2023-12-15

150th Birth Anniversary of Arthur Lieber

Arthur Lieber (USA, 1873 - 1953) - A Little Song. Andante (G major). To Miss Babette Straus (The Etude. Volume 20 No. 4. Philadelphia: Theodore Presser Company. April 1902. pages 18-19).

今日は米国の作曲家・ピアノ奏者・オルガン奏者、アーサー・リーバー生誕150年です。今回はリーバー作曲「小さな歌 ト長調」を弾きました。楽譜は音楽雑誌「ジ・エチュード The Etude」第20巻第4号 (1902年4月) 付録楽譜の18-19頁に収録されています。

アーサー・リーバーは1873年12月15日に米国ケンタッキー州ルイヴィル (Louisville, KY) で生まれました。ルイヴィルとミズーリ州セントルイス (St. Louis, MO) で音楽を学び、教会オルガン奏者 (Central Christian Church, Union Methodist Episcopal Church, Church of the Messiah, Second Baptist Church, United Hebrew Temple)、合唱指揮者 (Apollo Club, Grand-Leader Choral Club, Orpheus Club, University of Washington Glee Club, Schubert Club (East St. Louis))、音楽監督 (Smith Academy, Hosmer Hall)、ピアノとオルガンの教師として活動しました。1953年11月29日にセントルイスで亡くなりました。

出典:

  • Krohn, Ernst Christopher (1924). “Lieber, Arthur”. A Century Of Missouri Music. Saint Louis: Privately Printed. page 117.
  • Lieber, Arthur, 1873-1953”. LC Name Authority File (LCNAF). The Library of Congress. Retrieved 2023-12-15.

2023-12-10

200th Birth Anniversary of Theodor Kirchner

Fürchtegott Theodor Kirchner (Germany, 1823 - 1903) - Walzer für Klavier, Op. 34 (Leipzig and Winterthur: J. Rieter-Biedermann, 1878). Herrn Geh. Justizrath Dr. Adolf Schubring in Dessau gewidmet; No. 6. Poco lento (B flat minor).

今日はドイツの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者・音楽教師、テオドール・キルヒナー生誕200年の誕生日です。今回はキルヒナー作曲「ワルツ集 Op. 34」(全7曲) より第6番 変ロ短調を弾きました。曲集はデッサウ出身・在住の司法枢密顧問官 (Geheimer Justizrat)・音楽批評家のアドルフ・シュブリング (Adolf Schubring, 1817 - 1893) に献呈されました。

テオドール・キルヒナーは1823年12月10日にザクセン王国ケムニッツ近郊にあるノイキルヒェン (Neukirchen/Erzgebirge) で生まれました。幼少から楽才を示し、8歳の頃には熟達したオルガン奏者となっていました。1838年にライプツィヒに移り、ユリウス・クノル (Julius Knorr, 1807 - 1861) にピアノを、カール・フェルディナント・ベッカー (Carl Ferdinand Becker, 1804 - 1877) にオルガンと音楽理論を師事し、フェーリクス・メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn, 1809 - 1847) から助言を受け、ローベルト・シューマン (Robert Schumann, 1810 - 1856) のサークルに参加しました。1842年6月にドレスデンに移り、ヨハン・ゴットロープ・シュナイダー2世 (Johann Gottlob Schneider junior, 1789 - 1864) にオルガンを師事しました。

最初の出版作品である「10の歌曲 10 Lieder, Op. 1」(Leipzig: F. Whistling, 1842) を出版すると、1843年4月13日の新音楽時報 (Neue Zeitschrift für Musik) 第18巻第30号の記事 "Lieder und Gesänge (Schluß)" (120-121頁) においてこの歌曲集がシューマンに高く評価されました。1843年にライプツィヒに戻り、設立されたばかりのライプツィヒ音楽院 (Conservatorium der Musik) で最初の学生として学びました。メンデルスゾーンの推薦によりスイスヴィンタートゥールのオルガン奏者の職に就き、音楽教師・作曲家としても活動しました。キルヒナーのオルガン演奏はハンス・フォン・ビューロー (Hans von Bülow, 1830 - 1894)、フランツ・リスト (Franz Liszt, 1811 - 1886)、リヒャルト・ヴァーグナー (Richard Wagner, 1813 - 1883) に賞讃され、ヴァーグナーからは「ニーベルングの指環 Der Ring des Nibelungen 」のリハーサルに参加するよう請われました。1862年にチューリヒに移って会員制定期演奏会や合唱団の指揮者を務め、後に聖ペテロ教会 (St. Peter in Zürich) のオルガン奏者に就任しました。この頃にはヨハネス・ブラームス (Johannes Brahms, 1833 - 1897)、クララ・シューマン (Clara Schumann, 1819 - 1896)、ユリウス・シュトックハウゼン (Julius Stockhausen, 1826 - 1906) と友人になっていました。1872年にザクセン=マイニンゲン公国宮廷ピアニストと、ザクセン=マイニンゲン公ゲオルク2世 (Herzog Georg II. von Sachsen-Meiningen, 1826 - 1914) の娘である公女マリー・エリーザベト (Marie Elisabeth von Sachsen-Meiningen, 1853 - 1923) の音楽教師を一年間務めました。 1873年から1875年までヴュルツブルク王立音楽院 (Königliches Musikinstitut in Würzburg) の院長に就任。1875年から1883年までライプツィヒで教師となり、1883年から1890年までドレスデン音楽院で室内楽の教師となりました。ドレスデン音楽院での教え子にパーシー・シャーウッド (Percy Sherwood, 1866 - 1939) がいます。1890年からハンブルクに移り、1903年9月18日に同地で亡くなりました。

出典:

2023-12-02

100th Death Anniversary of Tomás Bretón

Tomás Bretón Hernández (Spain, 1850 - 1923) - La hamaca y la ola. Danzas para piano (Madrid: Andrés Vidal hijo); No. 1. La hamaca. Americana (D minor). A mi amigo Eduardo Aulés.

今日はスペインの作曲家・ヴァイオリン奏者・指揮者・音楽教師、トマス・ブレトン没後100年の命日です。今回はブレトン作曲「寝網と波、ピアノのための2つの舞曲」より第1曲「寝網 (ハンモック)、アメリカ舞曲 ニ短調」を弾きました。楽曲はブレトンの友人である劇作家・法律家のエドゥアルド・アウレス (Eduardo Aulés, 1839 - 1913) に献呈されています。

トマス・ブレトンは1850年12月29日にスペイン王国レオン地方サラマンカ県の県都サラマンカ (Salamanca) で生まれました。1859年から1865年まで生地のサン・エロイ芸術学校 (Escuela de Nobles y Bellas Artes de San Eloy) の音楽科でヴァイオリンを学びました。片親の家庭に育ち、12歳の時点で生地でヴァイオリン演奏を生業としていましたが、1865年に首都マドリードに移り、スペイン各地を訪れてサルスエラやサーカスの楽団で演奏や指揮をしながら、マドリード音楽院 (Real Conservatorio Superior de Música de Madrid) でヴァイオリン、ピアノ、和声法を学んだほか、エミリオ・アリエタ (Emilio Arrieta, 1821 - 1894) に作曲を師事しました。同じくアリエタに学んだルペルト・チャピ (Ruperto Chapí, 1851 - 1909) とともに1872年に音楽院で作曲部門の一等賞を受賞しました。

1880年に王立サン・フェルナンド芸術アカデミー (Real Academia de Bellas Artes de San Fernando) からの奨学金を得て、ローマヴェネツィアミラノ (1881年)、ヴィーン (1882年)、パリ (1883年) へ留学。帰国後に芸術音楽連合 (Unión Artístico-Musica) を結成し、指揮者として数多くのスペインや諸外国の新作を演奏しました。その後、マドリード音楽院の教師、院長となり、マドリード音楽会協会 (Sociedad de Conciertos de Madrid)、マドリード交響楽団 (Orquesta Sinfónica de Madrid) の指揮者を務めました。1891年には友人のイサーク・アルベニス (Isaac Albéniz, 1860 - 1909) とともにロンドンに渡り、二度のスペイン音楽の演奏会を指揮して成功を収めています。作曲家としてはオペラ「テルエルの恋人たち Los amantes de Teruel 」、オペラ「悲しみ La Dolores 」、サルスエラ「パロマの前夜祭 La verbena de la paloma 」などの劇音楽が知られています。王立サン・フェルナンド芸術アカデミー会員。カルロス三世勲章 (Orden de Carlos III) 十字章 (Cruz) およびアルフォンソ十二世文民勲章 (Orden Civil de Alfonso XII) 大十字章 (Gran Cruz) 受章。1923年12月2日にマドリードで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2023-11-25

150th Birth Anniversary of Dirk Schäfer

Dirk Schäfer (Dietrich Schäfer, Netherlands, 1873 - 1931) - 6 Klavierstukken, Op. 12 (Middelburg: A. A. Noske, 1916); No. 5. Andante grave e sostenuto (E flat minor. Juni 1915, Amsterdam).

今日はオランダの作曲家・ピアノ奏者、ディルク・シェーフェル生誕150年の誕生日です。 今回はシェーフェル作曲「6つのピアノ小品 Op. 12」より第5曲 変ホ短調 (1915年6月、アムステルダム) を弾きました。 曲集はジャーナリスト・批評家のウィレム・ニコラース・フレデリク・シプマヘル・ゼイネン (Willem Nicolaas Frederik Sibmacher Zijnen, 1859 - 1926) に献呈されています。

ディルク・シェーフェルは1873年11月25日にオランダ王国ロッテルダムで生まれました。1888年からロッテルダムのトーンクンスト音楽学校 (Toonkunst-muziekschool) でピアノなどを学び、ヨハネス・ヘンドリクス・シケメイエル (Johannes Hendrikus Sikemeier, 1838 - 1920)、テオドール・ヴェルヘイ (Theodoor Verhey, 1848 - 1929)、フリードリヒ・ゲルンスハイム (Friedrich Gernsheim, 1839 - 1916)、リヒャルト・フォン・ペルガー (Richard von Perger, 1854 - 1911) に師事しました。オランダ政府より奨学金を得て、1891年から1894年7月までケルン音楽院 (Conservatorium der Musik in Coeln) でマックス・パウアー (Max Pauer, 1866 - 1945) にピアノを、グスタフ・イェンゼン (Gustav Jensen, 1843 - 1895) に音楽理論を、フランツ・ヴュルナー (Franz Wüllner, 1832 - 1902) に作曲法を師事しました。1894年9月29日にプロイセン政府よりピアノ奏者としてメンデルスゾーン奨学金 (Mendelssohn-Preis) を取得。

オランダに帰国してデン・ハーグに移り、ドイツ、フランス、オーストリア、ベルギーを巡る多くの演奏旅行を行いました。1904年にアムステルダムに移住。同年にフランクフルト・アム・マインの音楽家祭 (Frankfurt am Main Tonkünstlerfest) で演奏した「ピアノ五重奏曲 Quintett für Pianoforte, 2 Violinen, Viola und Violoncell, Op. 5」(Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1903) が好評を博します。1910年にベルリンでフレッシュ・カーロイ (Flesch Károly, 1873 - 1944) との共演で「ヴァイオリンソナタ第1番 ニ長調 Sonate No. 1 voor Viool en Piano, Op. 4」(Middelburg: Noske, 1901) と「ヴァイオリンソナタ第2番 ヘ長調 Sonate für No. 2 Violine und Pianoforte, Op. 6」(Leipzig: Breitkopf & Härtel, 1904) を演奏。チェロ奏者のジェラール・エキング (Gérard Hekking, 1879 - 1942) ともしばしば共演しました。1913年から1915年にかけて11回の連続演奏会「バードからドビュッシー、シェーンベルクに至るクラヴィーア作品」(Klavierlitteratuur von af Byrd tot en met Debussy en Schönberg) を開催しました。管弦楽のための「ジャワ狂詩曲 Rhapsodie javanaise, Op. 7」(Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1906) と「田園組曲 Suite Pastorale, Op. 8」(Middelburg: Noske, 1908) はアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団により何度も演奏されました。1931年2月16日にアムステルダムで亡くなりました。

教え子にマルキュス・ヴァン・クレヴェル (Marcus van Crevel, 1890 - 1974) がいます。

出典:

  • Dirk Schäfer”. Onze Musici (2nd edition). Rotterdam: Nijgh & Van Ditmar. 1911. page 196.
  • Dirk Schäfer”. Onze Musici (3rd edition). Rotterdam: Nijgh & Van Ditmar. 1923. pages 160-162.
  • Grove Music Online. Retrieved 2023-11-12.
  • 2023-11-12

    200th Death Anniversary of Emanuel Aloys Förster

    Emanuel Aloys Förster (Germany/Austria, 1748 - 1823) - 30 Fughetten für die Orgel oder das Klavier, als Fortsetzung der practischen Beispiele zu seiner Anleitung des Generalbasses (Wien: Artaria); No. 23. Fughette G-Dur.

    今日はシュレージエン出身のオーストリアの作曲家・音楽教師、エマヌエル・アロイス・フェルスター没後200年の命日です。今回はフェルスター作曲「通奏低音の手引きの実践例集の続編としてのオルガンまたはクラヴィーアのための30のフゲッタ」より第23番 ト長調を弾きました。

    エマヌエル・アロイス・フェルスターは1748年1月26日に、第一次シュレージエン戦争 (1740-1742) 後にハプスブルク帝国領からプロイセン王国領となっていたシュレージエンのニーダーシュタイネ (Niedersteine. 現在のポーランド領シチナフカ・ドルナ Ścinawka Dolna) で、農場管理人 (Gutsverwalter) アントン・ルートヴィヒ・フェルスター (Anton Ludwig Förster) とアンナ・マリア・フェルスター 旧姓トイバー (Anna Maria Förster, geb. Teuber) の子として生まれました。独学で作曲を始めたのち、フィグラールムジーク (Figuralmusik) のレッスンを受けました。1764年に北ボヘミアのブロウモフ (Broumov) にあるベネディクト会のギムナジウムを卒業すると、管理人の父が勤めていたフェター・フォン・デア・リーリー (Vetter von der Lilie) 伯爵の官房で助手として働きました。1766年から1768年までプロイセン王国のハインリヒ・アウグスト・ド・ラ・モット・フーケ (Heinrich August de la Motte Fouqué, 1698 - 1774) 将軍が率いる歩兵連隊でオーボエ奏者を務めました。1768年からミッテルヴァルデ (Mittelwalde. 現在のポーランド領ミェンジレシェ Międzylesie) に移り、同地でヨハン・ゲオルク・パウゼヴァング (Johann Georg Pausewang, 1738 - 1812) からオルガンと音楽理論のレッスンを受けました。1776年から1779年の間に、プラハでオルガン奏者ヨゼフ・セゲル (Josef Seger, 1716 - 1782) に師事した可能性があります (Müller 2019)。

    1779年からヴィーンに定住し、音楽教師として名声を得て作曲家としても活動しました。ヴィーンでは宮廷楽団への仕官を希望したこともありましたが叶わず、その後の生涯にわたり特定の王侯貴族に仕えることのないフリーランスの音楽家でした。1792年頃からカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー (Karl Alois von Lichnowsky, 1761 - 1814) 侯爵の邸宅に通うようになり、リヒノフスキー侯爵邸での室内楽演奏会のために「6つの弦楽四重奏曲 6 Quatuors pour deux violons, alto et basse, Op. 7」(Offenbach: Johann André, 1794) を作曲しました。また、リヒノフスキー侯爵邸で知り合ったルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827) と親交を深めました。1795年にエレオノーラ・フォン・レツカ (Eleonora von Reczka (Rezka), 1775/1776 - 1852) と結婚。1805年に「通奏低音の手引き Anleitung zum General-Bass 」(Wien: Johann Träg und Sohn, 1805) を出版。その続編として「実践例集 Practische Beyspiele 」と、オルガンまたはクラヴィーアのための「30の前奏曲 30 Praeludien 」(Wien: Artaria) と、前述の「30のフゲッタ 30 Fughetten 」を作曲しています。1805年からアンドレイ・ラズモフスキー (Andrey Razumovsky, 1752 - 1836) 伯爵の邸宅での室内楽演奏会にベートーヴェンとともに参加し、ピアノ奏者としてばかりではなく、ヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者としてシュパンツィク四重奏団 (Schuppanzigh-Quartett) の団員としばしば共演しました。この頃に18曲の弦楽四重奏曲を作曲しています。1808年にヴィーンで出版されたジュゼッペ・カルパーニ (Giuseppe Carpani, 1752-1825) の同一の詞への様々な作曲家の付曲によるオムニバス歌曲集「この暗い墓の中に In questa tomba oscura 」に、一曲のピアノ伴奏独唱歌曲 (第33番) を提供。1823年11月12日にヴィーンで亡くなりました。死後に出版された『祖国芸術家協会 Vaterländischer Künstlerverein 』(Wien: A. Diabelli & Co, 1824) 第2部「アントン・ディアベッリのワルツによる50の変奏曲」に、フェルスター作曲の「カプリッチョ Capriccio. Allegro 」が第8変奏として収録されました。作品に、ピアノソナタなどのピアノ曲、室内楽曲があります。

    子に作曲家・ピアノ奏者のエレオノーラ・フェルスター (Eleonora (Eleonore) Förster, b. 1798)、作曲家・チェロ奏者・ピアノ奏者のヨーゼフ・フェルスター (Joseph Förster, b. 1800)、ピエトロ・ロヴェッリ (Pietro Rovelli, 1793 - 1838) の妻となる作曲家・ピアノ奏者のジャコミーナ・ロヴェッリ=レーデラー旧姓名ミヒャエラ・フェルスター (Giacomina Rovelli-Rederer, geb. Michaela (Michelina) Förster, b. 1802) がいます。

    教え子に以下の人物がおり、このうちニートやポッターはベートーヴェンの紹介により弟子になっています。

    出典:


    2023-11-10

    150th Birth Anniversary of Roderich Bass

    Roderich Bass (Czech/Austria, 1873 - 1933) - Schmeichelkätzchen (Allegretto grazioso. D major. Seinem lieben Schüler Alex. Kummer. Heim-Musik der Sirius-Mappe, 2. Jahrgang, 1. Heft. Wien: Sirius-Verlag, 1932).

    今日はチェコ出身のオーストリアの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、ローデリヒ・バス生誕150年の誕生日です。今回はバス作曲「おねだり上手な子猫ちゃん ニ長調」を弾きました。

    ローデリヒ・バスは1873年11月10日に、教師であるヨーゼフ・バス (Josef Bass) の子としてオーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア王国パルドゥビツェ (Pardubice. パルドゥビツ Pardubitz) で生まれました。1886年から1892年までヴィーン楽友協会音楽院で学び、同院で1886年から1889年までヴィルヘルム・ラウフ (Wilhelm Rauch) に、1889年から1892年までローベルト・フィシュホフ (Robert Fischhof, 1856 - 1918) にピアノを師事しました。また、1891年から1893年まで作曲を学びました。

    音楽院卒業後、ピアノのヴィルトゥオーゾとしてオーストリア、西欧、北欧を巡り演奏旅行をしました。1901年のザルツブルク音楽祭 (Salzburger Musikfest) では独奏者となり、ヴィーン交響楽団チェコ・フィルハーモニー管弦楽団ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の独奏者も務めました。1924年からラーディオ・ヴィーン (Radio Wien) でバスの演奏が放送されました。ピアノ教師としては、個人教授ののち、1917年の秋からフリードリヒ・シュピーグル (Friedrich Spigl, b. 1860) が校長を務めるエドゥアルト・ホーラク音楽学校 (Eduard Horak'sche Musikschule. 現在のフランツ・シューベルト音楽院 Franz Schubert Konservatorium) で、1920年から1933年まで新ヴィーン音楽院 (Neues Wiener Konservatorium) で教えました。1933年5月24日にヴィーンで亡くなりました。

    教え子にマリアンネ・ガングルベルガー (Marianne Ganglberger, 1900-1978)、カール・シスケ (Karl Schiske, 1916 - 1969) がいます。

    出典: Oesterreichisches Musiklexikon online. Retrieved 2023-11-05.

    2023-11-04

    200th Birth Anniversary of Karel Komzák I

    Karel Komzák starší ; Karl Komzák I ; Karl Komsak I (Czech, 1823 - 1893) - Concordia. Polka-Mazurka für das Pianoforte (A major. Praha: Christoph & Kuhé, 1858).

    今日はチェコの作曲家・オルガン奏者・指揮者・バンドマスター、カレル・コムザーク1世 生誕200年の誕生日です。今回はコムザーク作曲「コンコルディア、ポルカ・マズルカ イ長調」を弾きました。楽曲はプラハ民間射撃兵団指揮官のヴィンツェンツ・ホリー (Vincenz Holly) に献呈されています。

    カレル・コムザーク1世は1823年11月4日にオーストリア帝国ボヘミア王国南部の村ネチェホヴィツェ (Netěchovice) で生まれました。コロジェイェ・ナド・ルジュニツィー (Koloděje nad Lužnicí)、下オーストリア大公国ヴァイケルトシュラーク・アン・デア・ターヤ (Weikertschlag an der Thaya)、チェスキー・クルムロフ (Český Krumlov) で学んだのち、1839年から1840年までプラハ・オルガン学校 (Varhanická škola v Praze) で学び、1841年から1842年までプラハの聖インドジフ学校の師範科 (Pedagogický kurz u Sv. Jindřicha v Praze) を修了しました。学生時代にはヴァーツラフ・ヤン・トマーシェク (Václav Jan Tomášek, 1774 - 1850) の支援を受けていました。

    1842年から1847年までコロジェイェで教師・オルガン奏者として活動。1847年から1866年までプラハの精神医学研究所 (現在のカレル大学第一医学部附属精神科診療所 Psychiatrická klinika 1. LF UK a VFN) の事務員兼オルガン奏者、アレクサンドリアの聖カテジナ教会 (Kostel svaté Kateřiny Alexandrijské) オルガン奏者を務め、同時期の1847年から1865年までプラハ民間射撃兵楽隊の楽隊長を務めました。また、1854年には自身の楽団を設立し、1865年までこの楽団を率いました。このコムザーク楽団では若き日のヤン・オンドジーチェク (Jan Ondříček, 1832 - 1900)、アントニーン・ドヴォジャーク (Antonín Dvořák, 1841 - 1904) も団員として参加していました。コムザーク楽団は1862年にプラハの仮劇場で演奏するようになり、1865年には公式の劇場管弦楽団となりました。1865年にコムザークはオーストリア帝国陸軍歩兵連隊の軍楽隊長に就任し、帝国全土で演奏会を行うようになりました。作曲では舞曲、行進曲、組曲、幻想曲などを書き、チェコの民族音楽を好んで使用するなど民族主義的であり、曲名にもそれが表れています。1893年3月19日に生地のネチェホヴィツェで亡くなりました。

    子にカレル・コムザーク2世 (Karel Komzák mladší ; Karl Komzák II, 1850 - 1905)、孫 (カレル2世の子) にカレル・コムザーク3世 (Karl Komzák III, 1878 - 1924) がおり、いずれも作曲家・指揮者として活動しました。

    出典:


    2023-11-01

    150th Birth Anniversary of Charles Quef

    Charles-Paul-Florimond Quef (France, 1873 - 1931) - Prière. Andante sostenuto, Op. 50 No. 4 (C sharp minor. Internationaal Harmonium Album, Vol. II. Amsterdam: Seyffardt's Muziekhandel, 1919).

    今日はフランスの作曲家・オルガン奏者、シャルル・ケフ生誕150年の誕生日です。今回はケフ作曲、ハルモニウムのための「祈り 嬰ハ短調 Op. 50 No. 4」を弾きました。

    シャルル・ケフは1873年11月1日にフランス共和国北部のリールで生まれました。リール音楽院 (Conservatoire de Lille) で学んだのち、パリ音楽院でエルネスト・ギロー (Ernest Guiraud, 1837 - 1892)、テオドール・デュボワ (Théodore Dubois, 1837 - 1924)、シャルル=マリー・ヴィドール (Charles-Marie Widor, 1844 - 1937)、アレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant, 1837 - 1911) に師事しました。1898年に同音楽院のオルガン科と即興演奏科で一等賞を取得し、入学審査員とクラス試験委員に任命されました。バティニョルサント=マリー教会 (Église Sainte-Marie des Batignolles)、パリサン=ローラン教会 (Église Saint-Laurent de Paris) などのオルガン奏者を経て、1901年に師ギルマンの後任としてパリのサント=トリニテ教会 (Église de la Sainte-Trinité de Paris) 大オルガンのオルガン奏者に就任しました。フランスと英国で数多くのオルガン演奏会を開き、作曲家としては、オルガン曲、ハルモニウム曲のほかに管弦楽曲 (フランドル組曲、森にて)、ピアノと管弦楽のための作品 (幻想曲、葬送前奏曲)、室内楽曲などを書いています。1931年7月2日に生地のリールで亡くなりました。

    出典:


    2023-10-06

    150th Death Anniversary of Friedrich Wieck

    Friedrich Wieck (Germany, 1785 - 1873) - Pianoforte-Studien, herausgegeben von Marie Wieck (Leipzig & Berlin: C. F. Peters, 1875); 1. Abschnitt, No. 65. Studie (D flat major).

    今日はドイツの音楽教師・作曲家・音楽著述家・楽器商・興行師、フリードリヒ・ヴィーク没後150年の命日です。今回はヴィーク作曲「ピアノフォルテ練習曲集」第1部より練習曲第65番 変ニ長調を弾きました。この練習曲集はヴィークの死後に、彼の娘の一人、マリー・ヴィーク (Marie Wieck, 1832 - 1916) による校訂で出版されました。

    フリードリヒ・ヴィークは1785年8月18日に神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領プレッチュ (Pretzsch. 現在はバート・シュミーデベルク Bad Schmiedeberg の一部) で、貧しい商人の子として生まれました。1800年から1804年までトルガウのギムナジウムに通い、この頃にヨハン・ペーター・ミルヒマイヤー (Johann Peter Milchmeyer, 1750 - 1813) から無償でピアノのレッスンを受けました。1804年から1808年までヴィッテンベルクで神学を学び、その後はテューリンゲンザクセンで家庭教師として働き、ヨアヒム・ハインリヒ・カンペ (Joachim Heinrich Campe, 1746 - 1818)、アウグスト・ヘルマン・ニーマイヤー (August Hermann Niemeyer, 1754 - 1828) の著作を読んで教育法を習得しました。

    クリスティアン・アドルフ・ゼッケンドルフ (Christian Adolph von Seckendorff, 1767 - 1833) 男爵邸での家庭教師の同僚であるピアノ教師アドルフ・バルギール (Adolf Bargiel, 1783 - 1841) と親しくなったことを契機に1813年か1814年にライプツィヒでピアノ教師として活動を始め、ヨハン・ベルンハルト・ロギーア (Johann Bernhard Logier, 1777 - 1846) のメソッドを基に技術練習と音楽理論の指導を組み合わせた独自の指導法を築きました。1817年にゲオルク・クリスティアン・ゴットホルト・トロムリッツ (Georg Christian Gotthold Tromlitz, 1765 - 1825) の娘であるピアノ奏者・歌手のマリアーネ・トロムリッツ (Mariane Tromlitz, 1797 - 1872) と結婚し、彼女との間にはクララ (Clara Wieck, 1819 - 1896)、アルヴィン (Alwin Wieck, 1821 - 1885) を含む5人の子が生まれました。1818年には妻マリアーネとともに楽器販売 (1840年まで) と音楽貸本 (1835年まで) の事業を始めました。1824年にマリアーネと離婚。マリアーネは離婚の数ヶ月後に前述のアドルフ・バルギールと再婚し、作曲家ヴォルデマール・バルギール (Woldemar Bargiel, 1828 - 1897) の母となります。1828年にヴィークは2番目の妻となるクレメンティーネ・フェヒナー (Clementine Fechner) と再婚し、彼女との間にはマリーを含む3人の子が生まれました。1839年から1840年にかけて、結婚を望む娘クララ、教え子ローベルト・シューマン (Robert Schumann, 1810 - 1856) と、それに反対するヴィークとの間で裁判となりました。結果はヴィークの敗訴となり、二人の結婚は認められることになりました。1840年にドレスデンに移住。ピアノ教師としての活動のほか、音楽批評の執筆や、同地の楽器製作者である甥ヴィルヘルム・ヴィーク (Wilhelm Wieck) の楽器販売に協力することもありました。1873年10月6日にドレスデン近郊のロシュヴィッツ (Loschwitz) で亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:


    2023-10-05

    100th Death Anniversary of Henri Messerer

    Henri Messerer (France, 1838 - 1923) - Lamento pour orugue ou harmonium. Largo (C sharp minor).

    今日はフランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、アンリ・メスレル没後100年の命日です。今回はメスレル作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「哀歌 嬰ハ短調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第2巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912) の32-33頁に収録されています。

    アンリ・メスレルは1838年5月19日にフランス王国南部の港湾都市マルセイユ (Marseille) で、アルザス出身の家族に生まれました。家具職人・ピアノ製作者である父の意向によりストラスブール音楽院 (Conservatoire de Strasbourg) で学ぶこととなり、同院のジョゼフ・シフマシェル (Joseph Schiffmacher, 1827 - 1888) に師事しました。1850年代にマルセイユに戻り、オルガン奏者であるルイ・ビニョン (Louis Bignon, 1827/1828 - 1874) にオルガン、和声法、対位法、作曲法を師事し、ニコラ・マルタン (Nicolas Martin, 1811 - 1882) からも作曲法を学びました。

    サン=ジャン=バティスト教会 (Église Saint-Jean-Baptiste de Marseille) オルガン奏者、サン=マルタン臨時大聖堂 (Cathédrale provisoire de Saint-Martin à Marseille) オルガン奏者を経て、1873年にサン=シャルル教会 (Église Saint-Charles de Marseille) 大オルガン (アリスティド・カヴァイエ=コル (Aristide Cavaillé-Col, 1811 - 1899) 製作) のオルガン奏者に就任しました。音楽教師としてはオルガン、和声法、フーガ、作曲法を教え、1883年にマルセイユ音楽院 (Conservatoire de Marseille) の院長 (在任: 1883-1884, 1889-1898, 1903-1904) に就任。楽器店、コンサートホール、音楽出版業の経営も行いました。1923年10月5日にマルセイユで亡くなりました。

    マルセイユ市はメスレルに敬意を表し、市内のある街路にアンリ・メスレル通り (Rue Henri Messerer) と名付けました。

    出典:

    • Geoffroy, Olivier (June 2017). “Henri Messerer”. Musica et Memoria. Retrieved 2023-10-05.
    • Joubert, Joseph (1912). “Henri MESSERER”. Notices biographiques et bibliographiques. Maîtres contemporains de l’orgue, pièces inédites pour orgue ou harmonium, Volume 2. Paris: Senart, Roudanez & Cie. pages 1-2.
    • PRÉSENTATION”. Conservatoire Pierre Barbizet de Marseille. Retrieved 2023-10-05.