2022-12-10

200th Birth Anniversary of César Franck

César Franck (France, 1822 - 1890) - L'organiste. 63 Pièces pour harmonium (Paris: Enoch & Cie., 1896); 7 Pièces en fa dièse mineur et sol bémol majeur; No. 2. Chant Béarnais. Poco allegretto (G flat major).

Joseph Béesau (Russia/France, 1871 - 1940) - Invocation à César Franck pour piano. Andantino (A flat major). À Monsieur H. Delalande.

今日はベルギー出身のフランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、セザール・フランク生誕200年の誕生日です。今回はフランク作曲「オルガニスト、ハルモニウムのための63の小品 FWV 41」の「嬰ヘ短調と変ト長調による7つの小品」より第2曲「ベアルンの歌 変ト長調」を弾きました。

また、以前に弾いたジョゼフ・ベゾ作曲「セザール・フランクへの祈り 変イ長調」を再掲します。

セザール・フランクは1822年12月10日にネーデルラント連合王国リエージュ州(現在のベルギー・ワロン地域のリエージュ州)の州都リエージュ (Liège) に生まれました。父のニコラ=ジョゼフ (Nicholas-Joseph Franck, 1794 - 1871) は南ネーデルラントに属していたリンブルフ公国ジェメレシュ (リンブルフ語: Jömelech / フランス語: ジェメニシュ Gemmenich) の地主の家に生まれた市場仲買人で、母のカテリーヌ・バルブ (旧姓フリングス, Catherine Barbe Franck née Frings, 1788 - 1861) はドイツ人でアーヘンの商家に生まれました。セザールの4人の兄弟妹のうち、夭逝しなかった唯一の生き残りである弟のジョゼフ (Jean-Hubert-Joseph Franck, 1825 - 1891) もまた兄と同様にリエージュとパリの音楽院で学び、作曲家・オルガン奏者となっています。

幼い頃から楽才を示したセザールは1830年10月にリエージュ王立音楽院 (Conservatoire royal de Liège) 入学してフェリクス=エティエンヌ・ルダン (Félix-Étienne Ledent, 1816 - 1886) にソルフェージュを、アントワーヌ・ジャロー (Antoine Jalheau) にピアノを師事し、1832年にソルフェージュで、1834年にピアノでそれぞれ一等賞を取得。1833年から1835年まで音楽院院長のジョゼフ・ドーソワーニュ=メユール (Joseph Daussoigne-Méhul, 1790 - 1875) に和声法を師事しました。1835年の春にリエージュ、ブリュッセル、アーヘンを巡って演奏会を開催。この頃にはすでに演奏会用の楽曲の作曲も始めています。同年フランス王国の首都パリに移りジョゼフ・ジメルマン (Joseph Zimmerman, 1785 - 1853)、アントニーン・レイハ (Antonín Rejcha, 1770 - 1836)、イポリト=レモン・コレ (Hippolyte-Raymond Colet, 1808 - 1851) のレッスンを受け、その費用をまかなうためにテノール歌手ジュリオ・マルコ・ボルドーニ (Giulio Marco Bordogni, 1789 - 1856) の声楽教室でピアノ伴奏者を務めました。詳細は分かりませんでしたが、作曲家・ピアノ奏者でありピアノ教師もしていたアンリ=ジャン・リジェル (Henri-Jean Rigel, 1770 - 1852) もまたセザールの師の一人だと伝わっています。

フランス国籍を取得後、1837年10月にパリ音楽院に入学。引き続きジメルマンにピアノを、エメ・ルボルヌ (Aimé Leborne, 1797 - 1866) に対位法を、アンリ=モンタン・ベルトン (Henri-Montan Berton, 1767 - 1844) に作曲法を、フランソワ・ブノワ (François Benoist, 1794 - 1878) にオルガンを師事し、1838年にピアノで、1840年に対位法でそれぞれ一等賞を取得。オルガンでは1841年に二等賞まで取得しましたが、コンサート・ピアニストへの道へ進ませたかった父の意向もあり1842年4月に音楽院を退学しました。

1843年から1844年にかけて作品1となる「3つのピアノ三重奏曲」(Hamburg/Leipzig: Schuberth & Co.) を出版。1846年1月4日に公開初演されたオラトリオ「ルツ Ruth」は聴衆に不評という結果となり、同年の夏には両親と住んでいた家を離れました。学校の教師や個人教授をして生計を立て、1847年にはノートル=ダム=ド=ロレット教会 (Église Notre-Dame-de-Lorette) のオルガン奏者の職を得ます。1848年に両親 (Desmousseaux, Madame Desmousseaux) がコメディ=フランセーズ (Comédie-Française) の俳優であったフェリシテ・サイヨ・デムソー (Félicité Saillot Desmousseaux, 1825 - 1918) と結婚。1851年にマレ地区サン=ジャン=サン=フランソワ教会 (Église Saint-Jean-Saint-François) のオルガン奏者に、1858年にサント=クロティルド聖堂 (Basilique Sainte-Clotilde de Paris) のオルガン奏者に就任。1860年代にはイエズス会コレージュ (Collège des jésuites de l'Immaculée-Conception) などで非常勤の教員となり、同校でアンリ・デュパルク (Henri Duparc, 1848 - 1933) やアルテュール・コカール (Arthur Coquard, 1846 - 1910) に指導しました。1872年のフランソワ・ブノワのパリ音楽院オルガン教授退任ののち彼の後任のオルガン教授となりました。1890年に胸膜炎を発症してほどなく、同年11月8日にパリで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

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