Giacomo Carissimi (Italy, 1605 - 1674) - Prélude. Moderato (C minor) from Laudate II, Collection de morceaux pour orgue sans pédales (Brussels: A. Ledent-Malay, 1919).
ジャコモ・カリッシミは教皇領マリーノ (Marino) に生まれ、1605年4月18日に受洗しました。幼いころの音楽教育については史料が残されていないようです。1623年10月からティヴォリ大聖堂 (Duomo di Tivoli) 聖歌隊歌手を、1624年10月から1627年10月まで大聖堂第一オルガン奏者を務めました。1628年にアッシジの聖ルフィーノ大聖堂 (Cattedrale di San Rufino di Assisi) の楽長 (maestro di cappella) に就任。23歳のときにドイツ語話者のための神学校であるドイツ・ハンガリー学校 (Collegium Germanicum et Hungaricum ; Collegio Germanico-Ungarico) に雇われ、ロレンツォ・ラッティ (Lorenzo Ratti, ca. 1590 - 1630) の後任として1629年から亡くなるまでの44年あまり同校の楽長を務めました。1674年1月12日にローマで亡くなりました。
Breithaupt, Rudolf Maria (1913). “Otto Zweig”. Die natürliche Klaviertechnik. Leipzig: C. F. Kahnt. page 673.
Schmidl, Carlo (1938). “Otto Zweig”. Supplemento al Dizionario universale dei musicisti : appendice, aggiunte e rettifiche al primo e secondo volume. Milano: Sonzogno. page 788.
“Otto Zweig”. Lexikon verfolgter Musiker und Musikerinnen der NS-Zeit (LexM). 2012-01-23. Universität Hamburg. Retrieved 2024-01-11.
ドイツ出身の作曲家・ピアノ奏者、ダニエル・シュタイベルト没後200年 (グレゴリオ暦1823年10月2日没) ということで、シュタイベルト著「ピアノ教程またはピアノ教授法」に収録された「エチュード集とエグゼルシス集 Études and exercices (8つのエグゼルシス)」よりエグゼルシス第4番 イ短調を弾きました。
ダニエル・シュタイベルトは1765年10月22日に神聖ローマ帝国プロイセン王国の首都ベルリンで、プロイセン陸軍将校で後にピアノ・チェンバロ製作者となる父と、フランスから亡命したユグノーの家庭出身の母の間に生まれました。プロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム (後のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世) の後援で、ベルリンのヨハン・フィーリプ・キルンベルガー (Johann Philipp Kirnberger, 1721 - 1783) に師事することとなり、1782年には最初の出版作品である8小節の歌曲が歌曲集の一曲として出版されました。父からプロイセン軍への入隊を強いられたために1784年にプロイセン国外に逃れ、しばらく旅をしながらピアノ奏者として暮らしました。
ペラ・アストルトは1872年9月24日にスペイン王国カタルーニャ州バルセロナで生まれました (バルセロナ市出生登録簿 «Registre naixements. Any 1872. Registre núm.4586». arxiu municipal contemporani de barcelona. 1872-09-24)。バルセロナのラ・メルセ教会 (Basílica de la Mercè) の聖歌隊学校で音楽を学び、それからピアノを学びました。音楽出版者・楽譜商のラファエル・グアルディア (Rafael Guardia i Granell) の店舗カン・グアルディア (Can Guardia. 後にカザ・ベートーヴェン Casa Beethoven と改称) で働き、1895年にグアルディアの義理の姉妹であるメルセ・グレザ (Mercè Gresa) と結婚しました。
1899年、アストルトはクリフトン・ワーズリーの名義で「ボストン・ワルツ Boston-Waltz」(To Charles Test Dalton. Barcelona: Rafael Guardia) を出版しました。この出版に関しては次のような逸話が残されてます。ボストン・ワルツの出版の前のこと、米国の音楽家チャールズ・ダントン (Charles Danton) がカン・グアルディアを訪れたときに店員のアストルトがピアノを弾いていて、それを聴いたダントンが「ボストンで流行していたワルツのように聞こえる」と言い、アストルトに米国風の名を名乗るよう勧めたということです。被献呈者とダントンの名が似ていますが、これは同一人物でダントン (Danton) はダルトン (Dalton) の誤りなのかもしれません。
ヒュルマンデルは1770年代前半に英国の首都ロンドンで駐英フランス大使アドリアン・ルイ・ド・ボニエール (Adrien Louis de Bonnières, 1735 - 1806) に仕え、1771年から1773年にかけてロンドンで少なくとも6度の公開演奏会に出演してピアノ奏者として協奏曲などを弾きました。「任意のヴァイオリン伴奏を伴うクラヴサンまたはピアノフォルテのための6つのソナタ 6 Sonates, Op. 1」(当時の王太子妃マリー・アントワネット (Marie Antoinette, 1755 - 1793) に献呈) の出版のために、1773年から1774年にかけてパリに滞在していたと考えられています。1775年のイタリア旅行ののち、1776年頃にパリに定住しました。
パリでは程なく貴族の集うサークルで成功を収め、「クラヴサンまたはピアノフォルテのための小アリア 第1集 (6つのディヴェルティスマン) 1er recueil de petits airs (6 Divertissements), Op. 2」をタレーラン男爵夫人ルイーズ・フィデル・デュラン・ド・サントゥジェーヌ=モンティニ (Louise-Fidèle Durand de Saint Eugène-Montigny, b. 1751) に、「クラヴサンまたはピアノフォルテのための3つのソナタ 3 Sonates, Op. 4」をロンドン時代の主であるギネス公アドリアン・ルイ・ド・ボニエールに献呈しました。画家のエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブラン (Élisabeth-Louise Vigée Le Brun, 1755 - 1842) と経済学者・著述家のアンドレ・モレレ (André Morellet, 1727 - 1819) の回想録には、ヒュルマンデルが彼らの催すサロンにしばしば参加したことが書かれており、とりわけ彼の優れたグラスハーモニカ演奏が賞讃されています。
1789年にフランス革命が勃発すると、ヒュルマンデルは妻のカミーユ・オロール (Camille Aurore Hüllmandel née Ducazan) を伴ってロンドンに亡命し、当地で演奏家・教師として活動しました。亡命後、作曲家としては「音楽の原理 Principles of Music, chiefly calculated for the Piano Forte or Harpsichord with Progressive Lessons, Op. 12」を除いてオリジナル作品を残しておらず、公開演奏をすることもありませんでした。1823年12月19日にロンドンで亡くなりました。フランス国立中央文書館パリ公証人記録中央保存所にあるヒュルマンデルの死亡診断書にはジョゼフ・ニコラ Joseph Nicolas の名で72歳で死亡したと書かれているため、これを典拠に生年を1851年としている文献もあります。
子にシャルル・ジョゼフ・ヒュルマンデル (Charles Joseph Hullmandel, 1789 - 1850) とエヴェリーナ・ヒュルマンデル (Evelina Adelaide Charlotte Hullmandel, d. 1839) がいます。シャルル・ジョゼフはリトグラフ技術の発展に寄与した石版画家となり、石版印刷による楽譜出版も手がけました。エヴェリーナは音楽教師となってピアノ編曲「魔弾の射手カドリーユ集 A Set of Quadrilles from Der Freischütz 」(1825)、音楽学習用カードゲーム「音楽の思い出、あるいは子供たちのための新年の贈り物 Musical Souvenir, or a New Year's Gift for Children 」(1827)、ピアノ曲「マリブランの思い出、ディヴェルティメント Souvenirs de Malibran. A Divertimento for the Piano-forte 」(1829) を出版し、1827年に植物水彩画家のヴァレンタイン・バーソロミュー (Valentine Bartholomew, 1799 - 1879) と結婚しました。