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2026-05-29

150th Birth Anniversary of Christian Knayer

Christian Knayer (Germany, 1876 - 1932) - Always Jolly. Allegro (G major).

今日はドイツの作曲家・オルガン奏者・音楽批評家・音楽教師、クリスティアン・クナイヤー生誕150年の誕生日です。今回はクナイヤー作曲「いつも陽気 ト長調」を弾きました。楽譜は Children's Piano Pieces the Whole World Plays (New York: D. Appleton & Co., 1920) の93頁に収録されているものを用いたので、正式な題名ではない可能性があります。

クリスティアン・クナイヤーは1876年5月29日にドイツ帝国ヴュルテンベルク王国エスリンゲン・アム・ネッカー (Esslingen am Neckar) 近郊のベルクハイム (Berkheim. 現在はエスリンゲン・アム・ネッカー市に属する) で生まれました。ベーブリンゲン (Böblingen) のラテン語学校で学んだのち、1890年から1894年までシェーンタール (Schöntal) とウラッハ (Urach) の神学校で学び、1894年から1898年までエーバーハルト・カール大学テュービンゲンで哲学と国家学を学びました。1898年から1902年までエルンスト・ハインリヒ・ザイファルト (Ernst Heinrich Seyffardt, 1859 - 1942) にピアノを、ハインリヒ・ラング (Heinrich Lang, 1858 - 1919) に音楽理論を、サミュエル・デ・ランゲ2世 (Samuel de Lange jr., 1840 - 1911) に音楽理論とオルガンを師事しました。

1902年から1905年までイタリアのフィレンツェでオルガン奏者を、1906年から1909年までシュトゥットガルト実科学校の教員を務めました。1909年以降、シュトゥットガルトのノイエス・タークブラット (Neues Tagblatt) と官報 (Staatsanzeiger) で音楽批評を担当し、シュトゥットガルトに私立音楽学校を設立しました。1912年にソプラノ歌手のリューディア・シューマッハー (Lydia Knayer geb. Schumacher, b. 1883) と結婚。1914年には子のマンフレート (Manfred Knayer)が生まれました。1932年8月20日にシュトゥットガルトで亡くなりました。

出典:

  • Einstein, Alfred, ed. (1929). “Knayer”. Hugo Riemanns Musik-Lexikon. 11th edition. Leipzig: Max Hesse. page 913.
  • Müller, Erich H., ed. (1929). Deutsches Musiker-Lexikon. Dresden: Wilhelm Limpert.
  • Knayer, Christian, 1876-1932”. LC Name Authority File (LCNAF). The Library of Congress. Retrieved 2026-05-29.

2026-05-15

150th Birth Anniversary of Arthur De Meulemeester

Arthur De Meulemeester (Belgium/UK, 1876 - 1942) - Offertoire. Allegro giusto (D major. De Kerkorgelist, Vol.1. Leipzig: Breitkopf und Härtel. pages 40-41).

今日はベルギー・フランデレン出身の英国の作曲家・オルガン奏者・合唱指揮者、アルテュール・デ・メーレメーステル生誕150年の誕生日です。今回はデ・メーレメーステル作曲「オフェルトワール (奉献唱) ニ長調」を弾きました。

アルテュール・デ・メーレメーステルは1876年5月15日にベルギー王国オースト=フランデレン州メッレ (Melle) で生まれました。ワールスホート (Waarschoot) で教会使用人 (koster) 兼オルガン奏者を務めていた父から音楽の手ほどきを受けました。1889年にヘント王立音楽院 (Koninklijk Conservatorium Gent) に入学し、アドルフ・ドフルスト (Adolf D'Hulst, 1851 - 1916)、ヨゼフ・ティルボルフス (Jozef Tilborgs) にオルガンを、フランス・ヴァン・アヴェルマーテ (Frans Van Avermaete, 1845 - 1918) にピアノを、ポール・ルブラン (Paul Lebrun, 1863 - 1920) に和声法を、アドルフ・サミュエル (Adolphe Samuel, 1824 - 1898) に対位法を師事しました。16歳でオルガン科の優秀賞 (accessit) を獲得しましたが、深刻な病のために学業を中断せざるを得ませんでした。その後、シント=ニクラースの教員養成学校 (normaalschool) で学び、聖母教会 (Onze-Lieve-Vrouw-van-Bijstand-der-Christenenkerk) で臨時オルガン奏者を務めました。1894年にメヘレンレメンス音楽院 (Lemmensinstituut) に入学して、エドハル・ティネル (Edgar Tinel, 1854 - 1912) とオスカル・デペイト (Oscar Depuydt, 1858 - 1925) に4年間師事し、1898年に最優等の成績で卒業しました。同年10月にアイルランド北部のベルファスト (Belfast) にあるクロナード修道院 (Clonard Monastery) のオルガン奏者兼合唱指揮者に就任。自身が創設した聖ジョージ合唱団 (St George's Singing Choir) とともに、自作や古典の作品を定期的に演奏しました。1942年6月26日にベルファストで亡くなりました。

出典: Focquaert, Annelies. “De Meulemeester, Arthur”. Studiecentrum Vlaamse Muziek. Retrieved 2026-05-14.

2026-04-05

150th Birth Anniversary of Patrik Vretblad

Viktor Patrik Vretblad (Sweden, 1876 - 1953) - In memoriam pour orgue ou harmonium. Andante (maestoso) (F minor).

今日はスウェーデンの作曲家・オルガン奏者・音楽批評家・官吏、パトリック・ヴレートブラード生誕150年の誕生日です。今回はヴレートブラード作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「記念に へ短調」を弾きました。 楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第3巻 (Paris: Maurice Senart & Cie., 1912) の196頁に収録されています。

パトリック・ヴレートブラードは1876年4月5日にスウェーデン=ノルウェー連合王国時代のスウェーデンのコパルベリ県(現在のダーラナ県スヴァルトネス (Svartnäs) で、いずれも小学校教員のペール・ヴレートブラード (Per Vretblad) とエリザベト・ラーム (Elisabeth Rahm) の子として生まれました。ファールン (Falun) の学校で学んだのち、1895年から1900年までストックホルムの王立音楽院 (Kungliga Musikkonservatoriet. 現在のストックホルム音楽大学) で学び、ヒルダ・テーゲルストロム (Hilda Thegerström, 1838 - 1907) にピアノを、ヨーゼフ・デンテ (Joseph Dente, 1838 - 1905) に作曲法と対位法を師事しました。1900年から1906年までストックホルムのフランス改革派教会 (Franska reformerta församlingen) でオルガン奏者となりましたが、その一方で郵便局で官吏として働き始めました。1901年に作曲法を学ぶための奨学金を得てドイツに2年間留学。1907年にストックホルムのオスカル教会 (Oscarskyrkan) オルガン奏者に就任。1908年にヴァイオリン奏者のカーリン・ボードマン (Karin Bodman-Vretblad, b. 1883) と結婚。1953年1月15日にストックホルムで、満76歳で亡くなりました。

出典:

  • Hedberg, Walborg; Arosenius, Louise (1914). “Bodman-Vretblad, Ingrid Katarina (Karin)”. Svenska kvinnor från skilda verksamhetsområden : Biografisk uppslagsbok. Stockholm: Albert Bonnier. page 14.
  • Reese Willén, Anne (2016). “Patrik Vretblad”. Levande musikarv. Kungliga Musikaliska Akademien. Retrieved 2026-04-05.

2026-02-20

150th Birth Anniversary of Théodore Akimenko

Fedir Stepanovych Yakymenko (Федір Степанович Якименко, Фёдор Степанович Акименко, Théodore Akimenko, Ukraine/France, 1876 - 1945) - Album pittoresque. 8 Morceaux pour piano, Op. 59 (St. Petersburg: W. Bessel & Cie.); No. 3. Méditation. Andante sostenuto (F major).

今日はウクライナ出身の作曲家・ピアノ奏者・合唱指揮者、フョードル・ステパーノヴィチ・アキメンコ (フェーディル・ステパーノヴィチ・ヤクィメンコ、テオドール・アキメンコ) 生誕150年の誕生日 (異説あり) です。今回はアキメンコ作曲「ピトレスクなアルバム、ピアノのための8つの小品 Op. 59」より第3曲「瞑想曲 ヘ長調」を弾きました。曲集はロシアの美術家・画家・デザイナーのリュボーフィ・ポポーヴァ (Lyubov Popova, 1889 - 1924) に献呈されています。

フョードル・アキメンコは1876年2月15日 (ユリウス暦2月3日, Алейников 2012) または2月20日 (ユリウス暦2月8日, Baley 2001) にロシア帝国ハリコフ県クーピャンスク・ウエズドペースキ (Peski, 現在のウクライナ領ハルキウ州クープヤンシク・ラヨンのピスクィー Pisky) で生まれました。1886年に弟のヤーコフ・アキメンコ (ヤーキウ・ステポヴィイ, Yakiv Stepovy, 1883 - 1921) とともにサンクトペテルブルクの帝室礼拝堂合唱団 (Императорская придворная певческая капелла) の団員となり、1895年まで同団の音楽学校でピョートル・クラスノクツキー (Pyotr Krasnokutsky, 1849 - 1900) にヴァイオリンを、ゴルブノーフ (A. Ya. Gorbunov) にピアノを、アナトーリー・リャードフ (Anatoly Lyadov, 1855 - 1914) に和声法を師事しました。そのほかにミリイ・バラキレフ (Mily Balakirev, 1837 - 1910) とセルゲイ・リャプノフ (Sergey Lyapunov, 1859 - 1924) にも指導を受け、彼らの影響で作曲を始めました。アレクセイ・ペトローフ (Aleksey Petrov, 1859 - 1919) から和声法と対位法の指導を受けたのち、1895年からペテルブルク音楽院ニコライ・リムスキー=コルサコフ ( Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908)、アナトーリー・リャードフ (Anatoly Lyadov, 1855 - 1914)、ヤーゼプス・ヴィートルス (Jāzeps Vītols, 1863 - 1948) に作曲法を、フランチシェク・チェルニー (František Černý, 1830 - 1900) にピアノを、ルイ・ホーミリウス (Louis Homilius, 1845 - 1908) にオルガンを師事し、1900年に卒業。

1902年まで帝室礼拝堂合唱団で音楽教師を務め、1901年から1902年にかけての冬の3か月間には個人教授でイーゴリ・ストラヴィンスキー (Igor Stravinsky, 1882 - 1971) に和声法と対位法を教えています。また、1900年からベリャーエフ・サークルに所属しており、ロシア交響楽演奏会では自作の管弦楽作品がリムスキー=コルサコフとアレクサンドル・グラズノフ (Aleksandr Glazunov, 1865 - 1936) により指揮されました。1902年から1903年までトビリシロシア音楽協会ティフリス音楽学校 (Тифлисское музыкальное училище Императорского русского музыкального общества) の音楽クラス視学官と校長を務めたのち、1903年から1905年までフランスのニースの正教会で合唱指揮者、その後は1906年まで主にイタリア各地、フランスのパリ、スイスのジュネーヴで作曲家・ピアノ奏者として活動しました。1906年にはアレクサンドル・スクリャービン (Aleksandr Scriabin, 1872 - 1915) からピアノのレッスンを受けています。

1906年から1911年までハリコフでロシア音楽協会ハリコフ音楽学校 (現在のボリス・リャトシンシキー記念ハルキウ音楽専門大学) とハリコフ貴族女子学院 (Харьковский институт благородных девиц) で教師となりました。母校のペトログラード音楽院 (ペテルブルク音楽院から改称) に招聘されて1915年から講師、1916年から上級講師 (старший преподаватель) となり、1919年から1923年まで作曲法と音楽理論の二級教授となりました。1923年にソビエト連邦 (ロシア革命により前年に成立) を離れ亡命。1924年にチェコスロバキアの首都プラハにあるミハイロ・ドラホマーノフ記念ウクライナ高等教育大学 (Ukrajinský vyšší pedagogický institut) の音楽学部長に就任。ピアノ奏者・合唱指揮者としてヨーロッパ各地で演奏活動し、1928年以降はフランスのニースに、次いでパリに移住し、1932年よりセルゲイ・ラフマニノフ記念パリ・ロシア音楽院で副院長兼ピアノ教授に就任。1945年1月8日にパリで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2026-02-18

150th Birth Anniversary of Max Laurischkus

Max Laurischkus (Maksas Lauriškus, Russia/Germany, 1876 - 1929) - Notenbüchlein für musikalische A-B-C-Schützen. 30 Kleine melodische Klavierstückchen von 5, 6 und 7 Tönen in aufsteigender Schwierigkeit, nebst einiger notwendigen Vorübungen zum Gebrauch für den ersten Unterricht, Op. 26 (Berlin: N. Simrock, 1916); No. 28. Max und Moritz. Keck (C major).

今日は東プロイセン出身のドイツの作曲家マックス・ラウリシュクス生誕150年の誕生日です。リトアニア語名のマクサス・ラウリシュクス (Maksas Lauriškus) でも知られています。今回はラウリシュクス作曲「音楽初学者のための小楽譜帳、最初のレッスンに使うために必要な予備訓練課題集つきの、5、6、7音からなる段階的な難度の短く旋律的な30のピアノ小品 Op. 26」より第28曲「マックスとモーリッツ ハ長調」を弾きました。 題名は、ヴィルヘルム・ブッシュ (Wilhelm Busch, 1832 - 1908) 作の同名のドイツ語の絵本『マックスとモーリッツ』(1865) から取られたのでしょう。

マックス・ラウリシュクスは1876年2月18日にドイツ帝国プロイセン王国プロイセン州グンビンネン県のインスターブルク (Insterburg, 現在のロシア領カリーニングラード州チェルニャホーフスク Chernyakhovsk) で生まれました。首都ベルリン王立音楽演劇アカデミー (Königlich Akademische Hochschule für ausübende Tonkunst) でヴォルデマール・バルギール (Woldemar Bargiel, 1827 - 1897)、ラインホルト・ズコ (Reinhold Succo, 1837 - 1897)、ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク (Heinrich von Herzogenberg, 1843 - 1900) に師事。1929年11月17日にベルリンで、53歳で亡くなりました。

出典:

  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1940). “Laurischkus, Max”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (4th edition). New York: G. Schirmer. page 640.
  • 保坂 一夫; 小池 寿子「ブッシュ Wilhelm Busch」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社. コトバンク. Retrieved 2026-02-17.

2025-10-13

150th Birth Anniversary of Lucien Mawet

Lucien Mawet (Belgium, 1875 - 1947) - 4 Postludes à l'Ite missa est; III. In festis Duplicibus II (XIII S.) (8me mode). Assez animé (C major).

今日はベルギーの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、リュシアン・マヴェ生誕150年の誕生日です。今回はマヴェ作曲「イテ・ミサ・エストへの4つの後奏曲」より第3番 ハ長調を弾きました。楽譜は「グレゴリオ聖歌とセシリア作品の主題によるオルガンとハルモニウムの新しい曲集 Nouveau recueil de pièces d'orgue et d'harmonium sur des thèmes de mélodies grégoriennes et d'œuvres céciliennes 」(Paris: H. Hérelle & Cie, 1919) の60-63頁に収録されています。

リュシアン・マヴェは1875年10月13日にベルギー王国ワロン地域リエージュ州ショーフォンテーヌ (Chaudfontaine) で生まれ、リエージュ音楽院で学んだのち、同校の教師となりました。混声合唱団「ア・カペラ・リエジョワ A cappella liégeois 」を設立し、指揮者に就任。また、ユイ聖母協同教会 (Collégiale Notre-Dame de Huy) 合唱指揮者兼オルガン奏者、次いでリエージュ聖小ヤコブ教会 (Église Saint-Jacques-le-Mineur de Liège) オルガン奏者を務めました。作曲家としては歌曲、管弦楽のためのスケルツォ、管楽器と管弦楽のための作品、室内楽曲、オルガン曲、ピアノ曲などを作曲しています。

兄に作曲家・オルガン奏者のフェルナン・マヴェ (Fernand Mawet, 1870 - 1945)、弟に作曲家・チェロ奏者のエミール・マヴェ (Émile Mawet, 1884 - 1967) がいます。

出典:

2025-10-02

150th Birth Anniversary of Henry Février

Henry Février (France, 1875 - 1957) - Morceau de lecture à première vue (concours du Conservatoire de Paris, élèves hommes), pour piano. Andante (C sharp minor. Album Musica, No. 60. Paris: Pierre Lafitte, 1907).

今日はフランスの作曲家アンリ・フェヴリエ生誕150年の誕生日です。今回はフェヴリエ作曲「(パリ音楽院ピアノ科試験、男子学生用) 初見奏課題曲 嬰ハ短調」を弾きました。

アンリ・フェヴリエは1875年10月2日にフランス共和国の首都パリで、建築家ジュール・フェヴリエ (Jules Février, 1842 - 1937) の子として生まれました。アンドレ・メサジェ (André Messager, 1853 - 1929) の個人レッスンを受け (後にフェヴリエはメサジェの伝記 André Messager: mon maître, mon ami, 1948 を書いています)、1894年にパリ音楽院に入学。音楽院ではラウル・プーニョ (Raoul Pugno, 1852 - 1914) に和声法を、ジュール・マスネ (Jules Massenet, 1842 - 1912)、ガブリエル・フォーレ (Gabriel Fauré, 1845 - 1924)に作曲法を師事しました。フォーレの作曲クラスの学友にはモーリス・ラヴェル (Maurice Ravel, 1875 - 1937)、ラウル・ラパラ (Raoul Laparra, 1876 - 1943)、ジョルジェ・エネスク (George Enescu, 1881 - 1955) がいました。

卒業後、パリのサロンで名が知られるようになると、委嘱を受けてオペラ「盲目の王 Le roi aveugle 」を作曲し、1906年にオペラ=コミック座で上演しました。1909年に、モーリス・メーテルリンク (Maurice Maeterlinck, 1862 - 1949) の戯曲に基づく抒情劇「モナ・ヴァンナ Monna Vanna 」をパリ・オペラ座で上演し、舞台音楽の作曲家としての地位を確立しました。また、ヴァイオリンソナタ (1901)、チェロソナタ (1928) といった室内楽の作曲家としても高く評価され、そのほかに多くの歌曲や「日本の版画 Estampes japonaises 」(1938) などのピアノ曲も作曲しています。1920年代には無声映画のための管弦楽曲を数多く作曲しました。1957年7月8日にパリで亡くなりました。

子にピアノ奏者・音楽教師のジャック・フェヴリエ (Jacques Février, 1900 - 1979) がいます。

出典:

2025-08-09

150th Birth Anniversary of Albert Ketèlbey

Albert William Ketèlbey (England, 1875 - 1959) / Rolf Bender - Zigeuner-Walzer ; Valse tzigane ; Gipsy Waltz. Tempo di Valse moderato (A minor. Mainz: B. Schott's Söhne, 1928).

今日はイングランドの作曲家・オルガン奏者・指揮者、アルバート・ウィリアム・ケテルビー生誕150年の誕生日です。今回はケテルビー作曲、ヴァイオリンとピアノのための「ジプシー・ワルツ イ短調」の、ロルフ・ベンダーによるピアノ独奏編曲を弾きました。編曲者のベンダーについては詳細が分からなかったのですが、ショット社で編曲家として活動した人物のようです。

アルバート・ケテルビーは1875年8月9日に英国イングランドのバーミンガム (Birmingham) 近郊の街アストン (Aston. 現在はバーミンガム市内に含まれる) で生まれました。アルフレッド・ゴール (Alfred Robert Gaul, 1837 - 1913)、ハーバート・ウェアリング (Herbert Wareing, 1857 - 1918) に師事したのち、13歳のときにヴィクトリア女王奨学金 (作曲) を得て、ロンドンのトリニティ・カレッジ・オブ・ミュージックでジョージ・バンブリッジ (George Edmund Bambridge, 1842 - 1916)、ゴードン・ソーンダーズ (Gordon Saunders, 1837 - 1912)、フレデリック・コーダー (Frederick Corder, 1852 - 1932) に師事しました。

16歳でウィンブルドンの聖ジョン教会 (St. John's Church in Wimbledon) オルガン奏者に、22歳でヴォードヴィル劇場 (Vaudeville Theatre) 音楽監督に就任。作曲家としては「ファントム・メロディ The Phantom Melody 」(1912. 原曲はチェロとピアノのための作品)、「修道院の庭にて In a Monastery Garden 」(1915)、「ペルシャの市場にて In a Persian Market 」(1920)、「中国寺院の庭にて In a Chinese Temple Garden 」(1923)、「心の奥深く Sanctuary of the Heart 」(1924)、「エジプトの秘境にて In the Mystic Land of Egypt 」(1931) など、軽音楽の分野の管弦楽曲で人気を博したほか、コミック・オペラや室内楽曲などを書いています。晩年はワイト島で過ごし、1959年11月26日にワイト島北岸のカウズ (Cowes) で亡くなりました。

出典

2025-08-06

150th Birth Anniversary of Marcel Labey

Marcel Labey (France, 1875 - 1968) - 2 Pièces pour harmonium, Op. 14; No. 2. Élévation (D minor. Juillet 1913).

今日はフランスの作曲家・指揮者、マルセル・ラベ生誕150年の誕生日です。今回はラベ作曲「ハルモニウムのための2つの小品 Op. 14」より第2曲「エレヴァシオン (聖体奉挙) ニ短調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第4巻 (Paris: Maurice Senart & Cie., 1914) の162-168頁に収録されています。

マルセル・ラベは1875年8月6日にフランス共和国セーヌ=エ=オワーズ県ル・ヴェジネ (Le Vésinet) で弁護士の子として生まれました。当初、パリで法律を学んで1897年に法学博士を取得し、1901年まで弁護士として活動しました。学位取得後に音楽の道に転向してスコラ・カントルム (Schola Cantorum de Paris) に入学し、エリ=ミリアム・ドラボルド (Élie-Miriam Delaborde, 1839 - 1913)、ルイ・ブライトナー (Louis Breitner, b. 1851) にピアノを、ルネ・ルノルマン (René Lenormand, 1846 - 1932) に和声法を、ヴァンサン・ダンディ (Vincent d'Indy, 1851 - 1931) に作曲法を師事しました。1903年から1913年まで同校でダンディの管弦楽クラスの助手となり、ピアノ教授となりました。ダンディの死後の1931年から1935年までは同校の理事を務めました。1935年から1954年まで、共同設立者の一人となったエコール・セザール・フランク (École César Franck) でも理事を務めました。1968年11月25日にムルト=エ=モゼル県ナンシー (Nancy) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典

  • Grove Music Online. Retrieved 2025-08-06.
  • Argoeuves, Michel Gorguette d' (1940). “Marcel LABEY”. Musica et Memoria. Retrieved 2025-08-06.

2025-07-31

150th Birth Anniversary of Alexandre Denéréaz

Alexandre Denéréaz (Switzerland, 1875 - 1947) - 3 Préludes pour orgue ou harmonium; No. 3. Allegro (B flat major).

今日はスイスの作曲家・オルガン奏者・合唱指揮者・音楽著述家・音楽教師、アレクサンドル・ドネレア生誕150年の誕生日です。今回はドネレア作曲「オルガンまたはハルモニウムのための3つの前奏曲」より第3番 変ロ長調を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第5巻 (Paris: Maurice Senart & Cie., 1914) の67-68頁に収録されています。

アレクサンドル・ドネレアは1875年7月31日にスイス西部にあるローザンヌで、ピアノ奏者・ヴァイオリン奏者・合唱指揮者のシャルル=セザール・ドネレア (Charles-César Denéréaz) と、ピアノ奏者のシャルロット=エリーズ・ピレ (Charlotte-Elise Pilet) の子として生まれました。ローザンヌのコレージュ・クラシークでシャルル・ブランシェ (Charles Blanchet, 1833 - 1900) にピアノ、オルガン、和声法のレッスンを受けました。1891年から1895年までドイツ帝国ザクセン王国ドレスデン王立ドレスデン音楽院 (Königliches Konservatorium zu Dresden) で、カール・ハインリヒ・デーリング (Karl Heinrich Döring, 1834 - 1916) にピアノを、パウル・ヤンセン (Paul Janssen, 1852 - 1921) にオルガンを、フェーリクス・ドレーゼケ (Felix Draeseke, 1835 - 1913) に作曲法を師事。1896年に「交響曲第1番」で作曲の一等賞を獲得。

同年、ローザンヌのサン=フランソワ教会 (Église Saint-François de Lausanne) オルガン奏者に就任し (師シャルル・ブランシェの後任)、ローザンヌ音楽院 (Conservatoire de Lausanne) の作曲法、和声法、対位法の教師となりました。1897年から1934年までローザンヌ男声合唱団 (Chœur d'hommes de Lausanne) とサント=セシル混声合唱団 (Chœur mixte Saint-Cécile) の指揮者。1918年から1945年まで大学で音楽美学の私講師となりました。1933年にピアノ奏者のマルグリット・シャイエ (Marguerite Chaillet) と結婚。1947年7月25日にローザンヌで亡くなりました (満71歳)。

教え子に以下の人物がいます

出典:

2025-07-29

150th Birth Anniversary of Antoni Grudziński

Antoni Wawrzyniec Grudziński (Poland, 1875 - 1929) - Berceuse et prélude pour piano (Warsaw: Jan Fiszer, 1898); No. 2. Prélude. Andante (G major). Dedicated to Mademoiselle Eléonore Kanusewicz.

今日はポーランドの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、アントニ・ヴァヴジニェツ・グルヅィニスキ生誕150年の誕生日です。今回はグルヅィニスキ作曲「ピアノのための子守歌と前奏曲」より第2曲「前奏曲 ト長調」を弾きました。

アントニ・グルヅィニスキは1875年7月29日にロシア帝国沿ヴィスワ地方 (Привислинский край. ロシア帝国領ポーランド) セイニ (Sejny) で生まれました。1929年2月4日にワルシャワで亡くなり、ワルシャワのポウォンズキ墓地 (Cmentarz Powązkowski w Warszawie) に埋葬されました。

子に作曲家・音楽教師のチェスワフ・グルヅィニスキ (Czesław Grudziński, 1911 - 1992)、孫 (チェスワフの子) に音楽著述家・音楽批評家のアントニ・グルヅィニスキ (Antoni Grudziński) がいます。

出典:

2025-06-05

150th Birth Anniversary of Konstantin Eiges

Konstantin Romanovich Eyges (Ukraine/Russia, 1875 - 1950) - Études-fantaisies pour piano, Heft 1, Op. 22 (Moscow: Muzsketor gosizdata / Wien: Universal Edition, 1927); No. 2. Étude polyphonique. Moderato. Cantabile (B flat major).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・ピアノ奏者・音楽批評家・音楽教師、コンスタンチーン・ロマーノヴィチ・エイゲス生誕150年の誕生日です。今回はエイゲス作曲「幻想練習曲集 第1巻 Op. 22」(全5曲) より第2曲「多声的練習曲 変ロ長調」を弾きました。

コンスタンチン・エイゲスは1875年6月5日 (ユリウス暦5月24日) にロシア帝国ハリコフ県ボゴドゥーホフ (現ウクライナ領ハルキウ州ボホドゥーヒウ Bohodukhiv) で生まれました。1900年から1905年までモスクワ音楽院で学び、ミハイル・イッポリトフ=イヴァノフ (Mikhail Ippolitov-Ivanov, 1859 - 1935) に作曲法を、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を、アドーリフ・ヤロシェーフスキー (Adolf Yaroshevsky, 1863 - 1910) にピアノを師事しました。

その後はピアノ奏者、ピアノと音楽理論の教師として活動しており、1919年から1926年までモスクワのヤロシェーフスキー音楽学校校長を務め、1939年から1941年までモスクワの中央通信制教育大学、1941年から1943年までスヴェルドロフスク音楽院(現在のモデスト・ムソルグスキー記念ウラル音楽院)、1944年にモスクワの赤軍高等軍楽隊長大学で、音楽理論を教えました。ピアノの教え子にアレクセイ・スタンチンスキー (Aleksey Stanchinsky, 1888 - 1914) がいます。1910年代から1920年代にかけて、モスクワのパーヴェル・ラーム (Pavel Lamm, 1882 - 1951) のアパートで開かれていた音楽サークルに参加していました。1950年12月2日にモスクワで亡くなりました。

弟に音楽批評家・ピアノ奏者のヨシフ・エイゲス (Iosif Eiges, 1887 - 1953)、子に作曲家・ピアノ奏者のオレーク・エイゲス (Oleg Eiges, 1905 - 1992) がいます。

出典:

2025-04-30

150th Birth Anniversary of Ilya Sats

Ilya Aleksandrovich Sats (Ilja Satz ; Илья Александрович Сац ; Ілля Олександрович Сац, 1875 - 1912) - Prélude pour piano. Tranquillo (A minor. Moscow: P. Jurgenson).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・指揮者・音楽教師、イリヤー・アレクサーンドロヴィチ・サーツ (イリャー・オレクサーンドロヴィチ・サーツ) 生誕150年の誕生日です。今回はサーツ作曲「前奏曲 イ短調」を弾きました。

イリヤー・サーツは1875年4月30日 (ユリウス暦4月18日) にロシア帝国キエフ県ラドムィスリ郡チョルノーブィリ (チェルノブイリ) で、弁護士の子として生まれました。キーウ (キエフ) に移り1891年からチェロを学び始め、キーウ音楽学校 (現在のグリエール記念キーウ市立音楽アカデミー) を経て、1897年から1899年までモスクワ音楽院チェロ科で学び、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を師事しました。

1900年に国外に移り、スイスでゲオールギー・プレハーノフ (Georgy Plekhanov, 1856 - 1918)、ヴラディーミル・ボーンチ=ブルエーヴィチ (Vladimir Bonch-Bruyevich, 1873 - 1955) といった社会主義活動家と交流を持ちました。モスクワに戻ると反政府活動との関わりから警察に捜索されたため、イルクーツクに移ることを余儀なくされました。1900年から1903年までイルクーツクで合唱とチェロの指導者となり、新聞「イルクーツク報知 Иркутские ведомости 」に寄稿しました。1903年から1907年までモスクワ・フィルハーモニー協会音楽演劇学校指揮科で学びました。 1905年にはポヴァルスカヤ演劇スタジオ (Театр-студия на Поварской) の音楽部長に、1906年にモスクワ芸術座の音楽部長兼指揮者に就任。劇音楽やオペラの作曲家として評価を得て、1908年には代表曲となるモーリス・メーテルリンク (Maurice Maeterlinck, 1862 - 1949) の童話劇「青い鳥 L'oiseau bleu」のための音楽 (モスクワ芸術座) を作曲しました。作曲家としては舞台音楽のほか管弦楽曲、ピアノ曲、ロマンス、歌曲などを書いています。1912年10月24日 (ユリウス暦10月12日) にモスクワで死去 (満37歳)。モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されました。

娘に演出家・劇作家・俳優・劇場支配人のナターリヤ・サーツ (Nataliya Sats, 1903 - 1993) がいます。

出典:

  • Сац Илья Александрович”. Большая российская энциклопедия. 2023-03-31. Retrieved 2025-04-29.
  • Келдыш, Юрий Всеволодович, ed. (1973-1982). “Сац И. А.”. Музыкальная энциклопедия. Советская энциклопедия, Советский композитор. Retrieved 2025-04-29.
  • ナターリヤ サーツ”. 20世紀西洋人名事典. コトバンク. Retrieved 2025-04-29.

2025-03-21

150th Birth Anniversary of Amédée Reuchsel

Amédée Reuchsel (France, 1875 - 1931) - Interlude pour orgue ou harmonium. Andantino non troppo (E major). À son collègue Monsieur l'abbé Joubert.

今日はフランスの作曲家・オルガン奏者、アメデ・ロイクセル (アメデ・ルクセル) 生誕150年の誕生日です。今回はロイクセル作曲「間奏曲 ホ長調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l'orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第2巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912) の116-117頁に収録されており、この曲集の編纂者であるジョゼフ・ジュベール (Joseph Joubert, 1878 - 1963) に献呈されています。

ロイクセル家はドイツ系フランス人の音楽一族で、アメデ・ロイクセルの祖父であるヨハン・ロイクセル (Johann Reuchsel, 1791/1792 - 1871/1873) はザクセン=マイニンゲン公国のベテンハウゼン (Bettenhausen) 出身のオルガン奏者・指揮者です。1853年にヨハンの家族はフランス王国のリヨンに移住。ヨハンの子の多くは音楽家となり、そのうちの作曲家・オルガン奏者レオン・ロイクセル (Léon Reuchsel, 1840 - 1915) の子に、作曲家・オルガン奏者のアメデ・ロイクセル (Amédée Reuchsel, 1875 - 1931)、作曲家・ヴァイオリン奏者・オルガン奏者のモーリス・ロイクセル (Maurice Reuchsel, 1880 - 1968) がいます。アメデの子ウジェーヌ・ロイクセル (Eugène Reuchsel, 1900 - 1988) は作曲家・ピアノ奏者・オルガン奏者となりました。

アメデ・ロイクセルは1875年3月21日にフランス共和国ローヌ県の県都リヨンで生まれました。ブリュッセル王立音楽院オーギュスト・デュポン (Auguste Dupont1827 - 1890) にオルガンを、アルフォンス・メリ (Alphonse Mailly, 1833 - 1918) に和声法を、エドハル・ティネル (Edgar Tinel, 1854 - 1912) に作曲法を師事し、オルガン、和声法、対位法、作曲法の4つの一等賞を取得。次いでパリでガブリエル・フォーレ (Gabriel Fauré, 1845 - 1924) に師事。

学生時代にリヨンのリセ=アンペール付属礼拝堂のオルガン奏者を務め、次いでリヨン大教会堂 (Grand temple de Lyon) オルガン奏者となり、パリに移ってからサン=ドニ=デュ=サン=サクルマン教会 (Église Saint-Denys-du-Saint-Sacrement) のオルガン奏者を務めました。1908年にシャルティエ賞 (Prix Chartier. 優れた室内楽作品に与えられる作曲賞)を受賞。1931年7月10日にロワレ県モントロー (Montereau) で亡くなりました。

出典:

2025-03-14

150th Birth Anniversary of Norman O'Neill

Norman Houstoun O'Neill (England, 1875 - 1934) - 4 Little Dances for Pianoforte (London: The Anglo-French Music Co., 1923); No. 1. Gopak. Brightly and rather quickly (A minor).

今日はイングランドの作曲家・指揮者・音楽教師、ノーマン・オニール生誕150年の誕生日です。今回はオニール作曲「ピアノのための4つの小舞曲」より第1曲「ホパーク (ゴパーク) イ短調」を弾きました。

ノーマン・オニールは1875年3月14日に英国の首都ロンドンで、画家ジョージ・バーナード・オニール (George Bernard O'Neill, 1828 - 1917) の子として生まれました。1890年から1893年までロンドンでアーサー・サマヴェル (Arthur Somervell, 1863 - 1937) に師事したのち、1893年から1897年までドイツ帝国フランクフルト・アム・マインホッホ音楽院イヴァン・クノル (Iwan Knorr, 1853 - 1916) に師事しました。同音楽院の英国と英領ヴィクトリア植民地 (オーストラリア) 出身の学友にヘンリ・バルフォア・ガーディナー (Henry Balfour Gardiner, 1877 - 1950)、ロジャー・クィルター (Roger Quilter, 1877 - 1953)、シリル・スコット (Cyril Scott, 1879 - 1970)、パーシー・グレインジャー (Percy Grainger, 1882 - 1961) がおり、いずれもクノルの教え子である彼ら (オニールを含む) は「フランクフルト・グループ Frankfurt group 」または「ギャング gang 」と呼ばれています。

オニールは1909年から1919年までと1920年から1932年までヘイマーケット王立劇場 (Theatre Royal Haymarket) の常任指揮者を、1919年から1920年までセント・ジェームズ劇場 (St James's Theatre) の指揮者を務めました。1916年から1934年までロイヤル・フィルハーモニック協会の会計係。1924年から王立音楽アカデミーの教員、英国王立音楽検定協会 (Associated Board of the Royal Schools of Music, ABRSM) の審査員を務めました。1934年3月3日にロンドンで亡くなりました。

妻のアディーン・オニール (Adine O'Neill, née Ruckert, 1875 - 1947) はピアノ奏者・音楽批評家・音楽教師で、1903年からハマースミスセントポール女学校の音楽科長を務めました。

出典:

2025-03-10

150th Birth Anniversary of Aleksandr Goldenweiser

Aleksandr Borisovich Goldenweiser (Александр Борисович Гольденвейзер, Moldova/Russia, 1875 - 1961) - 15 Fughettas, Op. 16; No. 13. Andante (A minor).

今日はベッサラビア出身のロシアの作曲家・ピアノ奏者・音楽批評家・音楽教師、アレクサンドル・ボリーソヴィチ・ゴリデンヴェイゼル生誕150年の誕生日です。今回はゴリデンヴェイゼル作曲「ピアノのための15のフゲッタ Op. 16」より第13番 イ短調を弾きました。

アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルは1875年3月10日 (ユリウス暦2月26日) にロシア帝国ベッサラビア県の県都キシニョーフ (現在のモルドバの首都キシナウ) で生まれました。子供の頃にヴァシーリー・プロクーニン (Vasily Prokunin, 1848 - 1910) からピアノのレッスンを受けました。モスクワ音楽院アレクサンドル・ジローティ (Aleksandr Siloti, 1863 - 1945)、パーヴェル・パプスト (Pavel Pabst, 1854 - 1897) にピアノを、ヴァシーリー・サフォーノフ (Vasily Safonov, 1852 - 1918) に室内アンサンブルを師事。1895年に金メダルを獲得して音楽院ピアノ科を卒業。アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906)、ミハイル・イッポリトフ=イヴァノフ (Mikhail Ippolitov-Ivanov, 1859 - 1935) に作曲法を、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を師事して1897年に音楽院作曲科を卒業しました。

1904年から1906年までモスクワ・フィルハーモニー協会音楽演劇学校 (現在のロシア舞台芸術アカデミー) のピアノ教師。1906年から1961年までモスクワ音楽院教授を、1922年から1924年、1939年から1942年まで同院院長を務めました。1932年にモスクワ音楽院附属中央音楽学校を設立。 1961年11月26日にモスクワ近郊のニコーリナ・ゴラー (Nikolina-Gora) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2025-02-10

150th Birth Anniversary of John Mokrejs

John Mokrejs (USA, 1875 - 1968) - Musical Sketches. 6 First and Second Grade Pieces for the Piano, Op. 11 (Chicago: Clayton F. Summy Co., 1908); No. 3. In the Hayloft. Dreamily (B flat major). To Mr. A. D. Jewett.

今日は米国の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、ジョン・モクレイス生誕150年の誕生日です。今回はモクレイス作曲「音楽のスケッチ集、ピアノのための第1、2級の6つの小品 Op. 11」より第3曲「干し草置き場の屋根裏で 変ロ長調」を弾きました。

ジョン・モクレイスは1875年2月10日にアイオワ州シーダーラピッズで、ボヘミア出身のビール醸造所労働者 (brewery worker) であるウェンシル・モクレイス (Wencil Mokrejs, 1836 - 1875) の子として生まれました。作曲家・ピアノ教師として活動し、1968年11月22日に生地のシーダーラピッズで、93歳という高齢で亡くなりました。シーダーラピッズにあるチェコ国立墓地 (Czech National Cemetery, Cedar Rapids, Iowa) に埋葬されています。

出典:

  • Iowa, U.S., Births (series) 1880-1904, 1921-1944 and Delayed Births (series), 1856-1940, via Ancestry.com. Retrieved 2025-02-10.
  • Iowa, U.S., Death Records, 1880-1968, via Ancestry.com. Retrieved 2025-02-10.
  • Find a Grave. Retrieved 2025-02-10.

2025-02-07

150th Birth Anniversary of Erkki Melartin

Erkki Melartin (Finland, 1875 - 1937) - Kaksi viikkoa. Pianokappaleita nuorisolle [Two weeks. Piano pieces for the Youth], Op. 143 (Helsinki: Musiikkikeskus OY, 1928); No. 4. Tanssi hämärissä [Dance in the Twilight]. Allegretto (A minor).

今日はフィンランドの作曲家・指揮者・音楽教師、エルッキ・メラルティン生誕150年の誕生日です。今回はメラルティン作曲「二週間、若者のためのピアノ小品集 Op. 143」(全7曲) より第4曲「薄明の舞曲 イ短調」を弾きました。

エルッキ・メラルティンは1875年2月7日にフィンランド大公国ヴィープリ州のカキサルミ (Käkisalmi. 現在のロシア領プリオゼルスク Priozersk) で生まれました。1892年から1899年までヘルシンキ音楽学校 (現在のシベリウス音楽院) で校長のマルティン・ヴェーゲリウス (Martin Wegelius, 1846 - 1906) に、1899年から1901年までオーストリア=ハンガリー帝国の首都ヴィーンでローベルト・フックス (Robert Fuchs, 1847 - 1927) に師事しました。母校のヘルシンキ音楽学校で1895年から1898年まで補助教員、1901年から1907年まで教員として音楽理論を教えました。1908年から1911年までヴィープリ (現在のロシア領ヴィーボルク) の管弦楽団で指揮者として活動し、同地でオーケストラの学校を設立しました。カール・エークマン (Karl Ekman, 1869 - 1947) の後任として1911年から1936年までヘルシンキ音楽学校の校長を務めました。1919年に名誉教授の称号を取得。指揮者としてフィンランド国外をしばしば演奏旅行で巡り、スカンジナビア、ロシア、ドイツ、北アフリカ、インド、エジプトを訪れました。1937年2月14日にヘルシンキプキンマキ地区 (Pukinmäki, Helsinki) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2025-02-02

150th Birth Anniversary of Fritz Kreisler

Fritz Kreisler (Austria/USA, 1875 - 1962) - Klassische Manuskripte (Klavier 2 händig); No. 2. Andantino im Stile von Padre Martini (F major. Mainz: B. Schott's Söhne, 1911).

今日はオーストリア出身の作曲家・ヴァイオリン奏者、フリッツ・クライスラー生誕150年の誕生日です。今回はクライスラー作曲「パードレ・マルティーニの様式によるアンダンティーノ」のピアノ独奏のために書かれたヴァージョンを弾きました。初版ではパードレ・マルティーニ (Padre Martini)、つまりジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ (Giovanni Battista Martini, 1706 - 1784) が作曲した楽曲の手稿譜を基にしたクライスラーによる編曲、という形で出版されましたが、1935年にこの作品を含む出典不明の古典的作品をクライスラーが偽作であることを認めました。原曲と言えるような過去の作曲家の手稿譜 (Klassische Manuskripte ; Classical Manuscripts) は存在せず、実はクライスラーのオリジナル作品だったということです。

以下に、初版 (ヴァイオリンとピアノの編成) に書かれた註釈を掲載します。

..Notice..

The original manuscripts used for these transcriptions are the private property of Mr. Fritz Kreisler and are now published for the first time; they are moreover so freely treated that they constitute, in fact, original works. Further transcriptions of any of these compositions wiil therefore constitute an infringement of copyright.

When played in public, Mr. Kreisler's name must be mentioned on the programme.

THE PUBLISHERS.

フリッツ・クライスラーは1875年2月2日にオーストリア=ハンガリー帝国の首都ヴィーンで生まれました。4歳のときに医師でアマチュアのヴァイオリン奏者でもあった父からヴァイオリンの手ほどきを受け、次いでジャック・アウバー (Jacques Auber) のレッスンを受けました。1882年にヴィーン楽友協会音楽院に最年少 (7歳) の学生として入学し、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世 (Joseph Hellmesberger Jr., 1855 - 1907) にヴァイオリンを、アントン・ブルックナー (Anton Bruckner, 1824 - 1896) に音楽理論を師事し、金メダルを獲得して音楽院を卒業。1885年から1887年までパリ音楽院で、ジョゼフ・ランベール・マサール (Joseph Lambert Massart, 1811 - 1892) にヴァイオリンを、レオ・ドリーブ (Léo Delibes, 1836 - 1891) に作曲法を師事し、12歳で一等賞を獲得して卒業。以後、ヴァイオリンの指導を受けることはありませんでした。

1889年から1890年にかけて、モーリツ・ローゼンタール (Moriz Rosenthal, 1862 - 1946) の共演者として米国を演奏旅行。ヴィーンに戻るとギムナジウムで2年間、さらに医科進学の予備校生として2年間学び、その後兵役に就くといったヴァイオリン演奏から遠ざかった時期を過ごしました。1896年に再び演奏家を志し、ヴィーンの宮廷楽団への入団を試みますが失敗。1899年12月のアルトゥール・ニキシュ (Arthur Nikisch, 1855 - 1922) 指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演が国際的な活躍の契機となりました。

第一次世界大戦が勃発すると陸軍士官としてオーストリア帝国軍に従軍。負傷して除隊となり、1914年11月に妻の母国である米国に向かいます。1923年の春には日本を訪問。1924年から1934年までベルリンに移住。ナチス・ドイツがオーストリアを併合するとフランス市民権を取得。1939年には米国に逃れ、1943年に米国市民権を取得。公開演奏としては1947年11月1日のカーネギー・ホールでの公演が最後となりました。1962年1月29日にニューヨークで亡くなりました。

出典:

  • Katz, Mark (2003/2016). “Kreisler, Fritz”. MGG Online. Retrieved 2025-02-02.
  • Schwarz, Boris (2001). “Kreisler, Fritz”. Grove Music Online. Retrieved 2025-02-02.
  • 岩井宏之「クライスラー」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館. コトバンク. Retrieved 2025-02-02.

2025-01-11

150th Birth Anniversary of Reinhold Glière

Reinhold Glière (Рейнгольд Моріцевич Глієр, Рейнгольд Морицевич Глиэр, Ukraine/Russia, 1875 - 1956) - 24 Pièces caractéristiques pour la jeunesse pour piano, Op. 34; No. 10. Au berceau ; У колыбели. Andante (D flat major).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・指揮者・音楽教師、レインゴリト・グリエール (レインホリド・フリイェール) 生誕150年の誕生日です。 今回はグリエール作曲「若者のための24の性格的小品 Op. 34」より第10曲「ゆりかごの中で 変ニ長調」を弾きました。

レインゴリト・グリエールは1875年1月11日 (ユリウス暦1874年12月30日) にロシア帝国キエフ県の県都キエフ (キーウ) で、 ザクセン王国ウンターザクセンベルク (現在のクリンゲンタール Klingenthal) 出身の管楽器製作者エルンスト・モーリツ・グリーア (Ernst Moritz Glier, 1834 - 1896) と、ポーランド立憲王国ワルシャワ出身のユゼファ・コルチャク (Józefa (Josephine) Korczak, 1849 - 1935) の二男として生まれました。キエフのルーテル聖カタリナ教会 (Лютеранська кірха Святої Катерини) で洗礼を受け、ラインホルト・エルンスト・グリーア (Reinhold Ernst Glier) と名付けられました。

キエフのギムナジウムで学んだのち、1891年からロシア音楽協会附属キエフ音楽学校 (現在のレインゴリト・グリエール記念キーウ音楽大学) で、オタカル・シェフチーク (Otakar Ševčík, 1852 - 1934) にヴァイオリンを、エウゲニュシュ・リプ (Eugeniusz Ryb, 1859 - 1924) に音楽理論を師事し、1894年に卒業。キエフ音楽学校時代の親友にイヴァン・クルィジャノーフスキー (Ivan Kryzhanovsky, 1867 - 1924)、ボレスラーフ・ヤヴォールスキー (Boleslav Yavorsky, 1877 - 1942)、レオニート・ニコラーエフ (Leonid Nikolayev, 1878 - 1942) がいます。1891年に演奏旅行で指揮者としてキエフを訪れたピョートル・チャイコフスキー (Pyotr Tchaikovsky, 1840 - 1893) の演奏に触れ、モスクワで学ぶことを決意しています。1894年に入学したモスクワ音楽院で、ニコライ・ソコローフスキー (Nikolay Sokolovsky, 1865 - 1921)、ヤン・フジーマリー (Jan Hřímalý, 1844 - 1915) にヴァイオリンを、アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906)、ゲオルギー・コニュス (Georgy Conus, 1862 - 1933) に和声法を、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を、ミハイル・イッポリトフ=イヴァノフ (Mikhail Ippolitov-Ivanov, 1859 - 1935) に作曲法を師事し、1900年に金メダルを獲得して音楽院の作曲科を卒業しました。モスクワに移ってからアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル (Aleksandr Goldenweiser, 1875 - 1961) と交友を深め、1902年にはゴリデンヴェイゼルからピアノのレッスンを受けています。1900年から1903年までサンクトペテルブルクのベリャーエフ・サークルに参加し、1901年からベリャーエフ社 (Leipzig: M. P. Belaieff) より自作の出版を始めています。1898年に作曲され、1902年にペテルブルクで初演された「弦楽六重奏曲第1番 Op. 1」(師タネーエフに献呈) により、1905年に最初のグリンカ賞を受賞しました。

1901年より、エレーナ・グネーシナ (Elena Gnesina, 1878 - 1967) らグネーシナ姉妹により設立されたモスクワのグネーシン音楽専門学校の教師。1902年に師タネーエフの推薦により1902年から1904年にかけてニコライ・ミャスコフスキーセルゲイ・プロコフィエフの個人教授をしました。1905年から1908年までドイツ帝国の首都ベルリンオスカー・フリート (Oskar Fried, 1871 - 1941) に指揮法を師事し、その後、再びグネーシン音楽専門学校に戻り教師を務めました。1913年の開校時にキエフ音楽院の作曲法の教授に就任し、翌年の1914年から1920年まで同音楽院の院長を務めました。1920年から1941年まで母校モスクワ音楽院で作曲法の教授を、1938年から1948年までソビエト連邦作曲家同盟組織委員会議長を務めました。1956年6月23日にモスクワで亡くなり、モスクワのノヴォデヴィチ墓地 (Новодевичье кладбище) に埋葬されました。

教え子に以下の人物がいます。

出典: