2024-12-31

150th Birth Anniversary of Ernest Austin

Ernest Austin (England, 1874 - 1947) - English Pastorals for Pianoforte, Op. 43. Inscribed to Mrs. Percy Smith (London: J. & W. Chester, Ltd., 1915); No. 2. A Quiet Valley. Pensively (B flat major).

今日はイングランドの作曲家アーネスト・オースティン生誕150年の誕生日です。今回はオースティン作曲「イングランド牧歌集 Op. 43」より第2曲「静かな谷 変ロ長調」を弾きました。

アーネスト・オースティンは1874年12月31日に英国の首都ロンドンで生まれました。正規の音楽教育を受けてはいなかったのですが、実業界で働いたのちの33歳のときに作曲を始めました。1947年7月24日にサリー州ウォーリントン (Wallington, Surrey. 現在のグレーター・ロンドンサットン・ロンドン自治区ウォーリントン)で亡くなりました。

兄にバリトン歌手のフレデリック・オースティン (Frederic Austin, 1872 - 1952) がいます。

出典:

  • Slonimsky, Nicolas, ed. (1958). “Austin, Ernest”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (5th edition). New York: G. Schirmer. pages 59-60.
  • 2024-12-19

    200th Birth Anniversary of Carl Reinecke

    Carl Reinecke (Denmark/Germany, 1824 - 1910) - Für kleine Hände. 6 leichte Suiten für Pianoforte (Als Vorstudien zu des Komponisten „Ernstes und Heiteres“ Op. 145), Op. 173. Herrn Johann August Wilhelm Todt zugeeignet (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1882); Suite No. 1. Suite im Umfange von 5 Tönen für die rechte Hand (C major); Movement 1. Etude. Allegro (C major).

    今年の6月23日はホルシュタイン公国出身のドイツの作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、カール・ライネッケ生誕200年の誕生日でした。今回はライネッケ作曲「小さな手のために、ピアノのための6つの易しい組曲 (作曲者の『真面目なものと陽気なもの』Op. 145 の予備練習として) Op. 173」(Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1882) 組曲第1番「右手の5音の音域による組曲 ハ長調」より第1楽章「練習曲 ハ長調」を弾きました。組曲の名前として「右手の5音の音域」とあるように、この練習曲では右手の音域が中央ハ (C4) から完全五度上のト (G4) までに限られて書かれています。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (Johann Sebastian Bach, 1685 - 1750) の平均律クラヴィーア曲集第1巻より前奏曲第1番ハ長調 BWV 846 を思い起こさせる曲です。曲集はアウグスト・トート (Johann August Wilhelm Todt, 1833 - 1900) に献呈されています。

    カール・ライネッケは1824年6月23日にデンマーク王国ホルシュタイン公国アルトナ (現在のドイツの都市ハンブルクの一地区) で、ルドルフ・ライネッケ (Rudolf Reinecke, 1795 - 1883) の子として生まれ、著名な音楽理論家・音楽教師で教科書の著作もある父により徹底した音楽教育を受けました。ピアノ奏者を志していたライネッケは早くも11歳のときにアルトナで初舞台を踏みます。間もなく作曲も始め、1838年には「ピアノのための2つの性格的小品と1つのフーガ 2 Charakterstücke und eine Fuge für die linke Hand, Op. 1」(Hamburg: August Cranz) を出版しました。1843年にはフェーリクス・メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn, 1809 - 1847) の支援により、ライプツィヒゲヴァントハウスの演奏会でピアノ奏者として出演。1845年からダンツィヒ (グダニスク) からリガまでを巡る演奏旅行に出発し、1846年にはデンマークの首都コペンハーゲンで宮廷ピアノ奏者に任命されました。しかし1848年の欧州各地の革命の余波で宮廷での職を失ったため、ユリウス・リーツ (Julius Rietz, 1812 - 1877) の招きに応じてライプツィヒに移りました。1851年から1854年までケルンに移り、フェルディナント・ヒラー (Ferdinand Hiller, 1811 - 1885) が設立したケルン音楽院で対位法とピアノの教師となりました。ヒラーとは演奏会で共演もしています。1859年にはシュレージエンのブレスラウ (ヴロツワフ) で10ヶ月間、大学の音楽監督とジングアカデミーの指揮者を務めました。1860年にライプツィヒに戻り、ライプツィヒ音楽院の作曲・ピアノ教師とゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任。ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者は1895年まで続けました。1874年より王立プロイセン芸術アカデミー会員。音楽院では1884年に名誉博士、1885年に教授の称号を得て、1897年に院長に就任しました。1902年に音楽院の職を辞して教育者としては引退したものの、創作活動は生涯続けました。1910年3月10日にライプツィヒで亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:

    2024-12-17

    100th Death Anniversary of Edmond Diet

    Edmond-Marie Diet (France, 1854 - 1924) - Chérubin (Sérénade). Musique de scène pour la comédie de M. Francis de Croisset.

    今年の10月30日はフランスの作曲家エドモン・ディエ没後100年の命日でした。今回はディエ作曲「ケルビム (セレナード)」を弾きました。楽譜に書かれた説明によると、劇作家フランシス・ド・クロワセ (Francis de Croisset, 1877 - 1937) のコメディの場面のために書かれた音楽ということです。

    エドモン・ディエは1854年9月25日にフランス帝国の首都パリで、建築家アルテュール=スタニスラス・ディエ (Arthur-Stanislas Diet, 1827 - 1890) の子として生まれました。パリ音楽院セザール・フランク (César Franck, 1822 - 1890) にオルガンと即興演奏を、エルネスト・ギロー (Ernest Guiraud, 1837 - 1892) に対位法とフーガと管弦楽法を師事。その後、数年の間はオラトリオやヴァイオリンソナタなど古典のジャンルの作品に取り組みましたが、1880年代以降、軽音楽の分野で大きな成功を収めました。1924年10月30日にパリで亡くなりました。

    出典:

    • Gutsche-Miller, Sarah (2015). “Note to pp. 65-66”. Parisian Music-Hall Ballet, 1871-1913. Rochester: University of Rochester Press. page 305.
    • Edmond Diet (1854-1924)”. Bnf Data. Bibliothèque nationale de France. Retrieved 2024-12-16.

    2024-12-16

    150th Death Anniversary of Albert Junkelmann

    Albert Junkelmann (Germany, d. 1874) - Album. 5 Morceaux pour le piano, Op. 25 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1873); No. 2. Romance. Andante quasi Allegretto cantabile (D flat major). À Mademoiselle Anne Clementieff.

    今年の10月21日はドイツ出身の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、アルベルト・ユンケルマン没後150年の命日でした。今回はユンケルマン作曲「アルバム、ピアノのための5つの小品 Op. 25」より第2曲「ロマンス 変ニ長調」を弾きました。

    アルベルト・ユンケルマンはテューリンゲン地方のローダ (Roda. 現在のシュタットローダ Stadtroda) に生まれました。ロシア帝国のハリコフ (現在のウクライナ領ハルキウ) の学校 (Kaiserliche Institut zu Charkow) で音楽教授となり、1874年10月21日にハリコフで亡くなりました。作品にはいくつかのピアノ独奏曲があります。

    出典:

    2024-12-14

    100th Death Anniversary of Victor Herbert

    Victor Herbert (UK/Germany/USA, 1859 - 1924) / Harold Sanford (USA, 1879 - 1945) - I Might Be Your "Once-In-A-While" (Moderato con espressione. F major. Act I, No. 1. New York: T.B. Harms & Francis, Day & Hunter, 1919) from the Comedy with Music 'Angel Face' (1919).

    今年の5月26日は英国出身の米国の作曲家・チェロ奏者・指揮者、ヴィクター・ハーバート没後100年の命日でした。今回はハーバート作曲、3幕の音楽付き喜劇「天使の顔」(1919) より第1幕第1場「僕は君の『ときどき』になるかもしれない」の、ハロルド・サンフォードによるピアノ独奏編曲を弾きました。

    ヴィクター・ハーバートは1859年2月1日に既婚者ファニー・マスプラット (Frances "Fanny" Muspratt née Lover) の婚外子として生まれました。ヴィクターが母から伝え聞いたということで出生地はアイルランド (当時は英国領) のダブリンとされてきましたが (Ledbetter, Krasner 2001/2024; Linhardt 2002/2016)、実際はおそらくイギリス海峡の英国王室属領ガーンジー島 (Guernsey) だろうということです (Casey 2017)。母方の祖父であるアイルランド人著述家・作曲家のサミュエル・ラヴァー (Samuel Lover, 1797 - 1868) とともにロンドン郊外のセヴノークスで育ちました。1864年 (Casey 2017) または1866年 ((Ledbetter, Krasner 2001/2024) に母がウィンブルドン在住のドイツ人医師と再婚し、1867年に家族とともにヴュルテンベルク王国の首都シュトゥットガルトに移りました。1874年から1876年までバーデン大公国バーデン=バーデンベルンハルト・コスマン (Bernhard Cossmann, 1822 - 1910) にチェロを師事しました。

    ロシア人貴族パーヴェル・フォン・デルヴィース男爵 (Paul von Derwies, 1826 - 1881) の楽団で1年間、その後1880年から1年間独奏者としてヴィーンエドゥアルト・シュトラウス (Eduard Strauss, 1835 - 1916) の楽団で、1881年から1886年までシュトゥットガルトのヴュルテンベルク王国宮廷楽団でチェロ奏者を務めました。宮廷チェロ奏者時代にシュトゥットガルトの王立音楽院マックス・ザイフリッツ (Max Seifriz, 1827 - 1885) に作曲法を師事し、「チェロと管弦楽のための組曲 Op. 3」(1884) 、「チェロ協奏曲第1番 Op. 8」(1884) という大規模な協奏的作品を作曲して自ら独奏者として演奏しました。王立シュトゥットガルト宮廷劇場で知り合ったテレーゼ・フェルスター (Therese Foerster, 1861 - 1927) と1886年8月16日に結婚し、その直後に米国のニューヨークに渡りました。

    ニューヨークに渡るとニューヨーク弦楽四重奏団 (New York String Quartet) などでチェロ奏者を務めたほか、ブライトン・ビーチでの夏季演奏会でアントン・ザイドル (Anton Seidl, 1850 - 1898) の下で副指揮者を務めました。おそらく1889年秋に、ナショナル音楽院 (National Conservatory of Music of America) の教員に採用され、1893年から7年間、パトリック・ギルモア (Patrick Sarsfield Gilmore, 1829 - 1892) により設立されたニューヨーク陸軍州兵第22連隊軍楽隊の音楽監督を務めました。1894年に最初のオペレッタ「アナニヤ王子 Prince Ananias 」を劇団ザ・ボストニアンズ (The Bostonians) のために作曲し、以後オペレッタ作曲家として成功を収めます。1898年にピッツバーグ交響楽団 (Pittsburgh Symphony Orchestra) 指揮者に就任して同団の発展に寄与したものの、経営陣と対立したために1904年に辞任。その後、自身の楽団であるヴィクター・ハーバート・オーケストラを結成し、各地を巡ってライトミュージックを演奏しました。1908年に国立芸術文学院 (National Institute of Arts and Letters) の会員に選出。また、作曲家の法的権利の保護について積極的に訴え、1914年に米国作曲家作詞家出版者協会 (American Society of Composers, Authors and Publishers. 略称: ASCAP) の創設者の一人となり、亡くなるまで同会副会長兼理事を務めました。1917年に演奏権をめぐる最高裁判所での裁判で勝訴し、作曲家が演奏料を徴収する権利を獲得しました。1924年5月26日にニューヨークで亡くなりました。

    出典:

    • Casey, Marion R. (2017). “Was Victor Herbert Irish?18th–19th - Century History, Features. 25 (1). Retrieved 2024-05-20.
    • Ledbetter, Steven; Krasner, Orly Leah (2001/2024). “Herbert, Victor (August)”. Grove Music Online. Retrieved 2024-05-20.
    • Linhardt, Marion (2002/2016). “Herbert, Victor”. MGG Online. Retrieved 2024-05-20.

    2024-12-13

    250th Birth Anniversary of Václav Jan Tomášek

    Václav Jan Křtitel Tomášek (Czech, 1774 - 1850) - 6 Rapsodies [Rhapsodies] pour le pianoforte composées et dédiées à son ami François Charles Fritsch, Op. 40 (1810); No. 4. Allegro ma non troppo (E minor).

    今年の4月17日はチェコの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、ヴァーツラフ・ヤン・クシュチテル・トマーシェク生誕250年の誕生日でした。今回はトマーシェク作曲「6つの狂詩曲 Op. 40」より第4番 ホ短調を弾きました。

    ヴァーツラフ・ヤン・トマーシェクは、1774年4月17日に神聖ローマ帝国ボヘミア王国スクテチ (Skuteč) で、亜麻織物商人ヤクプ・トマーシェク (Jakub Tomášek, 1722 - 1793) とカテジナ・トマーシェク (Kateřina Tomášek, geb. Habalová, 1728 - 1786) の13人の子供たちの末息子として生まれました。1783年から1785年までフルディムで、カントルのパヴェル・ヨゼフ・ヴォルフ (Pavel Josef Wolf) にヴァイオリンと声楽を学びました。1787年から1790年までイフラヴァにあるフランシスコ会修道院の奨学生となり、聖歌隊員としてドーナト・シューベルト (Donat Schuberth) から指導を受けました。

    1790年に兄の援助の下でプラハに移り、同地でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart, 1856 - 1891) の「ドン・ジョヴァンニ」の公演を観て魅了され、その音楽に強い影響を受けることになりました。ギムナジウムで学んだのち、1794年から1799年までカレル大学で法学のほか、哲学、数学、美学、歴史学、解剖学、外科学を学びました。プラハではピアノと音楽理論を独学で習得。大学在学中に鍵盤楽器のための舞曲や歌曲の作曲を始め、貴族や中産階級の音楽サロンでピアノ奏者を務め、優れたピアノ教師として知られるようになりました。

    大学での勉学を終えると音楽家の道へ進むことを決意し、1801年にゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー (Georg Joseph Vogler, 1749 - 1814)、ヨハン・ニコラウス・フォルケル (Johann Nikolaus Forkel, 1749 - 1818) に音楽理論を師事しました。この頃、ピアノ伴奏歌曲「レノーレ Lenore, Op. 12」が評判となり、作曲家としての名声を得ました。「レノーレ」の成功を契機に、1806年から18年間、イジー・ブクヴォイ伯爵 (Jiří František August Buquoy, 1781 - 1851) の音楽家庭教師兼作曲家を務めました。ブクヴォイ家での職務には多くの休暇を取る余裕があったため、作曲や旅行のための時間を十分に得ました。この時期に歌曲、ピアノのためのエクローグ集、狂詩曲集の多くを作曲しています。また、ドレスデングラーツヴィーンを訪れ、ヴィーンでは1801年にヨーゼフ・ハイドン (Joseph Haydn, 1732 - 1809) に、1814年にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827) に会っています。1824年に、詩人・官吏のカール・エーゴン・エーベルト (Karl Egon Ebert, 1801 - 1882) の姉であるヴィルヘルミーナ・エーベルト (Wilhelmina Ebert, 1797 - 1836) と結婚。結婚を機にブクヴォイ家での職を辞し、自身の音楽学校を設立しました。結婚生活の破綻のためにしばらくプラハでの音楽活動から離れていましたが、1836年に妻ヴィルヘルミーナが亡くなると活動を再開しました。主宰する月曜夜のサロン音楽会には著名な芸術家や著作家が集い、プラハ音楽界を代表する人物と見なされました。1850年4月3日にプラハで亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:

    2024-12-09

    100th Death Anniversary of Ivan Kryzhanovsky

    Ivan Ivanovich Kryzhanovsky (J. Kryjanowsky ; Иван Иванович Крыжановский ; Іван Іванович Крижанівський, Ukraine/Russia, 1867 - 1924) - 3 Morceaux pour piano, Op. 13 (Leipzig: Jul. Heinr. Zimmermann, 1914); No. 1. Mélodie. Andantino (D flat major).

    今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・生理学者・音楽学者・音楽教師・音楽批評家、イヴァーン・イヴァーノヴィチ・クルィジャノーフスキー没後100年の命日です。今回はクルィジャノーフスキー作曲「ピアノのための3つの小品 Op. 13」より第1曲「メロディ 変ニ長調」を弾きました。

    イヴァン・クルィジャノーフスキーは1867年3月8日 (ユリウス暦2月24日) にロシア帝国キエフ県キエフ(現在のウクライナの首都キーウ)で生まれました。1884年にキエフ第4ギムナジウムを卒業。1887年にロシア音楽協会附属キエフ音楽学校 (現在のレインゴリト・グリエール記念キーウ音楽大学) に入学し、オタカル・シェフチーク (Otakar Ševčík, 1852 - 1934) にヴァイオリンを、エウゲニュシュ・リプ (Eugeniusz Ryb, 1859 - 1924) に音楽理論を師事。1893/1894年にキエフの聖ヴラジーミル帝国大学 (Императорский университет Святого Владимира) 医学部を優秀な成績で卒業。医学の学位を取得し、2年間、大学附属外科医院で研修医を務めました。1896年にサンクトペテルブルク音楽院に入学。ニコライ・リムスキー=コルサコフ (Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908) に作曲法を師事し、1900年に自由芸術家 (свободный художник) の称号を得て卒業。ミトロファン・ベリャーエフ (Mitrofan Belyayev, 1836 - 1904) の音楽サークルや「現代音楽の夕べ Вечера современной музыки 」に参加しています。

    1901年からサンクトペテルブルク医科大学解剖学講座に勤務。1903年の秋にはに当時ロシア帝国陸軍工兵だったニコライ・ミャスコフスキー (Nikolay Myaskovsky, 1881 - 1950) に音楽理論を教えています。1909年にサンクトペテルブルク軍事医学アカデミーで医学博士の学位を取得。第一次世界大戦では1914年に医師として前線の赤十字診療所に赴きましたが、ウッチで捕虜となり1917年に帰還。1923年にペトログラード音楽院の教授に就任。1924年12月9日にレニングラード (現在のサンクトペテルブルク) で亡くなりました。

    出典:

    200th Birth Anniversary of Heinrich Oberhoffer

    Heinrich Oberhoffer (Germany/Luxembourg, 1824 - 1885) - 15 Leichte, melodiöse, kleine Orgelstücke nebst einem Orgeltrio, Op. 56 (Augsburg: A. Böhm und Sohn (Moritz Böhm), 1885); No. 6. Moderato (C minor).

    今日はドイツ出身のルクセンブルクの作曲家・教会音楽家・音楽理論家・音楽教師、ハインリヒ・オーバーホファー生誕200年の誕生日です。今回はオーバーホファー作曲「15の易しく旋律的なオルガン小品と1つのオルゲルトリオ Op. 56」より第6曲 ハ短調を弾きました。

    ハインリヒ・オーバーホファーは1824年12月9日にプロイセン王国トリーア近郊のプファルツェル (Pfalzel) で、ゲルハルト・オーバーホファー (Gerhard Oberhoffer, ca. 1796 - 1851) の子として生まれました。父とヴィルヘルム・ヘルマン (Wilhelm Hermann) から音楽の手ほどきを受けたのち、1842年からブリュールの教職課程でミヒャエル・テプラー (Michael Toepler, 1804 - 1874) に学びました。卒業後の1844年から1852年までトリーアの聖ゲルヴァジウス教会学校で教師兼オルガン奏者を務めました。1856年にルクセンブルク市の師範学校で音楽教師となり、同市にある各所の教会でオルガン奏者も務めました。1885年5月30日にルクセンブルク市で亡くなりました。

    出典:

    • Anders-Malvetti, Ursula; Nitschké, Alain; Reuter, Caroline; Sagrillo, Damien (2016). Luxemburger Musikerlexikon. Komponisten und Interpreten. Band 1: 1815‒1950. 2. Auflage. Weikersheim: Margraf Publishers. ISBN 978-3-8236-1734-1, pages 886-906 (online; PDF; 225 KB)
    • Duhr, Marlène (2022). “Oberhoffer, Heinrich”. MGG Online. Retrieved 2024-12-08.

    2024-11-30

    200th Death Anniversary of Johann Georg Christoph Schetky

    Johann Georg Christoph Schetky (Germany/Scotland, 1737 - 1824) - Vivace in B flat major.

    今日はドイツ出身の英国スコットランドの作曲家・チェロ奏者、ヨハン・ゲオルク・クリストフ・シェトキー没後200年の命日です。今回はシェトキー作曲「ヴィヴァーチェ 変ロ長調」を弾きました。楽譜は「名匠たちによるクラヴサンのジャーナル Journal de clavecin par les meilleurs maîtres 」(Paris: Le Duc) 2年次 (1783年) 第11号の82-83頁に収録されています。

    ヨハン・ゲオルク・クリストフ・シェトキーは1737年8月19日にダルムシュタットで、ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ8世 (Ludwig VIII, 1691 - 1768) に仕える秘書兼音楽家のエルンスト・ゴットリープ・シェトキー (Ernst Gottlieb Schetky, 1716 - 1767) の子として生まれました。イェーナ大学で法律を学んだと伝えらていますが、15歳のときにダルムシュタット管弦楽団の首席チェロ奏者の職に応募。1758年の宮廷音楽家の給与支払名簿に掲載されています。宮廷副楽長のヨハン・ザームエル・エンドラー (Johann Samuel Endler, 1694 - 1762) に作曲を、マンハイム周辺で活動していたアントン・フィルス (Anton Fils, 1733 - 1760) にチェロを師事しました。

    1768年から1769年までハンブルクで活動したのち、ドイツとフランスを旅行。1772年の初めにロンドンに向かい、出版者のロバート・ブレムナー (Robert Bremner, ca. 1713 - 1789) に説かれてエディンバラ音楽協会の首席チェロ奏者に就任しました。オーストリア出身のトランペット奏者ヨーゼフ・ライナグレ1世 (Joseph Reinagle) の娘であるマリア・テレジア・ライナグレ (Maria Theresia Reinagle) と1774年に結婚し、11人の子をもうけました。子のうちジョン・ジョージ・シェトキー (John George Schetky, 1776 - 1831) は作曲家・チェロ奏者・音楽出版者・音楽教師に、ジョン・クリスティアン・シェトキー (John Christian Schetky, 1778 - 1874) は画家になりました。チェロの教え子に、義弟であるヒュー・ライナグレ (Hugh Reinagle, 1759 - 1785)、ヨーゼフ・ライナグレ2世 (Joseph Reinagle, 1762 - 1825) がいます。1815年までチェロ奏者として公開演奏を行い、1824年11月30日にエディンバラで亡くなりました。

    出典:

    2024-11-29

    100th Death Anniversary of Giacomo Puccini

    Giacomo Puccini (Italy, 1858 - 1924) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - "In quelle trine morbide" (Act 2) from Manon Lescaut.

    今日はイタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニ没後100年の命日です。今回はプッチーニ作曲の4幕のオペラ「マノン・レスコー」第2幕より「この柔らかなレースの中で」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第5曲 Melodia (dall'opera; Manon Lescaut) (6-7頁) として収録されています。

    プッチーニ家トスカーナ大公国ルッカ (Lucca) を拠点としていた音楽家一族で、音楽家としては4代前の高祖父で同名のジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini (I), 1712 - 1781) までさかのぼることができます。

    ジャコモ・プッチーニは1858年12月22日にミケーレ・プッチーニ (Michele Puccini, 1813 - 1864) の子としてルッカで生まれました。1874年からルッカのパチーニ音楽院 (Istituto Musicale Pacini) で、叔父 (母の弟) のフォルトゥナート・マージ (Fortunato Magi, 1839 - 1882) の下で音楽を学びはじめ、カルロ・アンジェローニ (Carlo Angeloni, 1834 - 1901) に管弦楽法を師事しました。1877年作曲のモテット「プラウディーテ・ポプリ Plaudite populi 」と「クレド」で最初の成功を収め、1880年から1883年までミラノ音楽院アントニオ・バッジーニ (Antonio Bazzini, 1818 - 1897)、アミルカレ・ポンキエッリ (Amilcare Ponchielli, 1834 - 1886)、アミントーレ・ガッリ (Amintore Galli, 1845 - 1919) に師事しました。音楽院時代の作品には「クレド」(1877) を転用した「4声のミサ曲」(1880)、「交響的前奏曲 イ長調」(1882)、卒業制作作品である「交響的奇想曲」(1883) などがあります。

    オペラ第1作「レ・ヴィッリ」(1884年ミラノ初演)、第2作「エドガール」(1889年ミラノ初演) に続く、第3作「マノン・レスコー」(1893年トリノ初演) の成功によりオペラ作曲家としての地位を確立し、 「ラ・ボエーム」(1896年トリノ初演)、「トスカ」(1900年ローマ初演)、「蝶々夫人」(1904年ミラノ初演)、「西部の娘」(1910年米国ニューヨーク初演)、「つばめ」(1917年モナコ公国モンテカルロ初演)、「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」の三部作 (1918年ニューヨーク初演)、「トゥーランドット」(遺作、未完) といった、現代でも主要なレパートリーとなっている作品を残しました。1924年11月29日に旅先のベルギー王国ブリュッセルで、喉頭癌の緊急手術のあとに起きた心臓発作のために亡くなりました。遺作となった「トゥーランドット」はフランコ・アルファーノ (Franco Alfano, 1875 - 1954) により補筆され、1926年にミラノで初演されました。

    出典:

    2024-11-14

    250th Birth Anniversary of Gaspare Spontini

    Gaspare Luigi Pacifico Spontini (Italy, 1774 - 1851) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Impitoyables dieux! (O Nume, tutelar degli infelici. Act 2) from La vestale.

    今日はイタリアの作曲家ガスパーレ・スポンティーニ生誕250年の誕生日です。今回はスポンティーニ作曲のオペラ「ヴェスタの巫女」第2幕より「無慈悲な女神よ」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第45曲 Preghiera (dall'opera: La Vestale) (66頁) として収録されています。

    ガスパーレ・スポンティーニは1774年11月14日に教皇領のマイオラーティ (Maiolati. 現在のイタリア領マイオラーティ Maiolati Spontini) で、職人兼小自作農の子として生まれました。楽才が認められたため、1793年にナポリピエタ・デイ・トゥルキーニ音楽院 (Conservatorio della Pietà dei Turchini. 現在のナポリ音楽院の前身校の一つ) に入学しました。音楽院ではニコラ・サーラ (Nicola Sala, 1713 - 1801)、ジャコモ・トリット (Giacomo Tritto, 1733 - 1824) に師事したと考えられていますが、スポンティーニ自身はドメニコ・チマローザ (Domenico Cimarosa, 1749 - 1801) の弟子であると主張していました。1796年の最初のオペラ・ブッファの初演以後、イタリアでオペラ作曲家として活動し、1802年の末に統領政府期フランスの首都パリに移りました。

    パリでは声楽教師として活動を始めますが、やがてフランス皇后ジョゼフィーヌ (Joséphine de Beauharnais, 1763 - 1814) の庇護を得てオペラを発表し、「ヴェスタの巫女」(1807年パリ・オペラ座初演)、「フェルナン・コルテス、またはメキシコ征服」(1809年パリ・オペラ座初演) で大成功を収めました。1817年にフランス国籍を取得。1814年よりプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (Friedrich Wilhelm III, 1770 - 1840) から招聘を受け、1820年にプロイセン王国の首都ベルリンに赴き宮廷音楽家として音楽総監督 (Generalmusikdirektor) に就任しました。外国人作曲家でありながら宮廷音楽家として高い地位にいたスポンティーニを快く思わないものは多く、1840年6月のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の死後、その後ろ盾を失ったスポンティーニは激しい攻撃にさらされ、1841年7月には不敬罪 (不得手なドイツ語での声明中の語句について告発された) により禁固9ヶ月の刑が確定し職を解かれます。1842年5月に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (Friedrich Wilhelm IV, 1795 - 1861) によりその判決は取り消されたものの、スポンティーニはイタリアに帰国しました。1850年9月に生地マイオラーティに戻り、1851年1月24日に同地で亡くなりました。

    出典:

  • Gerhard, Anselm (2001). “Spontini, Gaspare (Luigi Pacifico)”.Grove Music Online. Retrieved 2024-11-14.
  • 2024-11-09

    200th Death Anniversary of Jane Savage

    Jane Savage (England, 1752/1753 - 1824) - 6 Easy Lessons for the Harpsichord or Piano Forte, Op. 2; Sonata II (F major); Movement 1. Moderato (F major).

    今日はイングランドの作曲家・歌手・鍵盤楽器奏者、ジェイン・サヴェイジ没後200年の命日です。今回はサヴェイジ作曲「ハープシコードまたはピアノのための6つの易しいレッスン (ソナタ) Op. 2」の「ソナタ第2番 ヘ長調」より第1楽章を弾きました。

    ジェイン・サヴェイジは1752年または1753年に、作曲家・歌手・オルガン奏者のウィリアム・サヴェイジ (William Savage, 1720 - 1789) の子として生まれました。父の弟子たちとともに音楽を学んだと考えられており、父の弟子の一人リチャード・ジョン・サミュエル・スティーヴンズ (Richard John Samuel Stevens, 1757 - 1837) によると、彼は「サヴェイジ嬢」(Miss Savage) とウィリアム・サヴェイジとともにスティーヴンズ作の初期作品の三重唱曲を試唱しています。ジェインは私的な場でのみ演奏していたと考えられますが、両親の死の直前に自身の作品を自費出版しています。兄は母よりヨークシャーの地所を相続し、ジェインは父の遺産の唯一の相続人となりました。1793年にブルームズベリーセント・ジョージ教会 (St George's, Bloomsbury) で商人のロバート・ロールストン (Robert Rolleston) と結婚。1824年11月9日にロンドンのキャンバーウェルで亡くなりました。

    出典:

    2024-11-08

    100th Death Anniversary of Sergey Lyapunov

    Sergey Mikhaylovich Lyapunov (Сергей Михайлович Ляпунов, Russia, 1859 - 1924) - 6 Little Pieces for Piano (1918-1919. published in 1931 in Moscow); No. 1. C major.

    今日はロシアの作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、セルゲイ・リャプノフ没後100年の命日です。今回はリャプノフ作曲「6つのピアノ小品 6 Маленьких пьес для начинающих играть на фортепиано 」より第1曲 ハ長調を弾きました。この曲は変奏曲の形式で書かれているのですが、タチタチ (Тати-тати) とも呼ばれるこの主題は、ツェーザリ・キュイアナトーリー・リャードフニコライ・リムスキー=コルサコフアレクサンドル・ボロディンらによる合作のピアノ連弾作品「パラフレーズ集 Paraphrases 」(Hamburg: D. Rahter, 1879) の各曲で主題に使われたことでよく知られています。

    セルゲーイ・ミハーイロヴィチ・リャプノーフは1859年11月30日 (ユリウス暦18日) にヤロスラーヴリ (Ярославль) で、数学者・天文学者のミハイル・リャプノフ (Mikhail Lyapunov, 1820 - 1868) の子として生まれました。兄に数学者のアレクサンドル・リャプノフ (Aleksandr Lyapunov, 1857 - 1918)、弟に言語学者のボリス・リャプノフ (Boris Lyapunov, 1862 - 1943) がいます。

    1868年にヤロスラーヴリ近郊の天文台に勤めていた父が亡くなると、その翌々年の1870年にセルゲイは母ソフィヤ (Sofya Lyapunova, 1825 - 1879) に連れられニジニ・ノヴゴロドに移りました。ニジニ・ノヴゴロドではギムナージヤに通いつつ、ヴァシーリー・ヴィルアーン (Vasily Villoing, 1850 - 1922) が支部長を務めるロシア音楽協会ニジニ・ノヴゴロド支部の音楽講座で、1873年の支部設立時より学びました。ピアノの名手だった母に幼い頃よりピアノの手ほどきを受け、ニコライ・ルビンシテイン (Nikolay Rubinstein, 1835 - 1881) の推薦を受けて1878年にモスクワ音楽院に入学しました。音楽院ではカール・クリントヴォルト (Karl Klindworth, 1830 - 1916) にピアノを、ピョートル・チャイコフスキー (Potr Tchaikovsky, 1840 - 1893)、ニコライ・グーベルト (Nikolay Gubert, 1840 - 1888)、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に作曲法を師事し、1883年にピアノ科と作曲科を卒業しました。同年の末に知り合ったミリー・バラキレフ (Mily Balakirev, 1837 - 1910) とは彼の晩年に至るまで親しく交友しました。

    1885年からサンクトペテルブルクに定住。1890年に「ピアノ協奏曲第1番 変ホ短調 Op. 4」(1904年ベリャーエフ・グリンカ賞受賞) を作曲。1893年に帝室ロシア地理学会より依頼があり、モスクワの北東方向にあるヴォログダ、ヴィヤトカ (キーロフの旧称)、コストロマ周辺の地域でのロシア民謡収集をフョードル・イストーミン (Fyodor Istomin, 1856 - 1919/1920) とともに行いました。収集した民謡265曲のうち165曲を音楽協会より出版したほか、ピアノ伴奏付きの編曲も出版しました。1894年から1902年まで帝室礼拝堂の音楽助監督を、1902年から1910年までエレーナ学院 (Петербургский институт Святой Елены) 視学官を務め、1905年にバラキレフの無料音楽学校の理事に就任し、1908年から1911年まで同校の校長を務めました。バラキレフの死後、ペテルブルク音楽院で音楽理論とピアノの教師となりました。第一次世界大戦の前に、ピアノ奏者・指揮者としてドイツとオーストリアで数度の演奏旅行を行いました。1922年、教会閉鎖のために来たソビエト当局に音楽院内の教会の鍵を渡すのを拒否したために執行猶予付きの有罪判決 (禁固6ヶ月) を受けました。1923年にフランスパリに移住し、ロシア人亡命者のための音楽学校を組織したものの、翌年の1924年11月8日にパリで心臓発作のために亡くなりました。

    3人いる娘のうち二女のアナスタシーヤ・リャプノヴァ (Anastasiya Lyapunova, 1903 - 1973) は、レニングラード音楽院でピアノと音楽学を学んだのち、音楽理論の教師を経てペテルブルクのロシア公共図書館 (現在のロシア国立図書館) の司書となりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典: