2026-04-07

200th Birth Anniversary of Hermann Berens

Hermann Johann Berens (Sweden, 1826 - 1880) - 3 Albumblad komponerade för piano, Op. 97 (Stockholm: Abraham Hirsch, 1878). Till vännen Albert Lindstrand; No. 2. Andante espressivo (F minor).

今日はドイツ出身のスウェーデンの作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、ヘルマン・ベーレンス (1世) 生誕200年の誕生日です。今回はベーレンス作曲「ピアノのための3つのアルバムの綴り Op. 97」より第2番 ヘ短調を弾きました。曲集はベーレンスの友人でピアノ奏者のアルベルト・リンドストランド (Albert Lindstrand, 1835 - 1907) に献呈されています。

ヘルマン・ベーレンスは1826年4月7日に自由ハンザ都市ハンブルクで、軍楽監督・フルート奏者・作曲家のカール・ベーレンス (Carl Berens, 1801 - 1857) の子として生まれました。父からピアノの手ほどきを受けたのち、ヴァイオリンとティンパニを学び、2年間ザクセン王国ドレスデンカール・ゴットリープ・ライシガー (Carl Gottlieb Reissiger, 1798 - 1859) に作曲法を師事しました。『ベイカー音楽家人名辞典』第3版によるとカール・チェルニー (Carl Czerny, 1791 - 1857) にも師事しています (Baker 1919)。1845年にアルト歌手のマリエッタ・アルボーニ (Marietta Alboni, 1823 - 1894) のチェコ、ドイツ、ポーランド、ハンガリー、オーストリアをめぐる演奏旅行に伴奏者として同行しました。1847年にスウェーデンに移り、ハンブルクのピアノ五重奏団のピアノ奏者としてストックホルムでデビューしました。 1849年にエレブルー (Örebro) のライフ連隊フサール (Livregementets husarer) 音楽監督に就任。1848年よりヨーハン・ローベルト・ウルリク・ブラウネル中尉 (Johan Robert Ulrik Brauner) の3人の娘の音楽家庭教師をしており、その長姉マティルダ (Hedvig Matilda Berens, född Brauner, 1829 - 1887) と1853年に結婚しました。1860年の秋にストックホルムに戻り、小劇場 (Mindre teatern) 音楽監督に就任し、スウェーデン王立音楽アカデミー教育部門 (現在のストックホルム音楽大学) の対位法、作曲法、楽器法の教師 (1868年に正教授に就任) も務めました。1880年5月9日にストックホルムで、満54歳で亡くなりました。 子に作曲家・歌手・ピアノ奏者・指揮者となったヘルマン・ベーレンス2世 (Herman Berens den yngre, 1862 - 1928) がいます。

出典:

  • Levande musikarv. Kungliga Musikaliska Akademien. Retrieved 2026-04-06.
  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1919). “Hermann Berens”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd edition). New York: G. Schirmer. page 76.

300th Birth Anniversary of Charles Burney

Charles Burney (England, 1726 - 1814) - 6 Sonatas for the Harpsichord (London: Robert Bremner, 1774); No. 5. Sonata in G major; III. Andantino (G minor).

今日はイングランドの作曲家・オルガン奏者・音楽史家、チャールズ・バーニー生誕300年の誕生日です。今回はバーニー作曲「ハープシコードのための6つのソナタ」(1774) のソナタ第5番 ト長調より第3楽章 ト短調を弾きました。

チャールズ・バーニーは1726年4月7日にグレートブリテン王国イングランドのシュルーズベリー (Shrewsbury) で、舞踊家・ヴァイオリン奏者・肖像画家のジェイムズ・マクバーニー (James Macburney) の子として生まれました。コンドーヴァー (Condover)、シュルーズベリーで学んだのち、1739年に家族のいるチェスターに行きキングズ・スクール・チェスター (King's School, Chester) で学びました。1742年にシュルーズベリーに戻り、セント・メアリー教会 (St Mary's Church, Shrewsbury) でオルガン奏者を務めていた異母兄のジェイムズ・バーニー (James Burney) の助手となりました。1743年にチェスターに帰還。1744年にトマス・アーン (Thomas Arne, 1710 - 1778) が来訪し、それを契機としてアーンに7年間師事しました。1749年に最初の妻エスター・スリープ (Esther Sleepe Burney, 1725 - 1762) と結婚。エスターとの間に生まれた子のうち娘のフランシス・バーニー (Frances "Fanny" Burney, 1752 - 1840) は著名な小説家となりました。

同年10月にセント・ダイオニス・バックチャーチ (St Dionis Backchurch) のオルガン奏者に就任。1751年に病に冒されると、空気のきれいなキングズ・リン (King's Lynn) に移り、セント・マーガレット教会 (St Margaret's Church, King's Lynn) オルガン奏者に就任。1760年に健康を回復すると、ロンドンに戻りました。1769年にオックスフォード大学より音楽博士号を取得。音楽史の資料収集のために、1770年にフランス、スイス、イタリア、1772年にオランダ、ドイツ、オーストリア、チェコをめぐり、『フランス、イタリアの音楽の現状 The Present State of Music in France and Italy 』(1771)、『ドイツ、オランダ、オーストリアの音楽の現状 The Present State of Music in Germany,the Netherlands and the United Provinces 』(全2巻、1773) を出版しました。1776年から1789年にかけて『音楽史概説 A General History of Music 』(全4巻) を出版。1783年以降は王立チェルシー病院 (Royal Hospital Chelsea) でオルガン奏者を務めました。1814年4月12日にロンドンのチェルシー地区 (Chelsea) で、満88歳で亡くなりました。

出典:

  • Grant, Kerry S. (2001). “Burney, Charles”. Grove Music Online. Retrieved 2026-04-06.
  • Rimbault, Edward Francis (1900). “Burney, Charles”. In Grove, George (ed.). A Dictionary of Music and Musicians. Volume 1. London: Macmillan Publishers. pages 284-285.
  • Charles Burney”. Encyclopedia Britannica. 2026-04-03. Retrieved 2026-04-06.
    • バーニー」コトバンク. Retrieved 2026-04-06.
      • 「バーニー Burney, Charles 」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』
      • 東川清一「バーニー Charles Burney」『改訂新版 世界大百科事典』

2026-04-05

100th Death Anniversary of Ludwik Teodor Płosajkiewicz

Ludwik Teodor Płosajkiewicz (Poland, 1859 - 1926) - Obrazek muzyczny. Andante (F major. Nowości Muzyczne. No. 8. 1906. Warszawa: Leon Chojecki).

今日はポーランドの作曲家・指揮者・音楽教師、ルドヴィク・テオドル・プウォサイキェヴィチ没後100年の命日です。今回はプウォサイキェヴィチ作曲「音楽の小さな絵画 ヘ長調」を弾きました。楽譜は月刊音楽雑誌「音楽新作 Nowości Muzyczne 」1906年第8号に付録として収載されたものを使用しました。

ルドヴィク・テオドル・プウォサイキェヴィチは1859年8月2日にポーランド立憲王国クトノ (Kutno) 近郊のムニフ (Mnich) で生まれました。ヤン・クレチニスキ (Jan Kleczyński, 1837 - 1895)、ジグムント・ノスコフスキ (Zygmunt Noskowski, 1846 - 1909) に師事し、ワルシャワで声楽教師、学校の管弦楽団の指揮者を務めました。1926年4月5日にワルシャワで、満66歳で亡くなりました。

出典: “Płosajkiewicz Ludwik Teodor”. Archived from the original on 2025-01-03. Encyklopedia PWN. Retrieved 2026-04-02.

150th Birth Anniversary of Patrik Vretblad

Viktor Patrik Vretblad (Sweden, 1876 - 1953) - In memoriam pour orgue ou harmonium. Andante (maestoso) (F minor).

今日はスウェーデンの作曲家・オルガン奏者・音楽批評家・官吏、パトリック・ヴレートブラード生誕150年の誕生日です。今回はヴレートブラード作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「記念に へ短調」を弾きました。 楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第3巻 (Paris: Maurice Senart & Cie., 1912) の196頁に収録されています。

パトリック・ヴレートブラードは1876年4月5日にスウェーデン=ノルウェー連合王国時代のスウェーデンのコパルベリ県(現在のダーラナ県スヴァルトネス (Svartnäs) で、いずれも小学校教員のペール・ヴレートブラード (Per Vretblad) とエリザベト・ラーム (Elisabeth Rahm) の子として生まれました。ファールン (Falun) の学校で学んだのち、1895年から1900年までストックホルムの王立音楽院 (Kungliga Musikkonservatoriet. 現在のストックホルム音楽大学) で学び、ヒルダ・テーゲルストロム (Hilda Thegerström, 1838 - 1907) にピアノを、ヨーゼフ・デンテ (Joseph Dente, 1838 - 1905) に作曲法と対位法を師事しました。1900年から1906年までストックホルムのフランス改革派教会 (Franska reformerta församlingen) でオルガン奏者となりましたが、その一方で郵便局で官吏として働き始めました。1901年に作曲法を学ぶための奨学金を得てドイツに2年間留学。1907年にストックホルムのオスカル教会 (Oscarskyrkan) オルガン奏者に就任。1908年にヴァイオリン奏者のカーリン・ボードマン (Karin Bodman-Vretblad, b. 1883) と結婚。1953年1月15日にストックホルムで、満76歳で亡くなりました。

出典:

  • Hedberg, Walborg; Arosenius, Louise (1914). “Bodman-Vretblad, Ingrid Katarina (Karin)”. Svenska kvinnor från skilda verksamhetsområden : Biografisk uppslagsbok. Stockholm: Albert Bonnier. page 14.
  • Reese Willén, Anne (2016). “Patrik Vretblad”. Levande musikarv. Kungliga Musikaliska Akademien. Retrieved 2026-04-05.

2026-04-03

200th Birth Anniversary of Vincent Adler

Vincent Adler (Hungary, 1826 - 1871) - Album de piano, Œuvres posthumes No. 1 (Paris: J. Maho); No. 5. Feuillet d'album. Lento (D major). À Madame Lina Gétaz de la Fléchère.

今日はハンガリー出身の作曲家・ピアノ奏者、ヴァンサン・アドレル (アドレル・ヴィンツェ、ヴィンツェント・アドラー) 生誕200年の誕生日です。今回はアドレル作曲「ピアノのアルバム 遺作第1番」より第5曲「アルバムの綴り ニ長調」を弾きました。

ヴァンサン・アドレルは1826年4月3日にオーストリア帝国ハンガリー王国ジェール (Győr. ドイツ語名: ラープ Raab) で、オルガン奏者のアドレル・ジェルジュ (György Adler, 1789 - 1862) の子として生まれました。幼いころに一家でハンガリー王国の首都ブダに移り、ブダの宮廷礼拝堂オルガン奏者となっていた父からピアノの手ほどきを受け、義兄 (姉の夫) であるエルケル・フェレンツ (Ferenc Erkel, 1810 - 1893) に師事したのち、オーストリア帝国の首都ヴィーンに留学して和声法と作曲法を学びました。スイスのチューリヒリヒャルト・ヴァーグナー (Richard Wagner, 1813 - 1883) と、ジュネーヴハインリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト (Heinrich Wilhelm Ernst, 1814 - 1865) と親交を深め、フランスのパリに移りハンス・フォン・ビューロー (Hans von Bülow, 1830 - 1894)、エドゥアール・ラロ (Édouard Lalo, 1823 - 1892) らと知己を得ました。演奏旅行で各地を巡り、スイスのジュネーヴに移ってジュネーヴ音楽院で1865年より6年間音楽教師を務めましたが、1871年1月4日にジュネーヴで、肺病のために満44歳で亡くなりました。

姉にピアノ奏者・音楽教師のアドレル・アデール (Adél Adler, 1820 - 1899) がおり、アデールは作曲家のエルケル・フェレンツと1839年に結婚しています。また、ヴァンサンの子にピアノ奏者・音楽教師のゲオルク・アドラー (Georg Adler, 1863 - 1932) がいます。

出典:

  • Eschmann-Dumur, Carl (1888). “Adler, V.”. Guide du jeune pianiste. 2nd editoin. Lausanne: Ernest Rodolphe Spiess. page 267.
  • Riemann, Hugo (1900). “Adler”. Musik-Lexikon. 5th edition. Leipzig: Max Hesse. page 10.
  • Thompson, Oscar, ed. (1975). “Adler, Vincent”. The International Cyclopedia of Music and Musicians. 10th edition. New York: Dodd, Mead. page 18.

2026-03-31

250th Birth Anniversary of Joseph Küffner

Joseph Küffner (Germany, 1776 - 1856) - 12 Pièces faciles à l'usage des commençants pour piano-forte, composées et dédiées à son Altesse Royale le Prince Otto de Bavière, Op. 131 (Mainz: B. Schott's Söhne); No. 4. Andante (F major).

今日はドイツの作曲家・ヴァイオリン奏者、ヨーゼフ・キュフナー生誕250年の誕生日です。今回はキュフナー作曲「ピアノのための初学者のための易しい12の小品 Op. 131」より第4曲 ヘ長調を弾きました。曲集はバイエルン王子オットー、のちの初代ギリシャ国王オソン1世 (Otto of Greece, 1815 - 1867) に献呈されました。

母方の祖父はヴュルツブルク司教領宮廷音楽監督のヨハン・ゲオルク・フランツ・ヴァスムート (Johann Georg Franz Waßmuth, 1707 - 1766)、父方の祖父はレーゲンスブルク近郊の街の笛奏者のヨハン・キュフナー (Johann Küffner)、父は1768年からヴュルツブルク司教領宮廷作曲家を務めていた作曲家のヴィルヘルム・キュフナー (Wilhelm Küffner, 1727 - 1797) でした。

ヨーゼフ・キュフナーは1776年3月31日にヴュルツブルク司教領の首都ヴュルツブルク (Würzburg) で生まれました。ヴュルツブルク司教領宮廷コンツェルトマイスターのヨーゼフ・ローレンツ・シュミット (Joseph Lorenz Schmitt, 1731 - 1796) にヴァイオリンを師事し、1800年または1801年に宮廷楽団のヴァイオリン奏者に就任しました。1801年のリュネヴィルの和約により1803年にヴュルツブルク司教領がバイエルン選帝侯領に併合されると、キュフナーは宮廷音楽家の職を解かれましたが、バイエルン陸軍軍楽隊において音楽教師となり、やがて軍楽監督 (Militärmusik-Direktor) に就任しました。この頃にフランツ・ヨーゼフ・フレーリヒ (Franz Joseph Fröhlich, 1780 - 1862) から作曲法を学び、作曲家としての活動も始めました。1805年のプレスブルクの和約により旧司教領がヴュルツブルク選帝侯領(1806年8月6日の神聖ローマ帝国解体後にヴュルツブルク大公国に改称)としてバイエルン選帝侯領から独立すると、キュフナーは新たな君主の下で引き続き軍楽監督を務め、宮廷音楽家の地位を得ました。1810年頃からオッフェンバッハ・アム・マインのアンドレ社 (Offenbach am Main: Johann André) とマインツのショット社 (Mainz: B. Schott's Söhne) と契約し、以後はこの2社から自作を出版するようになります。1814年にヴュルツブルク大公国がバイエルン王国に併合されると再び宮廷音楽家の地位を失い、収入の減少を補うために作曲家としていっそう熱心に活動しました。1827年にアンドレ社主のヨハン・アントン・アンドレ (Johann Anton André, 1775 - 1842) と金銭関係の発言をめぐって仲違いし、以後はショット社からのみ出版するようになりました。1856年9月9日にヴュルツブルクで、満80歳で亡くなりました。

出典:

  • Beer, Axel (2023-06-05).“Joseph Küffner”. Musik und Musiker am Mittelrhein 2 Online. Retrieved 2026-03-31.
  • Bernsdorf, Eduard, ed. (1857).“Küffner, Joseph”. Neues Universal-Lexikon der Tonkunst : für Künstler, Kunstfreunde und alle Gebildeten. Volume 2. Dresden: Robert Schäfer. pages 672-673.
  • Henke, Matthias (2003/2016). “Küffner, Joseph”. MGG Online. Retrieved 2026-03-31.

2026-03-19

150th Death Anniversary of Józef Stefani

Józef Stefani (Poland, 1800 - 1876) - 2 Walce na piano-forte (Warsaw: Klukowski, [1827]); Valse No. 2 (G major).

今日はポーランドの作曲家・ヴァイオリン奏者・指揮者・音楽教師、ユゼフ・ステファニ没後150年の命日です。今回はステファニ作曲「ピアノのための2つのワルツ」より第2番 ト長調を弾きました。

ユゼフ・ステファニは、チェコ・ボヘミア出身の作曲家・ヴァイオリン奏者・指揮者のヤン・ステファニ (Jan Stefani, 1746 - 1829) とフリデリカ・デ・モンテル (Fryderyka de Monter) の子として、1800年にプロイセン王国南プロイセン州ワルシャワ(現在のポーランドの首都)で生まれ、4月16日に洗礼を受けました。父から音楽の手ほどきを受けたのち、ワルシャワの音楽演劇学校とワルシャワ大学美的芸術学部音楽朗唱院 (1821年から1824年まで、現在のショパン音楽アカデミー) でユゼフ・エルスネル (Józef Elsner, 1769 - 1854) に師事しました。

1813年からワルシャワ国立劇場 (1833年以降はワルシャワ大劇場) の合唱団員となり、次いで劇場の管弦楽団でティンパニ奏者、コントラバス奏者、ヴィオラ奏者、ヴァイオリン奏者を務めました。1824年10月24年に、歌手で師エルスネルの二番目の妻カロリナ (Karolina Elsner, née Drozdowska, 1785 - 1852) の姉妹であるピアノ奏者・歌手のマリアンナ・ドロズドフスカ (Marianna (Maria) Stefani, née Drozdowska, d. 1865) と結婚。1827年から1858年までバレエ公演において劇場管弦楽団の指揮者を務め、声楽の指導をしました。また、1827年から1830年までワルシャワ大学付属演劇歌唱学校(現在のショパン音楽アカデミー)でカルロ・エヴァージオ・ソリーヴァ (Carlo Evasio Soliva, 1791 - 1853) の助手を務め、1835年から1841年までワルシャワ大劇場の歌唱学校で声楽を指導し、いくつかの総合高等学校で音楽や教会歌唱の教師となりました。ワルシャワ高等学校 (Liceum Warszawskie) での声楽の教え子にユゼフ・シコルスキ (Józef Sikorski, 1815 - 1896) がいます。1860年から1861年までワルシャワ音楽院(現在のショパン音楽アカデミー)の視学官を務めました。1876年3月19日にワルシャワで亡くなり、ワルシャワのポヴォンスキ墓地 (Cmentarz Powązkowski w Warszawie) に埋葬されました。

出典:

  • Przybyszewska-Jarmińska, Barbara (2023-05-12). “Stefani, Józef”. Polska Biblioteka Muzyczna. Retrieved 2026-03-18.
  • Grove Music Online. Retrieved 2026-03-18.

2026-02-26

100th Death Anniversary of Peter Erasmus Lange-Müller

Peter Erasmus Lange-Müller (Denmark, 1850 - 1926) - Danse for Klaver (København: Nordisk Musik-Forlag, 1916); No. 2. Allegretto quasi Andantino (F minor).

今日はデンマークの作曲家・指揮者、ピーダ・イラスムス・ランゲ=ミュラ没後100年の命日です。今回はランゲ=ミュラ作曲「ピアノのための舞曲集」(全8曲) より第2番 へ短調を弾きました。曲集には献辞として「我が娘たちのために Til mine Døttre 」とあり、彼の3人の娘、イアメリーン (Irmelin Glahn, f. Lange-Müller, 1895 - 1876)、ミレーデ (Merete Ben Hannine, f. Lange-Müller, 1896 - 1965)、ヴィーベケ (Vibeke Lange-Müller, 1898 - 1982) に献呈されています。

ピーダ・イラスムス・ランゲ=ミュラは1850年12月1日にデンマーク王国の首都コペンハーゲンに隣接するフレズレクスベア (Frederiksberg) で、オト・フレズレク・ミュラ (Otto Frederik Müller, 1807 - 1882) とシャロデ・ソフィーイ・ランゲ (Charlotte Sophie Lange, 1818 - 1859) の子として、裕福で音楽を愛好する家庭に生まれました。

父のオト・フレズレク・ミュラは裁判官であり、1860年から1878年までデンマーク最高裁判所判事を務めました。父方の祖父のピーダ・イラスムス・ミュラ (Peter Erasmus Müller, 1776 - 1834) は歴史家・言語学者・デンマーク国教会聖職者であり、1830年から亡くなるまでシェラン教区の司教を務めました。母方の祖父のミケール・ランゲ (Michael Lange, 1788 - 1856) は裁判官・政治家であり、1846年から亡くなるまでコペンハーゲン市長 (Overpræsident i København) を務めました。父方の叔父に画家のエーダム・アウゴスト・ミュラ (Adam August Müller, 1811 - 1844) がおり、父方の祖母ルイーセ・アウゴスタ・ミュラ、旧姓ストゥプ (Louise Augusta Müller, f. Stub, 1778 - 1805) に連なる親族として、大叔父 (父方の祖母の弟) に画家のクレスチャン・ゴトリプ・クラツェンスタイン=ストゥプ (Christian Gottlieb Kratzenstein-Stub, 1783 - 1816)、高祖父 (父方の祖母の母方の祖父) に医師・物理学者のクリスティアン・クラッツェンシュタイン (Christian Kratzenstein, 1723 - 1795) がいます。

幼少期にゴトフレズ・マティーソン=ハンスン (Gottfred Matthison-Hansen, 1832 - 1909) にピアノを師事。1870年にコペンハーゲン大学 (政治学専攻) に、1871年1月に王立デンマーク音楽院に入学してエドムン・ネウペット (Edmund Neupert, 1842 - 1888) にピアノを学び始めたものの、健康を害したために間もなく学業を断念し、同年12月に音楽院を退学。生涯を通じて絶え間ない頭痛に悩まされたために、音楽活動や人間関係に支障を来していたようです。一時期は庭師としての訓練を受けていました。1874年のコペンハーゲンの演奏会協会 (Koncertforeningen) の設立に関わり、同会で1879年から1883年まで指揮者を務めました。1892年に元在香港デンマーク領事フレズレク・ホーセンス・ブロク (Frederik Horsens Block, 1816 - 1892) の養女ルト・ブロク (Ruth Lange-Müller, f. Møller, 1866 - 1921) と結婚。結婚後は妻の養母が所有していた (彼女の死後に相続)、シェラン島北部のハースホルム (Hørsholm) のロングステズ地区 (Rungsted) にある邸宅ソフィーンベア城 (Sophienberg Slot) を夏季の住居として使っていました。作曲家としては1874年出版の『インゲマンの「シュラミテとソロモン」に基づく5つの歌曲 5 Sange af B. S. Ingemanns "Sulamith og Salomon", Op. 1』でデビュー。数多くある歌曲や合唱曲などの声楽曲で特に評価されており、そのほかにオペラ、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲などを残しています。器楽では「ピアノ三重奏曲 Op. 53」が傑作として知られています。1926年2月26日にコペンハーゲンで亡くなりました。

出典:

2026-02-24

200th Birth Anniversary of Victorine Farrenc

Victorine Louise Farrenc (France, 1826 - 1859) - Romance pour le piano-forte. Andante (E flat major).

昨日はフランスの作曲家・ピアノ奏者、ヴィクトリーヌ・ファランクの生誕200年の誕生日でした。今回はファランク作曲「ピアノのためのロマンス 変ホ長調」を弾きました。楽曲は、グスタフ・シリング (Gustav Schilling, 1805 – 1880) により編纂された様々な作曲家や著述家の作品や弔詞を収めた追悼集「ベートーヴェン・アルバム Beethoven-Album. Ein Gedenkbuch dankbarer Liebe und Verehrung für den grossen Toten, gestiftet und beschrieben von einem Vereine von Künstlern und Kunstfreunden aus Frankreich, England, Italien, Deutschland, Holland, Schweden, Ungarn und Russland 」(Stuttgart: Hallberger-sche Verlahandlung, 1846) の283-285頁に収録されています。

ヴィクトリーヌ・ファランクは1826年2月23日にフランス王国の首都パリで、音楽出版者・フルート奏者・音楽学者のアリスティード・ファランク (Aristide Farrenc, 1794 - 1865) と作曲家・ピアノ奏者・音楽教師のルイーズ・ファランク (Louise Farrenc, née Dumont, 1804 - 1875) の娘として生まれました。5歳半から母ルイーズの指導の下で音楽を学び始め、15歳の頃にはヨハン・ゼバスティアン・バッハの「平均律クラヴィーア曲集」を見事な腕前で演奏しました。1843年の初めにパリ音楽院に入学すると同校でピアノ教授を務めていた母のクラスで学び、翌年の1844年にピアノで一等賞を獲得。卒業後、特にバッハのフーガとベートーヴェンの作品に心を奪われ、熱心に取り組んでいました。1845年のブリュッセルとパリにおける母ルイーズの「交響曲第1番 ハ短調 Op. 32」の演奏会で、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op. 73 (皇帝)」を演奏。1846年には多くの演奏会に出演し、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K. 466」などを演奏しました。これらベートーヴェンの皇帝とモーツァルトの二短調の協奏曲の演奏は高く評価されました。作曲においても母の弟子であり、合唱曲、歌曲、ピアノ曲を残しています。1847年頃に病を得て演奏活動を控えるようになり、1859年1月3日のヴェルサイユにおいて32歳の若さで亡くなりました。

出典:

  • Fétis, François-Joseph (1866-1868). “Farrenc (Victorine-Louise)”. Biographie universelle des musiciens et bibliographie générale de la musique. Volume 3. Paris: Firmin-Didot. page 188.
  • Friedland, Bea (2001). “Farrenc family”. Grove Music Online. Retrieved 2026-02-24.
  • Heitmann, Christin (2001/2016). “Farrenc, Victorine(-Louise)”. MGG Online. Retrieved 2026-02-24.

2026-02-20

150th Birth Anniversary of Théodore Akimenko

Fedir Stepanovych Yakymenko (Федір Степанович Якименко, Фёдор Степанович Акименко, Théodore Akimenko, Ukraine/France, 1876 - 1945) - Album pittoresque. 8 Morceaux pour piano, Op. 59 (St. Petersburg: W. Bessel & Cie.); No. 3. Méditation. Andante sostenuto (F major).

今日はウクライナ出身の作曲家・ピアノ奏者・合唱指揮者、フョードル・ステパーノヴィチ・アキメンコ (フェーディル・ステパーノヴィチ・ヤクィメンコ、テオドール・アキメンコ) 生誕150年の誕生日 (異説あり) です。今回はアキメンコ作曲「ピトレスクなアルバム、ピアノのための8つの小品 Op. 59」より第3曲「瞑想曲 ヘ長調」を弾きました。曲集はロシアの美術家・画家・デザイナーのリュボーフィ・ポポーヴァ (Lyubov Popova, 1889 - 1924) に献呈されています。

フョードル・アキメンコは1876年2月15日 (ユリウス暦2月3日, Алейников 2012) または2月20日 (ユリウス暦2月8日, Baley 2001) にロシア帝国ハリコフ県クーピャンスク・ウエズドペースキ (Peski, 現在のウクライナ領ハルキウ州クープヤンシク・ラヨンのピスクィー Pisky) で生まれました。1886年に弟のヤーコフ・アキメンコ (ヤーキウ・ステポヴィイ, Yakiv Stepovy, 1883 - 1921) とともにサンクトペテルブルクの帝室礼拝堂合唱団 (Императорская придворная певческая капелла) の団員となり、1895年まで同団の音楽学校でピョートル・クラスノクツキー (Pyotr Krasnokutsky, 1849 - 1900) にヴァイオリンを、ゴルブノーフ (A. Ya. Gorbunov) にピアノを、アナトーリー・リャードフ (Anatoly Lyadov, 1855 - 1914) に和声法を師事しました。そのほかにミリイ・バラキレフ (Mily Balakirev, 1837 - 1910) とセルゲイ・リャプノフ (Sergey Lyapunov, 1859 - 1924) にも指導を受け、彼らの影響で作曲を始めました。アレクセイ・ペトローフ (Aleksey Petrov, 1859 - 1919) から和声法と対位法の指導を受けたのち、1895年からペテルブルク音楽院ニコライ・リムスキー=コルサコフ ( Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908)、アナトーリー・リャードフ (Anatoly Lyadov, 1855 - 1914)、ヤーゼプス・ヴィートルス (Jāzeps Vītols, 1863 - 1948) に作曲法を、フランチシェク・チェルニー (František Černý, 1830 - 1900) にピアノを、ルイ・ホーミリウス (Louis Homilius, 1845 - 1908) にオルガンを師事し、1900年に卒業。

1902年まで帝室礼拝堂合唱団で音楽教師を務め、1901年から1902年にかけての冬の3か月間には個人教授でイーゴリ・ストラヴィンスキー (Igor Stravinsky, 1882 - 1971) に和声法と対位法を教えています。また、1900年からベリャーエフ・サークルに所属しており、ロシア交響楽演奏会では自作の管弦楽作品がリムスキー=コルサコフとアレクサンドル・グラズノフ (Aleksandr Glazunov, 1865 - 1936) により指揮されました。1902年から1903年までトビリシロシア音楽協会ティフリス音楽学校 (Тифлисское музыкальное училище Императорского русского музыкального общества) の音楽クラス視学官と校長を務めたのち、1903年から1905年までフランスのニースの正教会で合唱指揮者、その後は1906年まで主にイタリア各地、フランスのパリ、スイスのジュネーヴで作曲家・ピアノ奏者として活動しました。1906年にはアレクサンドル・スクリャービン (Aleksandr Scriabin, 1872 - 1915) からピアノのレッスンを受けています。

1906年から1911年までハリコフでロシア音楽協会ハリコフ音楽学校 (現在のボリス・リャトシンシキー記念ハルキウ音楽専門大学) とハリコフ貴族女子学院 (Харьковский институт благородных девиц) で教師となりました。母校のペトログラード音楽院 (ペテルブルク音楽院から改称) に招聘されて1915年から講師、1916年から上級講師 (старший преподаватель) となり、1919年から1923年まで作曲法と音楽理論の二級教授となりました。1923年にソビエト連邦 (ロシア革命により前年に成立) を離れ亡命。1924年にチェコスロバキアの首都プラハにあるミハイロ・ドラホマーノフ記念ウクライナ高等教育大学 (Ukrajinský vyšší pedagogický institut) の音楽学部長に就任。ピアノ奏者・合唱指揮者としてヨーロッパ各地で演奏活動し、1928年以降はフランスのニースに、次いでパリに移住し、1932年よりセルゲイ・ラフマニノフ記念パリ・ロシア音楽院で副院長兼ピアノ教授に就任。1945年1月8日にパリで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

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