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2025-08-06

150th Birth Anniversary of Marcel Labey

Marcel Labey (France, 1875 - 1968) - 2 Pièces pour harmonium, Op. 14; No. 2. Élévation (D minor. Juillet 1913).

今日はフランスの作曲家・指揮者、マルセル・ラベ生誕150年の誕生日です。今回はラベ作曲「ハルモニウムのための2つの小品 Op. 14」より第2曲「エレヴァシオン (聖体奉挙) ニ短調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第4巻 (Paris: Maurice Senart & Cie., 1914) の162-168頁に収録されています。

マルセル・ラベは1875年8月6日にフランス共和国セーヌ=エ=オワーズ県ル・ヴェジネ (Le Vésinet) で弁護士の子として生まれました。当初、パリで法律を学んで1897年に法学博士を取得し、1901年まで弁護士として活動しました。学位取得後に音楽の道に転向してスコラ・カントルム (Schola Cantorum de Paris) に入学し、エリ=ミリアム・ドラボルド (Élie-Miriam Delaborde, 1839 - 1913)、ルイ・ブライトナー (Louis Breitner, b. 1851) にピアノを、ルネ・ルノルマン (René Lenormand, 1846 - 1932) に和声法を、ヴァンサン・ダンディ (Vincent d'Indy, 1851 - 1931) に作曲法を師事しました。1903年から1913年まで同校でダンディの管弦楽クラスの助手となり、ピアノ教授となりました。ダンディの死後の1931年から1935年までは同校の理事を務めました。1935年から1954年まで、共同設立者の一人となったエコール・セザール・フランク (École César Franck) でも理事を務めました。1968年11月25日にムルト=エ=モゼル県ナンシー (Nancy) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典

  • Grove Music Online. Retrieved 2025-08-06.
  • Argoeuves, Michel Gorguette d' (1940). “Marcel LABEY”. Musica et Memoria. Retrieved 2025-08-06.

2025-03-27

100th Death Anniversary of Oscar Depuydt

Oscar Depuydt (1858 - 1925) - Interlude for Organ or Harmonium. Andantino (A minor).

今日はベルギー・フランデレンの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、オスカル・デペイト没後100年の命日です。今回はデペイト作曲「オルガンまたはハルモニウムのための間奏曲 イ短調」を弾きました。楽譜は「教会オルガン奏者、古今の大家によるオルガンまたはハルモニウムのための易しい小品集 De Kerkorgelist. gemakkelijke orgel of harmoniumstukken van oude en moderne meesters 」第1巻 (Bruxelles: Breitkopf und Härtel, 1922) に第21曲として収録されています。

オスカル・デペイトは1858年10月20日にベルギー王国ウェスト=フランデレン州ブルッヘ (Brugge) で生まれました。幼少期に生地ブルッヘの救世主大聖堂の聖歌隊員となり、1870年にアントウェルペン州メヘレン (Mechelen) に移りました。メヘレンに移住したのは、その頃デペイトが孤児となって里親に引き取られたためとされています。1877年からヘント音楽院 (Koninklijk Conservatorium Gent) で学び、ヨゼフ・ティルボルフス (Jozef Tilborghs, 1830 - 1910) にオルガンを、アドルフ・サミュエル (Adolphe Samuel, 1824 - 1898)、カレル・ミリ (Karel Miry, 1823 - 1889) に和声法、対位法、フーガを師事しました。1880年に和声法、1881年にオルガンと対位法、1882年にフーガで賞を獲得して音楽院を卒業しました。

1880年の末にメヘレンのハンスウェイク聖母教会 (Onze-Lieve-Vrouw van Hanswijk) のオルガン奏者に就任。1881年10月1日にメヘレンの聖ロンバウツ大聖堂 (Sint-Romboutskathedraal) のオルガン奏者に就任し、以後亡くなるまで務めました。同じ頃に聖ロンバウツ・カレッジ (初等・中等教育学校. Sint-Romboutscollege) のピアノ教師になりました。1896年にエドハル・ティネル (Edgar Tinel, 1854 - 1912) がブリュッセル音楽院の対位法とフーガの教師に就任すると、当時レメンス音楽院 (Lemmensinstituut) 院長だったティネルの後任として同音楽院のピアノ、オルガン、伴奏法、対位法の教師に任命されました。 1921年にレメンス音楽院オルガン教師勤続25年の祝賀会が催され、それを機にレオポルド勲章騎士章を受章しました。1925年3月27日にメヘレンで亡くなりました。

作曲家としては主にオルガン曲を書いており、そのほかにモテット、歌曲、グレゴリオ聖歌の伴奏譜を作曲しています。

教え子に以下の人物がいます。

出典: Focquaert, Annelies. “Depuydt, Oscar Leopold Theodoor”. Studiecentrum Vlaamse Muziek. Retrieved 2025-03-25.

2024-12-09

200th Birth Anniversary of Heinrich Oberhoffer

Heinrich Oberhoffer (Germany/Luxembourg, 1824 - 1885) - 15 Leichte, melodiöse, kleine Orgelstücke nebst einem Orgeltrio, Op. 56 (Augsburg: A. Böhm und Sohn (Moritz Böhm), 1885); No. 6. Moderato (C minor).

今日はドイツ出身のルクセンブルクの作曲家・教会音楽家・音楽理論家・音楽教師、ハインリヒ・オーバーホファー生誕200年の誕生日です。今回はオーバーホファー作曲「15の易しく旋律的なオルガン小品と1つのオルゲルトリオ Op. 56」より第6曲 ハ短調を弾きました。

ハインリヒ・オーバーホファーは1824年12月9日にプロイセン王国トリーア近郊のプファルツェル (Pfalzel) で、ゲルハルト・オーバーホファー (Gerhard Oberhoffer, ca. 1796 - 1851) の子として生まれました。父とヴィルヘルム・ヘルマン (Wilhelm Hermann) から音楽の手ほどきを受けたのち、1842年からブリュールの教職課程でミヒャエル・テプラー (Michael Toepler, 1804 - 1874) に学びました。卒業後の1844年から1852年までトリーアの聖ゲルヴァジウス教会学校で教師兼オルガン奏者を務めました。1856年にルクセンブルク市の師範学校で音楽教師となり、同市にある各所の教会でオルガン奏者も務めました。1885年5月30日にルクセンブルク市で亡くなりました。

出典:

  • Anders-Malvetti, Ursula; Nitschké, Alain; Reuter, Caroline; Sagrillo, Damien (2016). Luxemburger Musikerlexikon. Komponisten und Interpreten. Band 1: 1815‒1950. 2. Auflage. Weikersheim: Margraf Publishers. ISBN 978-3-8236-1734-1, pages 886-906 (online; PDF; 225 KB)
  • Duhr, Marlène (2022). “Oberhoffer, Heinrich”. MGG Online. Retrieved 2024-12-08.

2024-03-26

100th Death Anniversary of Augusto Machado

Augusto de Oliveira Machado (Portugal, 1845 - 1924) - Prélude pour orgue ou harmonium. Andantino (D minor).

今日はポルトガルの作曲家・音楽教師・劇場監督、アウグスト・マシャード没後100年の命日です。今回はマシャード作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「前奏曲 ニ短調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第5巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1914) の160-161頁に収録されています。

アウグスト・マシャードは1845年12月27日にポルトガル王国の首都リスボンで生まれました。リスボンでジョアキン・カジミロ (Joaquim Casimiro, 1808 - 1862)、エミリオ・ダディ (Emílio Daddi) に師事し、その後リスボン音楽院 (Conservatório Nacional de Lisboa) で学びました。1867年にフランス帝国の首都パリに移り、アルベール・ラヴィニャック (Albert Lavignac, 1846 - 1916) とアドルフ・ダノーゼル (Adolphe Danhauser, 1835 - 1896) に師事しました。

1869年にリスボンのサン・カルルシュ国立劇場 (Teatro Nacional de São Carlos) でバレエ「ゼフィレト Zefireto 」を、1870年にリスボンのトリンダーデ劇場 (Teatro da Trindade) でオペレッタ「ナバラの太陽 O Sol da Navarra 」を上演しましたが、自作の様式にイタリア音楽の影響が強すぎることに満足できず、1873年に再びパリに戻っています。1880年にポルトガルを代表する詩人ルイス・デ・カモンイス (Luís Vaz de Camões, ca. 1524/1525 - 1580) 没後300年を記念して交響的頌歌「カモンイスとウズ・ルジアダス Camões e os Lusíadas」を作曲したものの、上演する機会を得られませんでした。1883年にマルセイユで上演したジョルジュ・サンド (George Sand, 1804 - 1876) 原作のオペラ「ロリアーヌ Lauriane 」が成功したのち、リスボンとブラジルリオデジャネイロでの上演も成功し、国際的な名声を得ました。1892年から1908年までリスボンのサン・カルルシュ国立劇場の監督に就任。1893年からリスボン音楽院で声楽教師となり、1901年から1910年まで同音楽院院長を務めました。また、ポルトガル教育省の音楽顧問も務めています。1924年3月26日にリスボンで亡くなりました。

作品にオペラ、オペレッタ、バレエなどの舞台音楽のほか、歌曲、ピアノ小品、オルガン小品があります。教え子にルイス・デ・フレイタス・ブランコ (Luís de Freitas Branco, 1890 - 1955) がいます。

出典:

2023-12-27

150th Birth Anniversary of Maurice Blazy

Maurice Blazy (France, 1873 - 1933) - 3 Préludes pour orgue ou harmonium; No. 1. Andante (A minor). À Mademoiselle Jeanne Montjovet.

フランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、モーリス・ブラジ生誕150年ということで、ブラジ作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「3つの前奏曲」より第1番 イ短調を弾きました。曲集の楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第4巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1914) の35-38頁に収録されています。

モーリス・ブラジは1873年9月16日にフランス共和国セーヌ県シャティヨン (Châtillon) で生まれました。幼少期に視力を失い、国立パリ青少年盲学校 (Institution Nationale des Jeunes Aveugles de Paris) で、ジュリアン・エリ (Julien Héry) にソルフェージュと和声法を、ジャック・ブレ (Jacques Brès) にヴァイオリンを、ヴィクトル・ポール (Victor Paul) にピアノと和声法を、アドルフ・マルティ (Adolphe Marty, 1865 - 1942) にオルガンと対位法とフーガと作曲法を師事しました。同校では学友のルイ・ヴィエルヌ (Louis Vierne, 1870 - 1937) からも助言やレッスンを受けました。

盲学校卒業後、1894年または1895年に母校である同校のピアノ教師 (ヴィクトル・ポールの後任) となり、サン=メダール教会 (Église Saint-Médard de Paris) オルガン奏者を経て、1901年にパリのサン=ピエール・ド・モンルージュ教会 (Église Saint-Pierre de Montrouge) オルガン奏者に就任しました。1908年に視覚障害者支援組織であるヴァランタン・アユイ協会 (Association Valentin Haüy) 理事に就任。また、同協会の点字楽譜図書館の責任者を務め、点字印刷機の開発に取り組みました。 雑誌「ル・ヴァランタン・アユイ Le Valentin Haüy 」の音楽批評の執筆や、雑誌「ラ・ルヴュ・ブライユ La revue braille 」の編集者としても活動しました。1933年12月21日の昼過ぎにヴァランタン・アユイ協会の近くの歩道にいたところを後退する貨物自動車に轢かれ、病院に搬送されたのちに自身の希望でパリの自宅に戻り、その日のうちに亡くなりました。

盲学校での教え子にジャン・ラングレー (Jean Langlais, 1907 - 1991) がおり、ラングレーはブラジの死後の1934年に後任としてサン=ピエール・ド・モンルージュ教会オルガン奏者を引き継ぎました。

出典:

2023-11-12

200th Death Anniversary of Emanuel Aloys Förster

Emanuel Aloys Förster (Germany/Austria, 1748 - 1823) - 30 Fughetten für die Orgel oder das Klavier, als Fortsetzung der practischen Beispiele zu seiner Anleitung des Generalbasses (Wien: Artaria); No. 23. Fughette G-Dur.

今日はシュレージエン出身のオーストリアの作曲家・音楽教師、エマヌエル・アロイス・フェルスター没後200年の命日です。今回はフェルスター作曲「通奏低音の手引きの実践例集の続編としてのオルガンまたはクラヴィーアのための30のフゲッタ」より第23番 ト長調を弾きました。

エマヌエル・アロイス・フェルスターは1748年1月26日に、第一次シュレージエン戦争 (1740-1742) 後にハプスブルク帝国領からプロイセン王国領となっていたシュレージエンのニーダーシュタイネ (Niedersteine. 現在のポーランド領シチナフカ・ドルナ Ścinawka Dolna) で、農場管理人 (Gutsverwalter) アントン・ルートヴィヒ・フェルスター (Anton Ludwig Förster) とアンナ・マリア・フェルスター 旧姓トイバー (Anna Maria Förster, geb. Teuber) の子として生まれました。独学で作曲を始めたのち、フィグラールムジーク (Figuralmusik) のレッスンを受けました。1764年に北ボヘミアのブロウモフ (Broumov) にあるベネディクト会のギムナジウムを卒業すると、管理人の父が勤めていたフェター・フォン・デア・リーリー (Vetter von der Lilie) 伯爵の官房で助手として働きました。1766年から1768年までプロイセン王国のハインリヒ・アウグスト・ド・ラ・モット・フーケ (Heinrich August de la Motte Fouqué, 1698 - 1774) 将軍が率いる歩兵連隊でオーボエ奏者を務めました。1768年からミッテルヴァルデ (Mittelwalde. 現在のポーランド領ミェンジレシェ Międzylesie) に移り、同地でヨハン・ゲオルク・パウゼヴァング (Johann Georg Pausewang, 1738 - 1812) からオルガンと音楽理論のレッスンを受けました。1776年から1779年の間に、プラハでオルガン奏者ヨゼフ・セゲル (Josef Seger, 1716 - 1782) に師事した可能性があります (Müller 2019)。

1779年からヴィーンに定住し、音楽教師として名声を得て作曲家としても活動しました。ヴィーンでは宮廷楽団への仕官を希望したこともありましたが叶わず、その後の生涯にわたり特定の王侯貴族に仕えることのないフリーランスの音楽家でした。1792年頃からカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー (Karl Alois von Lichnowsky, 1761 - 1814) 侯爵の邸宅に通うようになり、リヒノフスキー侯爵邸での室内楽演奏会のために「6つの弦楽四重奏曲 6 Quatuors pour deux violons, alto et basse, Op. 7」(Offenbach: Johann André, 1794) を作曲しました。また、リヒノフスキー侯爵邸で知り合ったルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827) と親交を深めました。1795年にエレオノーラ・フォン・レツカ (Eleonora von Reczka (Rezka), 1775/1776 - 1852) と結婚。1805年に「通奏低音の手引き Anleitung zum General-Bass 」(Wien: Johann Träg und Sohn, 1805) を出版。その続編として「実践例集 Practische Beyspiele 」と、オルガンまたはクラヴィーアのための「30の前奏曲 30 Praeludien 」(Wien: Artaria) と、前述の「30のフゲッタ 30 Fughetten 」を作曲しています。1805年からアンドレイ・ラズモフスキー (Andrey Razumovsky, 1752 - 1836) 伯爵の邸宅での室内楽演奏会にベートーヴェンとともに参加し、ピアノ奏者としてばかりではなく、ヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者としてシュパンツィク四重奏団 (Schuppanzigh-Quartett) の団員としばしば共演しました。この頃に18曲の弦楽四重奏曲を作曲しています。1808年にヴィーンで出版されたジュゼッペ・カルパーニ (Giuseppe Carpani, 1752-1825) の同一の詞への様々な作曲家の付曲によるオムニバス歌曲集「この暗い墓の中に In questa tomba oscura 」に、一曲のピアノ伴奏独唱歌曲 (第33番) を提供。1823年11月12日にヴィーンで亡くなりました。死後に出版された『祖国芸術家協会 Vaterländischer Künstlerverein 』(Wien: A. Diabelli & Co, 1824) 第2部「アントン・ディアベッリのワルツによる50の変奏曲」に、フェルスター作曲の「カプリッチョ Capriccio. Allegro 」が第8変奏として収録されました。作品に、ピアノソナタなどのピアノ曲、室内楽曲があります。

子に作曲家・ピアノ奏者のエレオノーラ・フェルスター (Eleonora (Eleonore) Förster, b. 1798)、作曲家・チェロ奏者・ピアノ奏者のヨーゼフ・フェルスター (Joseph Förster, b. 1800)、ピエトロ・ロヴェッリ (Pietro Rovelli, 1793 - 1838) の妻となる作曲家・ピアノ奏者のジャコミーナ・ロヴェッリ=レーデラー旧姓名ミヒャエラ・フェルスター (Giacomina Rovelli-Rederer, geb. Michaela (Michelina) Förster, b. 1802) がいます。

教え子に以下の人物がおり、このうちニートやポッターはベートーヴェンの紹介により弟子になっています。

出典:


2023-08-28

150th Birth Anniversary of Henri Schmitt

Henri Schmitt (France, b. 1873) - Communion en sol majeur pour orgue ou harmonium. Délicatement. À Monsieur Théodore Dubois.

今日はフランスの作曲家・オルガン奏者・音楽批評家、アンリ・シュミット生誕150年の誕生日です。今回はシュミット作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「聖体拝領 ト長調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第4巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1914) の236-237頁に収録されており、テオドール・デュボワ (Théodore Dubois, 1837 - 1924) に献呈されています。著名な作曲家フローラン・シュミット (Florent Schmitt, 1870 - 1958) はアンリ・シュミットの兄です。

アンリ・シュミットは1873年8月28日にフランス共和国ムルト=エ=モゼル県ブラモン (Blâmont) で生まれました。兄のフローラン・シュミットと、シャロン=シュル=マルヌ (現在のシャロン=アン=シャンパーニュ) のサンテティエンヌ大聖堂 (Cathédrale Saint-Étienne de Châlons) オルガン奏者であるルイ・ジーベルト (Louis Siébert) から指導を受けました。14歳でポンタ=ムソン (Pont-à-Mousson) の小神学校 (petit séminaire) のオルガン奏者となり、18歳で首都パリに赴いてドミニコ会のオルガン奏者に、次いでシャラントン=ル=ポンサン=ピエール教会 (Église Saint-Pierre de Charenton-le-Pont) のオルガン奏者を務めました。また、日刊新聞「ラ・パトリ La Patrie 」で演奏会の批評家としても活動しました。

出典: Joubert, Joseph (1914). “Henri SCHMITT”. Notices biographiques et bibliographiques. Maîtres contemporains de l’orgue, pièces inédites pour orgue ou harmonium, Volume 4. Paris: Senart, Roudanez & Cie. page 7.

2023-07-14

150th Birth Anniversary of Elbert Franssen

Elbert Joseph Franssen (Netherlands, 1873 - 1950) - Paraphrase sur l'“Ite missa est” solennel (Paraphrase super «Ite missa est» in solemnioribus) pour orgue ou harmonium. Andante maestoso (E flat major). Rev. Dno. Harry Mooren, presb. diœc. Ruremundensis.

今日はオランダの作曲家・オルガン奏者・合唱指揮者、エルベルト・フランセン生誕150年の誕生日です。今回はフランセン作曲「『行け、汝らは去らしめられる (イテ・ミサ・エスト)』による荘厳なパラフレーズ 変ホ長調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第5巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1914) の79-80頁に収録されています。

エルベルト・フランセンは、鍛冶職人クリスティアーン・フランセン (Christiaan , 1834 - 1910) の子として、1873年7月14日にリンブルフ州ウェル (Well) で生まれました。スウォルゲン (Swolgen) の教区委員アントン・フーケン (Anton Hoeken) と、ボクスメール (Boxmeer) のカルメル会修道院オルガン奏者フレホリウス・ファン・ダイク (Gregorius van Dijk, 1816 - 1894) にオルガンを師事しました。

1894年 (21歳) にベルヘン (Bergen) の聖ペトルス教会 (Sint-Petruskerk) の教区委員兼オルガン奏者に就任し、聖歌隊を監督しました。1904年にルールモント (Roermond) の聖クリストフォル大聖堂 (Sint-Christoffelkathedraal) 楽長に就任し、その数年後にいくつかの学校の音楽教師・音楽審査員となり、ピアノ、オルガン、声楽を教えました。1925年にヘンリ・テイセン (Henri Tijssen, 1862 - 1926) の後任として同地のミュンステル教会 (Munsterkerk) 聖歌隊監督に就任。「週刊フェンロース Venloosch Weekblad 」、「新しい配達人 Nieuwe Koerier 」で長年にわたり批評家としても活動しました。第二次世界大戦のさなか、疎開先のフリースラントで健康を損ない1945年6月にルールモントに帰還。病床にありながら作曲を続けましたが、1950年5月28日にルールモントで亡くなりました。

出典:

2023-06-03

250th Birth Anniversary of Michael Gotthard Fischer

Michael Gotthard Fischer (Germany, 1773 - 1829) - Präludium A-Dur. Moderato (Präludium No. 227 (pages 136-137) from Heinrich Bungart Präludien-Album für Orgel oder Harmonium. Köln: P. J. Tonger).

今日はドイツの作曲家・オルガン奏者・指揮者、ミヒャエル・ゴットハルト・フィッシャー生誕250年の誕生日です。今回はフィッシャー作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「前奏曲 イ長調」を弾きました。

ミヒャエル・ゴットハルト・フィッシャーは1773年6月3日にマインツ選帝侯領アーラハ (Alach. エアフルト Erfurt 近郊) で生まれました。1784年からエアフルトで学び、同地の教員養成所 (Lehrerseminar) でヨハン・クリスティアン・キッテル (Johann Christian Kittel, 1732 - 1809) にオルガンと対位法を師事し、ザクセン=ヴァイマル公国イェーナで教職に就きました。1790年までエアフルトで活動していたヨハン・ヴィルヘルム・ヘスラー (Johann Wilhelm Häßler, 1747 - 1822) の後任として、1796年にエアフルト市冬季演奏会 (Städtische Winterkonzerte) の監督となり、同じ頃にエアフルト跣足教会 (Barfüßerkirche) オルガン奏者に就任しました。1809年にキッテルの後任としてエアフルト説教師教会 (Predigerkirche) オルガン奏者に就任。1816年からエアフルト教員養成所の通奏低音とオルガンの講師を務めました。1829年1月12日にプロイセン王国エアフルトで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2023-01-20

200th Birth Anniversary of Alexandre Bruneau

Alexandre Bruneau (France, 1823 - 1899) - Collection de 130 versets, dans les tons usités pour alterner avec le chant des psaumes, magnificats, hymnes, et divisés en 3 recueils pour orgue-harmonium, Opp. 237-239 (Paris: Richault et Cie.); 1er Recueil de 50 motets, Op. 237; No. 1. Verset en ré mineur. Moderato.

今日はフランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、アレクサンドル・ブリュノー生誕200年の誕生日です。今回はブリュノー作曲「ハルモニウムのための130のヴェルセ Opp. 237-239」第1集「50のヴェルセ Op. 237」より第1番 ニ短調を弾きました。

アレクサンドル・ブリュノーは1823年1月20日にフランス王国シェール県ブールジュ (Bourges) で生まれました。ブールジュのサンテティエンヌ大聖堂 (Cathédrale Saint-Étienne de Bourges) のオルガン奏者、ブールジュ初等師範学校 (École normale d'instituteurs de Bourges) 教授を務め、1899年1月27日に亡くなりました。

出典: “Alexandre Bruneau (1823-1899)”. Bnf Data. Bibliothèque nationale de France. Retrieved 2023-01-18.

2023-01-06

100th Death Anniversary of Jean Parisot

Jean Parisot (France, 1861 - 1923) - 6 Versets pour orgue ou harmonium (Maîtres contemporains de l’orgue, Vol. 4. Paris: Maurice Senart & Cie., 1914); I. sur des motifs grégoriens (D minor).

今日はフランスの作曲家・オルガン奏者・音楽学者・翻訳家・修道士、ジャン・パリゾ没後100年の命日です。今回はパリゾ作曲「オルガンまたはハルモニウムのための6つのヴェルセ」より第1番「グレゴリオ聖歌の動機によるヴェルセ ニ短調」を弾きました。曲集の楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第4巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1914) の203-206頁に収録されています。

ジャン・パリゾは1861年1月18日にフランス帝国ヴォージュ県プロンビエール=レ=バン (Plombières-les-Bains) で生まれました。1883年にソレムサン=ピエール修道院 (Abbaye Saint-Pierre de Solesmes) に入ってベネディクト会の修道士となり、1894年から1899年までリギュジェサン=マルタン修道院 (Abbaye Saint-Martin de Ligugé) のオルガン奏者となりました。トルコシリアでの調査研究ののち、東洋の調性、イスラエルの歌、シナゴーグの叙唱、モスクの歌、アラブの典礼歌、シリア、カルデア、アラブの歌に関する報告書を発表しました。1923年1月6日にフランス共和国ムルト=エ=モゼル県ナンシー (Nancy) で亡くなりました。

出典:

2022-12-25

150th Birth Anniversary of Arthur Dodement

Arthur Dodement (France, 1872 - 1912) - 3 Fuguettes à 3 voix pour orgue ou harmonium (À Monsieur l'abbe J. Joubert); No.2. Andantino (D minor).

フランスの作曲家・オルガン奏者、アルテュール・ドードマン生誕150年ということで、ドードマン作曲「オルガンまたはハルモニウムのための3つの3声の小フーガ (フゲッタ)」より第2番 ニ短調を弾きました。この小フーガ集の楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第1巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912) の89-91頁に収録されており、この曲集の編纂者であるジョゼフ・ジュベール (Joseph Joubert, 1878 - 1963) に献呈されています。

アルテュール・ドードマンは1872年8月20日にフランス共和国ルーアンで生まれました。パリ音楽院に入学して1889年にソルフェージュ科で1等メダルを取得。1892年にサン=ルイ=アン=リル教会 (Église Saint-Louis-en-l'Île) の大オルガンのオルガン奏者に就任しました。作品にミサ曲、モテット、オラトリオ、付随音楽、管弦楽のための組曲などがあります。また、セザール・フランク (César Franck, 1822 - 1890) 作曲の声楽曲のオルガン用編曲をいくつか手がけています。1912年2月に亡くなりました。

出典:

  • Joubert, Joseph (1912). “Arthur DODEMENT”. Notices biographiques et bibliographiques. Maîtres contemporains de l’orgue, pièces inédites pour orgue ou harmonium, Volume 1. page 3. Paris: Senart, Roudanez & Cie.
  • Pierre, Constant, ed. (1900). “Dedement (Arthur-Louis-Victor)”. Le Conservatoire national de musique et de declamation : documents historiques et administratifs. Paris: Imprimerie nationale. page 742.

2022-12-10

200th Birth Anniversary of César Franck

César Franck (France, 1822 - 1890) - L'organiste. 63 Pièces pour harmonium (Paris: Enoch & Cie., 1896); 7 Pièces en fa dièse mineur et sol bémol majeur; No. 2. Chant Béarnais. Poco allegretto (G flat major).

Joseph Béesau (Russia/France, 1871 - 1940) - Invocation à César Franck pour piano. Andantino (A flat major). À Monsieur H. Delalande.

今日はベルギー出身のフランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、セザール・フランク生誕200年の誕生日です。今回はフランク作曲「オルガニスト、ハルモニウムのための63の小品 FWV 41」の「嬰ヘ短調と変ト長調による7つの小品」より第2曲「ベアルンの歌 変ト長調」を弾きました。

また、以前に弾いたジョゼフ・ベゾ作曲「セザール・フランクへの祈り 変イ長調」を再掲します。

セザール・フランクは1822年12月10日にネーデルラント連合王国リエージュ州(現在のベルギー・ワロン地域のリエージュ州)の州都リエージュ (Liège) に生まれました。父のニコラ=ジョゼフ (Nicholas-Joseph Franck, 1794 - 1871) は南ネーデルラントに属していたリンブルフ公国ジェメレシュ (リンブルフ語: Jömelech / フランス語: ジェメニシュ Gemmenich) の地主の家に生まれた市場仲買人で、母のカテリーヌ・バルブ (旧姓フリングス, Catherine Barbe Franck née Frings, 1788 - 1861) はドイツ人でアーヘンの商家に生まれました。セザールの4人の兄弟妹のうち、夭逝しなかった唯一の生き残りである弟のジョゼフ (Jean-Hubert-Joseph Franck, 1825 - 1891) もまた兄と同様にリエージュとパリの音楽院で学び、作曲家・オルガン奏者となっています。

幼い頃から楽才を示したセザールは1830年10月にリエージュ王立音楽院 (Conservatoire royal de Liège) 入学してフェリクス=エティエンヌ・ルダン (Félix-Étienne Ledent, 1816 - 1886) にソルフェージュを、アントワーヌ・ジャロー (Antoine Jalheau) にピアノを師事し、1832年にソルフェージュで、1834年にピアノでそれぞれ一等賞を取得。1833年から1835年まで音楽院院長のジョゼフ・ドーソワーニュ=メユール (Joseph Daussoigne-Méhul, 1790 - 1875) に和声法を師事しました。1835年の春にリエージュ、ブリュッセル、アーヘンを巡って演奏会を開催。この頃にはすでに演奏会用の楽曲の作曲も始めています。同年フランス王国の首都パリに移りジョゼフ・ジメルマン (Joseph Zimmerman, 1785 - 1853)、アントニーン・レイハ (Antonín Rejcha, 1770 - 1836)、イポリト=レモン・コレ (Hippolyte-Raymond Colet, 1808 - 1851) のレッスンを受け、その費用をまかなうためにテノール歌手ジュリオ・マルコ・ボルドーニ (Giulio Marco Bordogni, 1789 - 1856) の声楽教室でピアノ伴奏者を務めました。詳細は分かりませんでしたが、作曲家・ピアノ奏者でありピアノ教師もしていたアンリ=ジャン・リジェル (Henri-Jean Rigel, 1770 - 1852) もまたセザールの師の一人だと伝わっています。

フランス国籍を取得後、1837年10月にパリ音楽院に入学。引き続きジメルマンにピアノを、エメ・ルボルヌ (Aimé Leborne, 1797 - 1866) に対位法を、アンリ=モンタン・ベルトン (Henri-Montan Berton, 1767 - 1844) に作曲法を、フランソワ・ブノワ (François Benoist, 1794 - 1878) にオルガンを師事し、1838年にピアノで、1840年に対位法でそれぞれ一等賞を取得。オルガンでは1841年に二等賞まで取得しましたが、コンサート・ピアニストへの道へ進ませたかった父の意向もあり1842年4月に音楽院を退学しました。

1843年から1844年にかけて作品1となる「3つのピアノ三重奏曲」(Hamburg/Leipzig: Schuberth & Co.) を出版。1846年1月4日に公開初演されたオラトリオ「ルツ Ruth」は聴衆に不評という結果となり、同年の夏には両親と住んでいた家を離れました。学校の教師や個人教授をして生計を立て、1847年にはノートル=ダム=ド=ロレット教会 (Église Notre-Dame-de-Lorette) のオルガン奏者の職を得ます。1848年に両親 (Desmousseaux, Madame Desmousseaux) がコメディ=フランセーズ (Comédie-Française) の俳優であったフェリシテ・サイヨ・デムソー (Félicité Saillot Desmousseaux, 1825 - 1918) と結婚。1851年にマレ地区サン=ジャン=サン=フランソワ教会 (Église Saint-Jean-Saint-François) のオルガン奏者に、1858年にサント=クロティルド聖堂 (Basilique Sainte-Clotilde de Paris) のオルガン奏者に就任。1860年代にはイエズス会コレージュ (Collège des jésuites de l'Immaculée-Conception) などで非常勤の教員となり、同校でアンリ・デュパルク (Henri Duparc, 1848 - 1933) やアルテュール・コカール (Arthur Coquard, 1846 - 1910) に指導しました。1872年のフランソワ・ブノワのパリ音楽院オルガン教授退任ののち彼の後任のオルガン教授となりました。1890年に胸膜炎を発症してほどなく、同年11月8日にパリで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2022-08-08

150th Birth Anniversary of Léon Saint-Réquier

Léon-Edgar Saint-Réquier (France, 1872 - 1964) - Pièce en si mineur pour orgue ou harmonium. Dans un sentiment très calme (Paris 1911-03-16. À Monsieur l'Abbé Joubert).

今日はフランスの作曲家・オルガン奏者・指揮者、レオン・サン=レキエ生誕150年の誕生日です。今回はサン=レキエ作曲「オルガンまたはハルモニウムのための小品 ロ短調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第2巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912) の144-145頁に収録されており、曲はこの曲集の編纂者であるジョゼフ・ジュベール (Joseph Joubert, 1878 - 1963) に献呈されています。

レオン・サン=レキエは1872年8月8日にフランス共和国ルーアン (Rouen) で生まれ、パリヴァンサン・ダンディ (Vincent d'Indy, 1851 - 1931)、アレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant, 1837 - 1911)、アルベール・ラヴィニャック (Albert Lavignac, 1846 - 1916)、シャルル・ボルド (Charles Bordes, 1863 - 1909) に師事しました。

1900年から1934年までスコラ・カントルムで、1934年から1944年までエコール・セザール・フランク (École César-Franck) で和声学の教師を務めました。1909年にはボルドの後任として、彼が設立したサン=ジェルヴェ合唱団 (Société des chanteurs de Saint-Gervais) の監督に就任し、1914年から1918年までサン=シャルル=ド=モンソー教会 (Église Saint-Charles-de-Monceau) で、1919年から1921年までサン=ジェルマン=デ=プレ教会 (Église Saint-Germain-des-Prés) で、1921年から再びサン=シャルル=ド=モンソー教会で合唱指揮者を務めました。また、楽譜編集者として「コレクション・パレストリーナ : 15、16、17世紀の巨匠による宗教作品の普及版 Collection "Palestrina" : édition populaire des oeuvres religieuses des grands maîtres des XVe, XVIe et XVIIe siècles 」を手がけました。1964年10月1日にパリで亡くなりました。教え子にルイ・デュレ (Louis Durey, 1888 - 1979)、マルセル・ミハロヴィチ (Marcel Mihalovici, 1898 - 1985) がいます。

出典:

  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1940). “Saint-Réquier, Léon”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (4th edition). New York: G. Schirmer. page 945.
  • Slonimsky, Nicolas , ed. (1958). “Saint-Réquier, Léon”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (5th edition). New York: G. Schirmer. pages 1399-1400.
  • Grove Music Online. Retrieved 2022-08-07.
  • Saint-Réquier, L. (Léon), 1872-1964”. Library of Congress Name Authority File. 2000. Retrieved 2022-08-07.

2022-03-10

150th Birth Anniversary of Camillo Schumann

Camillo Schumann (Germany, 1872 - 1946) - Andante con moto (G minor. Dédié à Monsieur le Pasteur L. Koch (Ruhla). Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium. Recueillies et publiées par l'Abbe Jos. Joubert. Volume 3. pages 167-169. Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912).

今日はドイツの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者、カミロ・シューマン生誕150年の誕生日です。今回はシューマン作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「アンダンテ・コン・モート ト短調」を弾きました。楽譜はジョゼフ・ジュベール (Joseph Joubert, 1878 - 1963) 編纂「オルガンの現代の巨匠、オルガンまたはハルモニウムのための未発表作品集」第3巻に収録されています。

カミロ・シューマンは1872年3月10日にドイツ帝国ザクセン王国ケーニヒシュタイン (Königstein) に生まれました。父はケーニヒシュタイン市音楽監督のクレメンス・シューマン1世 (Clemens Schumann, senior, 1839 - 1918) で、兄に作曲家のゲオルク・シューマン (Georg Schumann, 1866 - 1952) がいます。

父から音楽の手ほどきを受けたのち、1889年から1893年までライプツィヒ王立音楽院 (Königliches Konservatorium der Musik zu Leipzig) でカール・ライネッケ (Carl Reinecke, 1824 - 1910) に作曲を、ザーロモン・ヤーダスゾーン (Salomon Jadassohn, 1831 - 1902) に音楽理論を、ブルーノ・ツヴィンチャー (Bruno Zwintscher, 1838 - 1905) にピアノを、パウル・ホーマイヤー (Paul Homeyer, 1853 - 1908) にオルガンを師事。1894年から1895年までベルリン王立高等音楽学校 (Königliche Akademische Hochschule für ausübende Tonkunst) でヴォルデマール・バルギール (Woldemar Bargiel, 1828 - 1897) とローベルト・ラーデケ (Robert Radecke, 1830 - 1911) に師事しました。1896年にアイゼナハゲオルク教会ヴァルトブルク城のオルガン奏者に、1911年にザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の音楽監督と宮廷オルガン奏者に就任。また、アイゼナハの音楽学校でオルガンと音楽理論の教師となりました。1914年にバート・ゴットロイバ (Bad Gottleuba) に移って作曲に専念し、1946年12月29日に同地で亡くなりました。

出典:

  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1919). “Schumann, Camillo”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd edition). New York: G. Schirmer. page 850.
  • Slonimsky, Nicolas , ed. (1958). “Schumann, Camillo”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (5th edition). New York: G. Schirmer. page 1473.
  • Warszawski, Jean-Marc (2020-06-05). “Schumann Camillo”. musicologie.org. Retrieved 2022-03-07.

2021-08-02

150th Birth Anniversary of Martín Rodríguez Seminario

Martín Rodríguez Seminario (Spain, 1871 - 1961) - Fughetta en la bémol majeur. Larghetto. À Monsieur l’Abbé Joseph Joubert, organiste de la Cathédrale de Luçon (Maîtres contemporains de l’orgue, pièces inédites pour orgue ou harmonium, recueillies et publiées par l'Abbé Joseph Joubert, Volume 3. Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912).

今日はスペイン、バスク地方の作曲家・オルガン奏者、マルティン・ロドリゲス生誕150年の誕生日です。今回はロドリゲス作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「フゲッタ 変イ長調」(ジョゼフ・ジュベール Joseph Joubert に献呈) を弾きました。楽譜はジョゼフ・ジュベール編纂「オルガンの現代の巨匠、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集」第3巻 (アルフォンス・マイイ Alphonse Mailly に献呈) に収録されています。

1871年8月2日にパンプローナ (Pamplona / Iruña) で生まれたマルティン・ロドリゲスは、パンプローナの市立音楽学校 (Academia Municipal de Música de Pamplona. 現在のナバーラ音楽院 Conservatorio Superior de Música de Navarra) で学び、カリオン・デ・ロス・コンデス (Carrión de los Condes) とヒホン (Gijón) にあるイエズス会のコレジオで音楽教師となりました。教え子にルイス・ウルテアガ (Luís Urteaga, 1882 - 1960)、ルイス・イルアリサガ (Luis Iruarrizaga, 1891 - 1928) がいます。ベアサイン (Beasain) でオルガン奏者を務めたのち、1901年にコンクールの勝者となり、バルマセダ (Balmaseda) のサン・セベリノ教会 (Iglesia de San Severino) オルガン奏者に就任しました。1961年9月20日に90歳で亡くなりました。

出典:

  • Joubert, Joseph (1912). “Martin RODRIGUEZ”. Notices biographiques et bibliographiques. Maîtres contemporains de l’orgue, pièces inédites pour orgue ou harmonium, Volume 3. Paris: Senart, Roudanez & Cie. Retrieved 2021-08-01.
  • Auñamendi Eusko Entziklopedia. Eusko Ikaskuntza. Retrieved 2021-08-01.

2021-07-31

100th Death Anniversary of Raoul Chassain

Raoul Chassain de La Plasse (France, 1842 - 1921) - Versets de Magnificat pour orgue ou harmonium (F major). À Monsieur Joseph Vadon, organiste de Saint-Étienne de Roanne.

今日はフランスの作曲家・歴史学者、ラウル・シャサン没後100年の命日です。今回はシャサン作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「マニフィカトのヴェルセ集 (唱句集) ヘ長調」を弾きました。曲集は6曲からなり、ロアンヌサンテティエンヌ教会オルガン奏者であるジョゼフ・ヴァドンに献呈されています。

ラウル・シャサンはロアンヌに生まれ、作曲家としてはピアノ曲や歌曲などの作品があり、歴史学者としてモンブリゾンに本部を置く歴史学と考古学の学会であるラ・ディアナ (La Diana) の会長を務めています。

出典: Raoul Chassain de La Plasse (1842-1921). Data BNF. Bibliothèque nationale de France. Retrieved 2021-07-31.

2021-04-03

200th Birth Anniversary of Louis Lewandowski

Louis Lewandowski (Poland/Germany, 1821 - 1894) - Synagogen-Melodieen für Harmonium (Orgel oder Klavier), Op. 47 (Berlin: Carl Simon, 1895); No. 5. Sündenbekenntnis (Onu towau). Versöhnungstag. Molto lento (D major)

今日はプロイセン王国ポズナン大公国出身のドイツの作曲家・合唱指揮者、ルイ・レヴァンドフスキ生誕200年の誕生日です。生年については1823年とする資料もあります。今回はレヴァンドフスキ作曲、ハルモニウム (またはオルガン、ピアノ) のための「シナゴーグ旋律集 Op. 47」より第5曲「罪の告白、贖罪の日 ニ長調」を弾きました。

ルイ・レヴァンドフスキはポーランド系ユダヤ人として1821年4月3日にヴレシェン (Wreschen. ヴジェシニャ Września) で生まれました。ベルリンでアドルフ・ベルンハルト・マルクス (Adolf Bernhard Marx, 1795 - 1866) に師事したのち、同地の王立プロイセン芸術アカデミー (Königlich Preussische Akademie der Künste) の作曲学校でカール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲン (Carl Friedrich Rungenhagen, 1778 - 1851) とアウグスト・ヴィルヘルム・バッハ (August Wilhelm Bach, 1796 - 1869) とエドゥアルト・グレル (Eduard Grell, 1800 - 1886) に師事しました。同校への入学を認められたのはユダヤ人としては初めてということです。1840年からベルリンのシナゴーグの音楽監督を務めました。1866年に王室音楽監督 (Königlicher Musikdirektor) の称号を得て、同年竣工したベルリンの新シナゴーグ (Neue Synagoge) の音楽監督に任命されました。1894年2月3日にベルリンで亡くなりました。

出典:

  • Singer, Isidore; Sohn, Joseph (1904). “Lewandowski, Louis”. The Jewish Encyclopedia. 8. New York: Funk and Wagnalls. page 66. Retrieved 2021-04-01.
  • Louis Lewandowski”. Encyclopaedia Britannica. 2021-01-31. Retrieved 2021-04-01.

2020-10-08

150th Birth Anniversary of Louis Vierne

Louis-Victor-Jules Vierne (France, 1870 - 1937) - 24 Pièces en style libre pour orgue ou harmonium, Op. 31; No. 3. Complainte. Andante moderato (D flat major. Dedicated to Albert Périlhou)

今日はフランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、ルイ・ヴィエルヌ生誕150年の誕生日です。今回はヴィエルヌ作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「自由な様式による24の小品 Op. 31」より第3曲「コンプラント 変ニ長調」を弾きました。曲はアルベール・ペリルー (Albert Périlhou, 1846 - 1936) に献呈されています。

ルイ・ヴィエルヌは先天性白内障のために視覚障害があり、長じるとほぼ盲目となりました。ポワティエ (Poitiers) に生まれ、1880年に家族とともにパリに移り、1881年に国立青年盲学校 (Institution Nationale des Jeunes Aveugles) に入学してソルフェージュ、和声法、ピアノ、ヴァイオリンを含む教養科目を学びました。試験審査員として来校したセザール・フランク (César Franck, 1822 - 1890) にオルガン演奏を勧められ、1886年秋からルイ・ルベル (Louis Lebel, 1831 - 1888) にオルガンを師事しました。 1888年から個人教授でフランクに和声法を師事し、パリ音楽院でフランクのオルガンクラスに加わりました。1890年11月にフランクが亡くなると、シャルル=マリー・ヴィドール (Charles-Marie Widor, 1844 - 1937) に引き続き師事し、サン=シュルピス教会 (Église Saint-Sulpice de Paris) のオルガン奏者を務めていたヴィドールに1892年から同教会の代理オルガン奏者を任されました。1894年に音楽院でオルガンの第一等を取得しました。卒業後は音楽院でヴィドールの、1896年以降は後継のアレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant, 1837 - 1911) の助手となり、1900年にパリのノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Paris) のオルガン奏者となりました。ギルマンの死後、望んでいたパリ音楽院での教授職を得ることはありませんでしたが、1912年からスコラ・カントルムで、1931年からエコール・セザール・フランク (École César Franck) でオルガン教師となりました。ノートルダム大聖堂でオルガンを演奏中に起きた心臓発作のために亡くなりました。弟に同じく作曲家・オルガン奏者のルネ・ヴィエルヌ (René Vierne, 1878 - 1918) がいます。

教え子に以下の人物がいます。

出典: Grove music online.