2023-12-29

200th Death Anniversary of Daniel Steibelt

Daniel Steibelt (Germany/France/Russia, 1765 - 1823) - Exercice No. 4. Allegro in A minor. Méthode de piano ou l'art d'enseigner cet instrument (Paris: Imbault, 1805). page 138.

ドイツ出身の作曲家・ピアノ奏者、ダニエル・シュタイベルト没後200年 (グレゴリオ暦1823年10月2日没) ということで、シュタイベルト著「ピアノ教程またはピアノ教授法」に収録された「エチュード集とエグゼルシス集 Études and exercices (8つのエグゼルシス)」よりエグゼルシス第4番 イ短調を弾きました。

ダニエル・シュタイベルトは1765年10月22日に神聖ローマ帝国プロイセン王国の首都ベルリンで、プロイセン陸軍将校で後にピアノ・チェンバロ製作者となる父と、フランスから亡命したユグノーの家庭出身の母の間に生まれました。プロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム (後のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世) の後援で、ベルリンのヨハン・フィーリプ・キルンベルガー (Johann Philipp Kirnberger, 1721 - 1783) に師事することとなり、1782年には最初の出版作品である8小節の歌曲が歌曲集の一曲として出版されました。父からプロイセン軍への入隊を強いられたために1784年にプロイセン国外に逃れ、しばらく旅をしながらピアノ奏者として暮らしました。

1788年にはミュンヒェンで「ソナタ集 Opp. 1-4」を出版。1789年にはザクセンハノーファーで演奏会を開き、1790年にはパリの永住権を得てます。フランス宮廷におけるヨハン・ダーヴィト・ヘルマン (Johann David Hermann, 1764 - 1852) との作曲勝負では、ヘルマンとシュタイベルトがそれぞれ変ロ長調のアレグロの楽曲を作曲しており、それらを2つの楽章としたフランス王妃マリー・アントワネットのためのソナタ「ラ・コケット La coquette 」が後に出版されています。この勝負の存在によりシュタイベルトがフランス革命前 (1789年以前) にはパリを訪れたことがあると考えられています。1793年に、パトロンでもあるジョゼフ=アレクサンドル・ド・セギュール (Joseph-Alexandre de Ségur, 1756 - 1805) の台本に付曲したオペラ「ロメオとジュリエット Roméo et Juliette 」が、パリのフェドー劇場 (Théâtre Feydeau) で初演されました。このオペラの成功により、シュタイベルトは作曲家・音楽教師としての名声を得ました。その後の15年間をパリとロンドンを拠点に活動し、ヨーロッパの主な首都のほとんどを演奏旅行で巡りました。1798年3月19日にロンドンでピアノ協奏曲第3番 ホ長調「嵐」 (嵐の模倣を序奏とするロンド・パストラルを第3楽章に持つ) を演奏。ロンドンでキャサリン (Catharine) という名のイングランド人ピアノ奏者・タンブラン奏者と結婚し、結婚後は自作の多くにタンブランやトライアングルのパートを加えました。1799年後半から1年間の演奏旅行ではハンブルクドレスデンプラハ、ベルリン、ヴィーンを訪問。ヴィーンのモーリツ・フォン・フリース伯爵 (Moritz von Fries, 1777 - 1826) 邸でのルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827) との有名なピアノ演奏技能勝負はフェルディナント・リース (Ferdinand Ries, 1784 - 1838) 著『ベートーヴェンに関する伝記的覚え書 Biographische Notizen über Ludwig van Beethoven 』(Koblenz: Bädeker, 1838) に書かれています。1800年8月にはパリに戻り、同年12月24日にオペラ座にてフランス第一執政ナポレオン・ボナパルト (Napoléon Bonaparte, 1769 - 1821) の御前でヨーゼフ・ハイドン (Joseph Haydn, 1732 - 1809) 作曲セギュール訳「天地創造 Die Schöpfung 」を上演、1802年3月3日にはオペラ座でバレエ「ゼピュロスの帰還 Le retour de Zephyr 」を上演し、いずれも成功しました。1805年に「ピアノ教程またはピアノ教授法」を出版。

1808年秋に、増えすぎた債務による投獄から逃れるようにパリを離れ、フランクフルト・アム・マインライプツィヒ、ブレスラウ (ヴロツワフ)、ワルシャワ、ヴィルナ (ヴィリニュス、この地ではポーランド語訳のハイドン「天地創造」を指揮)、リガを巡って、1809年春に終焉の地となるサンクトペテルブルクに到着しました。1810年頃にフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー (François-Adrien Boieldieu, 1775 - 1834) の後任として同地のフランス・オペラ座の監督に就任。1812年にフランス皇帝となったナポレオン1世 (Napoléon Ier) 率いるフランス軍がモスクワを占領すると、ロシア国家に献げられたピアノのための幻想曲「モスクワ大火 L'incendie de Moscou 」を作曲しました。1820年3月16日に合唱を伴うバッカナール風ロンドを終楽章に持つピアノ協奏曲第8番を初演。痛みのある病に冒され、1823年10月2日 (ユリウス暦9月20日) にペテルブルクで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

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