2020-12-31

150th Birth Anniversary of Percy Elliott

Percy Elliott (England, 1870 - 1934) - Vox Maris. 3 Seascapes for the Piano (London: Paxton, 1920); No. 3. Night Seas. Lento e tranquillo (D major)

今日はイングランドの作曲家・ヴァイオリン奏者・指揮者、パーシー・エリオット生誕150年の誕生日です。今回はエリオット作曲「海の声、ピアノのための3つの海景」より第3曲「夜の海」を弾きました。

1870年12月31日にダンスタブル (Dunstable) に生まれたパーシー・エリオットは、1887年に王立音楽アカデミーに入学し、ヴァイオリン演奏で銅メダルと銀メダルを取得しました。ヴァイオリン独奏者としてセント・ジェイムズ・ホール (St. James's Hall) での演奏会に出演し、1903年から1904年にかけて20ヶ月の間、音楽監督として南アフリカを演奏旅行しました。

出典: Wyndham, H. Saxe; L'Epine, Geoffrey, eds. (1913). “Elliott, Percy”. Who's Who in Music. Boston: Small, Maynard and Company. page 75.

2020-12-30

250th Birth Anniversary of Jacob Cubitt Pring

Jacob Cubitt Pring (England, 1770 - 1799) - Easy Progressive Lessons with the Fingering Mark'd for Young Beginners on the Piano Forte or Harpsichord; Sonatina No. 4 in G major

イングランドの作曲家・オルガン奏者、ジェイコブ・キュービット・プリング生誕250年ということで、プリング作曲「若い初学者のための運指つきの易しく段階的なレッスン集」より「ソナティナ第4番 ト長調」を弾きました。

ジェイコブ・キュービット・プリングは1770年11月3日にルイシャムのセント・メアリー教会で受洗しました。1797年にオックスフォード大学を卒業 (Bachelor of Music) し、オールゲイトのセント・ボトルフ教会 (St Botolph's Aldgate) でオルガン奏者を務めました。アンセムやグリーなどの声楽曲で知られ、合唱団 Concentores Sodales の創設者の一人でもあります。

弟に、いずれもオルガン奏者のジョゼフ・プリング (Joseph Pring, 1773/1776 - 1842) とアイザック・プリング (Isaac Pring, 1777 - 1799) がおり、この三兄弟はいずれもロバート・ハドソン (Robert Hudson, 1732 - 1815) の指導下でセント・ポール大聖堂聖歌隊の一員となっていました。

出典:

2020-12-29

250th Birth Anniversary of Lev Gurilyov

Lev Stepanovich Gurilyov (L. Gourileff ; Лев Степанович Гурилёв, Russia, 1770 - 1844) - 24 préludes et 1 fugue pour le pianoforte (1810), composées et dédiées à son Excellence Monsieur le Comte Vladimir Grigoriwitsch Orloff; Fuga a quattro voci. Allegro vivace (D major)

ロシアの作曲家・指揮者のレフ・グリリョーフ生誕250年ということで、グリリョーフ作曲「24の前奏曲と1つのフーガ」より「4声のフーガ ニ長調」を弾きました。1810年に出版されたこの曲集は五度圏の配列による12の長調の前奏曲、12の短調の前奏曲、フーガからなり、農奴としてのグリリョーフの主人であるヴラディーミル・オルローフ伯爵 (Vladimir Grigoryevich Orlov, 1743 - 1831) に献呈されました。

モスクワ県セルプホフ郡セミョーノフスコエ (Семёновское) にあったオルローフ邸オトラーダ (Отрада-Семёновское) の農園で農奴として育ったレフ・グリリョーフは、ロシア帝国宮廷礼拝堂楽長のジュゼッペ・サルティ (Giuseppe Sarti, 1729 - 1802) の指導を受け、農奴オーケストラの指揮者となりました。作品には変奏曲、ソナタ、舞曲などのピアノ独奏曲、カンタータなどの宗教曲があります。子のアレクサンドル・グリリョーフ (Aleksandr Gurilyov, 1803 - 1858) はレフに音楽の手ほどきを受け、歌曲で知られる作曲家となりました。1831年に主人のオルローフが亡くなると、父子ともに農奴の身分から解放されました。

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2020-12-18

150th Birth Anniversary of Arseny Koreshchenko

Arseny Koreshchenko (Арсений Николаевич Корещенко, Russia, 1870 - 1921) - Scènes enfantines pour le piano, Op. 22 (à mon cher ami Josef Hofmann [Józef Hofmann (1876 - 1957)]. Sankt-Peterburg: W. Bessel & Cie., 1897); 4. Жалоба ; Complainte. Andante doloroso (B minor)

今日はロシアの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師・批評家、アルセーニー・コレシチェンコ生誕150年の誕生日です。今回はコレシチェンコ作曲、ピアノのための「子供の情景 Op. 22」(ヨゼフ・ホフマンに献呈) より第4曲「不満 ロ短調」を弾きました。曲集は「ブーカ (オグル) ハ短調」「五月に、小スケルツォ ヘ長調」「小行進曲 ハ長調」「不満」「モーツァルト風メヌエット ニ長調」「ナポリ風ワルツ ト長調」の6曲からなります。

アルセーニー・コレシチェンコは1870年12月18日 (ユリウス暦12月6日) にモスクワで生まれました。幼少のころから楽才を示し、3歳でピアノ演奏を、4歳で作曲を始めました。8歳のときにアントン・ルビンシテイン (Anton Rubinstein, 1829 - 1894) の面前で演奏し、その才能を認めたルビンシテインの勧めにより、ニコライ・ズヴェーレフ (Nikolay Zverev, 1832 - 1893) にピアノを、アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906) に音楽理論を師事しました。1884年に入学したモスクワ音楽院セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) のピアノ科クラス、アレンスキーの作曲科クラスで学び、1891年に大金メダル (большая золотая медаль) を得て音楽院を卒業しました。

モスクワ音楽院 (1891-1903)、教会聖歌シノド学校 (Синодальное училище церковного пения. 1893-1894, 1898)、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団附属音楽演劇学校 (Музыкально-драматическое училище Московского филармонического общества, 1906-1919) などでピアノ・音楽理論・作曲などを教えました。アルメニアやジョージア (グルジア) などカフカースの民謡を録音・研究し、それら民謡の編曲の出版や、民謡の旋律を取り入れた自作の発表をしました。1919年からウクライナのハルキウ音楽院の教授となり、翌1920年には同音楽院の院長に就任しました。1921年1月6日にハルキウ (ハリコフ) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

  • ニコライ・ダニーリン (Nikolay Danilin, Николай Михайлович Данилин, 1878-1945)
  • ヴャチェスラーフ・パスハーロフ (Vyacheslav Paskhalov, Вячеслав Викторович Пасхалов, 1878-1951)
  • ニコライ・ガールブゾフ (Nikolay Garbuzov, Николай Александрович Гарбузов, 1880-1955)
  • アレクセイ・パルシノフ (Aleksey Parusinov, Алексей Васильевич Парусинов, 1882-1961)
  • アレクサンドル・クレイン (Aleksandr Kreyn, Александр Абрамович Крейн, 1883-1951)
  • ボリス・クラーシン (Boris Krasin, Борис Борисович Красин, 1884-1936)
  • ミハイル・バグリノーフスキー (Mikhail Bagrinovsky, Михаил Михайлович Багриновский, 1885-1966)
  • イヴァン・クルィローフ (Ivan Krylov, Иван Андреевич Крылов, 1885-1935)
  • アルセーニー・アヴラアーモフ (Arseny Avraamov, Арсений Михайлович Авраамов, 1886-1944)
  • グリゴーリー・ロバチョーフ (Grigory Lobachyov, Григорий Григорьевич Лобачёв, 1888-1953)
  • イヴァン・シショーフ (Ivan Shishov, Иван Петрович Шишов, 1888-1947)
  • コンスタンチン・アレクセーエフ (Konstantin Alekseyev, Константин Сильвестрович Алексеев, 1889-1951)
  • アレクサンドル・スヴェーシニコフ (Aleksandr Sveshnikov, Александр Васильевич Свешников, 1890-1980)
  • アレクサンドル・ヅゼゲリョーノク (Aleksandr Dzegelyonok, Александр Михайлович Дзегелёнок, 1891-1969)
  • ヴァシーリー・ネボリシーン (Vasily Nebolsin, Василий Васильевич Небольсин, 1898-1958)
  • ソロモーン・ファーイントゥフ (Solomon Fayntukh, Соломон Евсеевич Файнтух, 1899-1985)
  • レオニート・ウサチョーフ (Leonid Usachov, Леонід Антонович Усачов, 1899-1965)

    出典:


  • 2020-12-17

    150th Death Anniversary of Saverio Mercadante

    Saverio Mercadante (Italy, 1795 - 1870) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Il giuramento; Act I. Bella, adorata Incognita (Biblioteca d'oro. Vol. 3 No. 37. Cavatina dall' opera: Il giuramento. Andante mosso (B flat major))

    今日はサヴェリオ・メルカダンテ没後150年の命日です。今回はメルカダンテ作曲の歌劇「誓い Il giuramento 」第1幕よりアリア「美しく愛しき謎の女よ Bella, adorata Incognita 」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第37曲 Cavatina dall' opera: Il giuramento として収録されています。

    サヴェリオ・メルカダンテは、ナポリ王国アルタムーラで貴族の私生児として生まれました。1799年に一時期成立したパルテノペア共和国が王国側の反撃で倒れ、その際の略奪により一家は財産を失いますが、1806年以後のフランス占領下のナポリで父が官吏となったため、一家はナポリに移りました。

    異母兄からギターとクラリネットを学び楽才を示したメルカダンテは、1808年にサン・セバスティアーノ音楽院 (ナポリ音楽院の前身校) に入学し、ヴァイオリン、フルート、声楽を学んだほか、ジョヴァンニ・フルノ (Giovanni Furno, 1748 - 1837) に通奏低音を、ジャコーモ・トリット (Giacomo Tritto, 1733 - 1824) に対位法を、1813年から音楽院の新院長に就任したニコロ・アントニオ・ジンガレッリ (Niccolò Antonio Zingarelli, 1752 - 1837) に作曲を師事しました。同音楽院では作曲と声楽の教師であるルイージ・カポトルティ (Luigi Capotorti, 1767 - 1842) にも学んでいます。

    音楽院在学中には代表作の一つである「フルート協奏曲第2番 ホ短調」を作曲し、活動初期には室内楽曲 (主にフルートのための) の出版により収入を得ています。1819年8月19日初演 (ナポリ、サン・カルロ劇場) の最初のオペラ「ヘラクレスの神格化 L’apoteosi d’Ercole 」は成功を収め、1821年10月30日初演 (ミラノ、スカラ座) の7作目のオペラ「エリーザとクラウディオ Elisa e Claudio 」の成功は国外にも名声を広めました。1823年の春に興業主のドメニコ・バルバイア (Domenico Barbaia, 1778 - 1841) に3年間の契約で雇われ、ジョアキーノ・ロッシーニ (Gioacchino Rossini, 1792 - 1862) の後任としてサン・カルロ劇場のオペラ作曲家を務めました。1826年初めの「スペインの女王カリテア Caritea, regina di Spagna 」(ヴェネツィア初演) の成功ののち、同年にマドリードにある劇場の音楽監督に就任しました。1827年7月にリスボンに、1829年初めにカディスに移り、1830年にイタリアに戻りました。

    1837年3月11日にスカラ座で初演された「誓い Il giuramento 」は、メルカダンテのオペラの中でも最高傑作とされています。1838年に炎症により片目の視力を失いました。1840年にナポリ音楽院院長に就任し、1845年から1856年まで音楽院院長との兼任でサン・カルロ劇場音楽監督を務めました。1852年に両シチリア王国宮廷軍楽隊監察官に任命されました。1861年にイタリア王国が成立すると、音楽院からの要望によりサン・カルロ劇場音楽監督に再任されました。1862年に発症した脳卒中により、全盲となりました。視力を失いながらも音楽院では院長の地位にとどまり、学生に新作を口述筆記させることを通して作曲を教え、完成した最後のオペラである「ヴィルジニア Virginia 」(1866年4月7日にナポリで初演) も成功を収めました。脳卒中の再発後ほどなくして1870年12月17日にナポリで亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:


    2020-12-16

    250th Birth Anniversary of Ludwig van Beethoven

    Ludwig van Beethoven (Germany, 1770 - 1827) / Leopold Godowsky (Lithuania/USA, 1870 - 1938) - Violin Sonata No. 9 in A major, Op. 47; I. Adagio sostenuto - Presto (Educational Adaptations for the Pianoforte. Chamber Music Series. L. van Beethoven: Kreutzer Sonata, Op. 47. Adapted and edited by Leopold Godowsky. St. Louis: Art Publication Society, 1915)

    今年はドイツ出身の作曲家・ピアノ奏者、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン生誕250年の記念年です。今回はベートーヴェン作曲「ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調 Op. 47」(ロドルフ・クロイツェル (Rodolphe Kreutzer, 1766 - 1831) に献呈) の、レオポルト・ゴドフスキによるピアノのための教育的編曲より第1楽章を弾きました。ボンのレミギウス教会 (St. Remigius in Bonn) の洗礼記録ではベートーヴェンの受洗日を1770年12月17日としていて、当時のカトリックのラインラントでの洗礼の慣習よりその前日の12月16日が誕生日である可能性が高いようです。会話帳にある甥カール・ヴァン・ベートーヴェン (Karl van Beethoven, 1806 - 1858) の記述 (1823-12-15) より、ベートーヴェン自身は誕生日を12月15日と認識していたと考えられています。

    ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ケルン選帝侯宮廷テノール歌手ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン (Johan van Beethoven, ca.1740 - 1792) の子としてケルン選帝侯領 (Kurköln) の首都ボンに生まれました。父方の祖父は南ネーデルラントメヘレン (あるいはアントヴェルペン) 出身で1746年より選帝侯宮廷楽長を務めたローデヴェイク・ファン・ベートホーヴェン (Lodewijk (Ludwig) van Beethoven, 1712 - 1773) です。父に音楽の手ほどきを受けたのち、1780年頃までにジル・ファン・デン・エーデン (Gilles Van den Eeden, ca.1708 - 1782) とフランシスコ会教会オルガン奏者修道士ヴィリバルト・コッホ (Willibald Koch) とボンのミュンスター教会 (Bonner Münster) オルガン奏者ツェンザー/ツェンゼン (Zenser/Zensen) にオルガンを、トビアス・フリードリヒ・プファイファー (Tobias Friedrich Pfeiffer, 1751? - 1805?) にピアノを、フランツ・ゲオルク・ロヴァンティーニ (Franz Georg Rovantini, 1757 - 1781) にヴァイオリンとヴィオラを師事しました。1781年2月に宮廷オルガン奏者に就任したクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ (Christian Gottlob Neefe, 1748 - 1798) にピアノ、オルガン、通奏低音、作曲を、1784年5月から1787年4月まで宮廷ヴァイオリン奏者フランツ・アントン・リース (Franz Anton Ries, 1755 - 1846) にヴァイオリンを師事しました。1782年6月には師の一人ファン・デン・エーデンの埋葬式でネーフェの代わりにオルガンを演奏し、おそらく同年に最初の楽譜「ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲 WoO 63」を出版します。ヨゼフ・レイハ (Joseph Reicha, 1752 - 1795. 1785年に宮廷楽団楽師長としてボンに着任) の甥で養子のアントニーン・レイハ (Anton Reicha, 1770 - 1836) と友人となり、1789年にはともにボン大学聴講生となります。

    1792年7月にヨーゼフ・ハイドン (Franz Joseph Haydn, 1732 - 1809) がボンを訪れたことを機に、同年11月にハイドンに作曲を学ぶためにヴィーンに移りました。その後、1794年1月までハイドンに師事したほか、ヨハン・バプティスト・シェンク (Johann Baptist Schenk, 1753 - 1836) に対位法の指導を受けました。1794年から1795年までシュテファン大聖堂 (Stephansdom) 楽長ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー (Johann Georg Albrechtsberger, 1736 - 1809)に対位法を、 同じ頃にイグナーツ・シュパンツィク (Ignaz Schuppanzigh, 1776 - 1830) にヴァイオリンを師事しました。1801年から1802年初までアントーニオ・サリエ-リ (Antonio Salieri, 1750 - 1825) にイタリア語付曲の指導を受けました。

    1794年に選帝侯からの俸給が止められますが、複数の貴族からの年金支給などの後援もあり、作曲家として大成します。

    ピアノ、音楽理論、作曲の教え子にルドルフ大公 (Rudolph Johann Joseph Rainer, Erzherzog von Österreich, 1788 - 1831)、音楽家として著名なピアノの教え子にフェルディナント・リース (Ferdinand Ries, 1784 - 1838)、カール・チェルニー (Carl Czerny, 1791 - 1857) がいます。

    出典:


    2020-12-06

    100th Death Anniversary of Karel Kovařovic

    Karel Kovařovic (Czech, 1862 - 1920) - Walzer (Valčík). Tempo di valse (E flat major)

    今日はチェコ・ボヘミアの作曲家・クラリネット奏者・ハープ奏者・ピアノ奏者・指揮者・音楽教育者、カレル・コヴァジョヴィツ没後100年の命日です。今回はコヴァジョヴィツ作曲「ワルツ 変ホ長調」を弾きました。

    プラハに生まれたカレル・コヴァジョヴィツは、1873年に入学したプラハ音楽院でユリウス・ピサジョヴィツ (Julius Pisařovic, 1811 - 1881) にクラリネットを、ヴァーツラフ・アロイス・スタニェク (Václav Alois Staněk, 1835 - 1910) にハープを、ヨゼフ・イラーネク (Josef Jiránek, 1855 - 1940) にピアノを師事し、1879年に音楽院を卒業しました。個人教授でズデニェク・フィビフ (Zdeněk Fibich, 1850 - 1900) に作曲を (1878年から1880年まで)、ヤン・ルドヴィーク・ルケス (Jan Ludvík Lukes, 1824 - 1906) とフランチシェク・ピヴォダ (František Pivoda, 1824 - 1898) に声楽を師事しました。

    1879年12月17日に芸術協会 (Umělecká beseda 芸術ベセダ) の演奏会でフィビフ作曲、クラリネットとピアノ (または管弦楽) のための「牧歌 変ロ長調 Selanka, Op. 16」をクラリネット奏者として初演したほか、1879年から1885年までプラハの仮劇場 (Prozatimní divadlo) と国民劇場 (Národní divadlo. 1881年開館) でハープ奏者として、1881年から1887年までヴァイオリン奏者フランチシェク・オンドジーチェク (František Ondříček, 1857 - 1922) とバリトン歌手レオポルト・ストロプニツキー (Leopold Stropnický, 1845 - 1914) のピアノ伴奏者として活動しました。1880年から1900年までピヴォダの声楽学校 (Pěvecká škola) でコレペティートルと教師を、1898年にピヴォダが亡くなるとその後継として1900年まで同校校長を務めました。

    1885年9月から1886年3月までブルノ国民劇場 (Národní divadlo Brno) で、1886年9月から1887年7月までプルゼニ市立劇場 (Městské divadlo v Plzni) で指揮者を務め、1895年にプラハで開催されたチェコスラヴ民俗学博覧会 (Národopisná výstava českoslovanská v Praze) における管弦楽演奏会の指揮者に任命されました。1896年から1898年まで、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の最初期の指揮者の一人となり、1900年から1920年までまでプラハ国民劇場の歌劇監督を務めました。1901年にチェコ科学芸術アカデミー (Česká akademie věd a umění) の準会員に、1906年に同アカデミー正会員に選出され、1918年から1920年まで芸術協会音楽部門議長を務めました。1910年にはフランス共和国公共教育省より教育功労章オフィシエ・ダカデミー (officier d'académie) を授与されました。1920年12月6日にプラハで亡くなりました。

    出典:

    • Kuna, Milan (2001). “Kovařovic, Karel”. Grove Music Online.
    • Šálek, Cyril (2003) 2016. “Kovařovic, Karel”. In Lütteken, Laurenz (ed.). MGG Online. Bärenreiter, Metzler, RILM, 2016–.
    • Macek, Petr; Kalina, Petr; Steinmetz, Karel; Zahrádková, Šárka, eds. (2016-04-12). “Kovařovic, Karel”. Český hudební slovník osob a institucí. Centrum hudební lexikografie, Ústav hudební vědy Filozofické fakulty Masarykovy univerzity.

    2020-11-22

    150th Birth Anniversary of Howard Brockway

    Howard Brockway (USA, 1870 - 1951) - 6 Klavierstücke, Op. 8 (Herrn Ethelbert Nevin freundschaftlichst gewidmet. Berlin: Schlesinger, 1894); No. 1. Albumblatt. Andante con moto (F major)

    今日は米国の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、ハワード・ブロックウェイ生誕150年の誕生日です。今回はブロックウェイ作曲「6つのピアノ小品 Op. 8」より第1曲「アルバムの綴り ヘ長調」を弾きました。この曲集は友人のエセルバート・ネヴィン (Ethelbert Nevin, 1862 - 1901) に献呈されています。

    ニューヨーク州ブルックリン市 (現在のニューヨーク市ブルックリン区) に生まれたハワード・ブロックウェイは、 H. O. C. Kortheuer にピアノを学びました。1890年に移ったベルリンで5年間、オウティス・バードウェル・ボイシ (Otis Bardwell Boise, 1844 - 1912) に作曲を、カール・ハインリヒ・バルト (Karl Heinrich Barth, 1847 - 1922) にピアノを師事しました。1895年2月23日にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による演奏で、自作の室内楽曲と管弦楽曲の演奏会を催しました。米国に戻ると、1903年から1909年までメリーランド州マウントヴァーノン (Mount Vernon) のピーボディ研究所 (Peabody Institute) で、1910年から1940年までニューヨーク市の音楽芸術研究所 (Institute of Musical Art, 1926年以降はジュリアード音楽院) で、そのほかにニューヨーク市のデイヴィッド・マネス音楽学校 (David Mannes Music School) で教師を務めました。ピーボディ研究所での作曲の教え子にユージーン・マクドナルド・ボナー (Eugene MacDonald Bonner, 1889 - 1983) がいます。

    出典:

    2020-11-16

    300th Birth Anniversary of Carlo Antonio Campioni

    Carlo Antonio Campioni (France/Italy, 1720 - 1788) - 6 Sonatas for the Harpsichord (London: Robert Bremner, 1763); Sonata No. 2 in E major; II. Allegretto (E major)

    今日はロレーヌ出身のイタリアの作曲家・ヴァイオリン奏者、カルロ・アントニオ・カンピオーニ (シャルル=アントワーヌ・カンピオン) 生誕300年の誕生日です。今回はカンピオーニ作曲「ハープシコードのための6つのソナタ」の「ソナタ第2番 ホ長調」(全2楽章) より第2楽章を弾きました。

    シャルル=アントワーヌ・カンピオンはロレーヌ公国 (ロートリンゲン公国) のリュネヴィル (Lunéville) に生まれました。父がロレーヌ公国の宮廷に仕えていたため、のちに神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世となるロレーヌ公フランソワ3世エティエンヌ (Franz I. Stephan von Lothringen, 1708 - 1765) が1737年にトスカーナ大公国を継承したことに伴って一家でトスカーナに移ったと考えられています。遅くとも1752年からリヴォルノ大聖堂 (Duomo di Livorno) の楽長、1763年から亡くなるまでフィレンツェサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 (Cattedrale di Santa Maria del Fiore) とサン・ジョヴァンニ洗礼堂 (Battistero di San Giovanni) での業務を含む大公の宮廷楽長を務めました。

    出典: Kidd, Ronald R. (2001). “Campioni [Campione], Carlo Antonio [Campion, Charles Antoine]”. Grove Music Online.

    2020-10-29

    100th Death Anniversary of Ernst Perabo

    Johann Ernst Perabo (Germany/USA, 1845 - 1920) - Die Schule ist aus! (After School). 6 Klavierstücke (6 Easy Pieces for the Piano), Op. 7 (Meiner lieben kleinen Freundin Miss Alice Ahlborn gewidmet. Boston: G. D. Russell & Co., 1874); No. 6. Ein Pic-nic (A Picnic); b. Das Caroussel [Karussel] (The caroussel [carousel ; merry-go-round]). Allegro vivace (G major)

    今日はドイツ出身の米国の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、エルンスト・ペーラボ (アーネスト・ペラボウ) 没後100年の命日です。今回はペーラボ作曲「授業は終わり! (放課後)、6つのピアノ小品 Op. 7」の第6曲「ピクニック」より第2楽章「回転木馬 (カルーセル)」を弾きました。この曲集は「下校 Austritt aus der Schule ; Leaving School 」、「兵隊ごっこ Soldatenspielen ; Playing Soldier 」、「小鳥の葬式 Vögleins Begräbniss ; Bird's Funeral 」、「馬跳び Bockspringen ; Leap-Frog 」、「舟漕ぎ Rudern ; Rowing 」、「ピクニック Ein Pic-Nic ; A Picnic 」の6曲からなり、このうち「ピクニック」は「木立への到着 Ankunft im Gehölz ; Meeting in the grove 」、「回転木馬 Das Caroussel ; The caroussel 」、「湖上にて Auf dem See ; On the lake 」、「小さな喧嘩 Kleiner Streit ; Little quarrel 」、「出発 (帰宅) Der Aufbruch ; Going home 」の5楽章からなります。

    ナッサウ公国の首都ヴィースバーデンに生まれたペーラボは、5歳で父ヨハン・ミヒャエル・ペーラボ (Johann Michael Perabo) にピアノを習い始め、12歳にはヨハン・ゼバスティアン・バッハ (Johann Sebastian Bach, 1685 - 1750) 作曲「平均律クラヴィーア曲集」全48曲を暗譜して演奏できるようになりました。1852年に家族とともに渡米してニューヨーク市に2年間、ニュー・ハンプシャー州ドーヴァーに2年間、ボストン (Boston) に1年間滞在しました。ニューヨーク市ではペーラボの後援者となるピアノ奏者・音楽出版業者のウィリアム・シャルフェンベルク (William Scharfenberg, 1819 - 1895) と知り合いました。ボストンではフランク・ヒル (Frank Hill) に学んだほか、のちにメンデルスゾーン五重奏クラブ (Mendelssohn Quintette Club) 第1ヴァイオリン奏者 (1859-1877) となるウィリアム・ヘンリ・シュルツェ (William Henry Schultze, 1828 - 1888) にヴァイオリンを師事しました。

    1858年9月1日にニューヨーク港を出港した蒸気船「ザクソニア Saonia 」(Ehlers 船長) で単身ドイツに戻り、ハンブルク近郊のアイムスビュテル (Eimsbüttel) でヨハネス・アンドレースン (Johannes Andresen, またはヨハン・アナスン (Johann Andersen)) の寄宿学校 (1858-1862) でヨハネス・アンドレースンのほか、ヘンリエデ・アンドレースン (Henriette Andresen)、アウグスト・シューラー (August Schüler)、マイヤーホーフ (Meyerhof)、メンヒ (Mönch)、シュルツ (Schulz)、ハインリヒ・ヨアヒム (Heinrich Joachim) に学びました。1862年にライプツィヒ音楽院 (Conservatorium der Musik. 現在のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ) に入学し、イグナツ・モシェレス (Ignaz Moscheles, 1794 - 1880)、エルンスト・フェルディナント・ヴェンツェル (Ernst Ferdinand Wenzel, 1808 - 1880) にピアノを、ローベルト・ベンヤミン・パペリツ (Robert Benjamin Papperitz, 1826 - 1903)、エルンスト・フリードリヒ・リヒター (Ernst Friedrich Richter, 1808 - 1879)、モーリッツ・ハウプトマン (Moritz Hauptmann, ) に和声法を、カール・ライネッケ (Carl Reinecke, 1824 - 1910) に作曲を師事しました。1865年5月4日の音楽院の公開試験では、出版後間もないノルベルト・ブルクミュラー (Norbert Burgmüller, 1810 - 1836) 作曲「ピアノ協奏曲 嬰ヘ短調 Op. 1」(Leipzig: Fr. Kistner) の第2、第3楽章を演奏しました。

    1865年11月1日にライプツィヒを離れ、蒸気船「アレマニア Allemania 」(Trautmann 船長) でニューヨーク港に向かいました。両親が当時住んでいたオハイオ州サンダスキー (Sandusky) のほか、インディアナ州ラーフィーエット (Lafayette)、シカゴクリーヴランドで演奏会を催し、1866年3月にニューヨークに戻りました。同年4月19日、ボストンのハーヴァード音楽協会 (Harvard Musical Association) 主催のシーズン最終公演で演奏したヨハン・ネポムク・フンメル (Johann Nepomuk Hummel, 1778 - 1837) 作曲「七重奏曲 第1番 Septet No. 1, Op. 74」は好意的な批評を受け、ボストンにおける名声を確立しました。1878年から1879年にかけてライプツィヒ音楽院に戻り再び学んでいます。のちにボストンを拠点とし、ピアノ教師としても評価されました。ピアノの教え子にはエイミー・ビーチ (Amy Marcy Beach, 1867 - 1944) がいます。作曲家としてはピアノ独奏曲がほとんどで、性格的小品や舞曲といったオリジナル作品のほか、他の作曲家の作品によるピアノ編曲があります。1920年10月29日にボストンで亡くなりました。

    出典:

    • Herndon, Richard; Bacon, Edwin Monroe, eds (1896). “Perabo, Johann Ernst”. Men of progress : one thousand biographical sketches and portraits of leaders in business and professional life in the Commonwealth of Massachusetts. Boston: New England Magazine. pages 906-908.
    • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1919). “Perabo, (Johann) Ernst”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd edition). New York: G. Schirmer. page 693.
    • Rezits, Joseph (2001). “Perabo, (Johann) Ernst”. Grove Music Online.

    2020-10-16

    100th Death Anniversary of Alberto Nepomuceno

    Alberto Nepomuceno (Brazil, 1864 - 1920) - 4 Peças infantis, SN1.28; No. 4. Insistência. Andantino (A minor)

    今日はブラジルの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、アウベルト・ネポムセーノ没後100年の命日です。今回はネポムセーノ作曲「4つの子供の小品」より第4曲「おねだり」を弾きました。曲名の insistência は英語の insistence に相当して「主張」などと訳されますが、「おねだり」という訳語が『ブラジル・メキシコ ピアノ作品集 : ラテン・クラシックを弾こう』(宮崎幸夫 編. 音楽之友社. 2003)、『新・イメージであそぶぴあの : 生き生きとした音楽表現のヒントがいっぱい』(辻本健市 監修. サーベル社. 2011)、『ちいさな手のためのラテン・ピアノ曲集 : はじめてのはっぴょうかい Latin Piano Collection for Small Hands 』(宮崎幸夫 編. ドレミ楽譜出版社. 2013/2020) で採用されています。

    ブラジル帝国セアラー州の州都フォルタレザ (Fortaleza) に生まれたアウベルト・ネポムセーノは、レシフェでピアノとヴァイオリンを学び始め、1880年から同地のエウクリデス・フォンセカ (Euclides Fonseca, 1853/1854 - 1929) に、1884年に移ったリオデジャネイロで、ミゲル・カルドーゾ (Miguel Cardoso, 1850 - 1912) に和声法を師事しました。レシフェでは18歳のときにカルロス・ゴメス・クラブ (Clube Carlos Gomes) の演奏会で指揮者として、リオデジャネイロではベートーヴェン・クラブ (Clube Beethoven) でピアノ奏者・ピアノ教師として活動をしています。ピアノ奏者としてはチェロ奏者のフレデリコ・ナシメント (Frederico Nascimento, 1852 - 1924) と演奏旅行もしています。

    1888年に渡欧し、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア (Accademia Nazionale di Santa Cecilia) でエウジェーニオ・テルツィアーニ (Eugenio Terziani, 1824 - 1889) とチェーザレ・デ・サンクティス (Cesare De Sanctis, 1824 - 1916) に和声法を、ジョヴァンニ・ズガンバーティ (Giovanni Sgambati, 1841 - 1914) にピアノを師事しました。ベルリンではアカデミッシェ・マイスターシューレ (Akademische Meisterschule für musikalische Komposition) とシュテルン音楽院 (Stern'sches Konservatorium) で学び、ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク (Heinrich von Herzogenberg, 1843 - 1900)、テオドル・レシェティツキ (Theodor Leschetizky, 1830 - 1915)、アルノ・クレッフェル (Arno Kleffel, 1840 - 1913)、マックス・ブルッフ (Max Bruch, 1838 - 1920) に師事しました。パリではパリ音楽院スコラ・カントルム (Schola Cantorum) でアレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant, 1837 - 1911) にオルガンを師事しました。

    1895年にリオデジャネイロに戻ると、リオデジャネイロ音楽院 (Conservatório de Música do Rio de Janeiro) のオルガン教師となり、1902年には同音楽院院長 (1902-1903, 1906-1916) に就任しました。先天性四肢障害で右腕を欠損している娘シグリッド (Sigrid Nepomuceno) のために、「5つの小品」(1906) と「2つの夜想曲」(1907) などの左手のためのピアノ曲を作曲しています。1910年にブリュッセル万国博覧会で指揮をするために再び渡欧し、パリとジュネーヴでは自作や他のブラジルの作曲家の作品を演奏しました。1920年10月16日にリオデジャネイロで亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。


    2020-10-08

    150th Birth Anniversary of Louis Vierne

    Louis-Victor-Jules Vierne (France, 1870 - 1937) - 24 Pièces en style libre pour orgue ou harmonium, Op. 31; No. 3. Complainte. Andante moderato (D flat major. Dedicated to Albert Périlhou)

    今日はフランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、ルイ・ヴィエルヌ生誕150年の誕生日です。今回はヴィエルヌ作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「自由な様式による24の小品 Op. 31」より第3曲「コンプラント 変ニ長調」を弾きました。曲はアルベール・ペリルー (Albert Périlhou, 1846 - 1936) に献呈されています。

    ルイ・ヴィエルヌは先天性白内障のために視覚障害があり、長じるとほぼ盲目となりました。ポワティエ (Poitiers) に生まれ、1880年に家族とともにパリに移り、1881年に国立青年盲学校 (Institution Nationale des Jeunes Aveugles) に入学してソルフェージュ、和声法、ピアノ、ヴァイオリンを含む教養科目を学びました。試験審査員として来校したセザール・フランク (César Franck, 1822 - 1890) にオルガン演奏を勧められ、1886年秋からルイ・ルベル (Louis Lebel, 1831 - 1888) にオルガンを師事しました。 1888年から個人教授でフランクに和声法を師事し、パリ音楽院でフランクのオルガンクラスに加わりました。1890年11月にフランクが亡くなると、シャルル=マリー・ヴィドール (Charles-Marie Widor, 1844 - 1937) に引き続き師事し、サン=シュルピス教会 (Église Saint-Sulpice de Paris) のオルガン奏者を務めていたヴィドールに1892年から同教会の代理オルガン奏者を任されました。1894年に音楽院でオルガンの第一等を取得しました。卒業後は音楽院でヴィドールの、1896年以降は後継のアレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant, 1837 - 1911) の助手となり、1900年にパリのノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Paris) のオルガン奏者となりました。ギルマンの死後、望んでいたパリ音楽院での教授職を得ることはありませんでしたが、1912年からスコラ・カントルムで、1931年からエコール・セザール・フランク (École César Franck) でオルガン教師となりました。ノートルダム大聖堂でオルガンを演奏中に起きた心臓発作のために亡くなりました。弟に同じく作曲家・オルガン奏者のルネ・ヴィエルヌ (René Vierne, 1878 - 1918) がいます。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典: Grove music online.


    2020-10-05

    200th Birth Anniversary of Anton Rée

    Anton Hartvig Rée (Denmark, 1820 - 1886) - Sonatine, Op. 9; II. Allemande. Moderato (F major)

    今日はデンマークの作曲家・ピアノ奏者、アントン・レー生誕200年の誕生日です。今回はレー作曲「ピアノのためのソナチネ Op. 9」より第2楽章「アルマンド ヘ長調」を弾きました。このソナチネは「セレナーデ」、「アルマンド」、「エチュードの形式によるフィナーレ」からなる3楽章構成です。

    オーフス (Aarhus) に生まれたアントン・ハートヴィ・レーは、 1835年から自由ハンザ都市ハンブルクヤーコプ・シュミット (Jacob Schmitt, 1803 - 1853) とカール・アウグスト・クレプス (Karl August Krebs, 1804 - 1880) に、1839年からオーストリア帝国のヴィーンでアントン・ハルム (Anton Halm, 1789 - 1872) に師事したのち、1841年にフランスのパリに移りピアノ奏者として演奏会を催しました。パリではフレデリク・ショパン (Frédéric Chopin, 1810 - 1849) のレッスンを受けています。1842年にコペンハーゲンに移り、教師・著述家として活動しました。1866年に王立デンマーク音楽院 (Det kongelige danske musikkonservatorium) が設立されると、同音楽院で教師を務めます。教え子にアウゴスト・ヴィンディング (August Winding, 1835 - 1899) とエドムント・ノイペルト (Edmund Neupert, 1842-1888) がいます。作曲家としてはピアノ曲と歌曲を残しています。

    出典:

    • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1919). “Claussen, Wilhelm”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd edition). New York: G. Schirmer. page 746.
    • Levysohn, Salomon Frederik (1924). “Rée, Anton”. In Blangstrup, Christian (ed.). Salmonsens konversationsleksikon 19 (2nd edition). København: J. H. Schultz Forlagsboghandel. page 1001.

    2020-09-28

    150th Birth Anniversary of Florent Schmitt

    Florent Schmitt (France, 1870 - 1958) - 3 Pièces pour le piano (L'Illustration, Vol. 56, No. 2888. Paris. 1898-07-02); No. 3. La fin d'une journée. Expressivement (D flat major)

    今日はフランスの作曲家・ピアノ奏者・批評家、フローラン・シュミット生誕150年の誕生日です。今回はシュミット作曲「ピアノのための3つの小品」より第3曲「一日の終わり 変ニ長調」を弾きました。楽譜は1898年7月2日に刊行された週刊新聞「イリュストラシオン L'Illustration 」第56巻2888号に収録されました。

    普仏戦争 (1870-1871) の最中、フローラン・シュミットはロレーヌ地方のムルト県 (Meurthe) ブラモン (Blâmont) に生まれました。1871年5月に締結されたフランクフルト講和条約で、フランス領だったアルザス=ロレーヌ (エルザス=ロートリンゲン) の一部がドイツ帝国に割譲されましたが、生地ブラモンはフランス領に残り、ムルト=エ=モゼル県 (Meurthe-et-Moselle) に属することになりました。

    シュミットは17歳で入学したナンシー音楽院 (Conservatoire de Nancy) でアンリ・エス (Henri Hess) にピアノを、音楽院院長のギュスターヴ・サンドレ (Gustave Sandré, 1843 - 1916) に和声法を師事しました。1889年10月にパリ音楽院に入学し、テオドール・デュボワ (Théodore Dubois, 1837 - 1924) とアルベール・ラヴィニャック (Albert Lavignac, 1846 - 1916) の和声法クラスで二等賞を取得しました。アンドレ・ジュダルジュ (André Gedalge, 1856 - 1926) に学んだフーガでは良い成績を得られませんでしたが、ジュール・マスネ (Jules Massenet, 1842 - 1912) とガブリエル・フォーレ (Gabriel Fauré, 1845 - 1924) に作曲を師事しました。フォーレの作曲クラスには友人となるモーリス・ラヴェル (Maurice Ravel, 1875 - 1937) がいました。サン=クルー (Saint-Cloud) での兵役では、フルートを演奏しました。

    1896年からローマ賞に挑戦し、1897年に「フレデゴンド Frédégonde 」で第二等次席、1900年に「セミラミス Sémiramis, Op. 14 」で第一等を受賞しました。3年間のローマへの留学ののち、ロシア、北アフリカ、ギリシャ、トルコなどを訪問してパリに戻りました。1922年から1924年までリヨン音楽院 (Conservatoire de Lyon) 院長を務め、1931年にはレジオンドヌール勲章を受章しました。ポール・デュカス (Paul Dukas, 1865 - 1935) の死後、1836年にフランス学士院の会員に選出され、デュカスの座席を引き継ぎました。批評家としては、 "La France" (1913年以前), "Revue de France", "Le temps" (1929-1939) などに寄稿しました。

    教え子にミハイル・ジョラ (Mihail Jora, 1891 - 1971)、ピエール=オクターヴ・フェルー (Pierre-Octave Ferroud, 1900 - 1936)、レオ・ユスティニウス・カウフマン (Leo Justinius Kauffmann, 1901 - 1944) がいます。

    出典: Grove Music Online


    2020-09-16

    原田光子 訳編『大ピアニストは語る』の原著 Great Pianists on Piano Playing by James Francis Cooke

    2020年5月に河出書房新社から復刊された原田光子 (1909-1946) 訳編『大ピアニストは語る』を読んだところ、原著についての情報が少なく誤りを含むものだったので、調べた結果をここに記録する。本書は東京創元新社の1969年3月刊を定本としていて、レコード音楽社の1942年3月刊の初版に収録された「初版はしがき」(原田 2020, pp. 213-215) には原著について以下のように書かれている。

    ここに集めた芸術論の約半分は、山根銀二氏から拝借したクック編纂のピアニスト芸談集から「レコード音楽」に訳載したものでございます。その他は独、仏、米の音楽雑誌から選んだもので、「レコード文化」及び「音楽公論」に掲載したものを加えました。

    また、小論「ベートーヴェン、ショパン、リストのピアノ演奏をめぐりて」(原田 2020, pp. 186-212) について原田は「アメリカの著名なる音楽評論家、T・フィンクがその著書に引用している資料をそのまま借用」(原田 2020, p. 212) したとしている。この著書とはおそらくヘンリ・セオフィラス・フィンク (Henry Theophilus Finck, 1854 - 1926) 著『音楽での成功 Success in Music 』(New York: Charles Scribner's Sons, 1909) であり、原田の小論はそのうちの第3部 "Great Pianists" に含まれる第14章 "How Beethoven Played and Taughts" (Finck 1909, pp. 255-261)、第15章 "Chopin as Pianist and Teacher" (idem, pp. 262-274)、第16章 "Liszt and His Pupils" (idem, pp. 275-294) を元に書かれたものであろう。この書籍には『大ピアニストは語る』第2章「イグナーツ・ヤン・パデレフスキー」第2節「テンポ・ルバートについて」(原田 2020, pp. 26-34) の原著と思われる第28章 "Paderewski on Tempo Rubato" (Finck 1909, pp. 454-461) も収録されている。

    萩谷由喜子による解説「ピアノ音楽の使徒、原田光子さん」(原田 2020, pp. 216-222) では、以下のように原著の一つである『ピアニスト藝談集』の編纂者クックをデリック・クック (Deryck Cooke, 1919 - 1976) と補足しているが、これは誤りである。訳書初版の時点でデリック・クックは書籍の編纂者として考えるとかなり若年の22歳であり、それ以前に『ピアニスト芸談集』のような書籍を編纂したという記録も見当たらない。また、前述のT・フィンクやその著書の特定について萩谷は述べていない。

    オリジナルの芸談の約半数は、イギリスの音楽学者デリック・クック (1919 - 1976) 編纂の『ピアニスト藝談集』に収載されていたもので、訳編者はこれを、音楽評論の泰斗、山根銀二氏から借り受けたという。このクック本をもととする章は音楽雑誌『レコード音楽』にシリーズ連載したもの、それ以外の数章は独、仏、米の音楽雑誌を出典として、音楽雑誌『レコード文化』『音楽公論』に単発で発表したものである。

    編纂者クックは実際にはジェイムズ・フランシス・クック (James Francis Cooke, 1875 - 1960) である。『ピアニスト藝談集』の原題は Great Pianists on Piano Playing : Study Talks with Foremost Virtuosos であり、 Theodore Presser Company から初版 (全21章) が1913年に、増補された第2版 (全30章) が1917年に出版されている。初版の原文はプロジェクト・グーテンベルクで公開されている。以下に原田『大ピアニストは語る』(2020) の章と対応する原著を記す。クック編纂『ピアニスト藝談集』からの翻訳は、『大ピアニストは語る』全20章のうち12章 (初版全21章のうち9章、第2版で増補された9章のうち3章) である。

    追記: クック編纂『ピアニスト藝談集』第2版の増補分、フィンク Finck (1909)『音楽での成功 Success in Music 』、カサドゥジュ Casadesus, Robert (1941)「音楽学習における技術の位置 The Place of Technic in Music Study 」『エチュード The Etude 』第59巻第5号、ルービンスタイン Rubinstein, Artur (1941)「上級ピアニストに与う Problems of the Advanced Piano Student 」『エチュード The Etude 』第59巻第6号、シュナーベル Schnabel, Artur (1941)「ピアニストに必要な特性 The Qualities a Pianist Must Possess 」『エチュード The Etude 』第59巻第8号。未詳とした以上の原著について加筆した (2020-09-18)。

    1. ウラジミール・ド・パハマン 1848-1933. 演奏の独自性の探求 (Cooke 1913, pp. 182-195. §14. Seeking Originality. Vladimir de Pachmann)
    2. イグナーツ・ヤン・パデレフスキー 1860-1941.
      1. 音楽芸術の幅の広さについて (Cooke 1917, pp. 290-300. §22. Bredth in Musical Art. Ignaz Jan Paderewski)
      2. テンポ・ルバートについて (Finck 1909, pp. 454-461. §28. Paderewski on Tempo Rubato. 原田 2020, p. 34「このパデレフスキーのテンポ・ルバートに関する小論は、以前に読んだ折に自分の心覚えのためにざっと訳しておいたものである。」)
    3. エミール・フォン・ザウアー 1862-1942. 演奏家の訓練 (Cooke 1913, pp. 236-250. §18. The Training of the Virtuoso. Emil Sauer)
    4. モーリッツ・ローゼンタール 1862-1946. 壮麗なるピアノ演奏様式 (Rosenthal, Moriz. 原著未詳)
    5. イシドール・フィリップ 1863-1958. ピアノ教授について (Philipp, Isidor. 原著未詳)
    6. フェルッチョ・ブゾーニ 1866-1924. ピアノ学習上の重要なる細目 (Cooke 1913, pp. 97-107. §7. Important Details in Piano Study. Ferruccio Busoni)
    7. レオポールト・ゴドウスキー 1870-1938. テクニックの真の意義について (Cooke 1913, pp. 133-142. §10. The Real Significance of Technic. Leopold Godowsky)
    8. セルゲイ・ラフマニノフ 1873-1943. 芸術的演奏の本質 (Cooke 1913, pp. 208-220. §16. Essentials of Artistic Playing. S. V. Rachmaninoff)
    9. ハロルド・バウアー 1873-1951. ピアノ学習の芸術面 (Cooke 1913, pp. 64-78. §5. Artistic Aspects of Piano Study. Harold Bauer)
    10. ヨーゼフ・ホフマン 1876-1957. ピアノ演奏の進歩 (Cooke 1913, pp. 157-168. §12. Progress in Piano Study. Josef Hofmann)
    11. ルドルフ・ガンツ 1877-1972. ピアノ演奏の機会と制限 (Cooke 1917, pp. 311-320. §24. Opportunities and Limitations in Pianoforte Playing. Rudolph Ganz)
    12. アルフレッド・コルトー 1877-1962. インタープリテーションについて. (Cortot, Alfred (1934). Cours d'interprétation. 原田 2020, p. 119「コルトーの『インタープリテーション講義』中のコルトーの言葉を加えることにした。……ここに加えたコルトーの言葉も、英訳によった」)
    13. オシップ・ガヴリロウィッチ 1878-1936. タッチの本質 (Cooke 1913, pp. 122-131. §9. Essentials of Touch. Ossip Gabrilowitsch)
    14. マーク・ハンブルク 1879-1960. 音楽学習の進歩と保証 (Cooke 1917, pp. 349-362. §27. Insuring Progress in Music Study. Mark Hambourg)
    15. アルトゥール・シュナーベル 1882-1951. ピアニストに必要な特性 (Schnabel, Artur (August 1941). “The Qualities a Pianist Must Possess”. The Etude. Vol. 59 no. 8. page 511)
    16. ヴィルヘルム・バックハウス 1884-1969. 明日のピアニスト (Cooke 1913, pp. 52-62. §4. The Pianist of To-morrow. Wilhelm Bachaus)
    17. アルトゥール・ルービンスタイン 1887-1982. 上級ピアニストに与う (Rubinstein, Artur (June 1941). “Problems of the Advanced Piano Student”. The Etude. Vol. 59 no. 6. p. 365)
    18. イーヴ・ナット 1890-1956. ピアノについて (Nat, Yves. 原著未詳)
    19. ヴァルター・ギーゼキング 1895-1956 (カール・ライマーによる). 近代奏法の基礎 (Leimer, Karl; Gieseking, Walter (1931). Modernes Klavierspiel. 原田 2020, p. 177「ここに加えたものは、ギーゼキングの師であるカール・ライマーが書いた『近代ピアノ奏法』の第一章である。ギーゼキング自身この書に序文をよせて、その芸術家としての教育のすべてを負っていると恩師に感謝しているほどであるし、書名に『ライマー=ギーゼキングによる』と副題が記されているほどであるから、ギーゼキングの演奏法の基礎を知るには、適当なものであろう」)
    20. ロベール・カサドゥジュ 1899-1972. 音楽学習における技術の位置 (Casadesus, Robert (May 1941). “The Place of Technic in Music Study”. The Etude. Vol. 59 no. 5. pages 297-298)

    出典: