始めました。アレクセイ・ペトローフ (Aleksey Petrov, 1859 - 1919) から和声法と対位法の指導を受けたのち、1895年からペテルブルク音楽院ニコライ・リムスキー=コルサコフ ( Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908)、アナトーリー・リャードフ (Anatoly Lyadov, 1855 - 1914)、ヤーゼプス・ヴィートルス (Jāzeps Vītols, 1863 - 1948) に作曲法を、フランチシェク・チェルニー (František Černý, 1830 - 1900) にピアノを、ルイ・ホーミリウス (Louis Homilius, 1845 - 1908) にオルガンを師事し、1900年に卒業。

1902年まで帝室礼拝堂合唱団で音楽教師を務め、1901年から1902年にかけての冬の3か月間には個人教授でイーゴリ・ストラヴィンスキー (Igor Stravinsky, 1882 - 1971) に和声法と対位法を教えています。また、1900年からベリャーエフ・サークルに所属しており、ロシア交響楽演奏会では自作の管弦楽作品がリムスキー=コルサコフとアレクサンドル・グラズノフ (Aleksandr Glazunov, 1865 - 1936) により指揮されました。1902年から1903年までトビリシロシア音楽協会ティフリス音楽学校 (Тифлисское музыкальное училище Императорского русского музыкального общества) の音楽クラス視学官と校長を務めたのち、1903年から1905年までフランスのニースの正教会で合唱指揮者、その後は1906年まで主にイタリア各地、フランスのパリ、スイスのジュネーヴで作曲家・ピアノ奏者として活動しました。1906年にはアレクサンドル・スクリャービン (Aleksandr Scriabin, 1872 - 1915) からピアノのレッスンを受けています。

1906年から1911年までハリコフでロシア音楽協会ハリコフ音楽学校 (現在のボリス・リャトシンシキー記念ハルキウ音楽専門大学) とハリコフ貴族女子学院 (Харьковский институт благородных девиц) で教師となりました。母校のペトログラード音楽院 (ペテルブルク音楽院から改称) に招聘されて1915年から講師、1916年から上級講師 (старший преподаватель) となり、1919年から1923年まで作曲法と音楽理論の二級教授となりました。1923年にソビエト連邦 (ロシア革命により前年に成立) を離れ亡命。1924年にチェコスロバキアの首都プラハにあるミハイロ・ドラホマーノフ記念ウクライナ高等教育大学 (Ukrajinský vyšší pedagogický institut) の音楽学部長に就任。ピアノ奏者・合唱指揮者としてヨーロッパ各地で演奏活動し、1928年以降はフランスのニースに、次いでパリに移住し、1932年よりセルゲイ・ラフマニノフ記念パリ・ロシア音楽院で副院長兼ピアノ教授に就任。1945年1月8日にパリで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2026-02-18

150th Birth Anniversary of Max Laurischkus

Max Laurischkus (Maksas Lauriškus, Russia/Germany, 1876 - 1929) - Notenbüchlein für musikalische A-B-C-Schützen. 30 Kleine melodische Klavierstückchen von 5, 6 und 7 Tönen in aufsteigender Schwierigkeit, nebst einiger notwendigen Vorübungen zum Gebrauch für den ersten Unterricht, Op. 26 (Berlin: N. Simrock, 1916); No. 28. Max und Moritz. Keck (C major).

今日は東プロイセン出身のドイツの作曲家マックス・ラウリシュクス生誕150年の誕生日です。リトアニア語名のマクサス・ラウリシュクス (Maksas Lauriškus) でも知られています。今回はラウリシュクス作曲「音楽初学者のための小楽譜帳、最初のレッスンに使うために必要な予備訓練課題集つきの、5、6、7音からなる段階的な難度の短く旋律的な30のピアノ小品 Op. 26」より第28曲「マックスとモーリッツ ハ長調」を弾きました。 題名は、ヴィルヘルム・ブッシュ (Wilhelm Busch, 1832 - 1908) 作の同名のドイツ語の絵本『マックスとモーリッツ』(1865) から取られたのでしょう。

マックス・ラウリシュクスは1876年2月18日にドイツ帝国プロイセン王国プロイセン州グンビンネン県のインスターブルク (Insterburg, 現在のロシア領カリーニングラード州チェルニャホーフスク Chernyakhovsk) で生まれました。首都ベルリン王立音楽演劇アカデミー (Königlich Akademische Hochschule für ausübende Tonkunst) でヴォルデマール・バルギール (Woldemar Bargiel, 1827 - 1897)、ラインホルト・ズコ (Reinhold Succo, 1837 - 1897)、ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク (Heinrich von Herzogenberg, 1843 - 1900) に師事。1929年11月17日にベルリンで、53歳で亡くなりました。

出典:

  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1940). “Laurischkus, Max”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (4th edition). New York: G. Schirmer. page 640.
  • 保坂 一夫; 小池 寿子「ブッシュ Wilhelm Busch」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社. コトバンク. Retrieved 2026-02-17.

2026-02-10

150th Death Anniversary of August Söderman

Johan August Söderman (Sweden, 1832 - 1876) - Fantasier à la Almqvist för piano (Stockholm: Elkan & Schildknecht); No. 6. Andakt. Moderato (D minor).

今日はスウェーデンの作曲家・指揮者、ヨハン・アウグスト・セーデルマン没後150年の命日です。今回はセーデルマン作曲「ピアノのためのアルムクヴィスト風幻想曲集」(全8曲、1868年作曲) より第6曲「礼拝 二短調」を弾きました。曲集に付けられた「アルムクヴィスト風」についての詳細は分かりませんでしたが、スウェーデンの著作家であるカール・ヨーナス・ローヴェ・アルムクヴィスト (Carl Jonas Love Almqvist, 1793 - 1866) のことを指すのでしょう。

アウグスト・セーデルマンは1832年7月17日にスウェーデン=ノルウェー連合王国ストックホルムで、同地の劇場の音楽監督を務めていた作曲家・編曲家のヨハン・ヴィルヘルム・セーデルマン (Johan Wilhelm Söderman, 1808 - 1858) の子として生まれました。1847年から1850年までスウェーデン王立音楽アカデミーで、エーリク・ドラーケ (Erik Drake, 1788 - 1870) に和声法を、ヤン・ヴァン・ボーム (Jan van Boom, 1807 - 1872) にピアノを師事しました。そのほかにヴァイオリンとオーボエを独習し、管弦楽団で演奏することもありました。

1851年の秋に、俳優兼劇団主宰者のエドヴァルド・シェルンストロム (Edvard Stjernström, 1816 - 1877) に劇団の音楽監督として雇われました。1852年から1853年にかけて劇団のフィンランド巡業に、同年秋の帰国後にはストックホルム、ノーショーピングヨーテボリでの巡業に随伴し、1854年に新たに劇団の拠点となったストックホルムの小劇場 (Mindre teatern) で引き続き音楽監督として活動しました。シェルンストロムから1年間の休職許可を得て、異母弟のフリッツ・セーデルマン (Fritz Söderman, 1838 - 1883) とともに1856年の夏から1857年の夏にかけてザクセン王国ライプツィヒに渡り、エルンスト・フリードリヒ・リヒター (Ernst Friedrich Richter, 1808 - 1879) に対位法を師事しました。帰国後にシェルンストロムの劇団に復職。1860年7月には王立歌劇場宮廷指揮者ルードヴィグ・ノールマン (Ludvig Norman, 1831 - 1885) の下で合唱指揮者に就任し (1862年秋から1868年春まで副指揮者を兼任)、同職を亡くなる直前まで務めました。1869年の春にジェニー・リンド奨学金 (Jenny Lind-stipendiet) を得て、同年の夏から1870年の秋にかけてコペンハーゲンハンブルクベルリンハノーファードレスデンプラハヴィーンなどを遊学しました。1876年2月10日にストックホルムで、43歳で亡くなりました。

出典:

2025-12-31

150th Death Anniversary of Louise Farrenc

Jeanne-Louise Farrenc, née Dumont (France, 1804 - 1875) - 3 Mélodies pour piano seul, Op. 43 (manuscrit autographe); No. 1. Andante cantabile (D major).

今年の9月15日はフランスの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、ルイーズ・ファランク没後150年の命日でした。今回はファランク作曲「ピアノ独奏のための3つのメロディ Op. 43」より第1曲 ニ長調を弾きました。ニ長調、ヘ長調、変ホ長調のまとまった3曲の手稿譜が残されていますが、このうちのヘ長調のメロディ (第2曲) が出版者である夫により Mélodie pour piano, Op. 43 (Paris: A. Farrenc) として出版されています。

ルイーズ・ファランク(旧姓デュモン)は1804年5月31日にフランス共和国の首都パリで生まれました。15歳からパリ音楽院アントニーン・レイハ (Anton Reicha, 1770 - 1836) に作曲法と管弦楽法を師事しました。1821年に音楽出版者・フルート奏者のアリスティード・ファランク (Aristide Farrenc, 1794 - 1865) と結婚。1825年より初期のピアノ作品の出版を始めました。1840年に批評家のモーリス・ブルジュ (Jean-Maurice Bourges, 1812 - 1881) に絶賛された「全ての長調と短調による30の練習曲 30 Études pour piano dans tous les tons majeurs et mineurs, Op. 26」は1845年にパリ音楽院で全てのピアノクラスにおいて必修の練習曲集として採用されました。1842年から1873年1月1日までパリ音楽院ピアノ教授を務めました。1875年9月15日にパリで亡くなりました。

兄に彫刻家のオーギュスト・デュモン (Auguste Dumont, 1801 - 1884) がいます。アリスティードとの間に生まれた娘のヴィクトリーヌ・ルイーズ・ファランク (Victorine Louise Farrenc, 1826 - 1859) はパリ音楽院で母ルイーズにピアノを師事し、作曲家・ピアノ奏者として活動したものの、32歳の若さで亡くなっています。

出典: Friedland, Bea (2001). “Farrenc family”. Grove Music Online. Retrieved 2025-12-31.

100th Death Anniversary of Oscar Van Durme

Oscar Van Durme (Belgium, 1867 - 1925) - 3 Esquisses funèbres pour orgue ou harmonium. À la R. S. Aglaé des Soeurs de Charité; No. 2. Lamento. Allegro moderato (G minor).

今年の9月9日はベルギーの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、オスカル・ヴァン・デュルメ没後100年の命日でした。今回はヴァン・デュルメ作曲「オルガンまたはハルモニウムのための3つの葬儀の素描」より第2曲「ラメント (哀歌)」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第6巻 (Paris: Maurice Senart & Cie., 1914) の145-150頁に収録されています。

オスカル・ヴァン・デュルメは1867年6月6日にベルギー王国フランデレン地域オースト=フランデレン州エクサールデ (Eksaarde) で、オルガン奏者・指揮者のフェルデイナント・ヴァン・デュルメ (Ferdinand Van Durme, 1835 - 1900) の子として生まれました。1884年にオースト=フランデレン州シントニクラース (Sint-Niklaas) の聖公会師範学校 (Bisschoppelijke Normaalschool) を卒業後、ブラバント州ルーヴェン (Leuven) のレメンス音楽院 (Lemmensinstituut) で父の教え子だったエドハル・ティネル (Edgar Tinel, 1854 - 1912) に師事したほか、ペーテル・ブノワ (Peter Benoit, 1834 - 1901)、ローデウェイク・モルテルマンス (Lodewijk Mortelmans, 1868 - 1952) に作曲法・ピアノ・オルガンを学びました。ナミュール州ボーレン (Beauraing) で音楽学校を設立。オースト=フランデレン州テムセ (Temse) では聖母教会 (Onze-Lieve-Vrouwekerk) オルガン奏者や音楽教師を務めました。1925年9月9日にシントニクラースで亡くなりました。

ヴァン・デュルメ家は音楽家の一族であり、オスカルの弟のプリュデント・ヴァン・デュルメ (Prudent Van Durme, 1878 - 1933)、甥のイェフ・ヴァン・デュルメ (Jef Van Durme, 1907 - 1965) など、一族から多くの音楽家を輩出しました。

出典:

  • Componisten en uitvoerders. Studiecentrum Vlaamse Muziek. Retrieved 2025-09-09.
  • Joubert, Joseph (1914). “Oscar Van DURME”. Notices biographiques et bibliographiques. Maîtres contemporains de l'orgue, pièces inédites pour orgue ou harmonium. page 4.

2025-10-13

150th Birth Anniversary of Lucien Mawet

Lucien Mawet (Belgium, 1875 - 1947) - 4 Postludes à l'Ite missa est; III. In festis Duplicibus II (XIII S.) (8me mode). Assez animé (C major).

今日はベルギーの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、リュシアン・マヴェ生誕150年の誕生日です。今回はマヴェ作曲「イテ・ミサ・エストへの4つの後奏曲」より第3番 ハ長調を弾きました。楽譜は「グレゴリオ聖歌とセシリア作品の主題によるオルガンとハルモニウムの新しい曲集 Nouveau recueil de pièces d'orgue et d'harmonium sur des thèmes de mélodies grégoriennes et d'œuvres céciliennes 」(Paris: H. Hérelle & Cie, 1919) の60-63頁に収録されています。

リュシアン・マヴェは1875年10月13日にベルギー王国ワロン地域リエージュ州ショーフォンテーヌ (Chaudfontaine) で生まれ、リエージュ音楽院で学んだのち、同校の教師となりました。混声合唱団「ア・カペラ・リエジョワ A cappella liégeois 」を設立し、指揮者に就任。また、ユイ聖母協同教会 (Collégiale Notre-Dame de Huy) 合唱指揮者兼オルガン奏者、次いでリエージュ聖小ヤコブ教会 (Église Saint-Jacques-le-Mineur de Liège) オルガン奏者を務めました。作曲家としては歌曲、管弦楽のためのスケルツォ、管楽器と管弦楽のための作品、室内楽曲、オルガン曲、ピアノ曲などを作曲しています。

兄に作曲家・オルガン奏者のフェルナン・マヴェ (Fernand Mawet, 1870 - 1945)、弟に作曲家・チェロ奏者のエミール・マヴェ (Émile Mawet, 1884 - 1967) がいます。

出典:

2025-10-10

200th Death Anniversary of Dmitry Bortnyansky

Dmitry Bortnyansky (Дмитрий Степанович Бортнянский ; Дмитро Степанович Бортнянський, Ukraine/Russia, 1751 - 1825) / Ernst Pauer (Austria/England, 1826 - 1905) - I Pray unto the Power of Mercy. Larghetto (D flat major).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・歌手・指揮者、ドミートリー・ステパーノヴィチ・ボルトニャーンスキー (ドムィトロー・ステパーノヴィチ・ボルトニャーンスィクィイ) 没後200年の命日です。今回はボルトニャンスキー作曲とされる「私は慈悲の力に祈る」の、エルンスト・パウアーによるピアノ独奏編曲を弾きました。楽譜はエルンスト・パウアー編纂「日曜日の音楽 Sonntags-Musik. Eine Sammlung von kurzen Stücken für das Pianoforte aus den berühmtesten Werken der Kirchen- und Instrumental-Musik gewahlt und theilweise bearbeitet 」(Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1878/1879) に第63曲として収録されていますが、原曲の題名は特定できていません。

ドミートリーボルトニャンスキーは1751年にヘーチマン国家の首都フルーヒウ (Hlukhiv) で生まれました。1758年にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで宮廷礼拝堂の少年聖歌隊員となり、オペラに関する訓練を受けて宮廷のオペラで主要な役を演じるようになりました。1765年から1768年までペテルブルクに滞在して宮廷楽長を務めていたバルダッサーレ・ガルッピ (Baldassare Galuppi, 1706 - 1785) に作曲を師事。ガルッピがヴェネツィアに戻ったのちの1769年、皇帝エカチェリーナ2世 (Yekaterina II Alekseyevna, 1729 - 1796) によりヴェネツィアに派遣され、引き続きガルッピに師事しました。イタリア時代に3曲のオペラ・セリアのほか、ローマ・カトリック教会の聖句に基づく作品などを作曲しています。1779年に帰国して宮廷音楽家となり、専属作曲家と宮廷礼拝堂副監督となりました。1796年にスラヴ人作曲家として初めて宮廷礼拝堂総監督に就任。1825年10月10日 (ユリウス暦9月28日) にペテルブルクで亡くなりました。

出典:

2025-10-02

150th Birth Anniversary of Henry Février

Henry Février (France, 1875 - 1957) - Morceau de lecture à première vue (concours du Conservatoire de Paris, élèves hommes), pour piano. Andante (C sharp minor. Album Musica, No. 60. Paris: Pierre Lafitte, 1907).

今日はフランスの作曲家アンリ・フェヴリエ生誕150年の誕生日です。今回はフェヴリエ作曲「(パリ音楽院ピアノ科試験、男子学生用) 初見奏課題曲 嬰ハ短調」を弾きました。

アンリ・フェヴリエは1875年10月2日にフランス共和国の首都パリで、建築家ジュール・フェヴリエ (Jules Février, 1842 - 1937) の子として生まれました。アンドレ・メサジェ (André Messager, 1853 - 1929) の個人レッスンを受け (後にフェヴリエはメサジェの伝記 André Messager: mon maître, mon ami, 1948 を書いています)、1894年にパリ音楽院に入学。音楽院ではラウル・プーニョ (Raoul Pugno, 1852 - 1914) に和声法を、ジュール・マスネ (Jules Massenet, 1842 - 1912)、ガブリエル・フォーレ (Gabriel Fauré, 1845 - 1924)に作曲法を師事しました。フォーレの作曲クラスの学友にはモーリス・ラヴェル (Maurice Ravel, 1875 - 1937)、ラウル・ラパラ (Raoul Laparra, 1876 - 1943)、ジョルジェ・エネスク (George Enescu, 1881 - 1955) がいました。

卒業後、パリのサロンで名が知られるようになると、委嘱を受けてオペラ「盲目の王 Le roi aveugle 」を作曲し、1906年にオペラ=コミック座で上演しました。1909年に、モーリス・メーテルリンク (Maurice Maeterlinck, 1862 - 1949) の戯曲に基づく抒情劇「モナ・ヴァンナ Monna Vanna 」をパリ・オペラ座で上演し、舞台音楽の作曲家としての地位を確立しました。また、ヴァイオリンソナタ (1901)、チェロソナタ (1928) といった室内楽の作曲家としても高く評価され、そのほかに多くの歌曲や「日本の版画 Estampes japonaises 」(1938) などのピアノ曲も作曲しています。1920年代には無声映画のための管弦楽曲を数多く作曲しました。1957年7月8日にパリで亡くなりました。

子にピアノ奏者・音楽教師のジャック・フェヴリエ (Jacques Février, 1900 - 1979) がいます。

出典:

2025-08-09

150th Birth Anniversary of Albert Ketèlbey

Albert William Ketèlbey (England, 1875 - 1959) / Rolf Bender - Zigeuner-Walzer ; Valse tzigane ; Gipsy Waltz. Tempo di Valse moderato (A minor. Mainz: B. Schott's Söhne, 1928).

今日はイングランドの作曲家・オルガン奏者・指揮者、アルバート・ウィリアム・ケテルビー生誕150年の誕生日です。今回はケテルビー作曲、ヴァイオリンとピアノのための「ジプシー・ワルツ イ短調」の、ロルフ・ベンダーによるピアノ独奏編曲を弾きました。編曲者のベンダーについては詳細が分からなかったのですが、ショット社で編曲家として活動した人物のようです。

アルバート・ケテルビーは1875年8月9日に英国イングランドのバーミンガム (Birmingham) 近郊の街アストン (Aston. 現在はバーミンガム市内に含まれる) で生まれました。アルフレッド・ゴール (Alfred Robert Gaul, 1837 - 1913)、ハーバート・ウェアリング (Herbert Wareing, 1857 - 1918) に師事したのち、13歳のときにヴィクトリア女王奨学金 (作曲) を得て、ロンドンのトリニティ・カレッジ・オブ・ミュージックでジョージ・バンブリッジ (George Edmund Bambridge, 1842 - 1916)、ゴードン・ソーンダーズ (Gordon Saunders, 1837 - 1912)、フレデリック・コーダー (Frederick Corder, 1852 - 1932) に師事しました。

16歳でウィンブルドンの聖ジョン教会 (St. John's Church in Wimbledon) オルガン奏者に、22歳でヴォードヴィル劇場 (Vaudeville Theatre) 音楽監督に就任。作曲家としては「ファントム・メロディ The Phantom Melody 」(1912. 原曲はチェロとピアノのための作品)、「修道院の庭にて In a Monastery Garden 」(1915)、「ペルシャの市場にて In a Persian Market 」(1920)、「中国寺院の庭にて In a Chinese Temple Garden 」(1923)、「心の奥深く Sanctuary of the Heart 」(1924)、「エジプトの秘境にて In the Mystic Land of Egypt 」(1931) など、軽音楽の分野の管弦楽曲で人気を博したほか、コミック・オペラや室内楽曲などを書いています。晩年はワイト島で過ごし、1959年11月26日にワイト島北岸のカウズ (Cowes) で亡くなりました。

出典