2022-06-30

300th Birth Anniversary of Georg Benda

Georg Anton Benda (Jiří Antonín Benda, Czech/Germany, 1722 - 1795) - Sonate pour clavecin en sol majeur; III. Allegro assai.

今日はチェコ・ボヘミア出身のドイツの作曲家・チェンバロ奏者、ゲオルク・アントン・ベンダ (イジー・アントニーン・ベンダ) 生誕300年の受洗日です。今回はベンダ作曲「チェンバロのためのソナタ ト長調」(全3楽章) より第3楽章を弾きました。楽譜は「アルファベット順に配列された最も著名な作曲家たちによる6つのクラヴサンのためのソナタからなる作品集 第6巻 Oeuvres melées contenant VI. Sonates pour le clavessin d'autant de plus celebres compositeurs, rangés en ordre alphabetique, Partie VI 」(Nürnberg: Jean Ulric Haffner) にソナタ第2番として収録されています。

ゲオルク・ベンダは神聖ローマ帝国ボヘミア王国スタレー・ベナートキ (Staré Benátky) でハンス・ゲオルク・ベンダ (ヤン・イジー・ベンダ1世, Hans Georg Benda, 1686 - 1757) の子として生まれ、1722年6月30日に洗礼を受けました。音楽家となった兄弟姉妹にフランツ・ベンダ (フランチシェク・ベンダ, Franz Benda, 1709 - 1786. 作曲家・ヴァイオリン奏者)、ヨハン・ベンダ (ヤン・イジー・ベンダ2世, Johann Benda, 1713 - 1752. ヴィオラ奏者・ヴァイオリン奏者)、ヨゼフ・ベンダ (Joseph Benda, 1724 - 1804. ヴァイオリン奏者)、アンナ・フランツィスカ・ベンダ (Anna Franziska Benda, 1728 - 1781. ソプラノ歌手) がいます。ベンダ家は彼らの子孫からも音楽家を輩出しました。

ゲオルクは1735年からコスモノシ (Kosmonosy) のピアリステンコレギウム (Piaristenkollegium) で、1739年から1742年までイチーン (Jičín) のイェズイーテンコレギウム (Jesuitenkollegium) で学び、音楽のレッスンを受けました。1742年3月に、家族 (両親、弟妹たち) でプロイセン王国ポツダムに移り、弟のヨゼフとともに、兄フランツから指導を受けて宮廷楽団のヴァイオリン奏者として雇われました。1750年5月にザクセン=ゴータ=アルテンブルク公フリードリヒ3世 (Friedrich III. von Sachsen-Gotha-Altenburg, 1699 - 1772) の下で宮廷楽長に任命されました。1765年10月から6ヶ月の有給休暇を与えられてイタリアに留学し、ヴェネツィアボローニャフィレンツェローマを訪れ、バルダッサーレ・ガルッピ (Baldassare Galuppi, 1706 - 1785)、クリストフ・ヴィリバルト・グルック (Christoph Willibald Gluck, 1714 - 1787)、トンマーゾ・トラエッタ (Tommaso Traetta, 1727 - 1779)、ニコロ・ピッチンニ (Niccolò Piccinni, 1728 - 1800)、ジョヴァンニ・パイジエッロ (Giovanni Paisiello, 1740 - 1816) のオペラについて研究を深めました。1770年8月から1778年3月20日まで宮廷礼拝堂監督 (Kapelldirector) を務めました。劇場での職を得るためにハンブルクヴィーンを訪れたのちゴータに戻り、その後は引退して年金を得て生活しました。1781年にパリを、1787年にマンハイムを訪れ、自作の公演で指揮をしました。1795年11月6日にロイス=ゲーラ伯領ケストリッツ (Köstritz) で亡くなりました。

彼の子供のうち、フリードリヒ・ルートヴィヒ・ベンダ (Friedrich Ludwig Benda, 1752 - 1792. 作曲家・ヴァイオリン奏者)、ハインリヒ・ベンダ (Heinrich Benda, b. 1754. ヴァイオリン奏者)、カテリーナ・ユスティナ・ベンダ (Catherina Justina Benda, b. 1757. 歌手)、ヘルマン・クリスティアン (Hermann Christian Benda, 1759 - 1805. 歌手)、カール・エルンスト・エーベルハルト・ベンダ (Carl Ernst Eberhard Benda, 1764 - 1824. 歌手) の5人が音楽家となりました。

出典:

  • Drake, John D.; Pilková, Zdeňka; Lee, Douglas A.; Bauman, Thomas; Reich, Nancy B. (2001). “Benda family”. Retrieved 2022-06-30.
  • Allihn, Ingeborg; Pilková, Zdeňka (1999) 2016 “Benda”. In: MGG Online, edited by Laurenz Lütteken. Bärenreiter, Metzler, RILM, 2016–. Retrieved 2022-06-30.

2022-06-22

150th Birth Anniversary of Clara Faisst

Clara Mathilda Faisst (Germany, 1872 - 1948) - 2 Klavierstücke, Op. 25 (Selbstverlag Karlsruhe in Baden); No. 2. „Ein Ton“. Zart und leicht bewegt (E flat major).

今日はドイツの作曲家・ピアノ奏者・詩人、クララ・ファイスト生誕150年の誕生日です。今回はファイスト作曲「2つのピアノ小品 Op. 25」より第2曲「一つの音 変ホ長調」を弾きました。4分の4拍子で書かれた31小節の全曲を通して、8分音符の属音変ロ (B♭3) がオスティナートとして途切れることなく反復されます。

クララ・ファイストは、上級教会参事官 (Oberkirchenrat) であるグスタフ・アウグスト・ファイスト (Gustav August Faisst, 1834 - 1837) とスイスのリュトリー出身のエマ・ファイスト (Emma Faisst, geb. Valloton) の6人の子供の末子として1872年6月22日にドイツ帝国バーデン大公国の首都カールスルーエで生まれました。1879年から1881年までカール・ヴィル (Carl Will. 大公国宮廷劇場コンサートマスター) に和声法を学び、1881年から1888年までカールスルーエの高等女学校 (Höhere Mädchenschule in Karlsruhe) に通い、女学校在学中の1885年から1890年までカールスルーエの大公立音楽院 (Großherzogliche Konservatorium in Karlsruhe) の創設者であるハインリヒ・オルデンシュタイン (Heinrich Ordenstein, 1856 - 1921) にピアノを師事しました。1890年にドイツ帝国の首都ベルリンに移り、フェーリクス・モットル (Felix Mottl, 1856 - 1911) の推薦で王立高等音楽学校に入学し、同校でエルンスト・ルードルフ (Ernst Rudorff, 1840 - 1916) にピアノを、ローベルト・カーン (Robert Kahn, 1865 - 1951) にピアノと音楽理論を、ヴォルデマール・バルギール (Woldemar Bargiel, 1828 - 1897) に対位法と作曲を師事したほか、マックス・ブルッフ (Max Bruch, 1838 - 1920) の作曲マイスターシューレで学びました。1896年の卒業後、自作を含むプログラムでドイツとスイスを巡る長期間の演奏旅行を行いました。市住所録によると遅くとも1901年までにカールスルーエに戻り、以後は1948年11月22日に亡くなるまで同地で活動しました。

出典:

  • Rebmann, Martina (2004-05-26/2018-11-27). „Clara Faisst“. In: MUGI. Musikvermittlung und Genderforschung: Lexikon und multimediale Präsentationen, hg. von Beatrix Borchard und Nina Noeske, Hochschule für Musik und Theater Hamburg. Retrieved 2022-06-22.
  • Förster, Katja (2012). „Clara Mathilde Faisst“. In: Stadtlexikon Karlsruhe. Retrieved 2022-06-22.

2022-06-17

350th Death Anniversary of Orazio Benevoli

Orazio Benevoli (Italy, 1605 - 1672) - Prelude in E major.

今日はイタリアの作曲家・オルガン奏者、オラツィオ・ベネヴォリ没後350年の命日です。今回はベネヴォリ作曲「オルガンのための前奏曲 ホ長調」を弾きました。楽譜は IMSLP にある Laudate II : Collection de morceaux pour orgue sans pédales (Brussels: A. Ledent-Malay, 1919) とされる曲集に第190曲として収録されているものを使用しました。調号にはシャープが3箇所 (F, C, G) に書かれているためか IMSLP のページ名は "Prelude in E mixolydian" となっています。

オラツィオ・ベネヴォリは、ロレーヌ出身の菓子職人であるロベール・ヴェヌオ (Robert Venouot) の子として、1605年4月19日に教皇領国家の首都ローマで生まれました。1617年から1623年までサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会 (Chiesa di San Luigi dei Francesi) の少年聖歌隊員となり、ヴィンチェンツォ・ウゴリーニ (Vincenzo Ugolini, d. 1638) に音楽を学びました。

1624年からサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂 (Basilica di Santa Maria in Trastevere) の教会楽長 (maestro di cappella) を、1630年からサント・スピリト・イン・サッシア教会 (Chiesa di Santo Spirito in Sassia) の教会楽長 (グレゴリオ・アレグリ Gregorio Allegri の後任) を、1638年から1644年までサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会 (Chiesa di San Luigi dei Francesi) の教会楽長 (師ウゴリーニの後任) を務めました。神聖ローマ帝国の首都ヴィーンに赴きオーストリア大公レオポルト・ヴィルヘルム (Leopold Wilhelm von Österreich, 1614 - 1662) の下でカペルマイスターを務めたのちにローマに戻り、1646年2月からサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 (Basilica di Santa Maria Maggiore) の教会楽長を、同年10月から亡くなるまでサン・ピエトロ大聖堂ジュリア礼拝堂合唱団 (Cappella musicale Giulia della basilica papale di San Pietro in Vaticano) の教会楽長を務めました。1672年6月17日にローマで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典: Gürtelschmied, Walter; Gmeinwieser, Siegfried (2001). “Benevoli, Orazio”. Grove Music Online. Retrieved 2022-06-17.

2022-06-16

150th Death Anniversary of Gustav Zogbaum

Gustav Zogbaum (Germany, 1814 - 1872) - Mazurka in F major.

今日はドイツの作曲家・音楽教師、グスタフ・ツォークバウム没後150年の命日です。今回はツォークバウム作曲「マズルカ ヘ長調」を弾きました。楽譜は「ピアノ奏者のためのプフェニヒ・マガツィーン Pfennig-Magazin für Pianofortespieler 」第1巻第12、13号 (1835) の24頁に第2曲として収録されています。

1814年にプロイセン王国の首都ベルリンで生まれたグスタフ・ツォークバウムは、生地でピアノと声楽の教師となり、いくつかのピアノ教則本を著しています。1872年6月16日にベルリンで亡くなりました。

出典:

  • Schuberth, Julius (1860). “Zogbaum, Gustav”. Musikalisches Hand-Buch : Eine Encyclopädie für Tonkünstler und Musikfreunde. Leipzig (Hamburg) & New York: Verlag von Jul. Schuberth & Comp. S. 299.
  • Gestorben”. Musikalisches Wochenblatt : Organ für Musiker und Musikfreunde. 3. Jg. Nr. 27. 1872-06-28. Leipzig: E. W. Fritzsch. S. 430.

2022-05-27

200th Birth Anniversary of Joachim Raff

Johann Sebastian Bach (Germany, 1685 - 1750) / Joseph Joachim Raff (Switzerland/Germany, 1822 - 1882) - Cello Suite No. 3 in C major, BWV 1009; V & VI. Bourrées I (C major) & II (C minor).
6 Sonaten für Violoncell componirt von Johann Sebastian Bach für Pianoforte bearbeitet von Joachim Raff [WoO 30] (Leipzig & Winterthur: J. Rieter-Biedermann, 1870/1871); No. 3. Sonate in C-Dur; Loure I. Poco Allegro (C-Dur) & Loure II (c-Moll).

Johann Sebastian Bach / Joachim Raff - Orchestral Suite No. 3 in D major, BWV 1068 [WoO 40]; II. Air (D major).

Johann Sebastian Bach / Joachim Raff - Violin Sonata No. 2 in A minor, BWV 1003; III. Andante (C major) [WoO 23 No. 17].

Joachim Raff - 30 Fortschreitende Etüden, WoO 36; No. 18. Fuga II [G-A-D-E] (C major).

今日はスイス出身のドイツの作曲家・批評家・音楽教育者、ヨアヒム・ラフ生誕200年の誕生日です。今回はヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲「無伴奏チェロ組曲第3番 ハ長調 BWV 1009 」の、ラフによるピアノ独奏編曲より「2つのブーレ」を弾きました。以前に演奏したラフの作品も併せて紹介します。

ヨアヒム・ラフは、ヴュルテンベルク王国出身の教師・オルガン奏者のフランツ・ヨーゼフ・ラフ (Franz Josef Raff) と、州大統領の娘であるカタリーナ (Katharina Raff geb. Schmid) の子として、1822年5月27日にスイス連邦シュヴィーツ州のラッヘン (Lachen) で生まれました。弟にヨーゼフ・カスパー・ラフ (Joseph Kaspar Raff, 1831 - 1893) がいます。父からヴァイオリン、オルガン、声楽の手ほどきを受け、ロテンブルク・アム・ネカー (ヴュルテンベルク王国) やシュヴィーツで教育を受けたのち、1840年から1844年までラパースヴィール (Rapperswil. 現在のラパースヴィール=ヨーナ Rapperswil-Jona) で初等学校の教師となりました。

当時チューリヒでカペルマイスターを務めていたフランツ・アプト (Franz Abt, 1819 - 1885) の勧めにより、フェーリクス・メンデルスゾーン (Felix  Mendelssohn, 1809 - 1847) に自作曲の楽譜を送ると、その作品を気に入ったメンデルスゾーンの仲介で、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社 (Breitkopf & Härtel) からピアノ曲を出版することになりました。1845年にはフランツ・リスト (Franz Liszt, 1811 - 1886) と知り合い、音楽家となる決心をしてケルンに移ります。ケルンやハンブルクで音楽出版社に勤め、その頃のリストとの書簡ではラフに対する作曲の助言が残されています。1849年にヴァイマルに移り、リストの助手兼秘書を務めました。1856年にヴィースバーデンに移ったのち、1878年に創立したフランクフルト・アム・マインのホッホ音楽院 (Dr. Hoch’s Konservatorium) の院長に就任し、作曲を教えました。1882年6月24日または25日にドイツ帝国フランクフルト・アム・マインで亡くなりました。

出典:

  • Bayreuther, Rainer (2005) 2016. “Raff, Joachim”. In: MGG Online, edited by Laurenz Lütteken. Bärenreiter, Metzler, RILM, 2016–. Retrieved 2022-05-27.
  • Deaville, James (2001). “Raff, (Joseph) Joachim”. Grove Music Online. Retrieved 2022-05-27.
  • 倉脇雅子 (2020). “ラフ Raff, Joachim”. ピティナ・ピアノ曲事典. Retrieved 2022-05-27.
  • 2022-04-06

    350th Birth Anniversary of André Cardinal Destouches

    André Cardinal Destouches (France, 1672 - 1749) / Isidor Philipp (Hungary/France, 1863 - 1958) - Amadis de Grèce, tragédie en musique en un prologue et 5 actes; Canaries (Act 4).

    今日はフランスの作曲家アンドレ・カルディナル・デトゥーシュ生誕350年の受洗日です。今回はデトゥーシュ作曲、抒情悲劇「ギリシャのアマディス」第4幕より「カナリー」の、イジドール・フィリップによるピアノ独奏編曲を弾きました。楽譜はフィリップ編纂「フランス・ピアノ音楽のアンソロジー」第1巻「初期の作曲家」(Anthology of French Piano Music. Volume 1: Early Composers. Boston: Oliver Ditson Co., 1906) に収録されています。原曲の総譜は、アンドレ・ダニカン・フィリドール1世 (André Danican Philidor l'ainé, ca.1652 - 1730) による1699年の手稿譜が残されています (フランス国立図書館)。

    アンドレ・カルディナル・デトゥーシュは、裕福なパリの商人のエティエンヌ・カルディナル、セニュール・デ・トゥーシュ・エ・ド・ギユヴィル (Etienne Cardinal, Seigneur des Touches et de Guilleville) の子として生まれ、1672年4月6日に洗礼を受けました。1681年から1686年までサンジャック通りイエズス会による教育を受けたのち、1687年1月からギ・タシャール神父 (Gui Tachard, 1651 - 1712) に随行してサヤーム (タイ王国の古称) へ向かう使節団の一員となり、1688年7月に帰国。その4年後にフランス王室の軍人となり、黒色銃士隊 (mousquetaires noir) として1692年のナミュール包囲戦に参加。軍務のかたわらにギターを学んで作曲を試み、ついには音楽に専念するために1694年に軍を退役しました。

    アンドレ・カンプラ (André Campra, 1660 - 1744) の弟子となり、カンプラのオペラ=バレ「優雅なヨーロッパ L'Europe galante 」の1698年改訂版にはデトゥーシュ作曲の3つのエアを加えることを許可されました。1697年10月7日にフォンテーヌブローで初演された最初のオペラである英雄的牧歌劇「イセ Issé 」は成功を収めました。この作品に非常に満足したフランス国王ルイ14世 (Louis XIV, 1638 - 1715) により「リュリ以降これほどの喜びを与えてくれる音楽はなかった」(Titon du Tillet, Évrard. « le Roi l’assura que depuis Lulli aucune musique ne lui avait fait plus plaisir ».)という言葉とともに200ルイを贈られました。デトゥーシュはルイ14世のお気に入りの音楽家となり、1713年1月8日に新設された役職である王立音楽アカデミー (Académie royale de musique. 現在のパリ国立オペラ Opéra de Paris) 総監 (inspecteur général) に任命されました。

    1718年2月8日、ミシェル=リシャール・ド・ラランド (Michel-Richard de Lalande, 1657 - 1726) の要請により、宮廷室内音楽隊監督 (surintendant de la musique de la chambre) に就任。1724年1月15日、アンヌ=アントワネット・ド・レイノルド・ド・ラ・フェリエール (Anne-Antoinette de Reynold de la Ferrière) と結婚。1727年9月28日、亡くなったド・ラランドの後任として宮廷室内音楽隊楽長 (maître de musique de la chambre) に就任。1728年2月8日、引退するジャン=ニコラ・ド・フランシーヌ (Jean-Nicolas de Francine, 1662 - 1735) の後任として王立音楽アカデミー総長 (directeur) に就任しましたが、1730年6月1日に総長・総監を辞任。1725年以降、王妃マリー・レクザンスカ (Marie Leszczyńska, 1703 - 1768) のために演奏会を企画・監督し、1745年まで王妃の演奏会を管理しました。70歳のときに、国王ルイ15世 (Louis XV、1710 - 1774) の王女たちの仮面舞踏会を指揮しました。1749年2月7日にパリで亡くなりました。

    出典:

    2022-04-04

    150th Birth Anniversary of Nikolay Amani

    Nikolay Nikolayevich Amani (Николай Николаевич Амани, Russia, 1872 - 1904) - Album pour la jeunesse. 12 Pièces pour piano (Moyenne difficulté) (Альбом для юношества. 12 Пьес для фортепиано средней трудности), Op. 15 (Moscow: P. Jurgenson); No. 9. Prière d’enfant (Детская просьба). Moderato (C minor).

    今日はロシアの作曲家・ピアノ奏者、ニコライ・ニコラーエヴィチ・アマニ生誕150年の誕生日です。今回はアマニ作曲「子供のためのアルバム、ピアノのための中難度の12の小品 Op. 15」より第9曲「子供の願い ハ短調」を弾きました。曲集の各曲はそれぞれ別の人物に献呈されていて、この第9曲は歌手マリーヤ・チェレプニナ (Mariya Tcherepnina, Мария Альбертовна Черепнина, 1876 - 1958) に献呈されています。チェレプニナは、画家のアリベルト・ベヌアー (Albert Nikolayevitch Benois, 1852 - 1936) と、ピアノ奏者でペテルブルク音楽院教授のマリーヤ・ベヌアー=エフローン (Mariya Benois-Efron, 1856 - 1909) の娘であり、ニコライ・チェレプニン (Nikolay Tcherepnin, 1873 - 1945) の妻、アレクサンドル・チェレプニン (Aleksandr Tcherepnin, 1899 - 1977) の母でもあります。

    ニコライ・アマニは1872年4月4日 (ユリウス暦 3月23日) にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで生まれました。若くして楽才を示し、11歳でピアノ奏者として演奏会に出演しました。ニコライ・ドゥバーソフ (Nikolay Dubasov, 1869 - 1935) からピアノの指導を受けたのち、1890年にペテルブルク音楽院に入学しました。音楽院ではテオドール・シュタイン (Theodor Stein, 1819 - 1893) とアーンナ・エーシポヴァ (Anna Yesipova, 1851 - 1914) にピアノを、アナトーリー・リャードフ (Anatoly Lyadov, 1855 - 1914) に和声法を、ニコライ・リムスキー=コルサコフ (Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908) に作曲理論を師事し、ピアノ科を1897年に、作曲科を1900年に卒業しました。同年に自作の「弦楽三重奏曲 ニ短調 Op. 1」(師ニコライ・リムスキーコルサコフに献呈) により、ペテルブルク室内楽協会 (Санкт-Петербургское общество камерной музыки) の作曲コンクールで入賞しました。

    音楽院を卒業するとイタリアに渡り、1900年7月29日のナポリでの演奏会で自作のピアノ曲を弾きました。1901年にドイツに、1902年にクリミアに移住。1904年10月17日 (ユリウス暦 10月4日) にタヴリダ県クリミア半島にあるヤルタ結核のために32歳で亡くなりました。

    出典:

    • Slonimsky, Nicolas , ed. (1958). “Amani, Nikolay Nikolayevitch”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (5th edition). New York: G. Schirmer. page 29.
    • Slonimsky, Nicolas; Kuhn, Laura; McIntire, Dennis, eds. (2001). “Amani, Nikolai”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (9th edition). Retrieved 2022-04-02 from Encyclopedia.com.
    • Keldyshm, Yury Vsevolodovich (Келдыш, Юрий Всеволодович), ed. (1973-1982). “Амани Н. Н.”. Музыкальная энциклопедия. Retrieved 2022-04-02.
    • Амани Николай Николаевич”. Биографический словарь. 2000. Retrieved 2022-04-02.

    2022-04-01

    150th Birth Anniversary of Tadeusz Joteyko

    Tadeusz Joteyko (Тадеуш Йотейко, Ukraine/Poland, 1872 - 1932) - Miniatures. 12 Petits morceaux pour piano, Op. 23; No. 6. Les regrets. Moderato assai (D minor).

    今日はウクライナ出身のポーランドの作曲家・チェロ奏者・指揮者・音楽教師・批評家、タデウシュ・ヨテイコ (イオテイコ) 生誕150年の誕生日です。今回はヨテイコ作曲「細密画集、ピアノのための12の小品 Op. 23」より第6曲「後悔 ニ短調」を弾きました。

    タデウシュ・ヨテイコは1872年4月1日にロシア帝国キエフ県ポチューイキ (現在のウクライナジトーミル州ジトーミル地区のポチューイクィ) で生まれました。姉に生理学者・心理学者のユゼファ・ヨテイコ (ヨセファ・イオテイコ, Józefa Joteyko, 1866 - 1928) がいます (DNB)。12歳のときにヴァイオリンを学びはじめ、1889年から1891年までブリュッセル王立音楽院フランソワ=オーギュスト・ヘヴァールト (François-Auguste Gevaert, 1828 - 1908) に作曲を、エドゥアール・ヤーコプス (Édouard Jacobs, 1851 - 1925) にチェロを師事。1891年から1895年までワルシャワ音楽研究所 (Warszawski Instytut Muzyczny. 第一次世界大戦後にワルシャワ音楽院に改称) でジグムント・ノスコフスキ (Zygmunt Noskowski, 1846 - 1909) に作曲を、アントニ・チンク (Antoni Cink, 1863 - 1933) にチェロを師事しました。

    在学中から合唱指揮者として活動し、1895年に音楽研究所を卒業すると、ルブリンラドムウッチカリシュといったロシア帝国沿ヴィスワ地方 (Привислинский край. ロシア帝国領ポーランド) の各都市で指揮者や教師としても活動しはじめました。1897年からラドムのルトニア合唱団 (Towarzystwo Śpiewacze Lutnia w Radomiu) の監督、1900年から1902年までワルシャワ大劇場のチェロ奏者、1902年からウッチ音楽協会の監督、次いでカリシュ音楽協会の監督を務めました。1914年からワルシャワに定住し、ワルシャワフィルハーモニー管弦楽団の指揮者 (1918年まで)、ワルシャワ音楽院の教授を務めました。1932年にポーランド作曲家協会 (Stowarzyszenie Kompozytorów Polskich) の副会長兼会計に就任。1932年8月20日にポーランド共和国チェシンで亡くなりました。

    出典:

    • Chylińska, Teresa (2001). “Joteyko, Tadeusz”. Grove Music Online. Retrieved 2022-03-30.
    • Gmys, Martin (2008) 2016. “Joteyko, Tadeusz”. MGG Online, edited by Laurenz Lütteken. Bärenreiter, Metzler, RILM, 2016–. Retrieved 2022-03-30.
    • Dziębowska, Elżbieta, ed. (1993). “Joteyko, Tadeusz”. Encyklopedia Muzyczna PWM. 4. Kraków: Polskie Wydawnictwo Muzyczna. [Wikisource].
    • Joteyko, Tadeusz”. Katalog. Deutsche Nationalbibliothek (DNB). Retrieved 2022-03-30.

    2022-03-29

    200th Death Anniversary of Johann Wilhelm Hässler

    Johann Wilhelm Häßler (Иоганн Вильгельм Гесслер, Germany/Russia, 1747 - 1822) - Clavier- und Singstücke verschiedener Art, componirt und dem Fräulein Caroline von Keller, Hofdame bey der regierenden Fürstin zu Nassau-Weilburg, gewidmet. Erste Sammlung (Erfurt: auf Kosten des Verfassers, 1782); Allegro I (C major) & Allegro II (C minor).

    今日はドイツの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者、ヨハン・ヴィルヘルム・ヘスラー没後200年の命日です。今回はヘスラー作曲「様々な技法のクラヴィーアと歌の小品集」第1集より「2つのアレグロ ハ長調/ハ短調」を弾きました。

    ヨハン・ヴィルヘルム・ヘスラーは1747年3月29日に神聖ローマ帝国マインツ選帝侯領エアフルトで生まれました。父が営む帽子製造工場で働くかたわら、おじ (母の兄弟) のヨハン・クリスティアン・キッテル (Johann Christian Kittel, 1732 - 1809) にクラヴィーア、オルガン、作曲を師事し、1762年頃にエアフルトの跣足教会 (Barfüßerkirche) のオルガン奏者に任命されました。1770年代にドイツの各地に演奏旅行におもむき、1771年にゲッティンゲンヨハン・ニコラウス・フォルケル (Johann Nikolaus Forkel, 1749 - 1818) に、ハンブルクカール・フィーリプ・エマヌエル・バッハ (Carl Philipp Emanuel Bach, 1714 - 1788) に、1773年にライプツィヒヨハン・アダム・ヒラー (Johann Adam Hiller, 1728 - 1804) とクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ (Christian Gottlob Neefe, 1748 - 1798) とダニエル・ゴットロープ・テュルク (Daniel Gottlob Türk, 1750 - 1813) に会いました。テュルクには数ヶ月の間、指導しています。

    1779年に教え子で歌手のゾフィア・キール (Sophia Barbara Häßler, geb. Kiel, 1761 - 1844) と結婚し、1780年以降、彼女と「公共冬季演奏会」(Öffentlichen Winterkonzerte) を開催しています。1790年には末娘のヘンリエッテ (Henriette Eberwein, 1790 - 1849) が生まれています。ヘンリエッテは歌手となり、彼女の夫のカール・エーバーヴァイン (Carl Eberwein, 1789 - 1868) との間に生まれたマックス・カール・エーバーヴァイン (Max Karl Eberwein, 1814 - 1875) はピアノ奏者となりました。

    ヘスラーは1780年代の演奏旅行でヴァイマルベルリンポツダムなどを訪れ、1784年に音楽商店と音楽貸出図書館 (Musikalische Leihbibliothek) をを設立し、1789年にはドレスデンヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart, 1756 - 1791) に会いました。1790年から1792年までグレートブリテン王国ロンドンでピアノ奏者・教師として成功しました。1792年にはロシア帝国リガ (現ラトビア) を経てサンクトペテルブルクに移り、1793年にロシア大公アレクサンドル・パーヴロヴィチ (後のロシア皇帝アレクサンドル1世 Aleksandr I, 1777 - 1825) のピアノ奏者に任命されました。1794年にモスクワに移り、ピアノ奏者・教師・音楽出版者として活動し、1822年3月29日に同地で亡くなりました。

    教え子にマトヴェイ・ベルナルト (Matvey Bernard, 1794 - 1871)、ヨシフ・ゲニーシタ (Iosif Genishta, 1795 - 1853) がいます。

    出典:

    2022-03-22

    100th Death Anniversary of Ika Peyron

    Ika Peyron (Sweden, 1845 - 1922) - Gavotte et Chansonnette, Op. 1 (Stockholm: Abr. Lundquists förlag, 1888); No. 2. Chansonnette. Giocoso (G major).

    今年はイーカ・ペイロン没後100年ということで、ペイロン作曲「ガヴォットとシャンソネット Op. 1」より第2曲「シャンソネット ト長調」を弾きました。

    イーカ・ペイロンは1845年7月1日にスウェーデン=ノルウェーヴェステルノールランド県ティムロー (Timrå) で下女の非嫡出子として生まれ、幼いころにスンヅヴァルの卸売商人アントン・アスプ (Anton Asp, 1806 - 1878) の養子となり、フレドリーカ・アルベルティーナ・アスプ (Fredrika Albertina Asp) と名付けられました。1855年にストックホルムに移り、同地でルイーズ・エングストロム (Louise Engström) とイーヴァル・ハルストロム (Ivar Hallström, 1826 - 1901) にピアノを、アルベルト・リンドストロム (Albert Lindström, 1853 - 1935) にオルガンを師事しました。1865年に卸売商人で政治家のルードヴィグ・ペイロン (Ludvig Peyron, 1832 - 1915) と結婚。1870年から1872年までヤン・ファン・ボーム (Jan van Boom, 1807 - 1872) にピアノを師事。1880年代にアントン・ヨルゲン・アンデション (Anton Jörgen Andersen, 1845 - 1926) に管弦楽法を、ユーセフ・デンテ (Joseph Dente, 1838 - 1905) に対位法を、エミール・シェーグレン (Emil Sjögren, 1853 - 1918) に作曲を師事しました。1922年3月15日 (Ternhag 2015) または同月22日 (MusicSack) にストックホルムで亡くなりました。

    出典: