2021-04-27

150th Death Anniversary of Sigismond Thalberg

Sigismond Thalberg (Switzerland/Austria, 1812 - 1871) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - La partenza: “Non so frenare il pianto”. Andante (E major).

今日はスイス出身の作曲家・ピアノ奏者、ジーギスムント・タールベルク (シジスモン・タールベルク) 没後150年の命日です。今回はタールベルク作曲、歌曲「別れ」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第51曲 La partenza として収録されています。この曲はタールベルク自身によっても「出発 Le départ. Romance en forme d'étude, Op. 55 」としてピアノ独奏のために編曲されました。詞はピエトロ・メタスタージオ (Pietro Metastasio, 1698 - 1782) によるオペラ台本「デメートリオ Demetrio 」第2幕のアルチェステ (Alceste) のアリア「僕は涙を抑えられない」を使っています。

ジーギスムント・タールベルクは1812年1月8日にジュネーヴ近郊のパキ (Pâquis) で生まれました。オーストリアの貴族であるモーリツ・フォン・ディートリヒシュタイン伯爵 (Moritz von Dietrichstein, 1775 - 1864) とヴェツラー男爵夫人 (Baronin Wetzlar) の私生児だと古くから伝えられてきましたが、出生証明書 (Geburtsurkunde) によると両親はフランクフルト・アム・マインの人で、ヨーゼフ・タールベルク (Joseph Thalberg) とフォルテュネ・シュタイン (Fortunée Stein) とされています。10歳で移ったヴィーンで宮廷歌劇場首席ファゴット奏者のアウグスト・ミターク (August Mittag) に学び、次いでジーモン・ゼヒター (Simon Sechter, 1788 - 1867) に音楽理論を、ヨハン・ネポムク・フンメル (Johann Nepomuk Hummel, 1778 - 1837) にピアノを師事し、1830年から1835年にかけて、パリでヨハン・ペーター・ピクシス (Johann Peter Pixis, 1788 - 1874) とフリードリヒ・カルクブレンナー (Friedrich Wilhelm Kalkbrenner, 1785 - 1849) に、ロンドンでイグナツ・モシェレス (Ignaz Moscheles, 1794 - 1870) にピアノを師事しました。

1836年にはパリで成功を収め、彼の作品の評価をめぐるフランツ・リスト (Franz Liszt, 1811 - 1886) とフランソワ=ジョゼフ・フェティス (François-Joseph Fétis, 1784 - 1871) の誌上での論争、クリスティーナ・ベルジョジョーゾ公爵夫人 (Cristina Trivulzio Belgiojoso, 1808 - 1871) のサロンにおける1837年3月31日のリストとの競演などもあって、タールベルクの名声は高まっていきました。その後リストとは和解し、タールベルク、リストのほか、ヨハン・ペーター・ピクシス、アンリ・エルツ (Henri Herz, 1803 - 1888)、カール・チェルニー (Carl Czerny, 1791 - 1857)、フレデリク・ショパン (Frédéric Chopin, 1810 - 1849) が各変奏を担当して作曲した「ヘクサメロン Hexaméron 」が1839年に出版されました。ヴィンチェンツォ・ベッリーニ (Vincenzo Bellini, 1801 - 1835) の歌劇「清教徒 I puritani 」の「ラッパを吹きならせ Suoni la tromba 」の主題による変奏曲です。

1844年にルイージ・ラブラーシュ (Luigi Lablache, 1794 - 1858) の娘チェッキーナ (Francesca "Cecchina" Lablache) と結婚しました。1855年にブラジルやハバナまで渡り、演奏家、教師、オペラ企画者としてその後数年を米国で暮らしました。1858年に両シチリア王国 (1861年以降はイタリア王国) のナポリ近郊にあるポジッリポ (Posillipo) に邸宅を購入しました。それから5年間は演奏旅行を続け、引退してからポジッリポでワイン醸造家となりました。1871年4月27日に同地で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:


2021-04-24

300th Birth Anniversary of Johann Philipp Kirnberger

Johann Philipp Kirnberger (Germany, 1721 - 1783) - Prelude in E minor, EngK 17. Edited by Nikolay Kuvshinnikov (Николай Николаевич Кувшинников, 1888 - 1970).

今日はドイツの作曲家・ヴァイオリン奏者・鍵盤楽器奏者・音楽理論家、ヨハン・フィーリプ・キルンベルガー生誕300年の受洗日です。 今回はキルンベルガー作曲「前奏曲 ホ短調 EngK 17」を弾きました。 楽譜はニコライ・クフシンニコフ校訂の Педагогический репертуар для фортепиано. ДМШ. 5 класс. No. 15 (Moscow: Muzgiz, 1952. Plate М. 22834 Г.) に収録されているものを使用しました。

ヨハン・フィーリプ・キルンベルガーは神聖ローマ帝国ザクセン=ザールフェルト公国 (Herzogtum Sachsen-Saalfeld) の首都ザールフェルト (Saalfeld) に生まれ、1721年4月24日に受洗しました。幼少期からヴァイオリンとチェンバロを習い、コーブルクのギムナジウムで学びました。グレーフェンローダでヨハン・ペーター・ケルナー (Johann Peter Kellner, 1705 - 1772) にオルガンを、次いで1738年からゾンダースハウゼンでシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国宮廷音楽家のマイル (Meil) にヴァイオリンを、ハインリヒ・ニコラウス・ゲルバー (Heinrich Nikolaus Gerber, 1702 - 1775) にオルガンを師事しました。フリードリヒ・ヴィルヘルム・マルプルク (Friedrich Wilhelm Marpurg, 1718 - 1795) とエルンスト・ルートヴィヒ・ゲルバー (Ernst Ludwig Gerber, 1746 - 1819) によると、キルンベルガーは1739年にライプツィヒに赴き、それから2年間ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (Johann Sebastian Bach, 1685 - 1750) に作曲とクラヴィーア演奏を師事したということですが、別の史料 (Ausweis seines (fragmentarisch erhaltenen) Stammbuchs) では、1740年秋にゾンダースハウゼンに、1741年1月と同年3月にライプツィヒに、同年6月にドレスデンに滞在した記録が残っています。

1741年6月にポーランドに移り、その後10年間に幾人かのポーランドの貴族に仕え、ルヴフ (リヴィウ) のベネディクト会修道院では音楽監督を務めました。1751年にドイツに戻ると、ドレスデンで短期間ヴァイオリンを学んだのちに、ベルリンのプロイセン王立宮廷楽団 (Königliche Hofkapelle zu Berlin) でヴァイオリン奏者となりました。 1758年以降は音楽家でもあるプロイセン王女アンナ・アマーリエ (Anna Amalie von Preußen, 1723 - 1787) に仕え、彼女の音楽の師となりました。1783年7月26日夜または27日にベルリンで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:


2021-04-14

100th Death Anniversary of Oscar Weil

Oscar Weil (USA, 1839 - 1921) - Vignettes. 6 Piano-forte Pieces for Small Hands, Op. 12; No. 6. Humoresque. Allegro (A minor)

今日は米国の作曲家・音楽教師・批評家、オスカー・ワイル没後100年の命日です。今回はワイル作曲「ヴィニェット集、小さな手のための6つのピアノ小品 Op. 12」より第6曲「ユモレスク イ短調」を弾きました。

1839年6月2日にニューヨーク州コロンビア郡リヴィングストン (Livingstone, Columbia County, NY) でドイツ系ユダヤ人の両親の元に生まれたオスカー・ワイルは、州都オールバニの私立学校で学んだのち、ライプツィヒとパリに留学しました。南北戦争 (1861-1865) に従軍したのちの1868年にサンフランシスコに移り、サンフランシスコ音楽研究所 (San Francisco Institute of Music) の設立者の一人となりました。サンフランシスコで最初の室内楽演奏会のシリーズを開催し、ブッシュ・ストリート劇場 (Bush Street Theater) 総監督を務めました。1881年にサンフランシスコを離れてボストンに移り、ボストニアンズ (Bostonians) の音楽監督を4年間務めました。1898年にサンフランシスコに戻り、教師をしながら同市を本拠とする新聞アルゴノート (The Argonaut) で音楽批評を書きました。音楽理論と作曲の教え子にアルバート・エルカス (Albert Elkus, 1884 - 1962) がいます。1921年4月14日にサンフランシスコで亡くなりました。

出典:

  • Grove Music Online. Retrieved 2021-04-11.
  • Boyd, Charles N., ed. (1920). “Weil, Oscar”. Grove's Dictionary of music and musicians : American supplement. Philadelphia: Theodore Presser Co. page 42. Retrieved 2021-04-11.

2021-04-07

300th Birth Anniversary of Matthias Vanden Gheyn

Matthias Vanden Gheyn (Belgium, 1721 - 1785) - 4 Morceaux fugués; Morceau fugué No. 1. Allegro (G minor)

今日はベルギーの作曲家・オルガン奏者・カリヨン奏者・釣鐘鋳造師、マティアス・ファンデン・ヘイン生誕300年の誕生日です。今回はファンデン・ヘイン作曲「4つのフーガ小品」より第1番 ト短調を弾きました。

ファンデン・ヘイン家 (Vanden Ghein ; Van den Ghein) は、16世紀から20世紀前半まで続くフランデレン地域の釣鐘鋳造師・カリヨン製作者・カリヨン奏者の一族です。1721年4月7日にオーストリア領ネーデルラントのティーネン (Tienen) で生まれたマティアス・ファンデン・ヘインは、1727年に家族とともにルーヴェン (Leuven) に移り、1741年から同地の聖ペトロ教会 (Sint-Pieterskerk) のオルガン奏者を、1745年から同地の市カリヨン奏者を務めました。作曲家としては鍵盤楽器やカリヨンのための作品があり、その厳格な構成とトッカータ風の様式から「カリヨンのバッハ Bach van de beiaard ; Bach of the Carillon 」の異名で知られています。師と考えられているのは前任の聖ペトロ教会オルガン奏者 (1726-1741) であるデュドネ・ライク (Dieudonné Raick, 1703 - 1764) です。弟のアンドレアス・ヨゼフ・ファンデン・ヘイン (Andreas Jozef Vanden Gheyn, 1727 - 1793) は釣鐘鋳造師として一族の中でも高く評価されています。

出典: Grove Music Online. Retrieved 2021-04-05.


2021-04-03

200th Birth Anniversary of Louis Lewandowski

Louis Lewandowski (Poland/Germany, 1821 - 1894) - Synagogen-Melodieen für Harmonium (Orgel oder Klavier), Op. 47 (Berlin: Carl Simon, 1895); No. 5. Sündenbekenntnis (Onu towau). Versöhnungstag. Molto lento (D major)

今日はプロイセン王国ポズナン大公国出身のドイツの作曲家・合唱指揮者、ルイ・レヴァンドフスキ生誕200年の誕生日です。生年については1823年とする資料もあります。今回はレヴァンドフスキ作曲、ハルモニウム (またはオルガン、ピアノ) のための「シナゴーグ旋律集 Op. 47」より第5曲「罪の告白、贖罪の日 ニ長調」を弾きました。

ルイ・レヴァンドフスキはポーランド系ユダヤ人として1821年4月3日にヴレシェン (Wreschen. ヴジェシニャ Września) で生まれました。ベルリンでアドルフ・ベルンハルト・マルクス (Adolf Bernhard Marx, 1795 - 1866) に師事したのち、同地の王立プロイセン芸術アカデミー (Königlich Preussische Akademie der Künste) の作曲学校でカール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲン (Carl Friedrich Rungenhagen, 1778 - 1851) とアウグスト・ヴィルヘルム・バッハ (August Wilhelm Bach, 1796 - 1869) とエドゥアルト・グレル (Eduard Grell, 1800 - 1886) に師事しました。同校への入学を認められたのはユダヤ人としては初めてということです。1840年からベルリンのシナゴーグの音楽監督を務めました。1866年に王室音楽監督 (Königlicher Musikdirektor) の称号を得て、同年竣工したベルリンの新シナゴーグ (Neue Synagoge) の音楽監督に任命されました。1894年2月3日にベルリンで亡くなりました。

出典:

  • Singer, Isidore; Sohn, Joseph (1904). “Lewandowski, Louis”. The Jewish Encyclopedia. 8. New York: Funk and Wagnalls. page 66. Retrieved 2021-04-01.
  • “Louis Lewandowski”. Encyclopaedia Britannica. 2021-01-31. Retrieved 2021-04-01.

2021-03-30

50th Death Anniversary of Harold Craxton

Harold Craxton (England, 1885 - 1971) - Timothy's Pieces (London: The Anglo-French Music Co., 1921); No. 2. King of the Cradle, Sleep. Andante (E flat major)

今日はイングランドの作曲家・ピアノ奏者、ハロルド・クラクストン没後50年の命日です。今回はクラクストン作曲「ティモシーの小品集」より第2曲「ゆりかごの王よ、眠れ」を弾きました。楽譜には題辞としてノーマン・ゲイル (Norman Gale, 1862 - 1942) による同名の詩 King of the cradle, sleep! が書かれ、旋律に合わせて歌えるように作曲されています。

King of the cradle, sleep!
Bees are resting sugary thighs,
Stars are born as the daylight dies;
Timothy, Timothy, close your eyes!
King of the cradle, sleep!

Night is busy with birds, and spreads
Leafy coverlets over the heads,
Safe in a million starlit beds;
King of the cradle, sleep!

Father is tossing upon the sea,
Timothy rocks at home with me;
Weary of frolic on mother's knee,
King of the cradle, sleep!

God, who hast loved my son all day,
Love him this night, and keep away
Spirits not pure enough to stay
Close to a child asleep!
Norman Gale

ロンドンに生まれたハロルド・クラクストンは、トバイアス・マセイ・ピアノ学校 (Tobias Matthay Pianoforte School) でトバイアス・マセイ (Tobias Matthay, 1858 - 1945) とカスバート・ホワイトモア (Cuthbert Whitemore, 1877 - 1927) に師事し、1914年に同校の教授となりました。1919年から1961年まで王立音楽アカデミーでも教えました。ピアノ独奏者としてイングランドの古楽などをリサイタルで演奏したほか、ソプラノ歌手エマ・アルバーニ (Emma Albani, 1847 - 1930) の伴奏者を2年間、次いでコントラルト歌手クララ・バット (Clara Butt, 1872 - 1936) の伴奏者を12年間務めるなど、伴奏者としても高く評価されました。1960年には大英帝国勲章オフィサー (OBE) を受章しています。楽譜編集者としては、ドナルド・フランシス・トーヴィ (Donald Francis Tovey, 1875 - 1940) と共編の英国王立音楽検定協会 (Associated Board of the Royal Schools of Music, ABRSM) 版のベートーヴェンのピアノソナタ集 (London, 1931)、英国音楽などの古楽のトランスクリプション集を編集しています。1971年3月30日にロンドンで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典: Grove Music Online. Retrieved 2021-03-25.


2021-03-24

100th Death Anniversary of Déodat de Séverac

Déodat de Séverac (France, 1872 - 1921) - Petite suite scholastique. 5 Pièces d'après un thème de carillon Languedocien; III. Prière-choral (ou Élévation). Adagio espressivo (D flat major).

今日はフランスの作曲家・オルガン奏者、デオダ・ド・セヴラック没後100年の命日です。今回はセヴラック作曲「スコラ的小組曲、ラングドックの鐘の主題による5つの小品」より第3曲「プリエール・コラール (または奉挙) 変ニ長調」を弾きました。

デオダ・ド・セヴラックは画家ジルベール・ド・セヴラック (Gilbert de Séverac, 1834 - 1897) の子としてオート=ガロンヌ県サン=フェリクス=ド=カラマン (Saint-Félix-de-Caraman) に生まれました。オルガン奏者のルイ・アミエル (Louis Amiel, 1825 - 1910) に師事し、父の意向によりトゥールーズ大学 (Université de Toulouse) で法学を学んでいましたが、3年在学ののちにトゥールーズ音楽院に移り、1896年から1907年までパリのスコラ・カントルムで学びました。スコラ・カントルムではアンドレ・ピロ (André Pirro, 1869 - 1943) とアレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant, 1837 - 1911) にオルガンを、シャルル・ボルド (Charles Bordes, 1863 - 1909) に合唱指揮を、アルベリク・マニャール (Albéric Magnard, 1865 - 1914) とヴァンサン・ダンディ (Vincent d'Indy, 1851 - 1931) に対位法と作曲を師事しました。1910年にピレネーゾリアンタル県セレ (Céret) に移り、1921年3月24日に同地で亡くなるまでサン=ピエール・ド・セレ教会 (Église Saint-Pierre de Céret) のオルガン奏者を務めました。

出典: Guillot, Pierre (2001). “Sévérac, (Marie Joseph Alexandre) Déodat de, Baron de Sévérac, Baron de Beauville”. Grove Music Online. Retrieved 2021-03-22.

2021-03-19

150th Birth Anniversary of Joseph Béesau

Joseph Béesau (Russia/France, 1871 - 1940) - Invocation à César Franck pour piano. Andantino (A flat major). À Monsieur H. Delalande.

今日はロシア出身のフランスの作曲家・オルガン奏者、ジョゼフ・ベゾ生誕150年の誕生日です。今回はベゾ作曲、ピアノのための「セザール・フランクへの祈り 変イ長調」を弾きました。

1871年3月19日 (ユリウス暦3月7日) にロシア帝国モスクワ (Moscow) で父ポール・マリー・アメデ・ベゾ (Paul Marie Amédée Béesau) と母マリー・ド・シャリオ (Marie de Chario) の間に生まれたジョゼフ・ベゾは、パリのスコラ・カントルムでヴァンサン・ダンディ (Vincent d'Indy, 1851 - 1931) に作曲を師事し、1890年から1940年までサンテティエンヌ・ド・レンヌ教会 (Église Saint-Étienne de Rennes) の正オルガン奏者を務めました。母マリーはモスクワでのアントン・ルビンシテイン (Anton Rubinstein, 1829 - 1894) の教え子でした。1940年6月4日にレンヌで亡くなり、同月7日にサンテティエンヌ・ド・レンヌ教会で葬儀が行われました。墓所はレンヌの北墓地 (Cimetière du Nord) です。

出典: “Joseph Béesau”. Musique liturgique. Association Diocésaine de Rennes. 2018-12-09. Retrieved 2021-03-16.

2021-03-02

100th Death Anniversary of Henryk Pachulski

Henryk Pachulski (Гейнрих Альбертович Пахульский, Poland/Russia, 1859 - 1921) - 2 Pièces pour piano, Op. 11; No. 1. Moment musical ; Музыкальный момент. Andantino espressivo (B minor) (Moscow: P. Jurgenson, 1905)

Henryk Pachulski - Album pour la jeunesse pour piano, Op. 23 (Moscow: P. Jurgenson, 1906); Nos. 1-6, 8-10, 12-13, 15-16.

今年はポーランド出身のロシアの作曲家・ピアノ奏者、ヘンリク・パフルスキ没後100年です。命日についてはモスクワ音楽院が3月2日、グローヴ・ミュージック・オンラインが12月 (日付不明) としています。今回はパフルスキ作曲「ピアノのための2つの小品 Op. 11」より第1曲「楽興の時 ロ短調」を弾きました。以前に弾いた「子供のためのアルバム Op. 23」(全16曲) より13曲も併せて紹介します。

父のアルベルト・パフルスキは測量士で、リバーヴァ=ロームニ鉄道 (Либаво-Роменская железная дорога) 社長補佐とナジェージダ・フォン・メック (Nadezhda von Meck, 1831 - 1894) の領地の森林管理者を務めていました。兄のヴワディスワフ・パフルスキ (Władysław Pachulski, d. 1919) はモスクワ音楽院でヤン・フジーマリー (Jan Hřímalý, 1844 - 1915) にヴァイオリンを師事した音楽家で、フォン・メック夫人に雇われてその娘婿になりました (1889年に彼女の娘ユーリヤ Yuliya と結婚)。

ヘンリク・パフルスキはポーランド立憲王国ルブリン県ウクフ郡ワジ (Łazy) に生まれました。ワルシャワ音楽研究所 (Warszawski Instytut Muzyczny. 現在のショパン音楽大学 Uniwersytet Muzyczny Fryderyka Chopina) でルドルフ・ストロブル (Rudolf Strobl, 1831 - 1915) にピアノを、スタニスワフ・モニューシュコ (Stanisław Moniuszko, 1819 - 1872) とヴワディスワフ・ジェレニスキ (Władysław Żeleński, 1837 - 1921) に和声学と対位法を師事して1876年に卒業しました。1876年から1879年まで、ピアノ奏者としてワルシャワ、プスコフ・ヴィリニュスで演奏し、教師としても活動しました。1879年にワルシャワでニコライ・ルビンシテイン (Nikolay Rubinstein, 1835 - 1881) の演奏を聴いてルビンシテインに師事することを決心し、同年夏にポドリスクにあるフォン・メック邸「プレシチェーエヴォ」に寄寓しました。当時、父のアルベルトはプレシチェーエヴォの管理者を、兄のウワディスワフはフォン・メック夫人の秘書を務めていました。

1880年1月にモスクワ音楽院のニコライ・ルビンシテインのクラスで科目等履修生 (вольнослушатель) となりましたが、同年3月にルビンシテインが亡くなると音楽院を休学してフォン・メック家の音楽教師となりました。休学中にフォン・メック夫人の家族とともにヴィーン、ミュンヘン、パリを巡りました。1882年1月にモスクワに戻り、音楽院に復学してパーヴェル・パプスト (Paul Pabst, 1854 - 1897) にピアノを、エドゥアルト・ランゲル (Eduard Langer, 1835 - 1905) に和声学を、アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906) に和声学と対位法と作曲を師事しました。1885年に大銀メダルと自由芸術家 (свободный художник) のディプロマを得て音楽院を卒業しました。1886年に母校のモスクワ音楽院でピアノ科クラスの教師となり、1916年から亡くなる年まで教授を務めました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

  • Chechlińska, Zofia (2001). “Pachulski, Henryk”. Grove Music Online. Retrieved 2021-02-23.
  • “Пахульский Генрих Альбертовичk”. История - студенты. Московская государственная консерватория имени П. И. Чайковского. Retrieved 2021-02-23.
  • Келдыш, Юрий Всеволодович, ed. (1973-1982). “Пахульский”. Музыкальная энциклопедия. Retrieved 2021-02-23.

2021-02-24

250th Birth Anniversary of Johann Baptist Cramer

Johann Baptist Cramer (1771 - 1858) - Sonatina for the Piano Forte with an Accompaniment for Violin or Flute, ad lib., M.3.09 (C major); II. Andante con moto quasi allegretto (G major)

今日はドイツ出身のイングランドの作曲家・ピアノ奏者・音楽出版者・音楽教師、ヨハン・バプティスト・クラーマー生誕250年の誕生日です。今回はクラーマー作曲「任意のヴァイオリンまたはフルートを伴うピアノのためのソナティナ ハ長調 M.3.09 」より第2楽章 ト長調を弾きました。

ヨハン・バプティスト・クラーマーは1771年2月24日に神聖ローマ皇帝プファルツ選帝侯領のマンハイムに生まれました。祖父のヨハン・ヤーコプ・クラーマー (Johann Jakob Cramer, 1705 - 1770)、父のヴィルヘルム・クラーマー (Wilhelm Cramer, 1746 - 1799) はいずれもマンハイムのヴァイオリン奏者であり、弟のフランツ・クラーマー (Franz [François] Cramer, 1772 - 1848) もヴァイオリン奏者となりました。3歳の頃に母とともにロンドンに渡り、父ヴィルヘルムにヴァイオリンの手ほどきを受けました。7歳のときからジョン・ダニエル・ベンサー (John Daniel Benser, d. 1785) に、1780年からヨハン・ザームエル・シュレーター (Johann Samuel Schröter, ca. 1752 - 1788) に、1783年からムツィオ・クレメンティ (Muzio Clementi, 1752 - 1832) にピアノを、1785年からカール・フリードリヒ・アーベル (Carl Friedrich Abel, 1723 - 1787) に音楽理論を師事しました。

1804年に42曲の第1巻が出版された「ピアノのための練習曲 Studio per il pianoforte 」(全84曲) は良く知られており、そのほかにソナタ、練習曲、ロンド、ディヴェルティメント、変奏曲といったピアノのための楽曲や、室内楽曲、ピアノ協奏曲などの作品を数多く残しました。

1824年にロバート・アディソン (Robert Addison, d. 1868)、トマス・フレデリック・ビール (Thomas Frederick Beale, 1804/1805? - 1863) とともに音楽出版社 J. B. Cramer, Addison & Beale をロンドンで創業し、同社はのちにJ・B・クラーマー (J. B. Cramer & Co.) と名を変え、20世紀後半まで存続しました。

教え子に以下の人物がいます。

出典: