2024-12-19

200th Birth Anniversary of Carl Reinecke

Carl Reinecke (Denmark/Germany, 1824 - 1910) - Für kleine Hände. 6 leichte Suiten für Pianoforte (Als Vorstudien zu des Komponisten „Ernstes und Heiteres“ Op. 145), Op. 173. Herrn Johann August Wilhelm Todt zugeeignet (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1882); Suite No. 1. Suite im Umfange von 5 Tönen für die rechte Hand (C major); Movement 1. Etude. Allegro (C major).

今年の6月23日はホルシュタイン公国出身のドイツの作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、カール・ライネッケ生誕200年の誕生日でした。今回はライネッケ作曲「小さな手のために、ピアノのための6つの易しい組曲 (作曲者の『真面目なものと陽気なもの』Op. 145 の予備練習として) Op. 173」(Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1882) 組曲第1番「右手の5音の音域による組曲 ハ長調」より第1楽章「練習曲 ハ長調」を弾きました。組曲の名前として「右手の5音の音域」とあるように、この練習曲では右手の音域が中央ハ (C4) から完全五度上のト (G4) までに限られて書かれています。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (Johann Sebastian Bach, 1685 - 1750) の平均律クラヴィーア曲集第1巻より前奏曲第1番ハ長調 BWV 846 を思い起こさせる曲です。曲集はアウグスト・トート (Johann August Wilhelm Todt, 1833 - 1900) に献呈されています。

カール・ライネッケは1824年6月23日にデンマーク王国ホルシュタイン公国アルトナ (現在のドイツの都市ハンブルクの一地区) で、ルドルフ・ライネッケ (Rudolf Reinecke, 1795 - 1883) の子として生まれ、著名な音楽理論家・音楽教師で教科書の著作もある父により徹底した音楽教育を受けました。ピアノ奏者を志していたライネッケは早くも11歳のときにアルトナで初舞台を踏みます。間もなく作曲も始め、1838年には「ピアノのための2つの性格的小品と1つのフーガ 2 Charakterstücke und eine Fuge für die linke Hand, Op. 1」(Hamburg: August Cranz) を出版しました。1843年にはフェーリクス・メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn, 1809 - 1847) の支援により、ライプツィヒゲヴァントハウスの演奏会でピアノ奏者として出演。1845年からダンツィヒ (グダニスク) からリガまでを巡る演奏旅行に出発し、1846年にはデンマークの首都コペンハーゲンで宮廷ピアノ奏者に任命されました。しかし1848年の欧州各地の革命の余波で宮廷での職を失ったため、ユリウス・リーツ (Julius Rietz, 1812 - 1877) の招きに応じてライプツィヒに移りました。1851年から1854年までケルンに移り、フェルディナント・ヒラー (Ferdinand Hiller, 1811 - 1885) が設立したケルン音楽院で対位法とピアノの教師となりました。ヒラーとは演奏会で共演もしています。1859年にはシュレージエンのブレスラウ (ヴロツワフ) で10ヶ月間、大学の音楽監督とジングアカデミーの指揮者を務めました。1860年にライプツィヒに戻り、ライプツィヒ音楽院の作曲・ピアノ教師とゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任。ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者は1895年まで続けました。1874年より王立プロイセン芸術アカデミー会員。音楽院では1884年に名誉博士、1885年に教授の称号を得て、1897年に院長に就任しました。1902年に音楽院の職を辞して教育者としては引退したものの、創作活動は生涯続けました。1910年3月10日にライプツィヒで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2024-12-17

100th Death Anniversary of Edmond Diet

Edmond-Marie Diet (France, 1854 - 1924) - Chérubin (Sérénade). Musique de scène pour la comédie de M. Francis de Croisset.

今年の10月30日はフランスの作曲家エドモン・ディエ没後100年の命日でした。今回はディエ作曲「ケルビム (セレナード)」を弾きました。楽譜に書かれた説明によると、劇作家フランシス・ド・クロワセ (Francis de Croisset, 1877 - 1937) のコメディの場面のために書かれた音楽ということです。

エドモン・ディエは1854年9月25日にフランス帝国の首都パリで、建築家アルテュール=スタニスラス・ディエ (Arthur-Stanislas Diet, 1827 - 1890) の子として生まれました。パリ音楽院セザール・フランク (César Franck, 1822 - 1890) にオルガンと即興演奏を、エルネスト・ギロー (Ernest Guiraud, 1837 - 1892) に対位法とフーガと管弦楽法を師事。その後、数年の間はオラトリオやヴァイオリンソナタなど古典のジャンルの作品に取り組みましたが、1880年代以降、軽音楽の分野で大きな成功を収めました。1924年10月30日にパリで亡くなりました。

出典:

  • Gutsche-Miller, Sarah (2015). “Note to pp. 65-66”. Parisian Music-Hall Ballet, 1871-1913. Rochester: University of Rochester Press. page 305.
  • Edmond Diet (1854-1924)”. Bnf Data. Bibliothèque nationale de France. Retrieved 2024-12-16.

2024-12-16

150th Death Anniversary of Albert Junkelmann

Albert Junkelmann (Germany, d. 1874) - Album. 5 Morceaux pour le piano, Op. 25 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1873); No. 2. Romance. Andante quasi Allegretto cantabile (D flat major). À Mademoiselle Anne Clementieff.

今年の10月21日はドイツ出身の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、アルベルト・ユンケルマン没後150年の命日でした。今回はユンケルマン作曲「アルバム、ピアノのための5つの小品 Op. 25」より第2曲「ロマンス 変ニ長調」を弾きました。

アルベルト・ユンケルマンはテューリンゲン地方のローダ (Roda. 現在のシュタットローダ Stadtroda) に生まれました。ロシア帝国のハリコフ (現在のウクライナ領ハルキウ) の学校 (Kaiserliche Institut zu Charkow) で音楽教授となり、1874年10月21日にハリコフで亡くなりました。作品にはいくつかのピアノ独奏曲があります。

出典:

2024-12-14

100th Death Anniversary of Victor Herbert

Victor Herbert (UK/Germany/USA, 1859 - 1924) / Harold Sanford (USA, 1879 - 1945) - I Might Be Your "Once-In-A-While" (Moderato con espressione. F major. Act I, No. 1. New York: T.B. Harms & Francis, Day & Hunter, 1919) from the Comedy with Music 'Angel Face' (1919).

今年の5月26日は英国出身の米国の作曲家・チェロ奏者・指揮者、ヴィクター・ハーバート没後100年の命日でした。今回はハーバート作曲、3幕の音楽付き喜劇「天使の顔」(1919) より第1幕第1場「僕は君の『ときどき』になるかもしれない」の、ハロルド・サンフォードによるピアノ独奏編曲を弾きました。

ヴィクター・ハーバートは1859年2月1日に既婚者ファニー・マスプラット (Frances "Fanny" Muspratt née Lover) の婚外子として生まれました。ヴィクターが母から伝え聞いたということで出生地はアイルランド (当時は英国領) のダブリンとされてきましたが (Ledbetter, Krasner 2001/2024; Linhardt 2002/2016)、実際はおそらくイギリス海峡の英国王室属領ガーンジー島 (Guernsey) だろうということです (Casey 2017)。母方の祖父であるアイルランド人著述家・作曲家のサミュエル・ラヴァー (Samuel Lover, 1797 - 1868) とともにロンドン郊外のセヴノークスで育ちました。1864年 (Casey 2017) または1866年 ((Ledbetter, Krasner 2001/2024) に母がウィンブルドン在住のドイツ人医師と再婚し、1867年に家族とともにヴュルテンベルク王国の首都シュトゥットガルトに移りました。1874年から1876年までバーデン大公国バーデン=バーデンベルンハルト・コスマン (Bernhard Cossmann, 1822 - 1910) にチェロを師事しました。

ロシア人貴族パーヴェル・フォン・デルヴィース男爵 (Paul von Derwies, 1826 - 1881) の楽団で1年間、その後1880年から1年間独奏者としてヴィーンエドゥアルト・シュトラウス (Eduard Strauss, 1835 - 1916) の楽団で、1881年から1886年までシュトゥットガルトのヴュルテンベルク王国宮廷楽団でチェロ奏者を務めました。宮廷チェロ奏者時代にシュトゥットガルトの王立音楽院マックス・ザイフリッツ (Max Seifriz, 1827 - 1885) に作曲法を師事し、「チェロと管弦楽のための組曲 Op. 3」(1884) 、「チェロ協奏曲第1番 Op. 8」(1884) という大規模な協奏的作品を作曲して自ら独奏者として演奏しました。王立シュトゥットガルト宮廷劇場で知り合ったテレーゼ・フェルスター (Therese Foerster, 1861 - 1927) と1886年8月16日に結婚し、その直後に米国のニューヨークに渡りました。

ニューヨークに渡るとニューヨーク弦楽四重奏団 (New York String Quartet) などでチェロ奏者を務めたほか、ブライトン・ビーチでの夏季演奏会でアントン・ザイドル (Anton Seidl, 1850 - 1898) の下で副指揮者を務めました。おそらく1889年秋に、ナショナル音楽院 (National Conservatory of Music of America) の教員に採用され、1893年から7年間、パトリック・ギルモア (Patrick Sarsfield Gilmore, 1829 - 1892) により設立されたニューヨーク陸軍州兵第22連隊軍楽隊の音楽監督を務めました。1894年に最初のオペレッタ「アナニヤ王子 Prince Ananias 」を劇団ザ・ボストニアンズ (The Bostonians) のために作曲し、以後オペレッタ作曲家として成功を収めます。1898年にピッツバーグ交響楽団 (Pittsburgh Symphony Orchestra) 指揮者に就任して同団の発展に寄与したものの、経営陣と対立したために1904年に辞任。その後、自身の楽団であるヴィクター・ハーバート・オーケストラを結成し、各地を巡ってライトミュージックを演奏しました。1908年に国立芸術文学院 (National Institute of Arts and Letters) の会員に選出。また、作曲家の法的権利の保護について積極的に訴え、1914年に米国作曲家作詞家出版者協会 (American Society of Composers, Authors and Publishers. 略称: ASCAP) の創設者の一人となり、亡くなるまで同会副会長兼理事を務めました。1917年に演奏権をめぐる最高裁判所での裁判で勝訴し、作曲家が演奏料を徴収する権利を獲得しました。1924年5月26日にニューヨークで亡くなりました。

出典:

  • Casey, Marion R. (2017). “Was Victor Herbert Irish?18th–19th - Century History, Features. 25 (1). Retrieved 2024-05-20.
  • Ledbetter, Steven; Krasner, Orly Leah (2001/2024). “Herbert, Victor (August)”. Grove Music Online. Retrieved 2024-05-20.
  • Linhardt, Marion (2002/2016). “Herbert, Victor”. MGG Online. Retrieved 2024-05-20.

2024-12-13

250th Birth Anniversary of Václav Jan Tomášek

Václav Jan Křtitel Tomášek (Czech, 1774 - 1850) - 6 Rapsodies [Rhapsodies] pour le pianoforte composées et dédiées à son ami François Charles Fritsch, Op. 40 (1810); No. 4. Allegro ma non troppo (E minor).

今年の4月17日はチェコの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、ヴァーツラフ・ヤン・クシュチテル・トマーシェク生誕250年の誕生日でした。今回はトマーシェク作曲「6つの狂詩曲 Op. 40」より第4番 ホ短調を弾きました。

ヴァーツラフ・ヤン・トマーシェクは、1774年4月17日に神聖ローマ帝国ボヘミア王国スクテチ (Skuteč) で、亜麻織物商人ヤクプ・トマーシェク (Jakub Tomášek, 1722 - 1793) とカテジナ・トマーシェク (Kateřina Tomášek, geb. Habalová, 1728 - 1786) の13人の子供たちの末息子として生まれました。1783年から1785年までフルディムで、カントルのパヴェル・ヨゼフ・ヴォルフ (Pavel Josef Wolf) にヴァイオリンと声楽を学びました。1787年から1790年までイフラヴァにあるフランシスコ会修道院の奨学生となり、聖歌隊員としてドーナト・シューベルト (Donat Schuberth) から指導を受けました。

1790年に兄の援助の下でプラハに移り、同地でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart, 1856 - 1891) の「ドン・ジョヴァンニ」の公演を観て魅了され、その音楽に強い影響を受けることになりました。ギムナジウムで学んだのち、1794年から1799年までカレル大学で法学のほか、哲学、数学、美学、歴史学、解剖学、外科学を学びました。プラハではピアノと音楽理論を独学で習得。大学在学中に鍵盤楽器のための舞曲や歌曲の作曲を始め、貴族や中産階級の音楽サロンでピアノ奏者を務め、優れたピアノ教師として知られるようになりました。

大学での勉学を終えると音楽家の道へ進むことを決意し、1801年にゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー (Georg Joseph Vogler, 1749 - 1814)、ヨハン・ニコラウス・フォルケル (Johann Nikolaus Forkel, 1749 - 1818) に音楽理論を師事しました。この頃、ピアノ伴奏歌曲「レノーレ Lenore, Op. 12」が評判となり、作曲家としての名声を得ました。「レノーレ」の成功を契機に、1806年から18年間、イジー・ブクヴォイ伯爵 (Jiří František August Buquoy, 1781 - 1851) の音楽家庭教師兼作曲家を務めました。ブクヴォイ家での職務には多くの休暇を取る余裕があったため、作曲や旅行のための時間を十分に得ました。この時期に歌曲、ピアノのためのエクローグ集、狂詩曲集の多くを作曲しています。また、ドレスデングラーツヴィーンを訪れ、ヴィーンでは1801年にヨーゼフ・ハイドン (Joseph Haydn, 1732 - 1809) に、1814年にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827) に会っています。1824年に、詩人・官吏のカール・エーゴン・エーベルト (Karl Egon Ebert, 1801 - 1882) の姉であるヴィルヘルミーナ・エーベルト (Wilhelmina Ebert, 1797 - 1836) と結婚。結婚を機にブクヴォイ家での職を辞し、自身の音楽学校を設立しました。結婚生活の破綻のためにしばらくプラハでの音楽活動から離れていましたが、1836年に妻ヴィルヘルミーナが亡くなると活動を再開しました。主宰する月曜夜のサロン音楽会には著名な芸術家や著作家が集い、プラハ音楽界を代表する人物と見なされました。1850年4月3日にプラハで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2024-12-09

100th Death Anniversary of Ivan Kryzhanovsky

Ivan Ivanovich Kryzhanovsky (J. Kryjanowsky ; Иван Иванович Крыжановский ; Іван Іванович Крижанівський, Ukraine/Russia, 1867 - 1924) - 3 Morceaux pour piano, Op. 13 (Leipzig: Jul. Heinr. Zimmermann, 1914); No. 1. Mélodie. Andantino (D flat major).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・生理学者・音楽学者・音楽教師・音楽批評家、イヴァーン・イヴァーノヴィチ・クルィジャノーフスキー没後100年の命日です。今回はクルィジャノーフスキー作曲「ピアノのための3つの小品 Op. 13」より第1曲「メロディ 変ニ長調」を弾きました。

イヴァン・クルィジャノーフスキーは1867年3月8日 (ユリウス暦2月24日) にロシア帝国キエフ県キエフ(現在のウクライナの首都キーウ)で生まれました。1884年にキエフ第4ギムナジウムを卒業。1887年にロシア音楽協会附属キエフ音楽学校 (現在のレインゴリト・グリエール記念キーウ音楽大学) に入学し、オタカル・シェフチーク (Otakar Ševčík, 1852 - 1934) にヴァイオリンを、エウゲニュシュ・リプ (Eugeniusz Ryb, 1859 - 1924) に音楽理論を師事。1893/1894年にキエフの聖ヴラジーミル帝国大学 (Императорский университет Святого Владимира) 医学部を優秀な成績で卒業。医学の学位を取得し、2年間、大学附属外科医院で研修医を務めました。1896年にサンクトペテルブルク音楽院に入学。ニコライ・リムスキー=コルサコフ (Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908) に作曲法を師事し、1900年に自由芸術家 (свободный художник) の称号を得て卒業。ミトロファン・ベリャーエフ (Mitrofan Belyayev, 1836 - 1904) の音楽サークルや「現代音楽の夕べ Вечера современной музыки 」に参加しています。

1901年からサンクトペテルブルク医科大学解剖学講座に勤務。1903年の秋にはに当時ロシア帝国陸軍工兵だったニコライ・ミャスコフスキー (Nikolay Myaskovsky, 1881 - 1950) に音楽理論を教えています。1909年にサンクトペテルブルク軍事医学アカデミーで医学博士の学位を取得。第一次世界大戦では1914年に医師として前線の赤十字診療所に赴きましたが、ウッチで捕虜となり1917年に帰還。1923年にペトログラード音楽院の教授に就任。1924年12月9日にレニングラード (現在のサンクトペテルブルク) で亡くなりました。

出典:

200th Birth Anniversary of Heinrich Oberhoffer

Heinrich Oberhoffer (Germany/Luxembourg, 1824 - 1885) - 15 Leichte, melodiöse, kleine Orgelstücke nebst einem Orgeltrio, Op. 56 (Augsburg: A. Böhm und Sohn (Moritz Böhm), 1885); No. 6. Moderato (C minor).

今日はドイツ出身のルクセンブルクの作曲家・教会音楽家・音楽理論家・音楽教師、ハインリヒ・オーバーホファー生誕200年の誕生日です。今回はオーバーホファー作曲「15の易しく旋律的なオルガン小品と1つのオルゲルトリオ Op. 56」より第6曲 ハ短調を弾きました。

ハインリヒ・オーバーホファーは1824年12月9日にプロイセン王国トリーア近郊のプファルツェル (Pfalzel) で、ゲルハルト・オーバーホファー (Gerhard Oberhoffer, ca. 1796 - 1851) の子として生まれました。父とヴィルヘルム・ヘルマン (Wilhelm Hermann) から音楽の手ほどきを受けたのち、1842年からブリュールの教職課程でミヒャエル・テプラー (Michael Toepler, 1804 - 1874) に学びました。卒業後の1844年から1852年までトリーアの聖ゲルヴァジウス教会学校で教師兼オルガン奏者を務めました。1856年にルクセンブルク市の師範学校で音楽教師となり、同市にある各所の教会でオルガン奏者も務めました。1885年5月30日にルクセンブルク市で亡くなりました。

出典:

  • Anders-Malvetti, Ursula; Nitschké, Alain; Reuter, Caroline; Sagrillo, Damien (2016). Luxemburger Musikerlexikon. Komponisten und Interpreten. Band 1: 1815‒1950. 2. Auflage. Weikersheim: Margraf Publishers. ISBN 978-3-8236-1734-1, pages 886-906 (online; PDF; 225 KB)
  • Duhr, Marlène (2022). “Oberhoffer, Heinrich”. MGG Online. Retrieved 2024-12-08.