2024-01-21

150th Birth Anniversary of Pyotr Kotov

Pyotr Aleksandrovich Kotov (Пётр Александрович Котов, P. Kotow, Russia, 1874 - 1968) - 6 Morceaux lyriques pour piano, Op. 1 (Moscow: P. Jurgenson); No. 5. Non lento (F major).

今日はロシアの作曲家・ピアノ奏者・音楽学者、ピョートル・コートフ生誕150年の誕生日です。今回はコートフ作曲「ピアノのための6つの抒情小品 Op. 1」より第5曲 ヘ長調を弾きました。

ピョートル・アレクサンドロヴィチ・コートフは1874年1月21日にロシア帝国のモスクワで生まれました。モスクワ・フィルハーモニー協会音楽演劇学校 (Музыкально-драматическое училище Московского филармонического общества) でパーヴェル・パープスト (Pavel Pabst, 1854 - 1897) にピアノを、パーヴェル・ブラランベールク (Pavel Blaramberg, 1841 - 1907) とアレクサンドル・イリイーンスキー (Aleksandr Ilyinsky, 1859 - 1920) に音楽理論を師事しました。1902年にアレクサンドル・マースロフ (Aleksandr Maslov, 1876 - 1914) とイヴァン・テザヴロフスキー (Ivan Tezavrovsky, 1876 - 1941) とともに音楽学校を設立。1906年から母校の音楽演劇学校 (1918年に音楽演劇研究所に再編、1922年よりロシア舞台芸術アカデミー Российский институт театрального искусства — ГИТИС) のピアノと音楽理論の教師を、1916年から1940年まで教授を務めました。1940年から1958年までボリショイ劇場でソルフェージュの講師となりました。1968年3月16日にモスクワで亡くなりました。

出典: “Котов, Петр Александрович”. Большая биографическая энциклопедия. 2009. Retrieved 2024-01-21.

2024-01-12

350th Death Anniversary of Giacomo Carissimi

Giacomo Carissimi (Italy, 1605 - 1674) - Prélude. Moderato (C minor) from Laudate II, Collection de morceaux pour orgue sans pédales (Brussels: A. Ledent-Malay, 1919).

今日はイタリアの作曲家・オルガン奏者、ジャコモ・カリッシミ没後350年の命日です。今回はカリッシミ作曲「前奏曲 ハ短調」を弾きました。

ジャコモ・カリッシミは教皇領マリーノ (Marino) に生まれ、1605年4月18日に受洗しました。幼いころの音楽教育については史料が残されていないようです。1623年10月からティヴォリ大聖堂 (Duomo di Tivoli) 聖歌隊歌手を、1624年10月から1627年10月まで大聖堂第一オルガン奏者を務めました。1628年にアッシジ聖ルフィーノ大聖堂 (Cattedrale di San Rufino di Assisi) の楽長 (maestro di cappella) に就任。23歳のときにドイツ語話者のための神学校であるドイツ・ハンガリー学校 (Collegium Germanicum et Hungaricum ; Collegio Germanico-Ungarico) に雇われ、ロレンツォ・ラッティ (Lorenzo Ratti, ca. 1590 - 1630) の後任として1629年から亡くなるまでの44年あまり同校の楽長を務めました。1674年1月12日にローマで亡くなりました。

楽長だったころのドイツ・ハンガリー学校の学生に1630年から1638年まで在籍したジョヴァンニ・バッティスタ・モッキ (Giovanni Battista Mocchi, ca. 1620 - 1688)、1633年から1636年まで在籍したカスパー・フェルスター (Kaspar Förster der Jüngere, 1616 - 1673)、1641年から1646年まで在籍したヴィンチェンツォ・アルブリーチ (Vincenzo Albrici, 1631 - 1687)、1644年から1651年まで在籍したフィーリプ・ヤーコプ・バウドレクセル (Philipp Jakob Baudrexel, 1627 - 1691) がおり、学外のカリッシミの弟子には1654年頃のマルカントワーヌ・シャルパンティエ (Marc-Antoine Charpentier, 1643 - 1704)、1656年以前のヨハン・カスパー・ケルル (Johann Caspar Kerll, 1627 - 1693)、1657年のクリストフ・ベルンハルト (Christoph Bernhard, 1628 - 1692) がいます。

出典:

  • 樋口隆一「カリッシミ」『日本大百科全書 (ニッポニカ)』小学館 (コトバンク). Retrieved 2024-01-12.
  • Jones, Andrew V. (2001). “Carissimi, Giacomo [Jacomo]”. Grove Music Online. Retrieved 2024-01-12.

2024-01-11

150th Birth Anniversary of Otto Zweig

Otto Zweig (Czech, 1874 - 1942) - 10 Klavierstücke, Op. 7 (Leipzig: Kistner, 1906); No. 1. Albumblatt. Andante (G major).

今日はチェコ・モラヴィアの作曲家・製麦業者、オットー・ツヴァイク生誕150年の誕生日です。今回はツヴァイク作曲「10のピアノ小品 Op. 7」より第1曲「アルバムの綴り ト長調」を弾きました。

オットー・ツヴァイクは1874年1月11日に、綾織綿布 (バルヘント Barchent, ファスチャン織 Fustian) 製造業者ジークムント・メナヘム・ツヴァイク (Sigmund Menachem Zweig, 1845 - 1910) とカロリーネ・ツヴァイク (Karoline Zweig, geb. Doctor, 1853 - 1874) の子として、オーストリア=ハンガリー帝国モラヴィア辺境伯領プロスチェヨフ (Prostějov. ドイツ語名: プロスニッツ Proßnitz) で生まれました。生後半月ほどたった1月28日に母カロリーネを亡くし、1876年には父が叔母 (カロリーネの妹) ヨゼフィーネ・ドクトア (Josephine Zweig, geb. Doctor, 1856 - 1930) と再婚しました。一家はオロモウツ (Olomouc) に移り、父は製麦工場を営み始めました。

オットー・ツヴァイクはヴィーンオイゼビウス・マンディチェフスキ (Eusebius Mandyczewski, 1857 - 1929) に音楽理論と作曲法を、アントン・ドーア (Anton Door, 1833 - 1919) にピアノを師事し、1896年にオロモウツに戻って異母弟のフェーリクス・ツヴァイク (Felix Zweig, 1879 - 1939) と共同で製麦工場「マルクス・ツヴァイクス・ゼーネ Marcus Zweig's Söhne 」を経営しました。1942年7月8日にナチス・ドイツにより捕らえられ、チェコ・ボヘミア北部のテレジーンにある強制収容所テレージエンシュタットに収容されました。同年10月15日にはポーランドのトレブリンカ強制収容所に移送され、その後の消息を絶ちました。トレブリンカ移送の数日後には殺害されたと考えられています。

出典:

  • Breithaupt, Rudolf Maria (1913). “Otto Zweig”. Die natürliche Klaviertechnik. Leipzig: C. F. Kahnt. page 673.
  • Schmidl, Carlo (1938). “Otto Zweig”. Supplemento al Dizionario universale dei musicisti : appendice, aggiunte e rettifiche al primo e secondo volume. Milano: Sonzogno. page 788.
  • Otto Zweig”. Lexikon verfolgter Musiker und Musikerinnen der NS-Zeit (LexM). 2012-01-23. Universität Hamburg. Retrieved 2024-01-11.
  • SAMMLUNG EGON MICHAEL ZWEIG UND FAMILIE –P149”. The Central Archives for the History of the Jewish People Jerusalem (CAHJP). Retrieved 2024-01-11.
  • Otto Zweig”. Židovská obec Olomouc. Retrieved 2024-01-11.

2023-12-29

200th Death Anniversary of Daniel Steibelt

Daniel Steibelt (Germany/France/Russia, 1765 - 1823) - Exercice No. 4. Allegro in A minor. Méthode de piano ou l'art d'enseigner cet instrument (Paris: Imbault, 1805). page 138.

ドイツ出身の作曲家・ピアノ奏者、ダニエル・シュタイベルト没後200年 (グレゴリオ暦1823年10月2日没) ということで、シュタイベルト著「ピアノ教程またはピアノ教授法」に収録された「エチュード集とエグゼルシス集 Études and exercices (8つのエグゼルシス)」よりエグゼルシス第4番 イ短調を弾きました。

ダニエル・シュタイベルトは1765年10月22日に神聖ローマ帝国プロイセン王国の首都ベルリンで、プロイセン陸軍将校で後にピアノ・チェンバロ製作者となる父と、フランスから亡命したユグノーの家庭出身の母の間に生まれました。プロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム (後のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世) の後援で、ベルリンのヨハン・フィーリプ・キルンベルガー (Johann Philipp Kirnberger, 1721 - 1783) に師事することとなり、1782年には最初の出版作品である8小節の歌曲が歌曲集の一曲として出版されました。父からプロイセン軍への入隊を強いられたために1784年にプロイセン国外に逃れ、しばらく旅をしながらピアノ奏者として暮らしました。

1788年にはミュンヒェンで「ソナタ集 Opp. 1-4」を出版。1789年にはザクセンハノーファーで演奏会を開き、1790年にはパリの永住権を得てます。フランス宮廷におけるヨハン・ダーヴィト・ヘルマン (Johann David Hermann, 1764 - 1852) との作曲勝負では、ヘルマンとシュタイベルトがそれぞれ変ロ長調のアレグロの楽曲を作曲しており、それらを2つの楽章としたフランス王妃マリー・アントワネットのためのソナタ「ラ・コケット La coquette 」が後に出版されています。この勝負の存在によりシュタイベルトがフランス革命前 (1789年以前) にはパリを訪れたことがあると考えられています。1793年に、パトロンでもあるジョゼフ=アレクサンドル・ド・セギュール (Joseph-Alexandre de Ségur, 1756 - 1805) の台本に付曲したオペラ「ロメオとジュリエット Roméo et Juliette 」が、パリのフェドー劇場 (Théâtre Feydeau) で初演されました。このオペラの成功により、シュタイベルトは作曲家・音楽教師としての名声を得ました。その後の15年間をパリとロンドンを拠点に活動し、ヨーロッパの主な首都のほとんどを演奏旅行で巡りました。1798年3月19日にロンドンでピアノ協奏曲第3番 ホ長調「嵐」 (嵐の模倣を序奏とするロンド・パストラルを第3楽章に持つ) を演奏。ロンドンでキャサリン (Catharine) という名のイングランド人ピアノ奏者・タンブラン奏者と結婚し、結婚後は自作の多くにタンブランやトライアングルのパートを加えました。1799年後半から1年間の演奏旅行ではハンブルクドレスデンプラハ、ベルリン、ヴィーンを訪問。ヴィーンのモーリツ・フォン・フリース伯爵 (Moritz von Fries, 1777 - 1826) 邸でのルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827) との有名なピアノ演奏技能勝負はフェルディナント・リース (Ferdinand Ries, 1784 - 1838) 著『ベートーヴェンに関する伝記的覚え書 Biographische Notizen über Ludwig van Beethoven 』(Koblenz: Bädeker, 1838) に書かれています。1800年8月にはパリに戻り、同年12月24日にオペラ座にてフランス第一執政ナポレオン・ボナパルト (Napoléon Bonaparte, 1769 - 1821) の御前でヨーゼフ・ハイドン (Joseph Haydn, 1732 - 1809) 作曲セギュール訳「天地創造 Die Schöpfung 」を上演、1802年3月3日にはオペラ座でバレエ「ゼピュロスの帰還 Le retour de Zephyr 」を上演し、いずれも成功しました。1805年に「ピアノ教程またはピアノ教授法」を出版。

1808年秋に、増えすぎた債務による投獄から逃れるようにパリを離れ、フランクフルト・アム・マインライプツィヒ、ブレスラウ (ヴロツワフ)、ワルシャワ、ヴィルナ (ヴィリニュス、この地ではポーランド語訳のハイドン「天地創造」を指揮)、リガを巡って、1809年春に終焉の地となるサンクトペテルブルクに到着しました。1810年頃にフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー (François-Adrien Boieldieu, 1775 - 1834) の後任として同地のフランス・オペラ座の監督に就任。1812年にフランス皇帝となったナポレオン1世 (Napoléon Ier) 率いるフランス軍がモスクワを占領すると、ロシア国家に献げられたピアノのための幻想曲「モスクワ大火 L'incendie de Moscou 」を作曲しました。1820年3月16日に合唱を伴うバッカナール風ロンドを終楽章に持つピアノ協奏曲第8番を初演。痛みのある病に冒され、1823年10月2日 (ユリウス暦9月20日) にペテルブルクで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2023-12-28

Pere Astort - Coquette. Habanera in F major

T. Stropdorea, pseudonym of Pere Astort i Ribas (Pedro Astort Ribas. Spain/Catalonia, 1872 - 1925) - Les petits pierrots. 5 Danses faciles pour piano; No. 2. Coquette. Habanera (F major).

スペイン・カタルーニャの作曲家・ピアノ奏者であるペラ・アストルト (ペドロ・アストルト) 作曲「小さなピエロたち、ピアノのための5つの易しい舞曲」より第2曲「コケット、ハバネラ ヘ長調」を弾きました。楽譜はT・ストロプドレア (T. Stropdorea) という変名で出版されています。ほかにも英語風のクリフトン・ワーズリー (Clifton Worsley) という変名でも知られています。当初は生誕150年の記念にと思い選曲したのですが、後述するように1873年9月24日生まれ (Farré) ではなく出生登録簿に基づく1872年9月24日生まれが正しいようです。

ペラ・アストルトは1872年9月24日にスペイン王国カタルーニャ州バルセロナで生まれました (バルセロナ市出生登録簿 «Registre naixements. Any 1872. Registre núm.4586». arxiu municipal contemporani de barcelona. 1872-09-24)。バルセロナのラ・メルセ教会 (Basílica de la Mercè) の聖歌隊学校で音楽を学び、それからピアノを学びました。音楽出版者・楽譜商のラファエル・グアルディア (Rafael Guardia i Granell) の店舗カン・グアルディア (Can Guardia. 後にカザ・ベートーヴェン Casa Beethoven と改称) で働き、1895年にグアルディアの義理の姉妹であるメルセ・グレザ (Mercè Gresa) と結婚しました。

1899年、アストルトはクリフトン・ワーズリーの名義で「ボストン・ワルツ Boston-Waltz」(To Charles Test Dalton. Barcelona: Rafael Guardia) を出版しました。この出版に関しては次のような逸話が残されてます。ボストン・ワルツの出版の前のこと、米国の音楽家チャールズ・ダントン (Charles Danton) がカン・グアルディアを訪れたときに店員のアストルトがピアノを弾いていて、それを聴いたダントンが「ボストンで流行していたワルツのように聞こえる」と言い、アストルトに米国風の名を名乗るよう勧めたということです。被献呈者とダントンの名が似ていますが、これは同一人物でダントン (Danton) はダルトン (Dalton) の誤りなのかもしれません。

作曲家としてはピアノのための数多くの舞曲のほか、歌曲、オペレッタを作曲しています。1925年3月13日にバルセロナで亡くなりました。

出典: Farré, Martí. “The enigma of Clifton Worsley, pioneer of jazz in Barcelona”. Barcelona Metròpolis. Retrieved 2023-12-27.

2023-12-27

150th Birth Anniversary of Maurice Blazy

Maurice Blazy (France, 1873 - 1933) - 3 Préludes pour orgue ou harmonium; No. 1. Andante (A minor). À Mademoiselle Jeanne Montjovet.

フランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、モーリス・ブラジ生誕150年ということで、ブラジ作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「3つの前奏曲」より第1番 イ短調を弾きました。曲集の楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第4巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1914) の35-38頁に収録されています。

モーリス・ブラジは1873年9月16日にフランス共和国セーヌ県シャティヨン (Châtillon) で生まれました。幼少期に視力を失い、国立パリ青少年盲学校 (Institution Nationale des Jeunes Aveugles de Paris) で、ジュリアン・エリ (Julien Héry) にソルフェージュと和声法を、ジャック・ブレ (Jacques Brès) にヴァイオリンを、ヴィクトル・ポール (Victor Paul) にピアノと和声法を、アドルフ・マルティ (Adolphe Marty, 1865 - 1942) にオルガンと対位法とフーガと作曲法を師事しました。同校では学友のルイ・ヴィエルヌ (Louis Vierne, 1870 - 1937) からも助言やレッスンを受けました。

盲学校卒業後、1894年または1895年に母校である同校のピアノ教師 (ヴィクトル・ポールの後任) となり、サン=メダール教会 (Église Saint-Médard de Paris) オルガン奏者を経て、1901年にパリのサン=ピエール・ド・モンルージュ教会 (Église Saint-Pierre de Montrouge) オルガン奏者に就任しました。1908年に視覚障害者支援組織であるヴァランタン・アユイ協会 (Association Valentin Haüy) 理事に就任。また、同協会の点字楽譜図書館の責任者を務め、点字印刷機の開発に取り組みました。 雑誌「ル・ヴァランタン・アユイ Le Valentin Haüy 」の音楽批評の執筆や、雑誌「ラ・ルヴュ・ブライユ La revue braille 」の編集者としても活動しました。1933年12月21日の昼過ぎにヴァランタン・アユイ協会の近くの歩道にいたところを後退する貨物自動車に轢かれ、病院に搬送されたのちに自身の希望でパリの自宅に戻り、その日のうちに亡くなりました。

盲学校での教え子にジャン・ラングレー (Jean Langlais, 1907 - 1991) がおり、ラングレーはブラジの死後の1934年に後任としてサン=ピエール・ド・モンルージュ教会オルガン奏者を引き継ぎました。

出典:

2023-12-26

150th Birth Anniversary of Hubert Cuypers

Hubert Cuypers (Netherlands, 1873 - 1960) - Méditation I pour orgue ou harmonium. Andante con moto (F major). À Monsieur l'Abbé Joseph Joubert, Sympathique hommage.

今日はオランダの作曲家・オルガン奏者・指揮者、ヒューベルト・カイペルス生誕150年の誕生日です。今回はカイペルス作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「瞑想曲第1番 ヘ長調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l'orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第3巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912) の35-36頁に収録されており、この曲集の編纂者であるジョゼフ・ジュベール (Joseph Joubert, 1878 - 1963) に献呈されています。

ヒューベルト・カイペルスは1873年12月26日にオランダ王国リンブルフ州バークセム (Baexem) で生まれました。父のフランス・カイペルス (Frans Cuypers, 1833 - 1886) から音楽の手ほどきを受けたのち、14歳のときにドイツ帝国アーヘンアーヘン大聖堂少年聖歌隊員となり、同地の聖グレゴリウス=ハウス教会音楽学校 (Kirchenmusikschule St. Gregorius-Haus) でフランツ・ネーケス (Franz Nekes, 1844 - 1914) に教会音楽を学びました。

1891年にアムステルダムの聖アルフォンシュス合唱団 (Sint Alphonsuskoor Amsterdam) オルガン奏者兼監督に就任。また、アムステルダムではのちにスコラ・カントルム (Schola cantorum) と改称されたアムステルダム芸術協会 (Amsterdamse Kunstkring) を設立し、ベルナルド・ズヴェールス (Bernard Zweers, 1854 - 1924) に和声法と作曲法を師事しました。1897年にアンナ・マチルダ・フックス (Anna Mathilda Fuchs) と結婚。1904年にアムステルダムの合唱団アルティー・エト・レリギオーニー (Arti et Religioni) とユトレヒト・パレストリーナ合唱団 (Utrechtsch Palestrinakoor) の指揮者に就任。1924年から1954年までアムステルダムの聖アグネス教会 (Sint-Agneskerk in Amsterdam) 指揮者を務めました。1960年2月22日にアムステルダムで亡くなりました (満86歳)。

出典:

  • Hubert Cuypers”. Onze Musici (2nd edition). 1911. Rotterdam: Nijgh & Van Ditmar. page 50.
  • Hubert Cuypers”. Onze Musici (3rd edition). 1923. Rotterdam: Nijgh & Van Ditmar. page 34.
  • Hubert Cuypers”. Muziekencyclopedie. Nederlands Instituut voor Beeld en Geluid. Retrieved 2023-12-25.

2023-12-25

100th Death Anniversary of Richard Barth

Richard Barth (Germany, 1850 - 1923) - 5 Klavierstücke, Op. 13 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1896); No. 4. Ein Gedenkblatt (Commémoration, Commemoration). Leicht bewegt, frei vorzutragen (A flat major).

今日はドイツの作曲家・ヴァイオリン奏者・指揮者、リヒャルト・バルト没後100年の命日です。今回はバルト作曲「5つのピアノ小品 Op. 13」より第4曲「思い出の一葉 変イ長調」を弾きました。

リヒャルト・バルトは1850年6月5日にプロイセン王国ザクセン州グロース・ヴァンツレーベン (Groß Wanzleben. 現在のヴァンツレーベン=ベルデ Wanzleben-Börde) で、磁器絵付師・磁器工場主のヨハン・ローレンツ・バルト (Johann Lorenz Barth, 1822 - 1887) とアウグステ・テレーゼ・バルト (Auguste Therese Barth) の子として生まれました。

1856年からマクデブルクのコンツェルトマイスターであるフランツ・ベック (Franz Beck) に、1863年から1867年までハノーファーヨーゼフ・ヨアヒム (Joseph Joachim, 1831 - 1907) にヴァイオリンを師事しました。幼少期の事故のために、右手で押弦し左手で運弓するという、通常とは左右の役割を入れ替えた奏法の演奏家となりました。1867年にユリウス・オットー・グリム (Julius Otto Grimm, 1827 - 1903) によりミュンスターに招かれ、1882年にはクレーフェルト、次いでマールブルクと、ドイツ各地で弦楽四重奏団の第一奏者や管弦楽団の指揮者に招聘されました。マールブルクでは1887年から1894年までフィーリプ大学マールブルクの音楽監督 (Musikdirektor) も務め、ヨハネス・ブラームス (Johannes Brahms, 1833 - 1897) とその友人らによるサークルに参加しました。

1895年に、ユリウス・フォン・ベルヌート (Julius von Bernuth, 1830 - 1902) の後任としてハンブルク・フィルハーモニカー (Philharmoniker Hamburg) とハンブルク・ジングアカデミー (Hamburger Singakademie) の音楽監督に就任。1904年に「ヨハネス・ブラームスとその音楽 Johannes Brahms und seine Musik」(Hamburg: Otto Meißners Verlag, 1904) を出版。1908年にハンブルクのクレーア音楽院 (Klaer'sches Konservatorium in Hamburg-Blankenese. 現在のハンブルク音楽院) 院長に就任。同じく1908年にフィーリプ大学マールブルクより名誉博士号 (Doctor philosophiae honoris causa) を授与されました。1913年までハンブルク教員合唱団 (Hamburger Lehrer-Gesangverein) を率いてしばしば演奏旅行をしました。1923年12月25日にマクデブルクで亡くなりました。

出典:

  • Bollert, Werner (1953). “Barth, Richard”. Neue Deutsche Biographie 1. page 606.
  • Jones, Gaynor G.; Fifield, Christopher (2001). “Barth, Richard”. Grove Music Online. Retrieved 2023-12-23.

2023-12-24

250th Birth Anniversary of Joseph Woelfl

Joseph Woelfl (Austria/England, 1773 - 1812) - 12 Walses pour piano forte; Waltz No. 6 in C minor.

今日はオーストリア出身の英国の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、ヨーゼフ・ヴェルフル生誕250年の誕生日です。今回はヴェルフル作曲「ピアノフォルテのための12のワルツ」より第6番 ハ短調を弾きました。

ヨーゼフ・ヴェルフルは1773年12月24日に、ザルツブルク大司教領の行政法曹 (Verwaltungsjurist) のヨハン・パウル・ヴェルフル (Johann Paul Wölfl) とテレジア (Theresia, verwitwete von Sechzern, geb. von Preysing) の子として、神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領の首都ザルツブルクで生まれました。 ヴェルフル家と親交のあったザルツブルク宮廷音楽家のレオポルト・モーツァルト (Leopold Mozart, 1719 - 1787) におそらく楽才を認められ、レオポルトとその娘のマリア・アンナ・モーツァルト (Maria Anna (genannt „Nannerl“) Mozart, 1751 - 1829) の教え子となり、7歳のときにはザルツブルクでヴァイオリン協奏曲を公開演奏しました。1783年から1786年までザルツブルク大聖堂少年聖歌隊員となり、聖歌隊員としてレオポルト・モーツァルトとミヒャエル・ハイドン (Michael Haydn, 1737 - 1806) から指導を受けるようになりました。1790年に父のすすめでヴィーンに赴きました。レオポルトの子ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart, 1756 - 1791) に師事するための移住でしたが、実際にヴェルフルとW・A・モーツァルトの間にどの程度の親交があったのかはよく分かっていません。

ミハウ・カジミェシュ・オギニスキ (Michaƚ Kazimierz Ogiński, 1730 - 1800) に仕え (一説によるとW・A・モーツァルトの推薦)、1791年または1792年にスウォニム (Słonim. 現ベラルーシ領スロニム Slonim) の楽長に就任。1792年にはピアノ奏者としてワルシャワでデビュー。ワルシャワでは演奏家・ピアノ教師として名声を得ましたが、1795年の第三次ポーランド分割でワルシャワがプロイセン王国領となると、ヴィーンに戻りました。1795年に最初のオペラ「地獄の山 Der Höllenberg」(エマヌエル・シカネーダー Emanuel Schikaneder 台本) を上演。1798年に歌手のテレーゼ・クレム (Therese Klemm) と結婚。1799年にはブルノプラハドレスデンライプツィヒハンブルクベルリンパリを巡る演奏旅行に出発し、各地で好評を博しました。1801年からフランス共和国の首都パリ、1805年5月から英国の首都ロンドンを拠点に活動し、劇音楽、交響曲、室内楽曲、ピアノ曲の作曲家としても高く評価されました。主要な器楽作品としては「3つのピアノソナタ 3 Sonates pour le piano-forte, Op. 6」(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven に献呈)、「ピアノ協奏曲第4番 ト長調『静けさ』Piano Concerto in G major "Le calme", Op. 36」、「交響曲第1番 ト短調 Symphoniy No. 1 in G minor, Op. 40」(ルイジ・ケルビーニ Luigi Cherubini に献呈)、「ノン・プルス・ウルトラ、ピアノのための大ソナタ ヘ長調 Non plus ultra. A Grand Sonata for the Piano Forte in F major, Op. 41」、「50の訓練課題からなるピアノのための実践教本 Practical School for the Piano Forte, consisting of 50 Exercises, Op. 56」があります。1812年5月21日にロンドンで、38歳という若さで急死しました。

教え子に以下の人物がいます。

  • シャルル=フランソワ・デュモンショ (Charles-François Dumonchau, 1775 - 1821)
  • チャールズ・ニート (Charles Neate, 1784 - 1877)
  • チプリアーニ・ポッター (Cipriani Potter, 1792 - 1871)

    出典:

  • 2023-12-19

    200th Death Anniversary of Nicolas-Joseph Hüllmandel

    Nicolas-Joseph Hüllmandel (Alsece/France, 1756 - 1823) - 3 Sonates pour le piano forte ou le clavecin avec accompagnement d'un violon ad libitum, Op. 10 (1788); Sonata No. 3 (G minor); II. Tempo di Minuetto (G minor).

    今日はアルザス出身のフランスの作曲家・クラヴサン奏者・ピアノ奏者・グラスハーモニカ奏者・音楽教師、ニコラ=ジョゼフ・ヒュルマンデル (ユルマンデル) 没後200年の命日です。今回はヒュルマンデル作曲「任意のヴァイオリン伴奏つきのピアノフォルテまたはクラヴサンのための3つのソナタ Op. 10」の「ソナタ第3番 ト短調」より第2楽章「メヌエットのテンポで ト短調」を弾きました。

    ニコラ=ジョゼフ・ヒュルマンデルは、1756年5月23日にストラスブール大聖堂のヴァイオリン奏者ミシェル・ヒュルマンデル (Michel Hüllmandel) とマリ=アンヌ・ディール (Marie-Anne Diel) の婚外子としてフランス王国アルザス地方ストラスブール (Strasbourg) で生まれました (ストラスブール教区記録簿に Joannes Nicolaus の名で記載)。ニコラ=ジョゼフの義理の母 (父ミシェルの妻) にあたるマリ=アンヌ (Marie-Anne Hüllmandel) は、ヴァイオリン奏者・ホルン奏者のジャン=ジョゼフ・ロドルフ (Jean-Joseph Rodolphe, 1730 - 1812) の姉妹でした。

    ヒュルマンデルが帝国自由都市ハンブルクに滞在していたとする史料はありませんが、1808年にパリでヒュルマンデルに会ったフランソワ=ジョゼフ・フェティス (François-Joseph Fétis, 1784 - 1871) の証言によると、ヒュルマンデルがハンブルク在住のカール・フィーリプ・エマヌエル・バッハ (Carl Philipp Emanuel Bach, 1714 - 1788) に学んでいたとされます。

    ヒュルマンデルは1770年代前半に英国の首都ロンドンで駐英フランス大使アドリアン・ルイ・ド・ボニエール (Adrien Louis de Bonnières, 1735 - 1806) に仕え、1771年から1773年にかけてロンドンで少なくとも6度の公開演奏会に出演してピアノ奏者として協奏曲などを弾きました。「任意のヴァイオリン伴奏を伴うクラヴサンまたはピアノフォルテのための6つのソナタ 6 Sonates, Op. 1」(当時の王太子妃マリー・アントワネット (Marie Antoinette, 1755 - 1793) に献呈) の出版のために、1773年から1774年にかけてパリに滞在していたと考えられています。1775年のイタリア旅行ののち、1776年頃にパリに定住しました。

    パリでは程なく貴族の集うサークルで成功を収め、「クラヴサンまたはピアノフォルテのための小アリア 第1集 (6つのディヴェルティスマン) 1er recueil de petits airs (6 Divertissements), Op. 2」をタレーラン男爵夫人ルイーズ・フィデル・デュラン・ド・サントゥジェーヌ=モンティニ (Louise-Fidèle Durand de Saint Eugène-Montigny, b. 1751) に、「クラヴサンまたはピアノフォルテのための3つのソナタ 3 Sonates, Op. 4」をロンドン時代の主であるギネス公アドリアン・ルイ・ド・ボニエールに献呈しました。画家のエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブラン (Élisabeth-Louise Vigée Le Brun, 1755 - 1842) と経済学者・著述家のアンドレ・モレレ (André Morellet, 1727 - 1819) の回想録には、ヒュルマンデルが彼らの催すサロンにしばしば参加したことが書かれており、とりわけ彼の優れたグラスハーモニカ演奏が賞讃されています。

    1789年にフランス革命が勃発すると、ヒュルマンデルは妻のカミーユ・オロール (Camille Aurore Hüllmandel née Ducazan) を伴ってロンドンに亡命し、当地で演奏家・教師として活動しました。亡命後、作曲家としては「音楽の原理 Principles of Music, chiefly calculated for the Piano Forte or Harpsichord with Progressive Lessons, Op. 12」を除いてオリジナル作品を残しておらず、公開演奏をすることもありませんでした。1823年12月19日にロンドンで亡くなりました。フランス国立中央文書館パリ公証人記録中央保存所にあるヒュルマンデルの死亡診断書にはジョゼフ・ニコラ Joseph Nicolas の名で72歳で死亡したと書かれているため、これを典拠に生年を1851年としている文献もあります。

    子にシャルル・ジョゼフ・ヒュルマンデル (Charles Joseph Hullmandel, 1789 - 1850) とエヴェリーナ・ヒュルマンデル (Evelina Adelaide Charlotte Hullmandel, d. 1839) がいます。シャルル・ジョゼフはリトグラフ技術の発展に寄与した石版画家となり、石版印刷による楽譜出版も手がけました。エヴェリーナは音楽教師となってピアノ編曲「魔弾の射手カドリーユ集 A Set of Quadrilles from Der Freischütz 」(1825)、音楽学習用カードゲーム「音楽の思い出、あるいは子供たちのための新年の贈り物 Musical Souvenir, or a New Year's Gift for Children 」(1827)、ピアノ曲「マリブランの思い出、ディヴェルティメント Souvenirs de Malibran. A Divertimento for the Piano-forte 」(1829) を出版し、1827年に植物水彩画家のヴァレンタイン・バーソロミュー (Valentine Bartholomew, 1799 - 1879) と結婚しました。

    教え子に以下の人物がいます。このうちヴィクトワール・グノーは作曲家シャルル・グノー (Charles Gounod, 1818 - 1893) の母として知られています。

    出典:

    on ad libitum, Op. 10; Sonata No. 3 (G minor); II. Tempo di Minuetto (G minor).