2023-07-29

300th Birth Anniversary of Christlieb Siegmund Binder

Christlieb Siegmund Binder (Germany, 1723 - 1789) - 6 Sonate per il cembalo umilmente dedicate a Sua Altezza Serenissima Amalia Augusta Elettrice di Sassonia (FleB 1.22-27); Sonata sesta [No. 6] (A major); II. Andante (A minor).

今日はドイツの作曲家・鍵盤楽器奏者・パンタレオン奏者、クリストリープ・ジークムント・ビンダー生誕300年の受洗日です。今回はビンダー作曲「6つのチェンバロソナタ FleB 1.22-27」(ザクセン選帝侯妃アマーリエ (Maria Amalie Auguste, Pfalzgräfin von Zweibrücken-Birkenfeld-Bischweiler, 1752 - 1828) に献呈) の「ソナタ第6番 イ長調 FleB 1.27」より第2楽章 イ短調を弾きました。残されている手稿譜の表紙にある被献呈者のアマーリエは1769年にザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世 (1806年以後、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世, Friedrich August I. König von Sachsen, 1750 - 1827) と結婚しているので、この楽譜はそれ以後に書かれたもののようです。

クリストリープ・ジークムント・ビンダーは神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領の首都ドレスデンで、ナウムブルクの音楽家一族に連なるオーボエ奏者の子として生まれ、1723年7月29日に洗礼を受けました。ドレスデンの少年聖歌隊員として宮廷音楽家パンタレオン・ヘーベンシュトライト (Pantaleon Hebenstreit, 1668 - 1750) の指導を受けたと推定されており、宮廷の指示により1742年からパンタレオン (ダルシマーの一種でヘーベンシュトライトの考案した打弦楽器) の演奏法を学び、1751年からパンタレオン奏者 (兼チェンバロ奏者) として宮廷音楽家となりました。1764年にペーター・アウグスト (Peter August, 1726 - 1787) とともにカトリック宮廷教会 (Katholische Hofkirche) オルガン奏者 (次席) に就任し、アウグストの死後の1787年に彼の後任として首席オルガン奏者となりました。アマチュア音楽家でもあったザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世 (在位 1763 - 1806) のもとでビンダーは充実した音楽活動を続け、室内楽やチェンバロのための作品を残しています。1789年1月1日にドレスデンで亡くなりました。

子にドレスデンで作曲家・オルガン奏者となったアウグスト・ジークムント・ビンダー (August Siegmund Binder, 1761 - 1815) と、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公国の首都ヴァイマルでハープ専門の楽器製作者となったカール・ヴィルヘルム・フェルディナント・ビンダー (Carl Wilhelm Ferdinand Binder, b. 1764) がいます。

出典:


2023-07-14

150th Birth Anniversary of Elbert Franssen

Elbert Joseph Franssen (Netherlands, 1873 - 1950) - Paraphrase sur l'“Ite missa est” solennel (Paraphrase super «Ite missa est» in solemnioribus) pour orgue ou harmonium. Andante maestoso (E flat major). Rev. Dno. Harry Mooren, presb. diœc. Ruremundensis.

今日はオランダの作曲家・オルガン奏者・合唱指揮者、エルベルト・フランセン生誕150年の誕生日です。今回はフランセン作曲「『行け、汝らは去らしめられる (イテ・ミサ・エスト)』による荘厳なパラフレーズ 変ホ長調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第5巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1914) の79-80頁に収録されています。

エルベルト・フランセンは、鍛冶職人クリスティアーン・フランセン (Christiaan , 1834 - 1910) の子として、1873年7月14日にリンブルフ州ウェル (Well) で生まれました。スウォルゲン (Swolgen) の教区委員アントン・フーケン (Anton Hoeken) と、ボクスメール (Boxmeer) のカルメル会修道院オルガン奏者フレホリウス・ファン・ダイク (Gregorius van Dijk, 1816 - 1894) にオルガンを師事しました。

1894年 (21歳) にベルヘン (Bergen) の聖ペトルス教会 (Sint-Petruskerk) の教区委員兼オルガン奏者に就任し、聖歌隊を監督しました。1904年にルールモント (Roermond) の聖クリストフォル大聖堂 (Sint-Christoffelkathedraal) 楽長に就任し、その数年後にいくつかの学校の音楽教師・音楽審査員となり、ピアノ、オルガン、声楽を教えました。1925年にヘンリ・テイセン (Henri Tijssen, 1862 - 1926) の後任として同地のミュンステル教会 (Munsterkerk) 聖歌隊監督に就任。「週刊フェンロース Venloosch Weekblad 」、「新しい配達人 Nieuwe Koerier 」で長年にわたり批評家としても活動しました。第二次世界大戦のさなか、疎開先のフリースラントで健康を損ない1945年6月にルールモントに帰還。病床にありながら作曲を続けましたが、1950年5月28日にルールモントで亡くなりました。

出典:

2023-07-12

100th Death Anniversary of Joseph Benjamin Williams

Florian Pascal, pseudonym of Joseph Benjamin Williams (England, 1847 - 1923) - 7 Préludes pour le piano (London: Joseph Williams Limited, 1909); No. 5. Andantino, con tenerezza (E flat major).

今日はイングランドの作曲家・音楽出版者、ジョゼフ・ベンジャミン・ウィリアムズ (フロリアン・パスカル) 没後100年の命日です。今回はウィリアムズ作曲「ピアノのための7つの前奏曲」より第5番 変ホ長調を弾きました。

ジョゼフ・ベンジャミン・ウィリアムズは、音楽出版者ジョゼフ・ウィリアムズ (Joseph Williams) の子として1847年に英国の首都ロンドンの北東部で生まれました。若い頃にピアノ、ヴァイオリン、音楽理論の個人指導を受けましたが、家業の出版物である声楽、器楽作品の楽譜を研究することで多くを学びました。ロンドンと米国ニューヨークで、変名のフロリアン・パスカル (Florian Pascal) などの名義を用いて主に舞台音楽を数多く作曲しました。1923年7月12日に英国イングランドのサセックス州ワージング (Worthing) で亡くなりました。

出典: Franceschina, John (2018). “PASCAL, Florian [pseudonym of Joseph Benjamin Williams]”. Incidental and Dance Music in the American Theatre from 1786 to 1923. Volume 3. Biographical and Critical Commentary Alphabetical Listings from Edgar Stillman Kelley to Charles Zimmerman. Albany, Georgia: BearManor Media. pages 230-231.

2023-06-07

150th Birth Anniversary of Landon Ronald

Landon Ronald (England, 1873 - 1938) - The Garden of Allah. Incidental Music from the Play. Suite for Piano (London: Keith Prowse & Co., 1920); III. Kyrie Eleison. Andante religioso (F major).

今日はイングランドの作曲家・ピアノ奏者・指揮者、ランドン・ロナルド生誕150年の誕生日です。今回はロナルド作曲、劇付随音楽からのピアノ組曲「アッラーの園」(全5楽章) より第3楽章「キリエ・エレイソン (主よ憐れみたまえ)」を弾きました。ロバート・ヒチェンス (Robert Hichens, 1864 - 1950) 著の同名の戯曲『アッラーの園』に付けられた音楽をピアノのための組曲にまとめたものです。戯曲の元となったヒチェンスの同名の小説『アッラーの園』(1904) を原作とする映画もいくつかあり、日本でも公開されたものに『受難者』(1927年制作、レックス・イングラム Rex Ingram 監督)、『沙漠の花園』(1936年制作、リシャルト・ボレスワフスキ Ryszard Bolesławski 監督) があります。

ランドン・ロナルドは1873年6月7日に英国の首都ロンドンで、作曲家・ピアノ奏者・歌手のヘンリー・ラッセル (Henry Russell, 1812/1813 - 1900) とハナ・デ・ララ (Hannah de Lara) の私生児として生まれ、ランドン・ロナルド・ラッセルと名付けられました。兄に声楽教師・インプレサリオとなったヘンリー・ラッセル (Henry Russell, 1871 - 1937) がいます。

1884年に王立音楽大学 (Royal College of Music) に入学し、チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード (Charles Villiers Stanford, 1852 - 1924) とヒューバート・パリー (Charles Hubert Hastings Parry, 1848 - 1918) に師事しました。1891年にコヴェント・ガーデンにおいて指揮者ルイージ・マンチネッリ (Luigi Mancinelli, 1848 - 1921) の下で伴奏者兼レペティトゥールとなり、1892年に興行主オーガスタス・ハリス (Augustus Harris, 1852 - 1896) が率いるイタリア歌劇団の指揮者として演奏旅行に参加し、1894年にソプラノ歌手ネリー・メルバ (Nellie Melba, 1861 - 1931) の伴奏者として米国を演奏旅行しました。1904年から1907年までロンドン交響楽団の客演指揮者、1907年から1918年までバーミンガム交響楽団 (Birmingham Symphony Orchestra) 土曜夜間演奏会の指揮者、1909年から1914年まで新交響楽団 (New Symphony Orchestra) の指揮者、1916年から1920年までスコティッシュ管弦楽団の指揮者、1917年から1918年までニュー・バーミンガム管弦楽団 (New Birmingham Orchestra) の指揮者を務めました。また、1910年から1938年までギルドホール音楽学校 (Guildhall School of Music. 1935年にギルドホール音楽演劇学校 Guildhall School of Music and Drama と改称) の校長を務めました。1922年にナイトに叙せられました。1938年8月14日にロンドンで亡くなりました。

出典: Grove Music Online. Retrieved 2023-06-04.

2023-06-03

250th Birth Anniversary of Michael Gotthard Fischer

Michael Gotthard Fischer (Germany, 1773 - 1829) - Präludium A-Dur. Moderato (Präludium No. 227 (pages 136-137) from Heinrich Bungart Präludien-Album für Orgel oder Harmonium. Köln: P. J. Tonger).

今日はドイツの作曲家・オルガン奏者・指揮者、ミヒャエル・ゴットハルト・フィッシャー生誕250年の誕生日です。今回はフィッシャー作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「前奏曲 イ長調」を弾きました。

ミヒャエル・ゴットハルト・フィッシャーは1773年6月3日にマインツ選帝侯領アーラハ (Alach. エアフルト Erfurt 近郊) で生まれました。1784年からエアフルトで学び、同地の教員養成所 (Lehrerseminar) でヨハン・クリスティアン・キッテル (Johann Christian Kittel, 1732 - 1809) にオルガンと対位法を師事し、ザクセン=ヴァイマル公国イェーナで教職に就きました。1790年までエアフルトで活動していたヨハン・ヴィルヘルム・ヘスラー (Johann Wilhelm Häßler, 1747 - 1822) の後任として、1796年にエアフルト市冬季演奏会 (Städtische Winterkonzerte) の監督となり、同じ頃にエアフルト跣足教会 (Barfüßerkirche) オルガン奏者に就任しました。1809年にキッテルの後任としてエアフルト説教師教会 (Predigerkirche) オルガン奏者に就任。1816年からエアフルト教員養成所の通奏低音とオルガンの講師を務めました。1829年1月12日にプロイセン王国エアフルトで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2023-05-30

100th Death Anniversary of Camille Chevillard

Camille Chevillard (France, 1859 - 1923) - Feuille d'album, spécialement écrite pour “Musica”. Andante cantabile (E flat major. Album Musica, No. 20. Paris: Pierre Lafitte, 1904).

今日はフランスの作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、カミーユ・シュヴィヤール没後100年の命日です。今回はシュヴィヤール作曲「アルバムの綴り 変ホ長調」を弾きました。題名には表記揺れがあり、表紙では男性名詞形の Feuillet d'album となっていますが、手稿譜には女性名詞である Feuille d'album と書かれています。楽譜は1904年に出版された音楽雑誌「アルブム・ムジカ Album Musica 」第20号に第2曲として収録されていて、通常の浄書譜ではなくあえて手稿譜 (manuscrit) を掲載した理由などが以下のように頭註に書かれています。

Nos lecteurs trouveront ci-dessous un morceau de piano de M. Camille Chevillard dont ils goûteront l'exquis sentiment musical. Comme nos lecteurs ont rarement l'occasion de lire des manuscrits, nous avons pensé leur étre agréable en en publiant un. On sait que c'est la un excellent exercice de lecture que les professeurs de piano recommandent à leurs élèves et qui fait partie des épreuves des Conservatoires de Paris et de l'Étranger.

カミーユ・シュヴィヤールは、南ネーデルラント (ベルギー) のアントウェルペン出身のチェロ奏者であるアレクサンドル・シュヴィヤール (Alexandre Chevillard, 1811 - 1877) の子として、1859年10月14日にフランス共和国の首都パリで生まれました。パリ音楽院ジョルジュ・マティアス (Georges Mathias, 1826 - 1910) にピアノを師事し、1880年にピアノの二等賞を取得しました。

音楽院で作曲法を学んだという記録は残っていませんが、1882年には最初の作品であるピアノ五重奏曲 Op. 1 を作曲しました。その曲の完成後まもなくシャルル・ラムルー (Charles Lamoureux, 1834 - 1899) が主宰するコンセール・ラムルー管弦楽団 (Concerts Lamoureux) の合唱監督となり、指揮者としての活動を開始しました。1888年にラムルーの娘マルグリット (Marguerite Chevillard, née Lamoureux, 1861 - 1941) と結婚。1889年にベートーヴェン協会 (Société Beethoven) を設立。1892年に教育功労章の大学区将校 (officier d’académie) を受章。1895年にピアノ奏者として、ヴァイオリン奏者モーリス・アヨ (Maurice Hayot, 1862 - 1945)、チェロ奏者ジョゼフ・サルモン (Joseph Salmon, 1864 - 1943) とともに三重奏団 (Trio Chevillard-Hayot-Salmon) を結成。1890年代になると義父ラムルーの代演を務める機会が増し、彼が亡くなるとコンセール・ラムルーの常任指揮者に就任しました。1903年にレジオンドヌール勲章シュヴァリエを受章。1905年にリヒャルト・シュトラウス (Richard Strauss, 1864 - 1949)、グスタフ・マーラー (Gustav Mahler, 1860 - 1911) らとともに第1回アルザス・ロレーヌ音楽祭の指揮者に選任されました。1907年にパリ音楽院器楽合奏科 (ensemble instrumental) 教授に、1914年にパリのオペラ座の音楽監督に、1916年にフランス室内楽協会 (Société Française de Musique de Chambre) 会長に就任しました。シュヴィヤールは1923年5月30日にパリ近郊のイヴリーヌ県シャトゥ (Chatou) で亡くなり、彼の死後、コンセール・ラムルーの首席指揮者はポール・パレー (Paul Paray, 1886 - 1979) に引き継がれました。

教え子に以下の人物がいます。

  • エウゲニューシュ・モラフスキ=ドンブロヴァ (Eugeniusz Morawski-Dąbrowa, 1876 - 1948)
  • イェースタ・ニューストレム (Gösta Nystroem, 1890 - 1966)
  • ジョアン・デ・ソウザ・リマ (João de Souza Lima, 1898 - 1982)
  • ソフィー=カルメン・エックハルト=グラマッテ (Sophie-Carmen Eckhardt-Gramatté, 1899 - 1974)

    出典:

  • 2023-05-15

    150th Birth Anniversary of Nikolay Tcherepnin

    Nikolay Nikolayevich Tcherepnin (Николай Николаевич Черепнин, Russia, 1873 - 1945) - Pièces sentimentales (London: J. & W. Chester, 1929. À Alexandre Tchérepnine); No. 2. Con moto piacevole (E flat minor).

    今日はロシアの作曲家・指揮者・音楽教師、ニコライ・チェレプニンの生誕150年の誕生日です。 今回はチェレプニン作曲「感傷的小品集」(全10曲) より第2曲を弾きました。曲集は子のアレクサンドル・チェレプニン (Aleksandr Tcherepnin, 1899 - 1977) に献呈されました。

    ニコライ・ニコラーエヴィチ・チェレプニンは1873年5月15日 (ユリウス暦5月3日) に、音楽を好む医者ニコライ・ペトローヴィチ・チェレプニンの子として、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで生まれました。父方のおばにピアノの手ほどきを受けたのち、ニコライ・シーシキン (Nikolay Shishkin, 1857 - 1918)、ヴラディーミル・デミャンスキー (Vladimir Demyansky, 1846 - 1915)、カール・ジケ (Karl Sicke, 1850 - 1890) に師事しました。1883年から1891年までペテルブルク第6ギムナジウム (Шестая Санкт-Петербургская гимназия) で学び、1895年にペテルブルク大学法学部を卒業しました。大学卒業前からペテルブルク音楽院でも学び、カルル・ファン=アルク (Karl van Ark, 1839 - 1902) にピアノを、ニコライ・ソロヴィヨーフ (Nikolay Solovyov, 1846 - 1916)とニコライ・リムスキー=コルサコフ (Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908) に作曲を師事して、1898年に音楽院を卒業しました。 1897年に、画家アリベールト・ベヌアー (Albert Benois, 1852 - 1936) の娘である歌手のマリーヤ・ベヌアー (Mariya Tcherepnina, née Benois, 1876 - 1958) と結婚し、1899年には後に作曲家・ピアノ奏者・指揮者となる子のアレクサンドル・チェレプニン (Aleksandr Tcherepnin) が生まれました。

    1905年から1918年まで母校のペテルブルク音楽院の教師となり、1906年には指揮科クラスを開設し、1909年に教授に、1915年にオペラクラスの音楽監督に就任しました。指揮者としては1902年にロシア交響楽演奏会 (Русские симфонические концерты) 常任指揮者に就任したほか、ロシア音楽協会、モスクワフィルハーモニー協会、アレクサンドル・ジローティ (Aleksandr Siloti, 1863 - 1945) の演奏会、セルゲイ・ヴァシレンコ (Sergey Vasilenko, 1872 - 1956) の歴史的演奏会などに客演し、1906年から1909年にかけてマリインスキー劇場の指揮者を務めました。興業主セルゲイ・ディアギレフ (Sergey Dyagilev, 1872 - 1929) が主宰するバレエにおいては、1909年にパリでのセゾン・リュス (Saison russe) の公演に、1909年から1914年にかけてベルリンロンドンモンテカルロパリローマでのバレエ・リュスの公演に出演しました。また、ペテルブルク時代にはミトロファン・ベリャーエフ (Mitrofan Belyayev, 1836 - 1904) の音楽サークルや「現代音楽の夕べ Вечера современной музыки 」に参加しています。

    1918年から1921年までチフリス (現在のジョージアの首都トビリシ) に移り、チフリス音楽院院長とチフリス帝国歌劇場指揮者を務めました。1921年にフランス共和国の首都パリに移住。1922年から1924年にかけてアンナ・パヴロヴァ (Anna Pavlova, 1881 - 1931) のバレエ団の作曲家兼指揮者として欧米を演奏旅行。1925年にはパリにロシア音楽院 (Парижская русская консерватория / Conservatoire russe de Paris. 現在のラフマニノフ音楽院) を設立し、院長 (1925-1929, 1938-1945) を務めました。1926年に音楽出版社ベリャーエフ (Musikverlag M. P. Belaieff) の理事となり、1937年には同社の理事長に就任しました。聴覚の悪化のため1933年に演奏活動を停止。1945年6月26日にパリ近郊のイシー=レ=ムリノー (Issy-les-Moulineaux) で亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:


    2023-05-13

    150th Birth Anniversary of Jules Bentz

    Jules-Charles Bentz (France, 1873 - 1962) - Offertoire en re majeur pour orgue ou harmonium. Larghetto. À mon bon ami Jules Caffot, organiste de Notre-Dame de Mantes.

    今日はエルザス (アルザス) 出身のフランスの作曲家・オルガン奏者、ジュール・ベンツ生誕150年の誕生日です。 今回はベンツ作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「オフェルトワール (オッフェルトリウム、奉献) ニ長調」を弾きました。楽曲はマント=ラ=ジョリーノートルダム教会 (Collégiale Notre-Dame de Mantes-la-Jolie) のオルガン奏者であったジュール・カフォ (Jules Caffot, 1865 - 1942) に献呈されています。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第1巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912) の12-13頁に収録されています。

    ジュール・ベンツは1873年5月13日にドイツ帝国エルザス=ロートリンゲン帝国直轄領オーバーエルザス県メルクスハイム (Merxheim. 現在のフランス領オー=ラン県メルクサイム) で生まれました。シュトラスブルク音楽院 (ストラスブール音楽院) で学んだのち、パリエコール・ニデルメイエール (École Niedermeyer de Paris) でギュスターヴ・ルフェーヴル (Gustave Lefèvre, 1831 - 1910)、アレクサンドル・ジョルジュ (Alexandre Georges, 1850 - 1938)、シャルル=ウィルフリド・ド・ベリオ (Charles-Wilfrid de Bériot, 1833 - 1914)、ポール・ヴィアルド (Paul Viardot, 1857 - 1941)、クレマン・ロレ (Clément Loret, 1833 - 1909) に師事しました。クリニャンクールノートルダム教会 (Église Notre-Dame de Clignancourt) 聖歌隊のオルガン奏者を2年間務めたのち、アニエール=シュル=セーヌサント=ジュヌヴィエーヴ教会 (Église Sainte-Geneviève d'Asnières-sur-Seine) のオルガン奏者兼聖歌隊長に就任しました。1962年10月14日に亡くなりました。

    出典:

    2023-04-03

    150th Birth Anniversary of René de Castéra

    Charles Marie René d'Avezac de Castéra (France, 1873 - 1955) - Le petit chat est mort... (Assez lent. G major. Paris: Édition Mutuelle, 1912). À Mademoiselle Noële Maurice-Denis.

    今日はガスコーニュ地方出身のフランスの作曲家・音楽批評家・出版者、ルネ・ド・カステラ生誕150年の誕生日です。今回はカステラ作曲「小猫が死んだ...」を弾きました。楽譜を見ると、冒頭の6音 (h-h-h-h-c-a) に "Le petit chat est mort..." という6音節の文が歌詞のように当てはめられています。楽曲は親交のあった画家モーリス・ドニ (Maurice Denis, 1870 - 1943) の娘であるノエル・モーリス=ドニ (Noëlle Maurice-Denis Boulet, 1896 - 1969) に献呈されています。

    ルネ・ド・カステラは1873年4月3日にフランス共和国ランド県ダクス (Dax) で生まれました。ダクスのコレージュで学んだのち、フランシス・プランテ (Francis Planté, 1839 - 1934) の勧めで1891年にパリ音楽院に入学し、ルイ・ディエメール (Louis Diémer, 1843 - 1919) に師事しました。1892年にはシャルル・ボルド (Charles Bordes, 1863 - 1909) の指揮する合唱団シャントゥール・ド・サン=ジェルヴェ (Chanteurs de Saint-Gervais) に魅入られました。一年間の兵役を終えた1893年に国立グリニョン農学校 (École nationale d'agriculture de Grignon) に入学しました。

    1894年に、ボルドにより典礼聖歌協会として設立されたばかりのスコラ・カントルム (Schola Cantorum) に参加しました。ボルド、ヴァンサン・ダンディ (Vincent d'Indy, 1851 - 1931)、アレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant, 1837 - 1911) の主導で1896年にスコラ・カントルムに音楽学校が開設されると、その学生となりました。ボルドから合唱、表現、リズムについて、アメデ・ガストゥエ (Amédée Gastoué, 1873 - 1943) からグレゴリオ聖歌について学び、ギルマンにオルガンを、フェルナン・ド・ラ・トンベル (Fernand de la Tombelle, 1854 - 1928) に和声法を、ダンディに対位法と作曲法を、イサーク・アルベニス (Isaac Albéniz, 1860 - 1909) にピアノを師事しました。同校の学生として知り合ったデオダ・ド・セヴラック (Déodat de Séverac, 1872 - 1921)、ブランシュ・セルヴァ (Blanche Selva, 1884 - 1942) とは親友となりました。1897年にはソレムの修道院でグレゴリオ聖歌と宗教音楽を学び、バイロイトリヒャルト・ヴァーグナー (Richard Wagner, 1813 - 1883) のオペラ作品を鑑賞しました。1902年に音楽出版社ミュテュエル (Édition Mutuelle) を設立し、1919年まで社長を務めました。1955年10月8日にフランス共和国ランド県のアングメ (Angoumé) で亡くなりました。

    出典:

    2023-04-01

    150th Birth Anniversary of Sergey Rachmaninoff

    Sergey Vasilyevich Rakhmaninov (Сергей Васильевич Рахманинов, Russia/USA, 1873 - 1943) - Всенощное бдение ; All-Night Vigil. Vesper Mass in memory of Stepan Smolensky, Op. 37 (Moscow: Russkie Muzikalnoye Izdatielstvo, 1915); No. 5. Ныне отпущаеши ; Nunc dimittis: "Lord, now lettest thou thy servant depart in peace". Melody of the Kiev Tradition. Slowly (B flat minor).

    Sergey Rakhmaninov - 6 Romances, Op. 4; No. 1. Oh nein, ich fleh, geh nicht von mir! Transcribed for piano by Aleksandr Nikolayevich Schaefer (Александр Николаевич Шефер, 1866 - 1914).

    今日はロシア出身の作曲家・ピアノ奏者・指揮者、セルゲイ・ラフマニノフ生誕150年の誕生日です。今回はラフマニノフ作曲「徹夜祷 Всенощное бдение, Op. 37」(ステパン・スモレーンスキー (Stepan Smolensky, 1848 - 1909) の思い出に) より第5曲「主宰や、今爾の言にしたがい Ныне отпущаеши 」(ルカによる福音書 第2章第29-32節) の、作曲者自身によるピアノ独奏のための編曲を弾きました。以前に弾いた、ラフマニノフ作曲「6つの歌曲 Op. 4」より第1曲「いや、お願いだ、行かないで! О, нет, молю, не уходи!」(ドミートリー・メレシコーフスキー Dmitry Merezhkovsky 詞) の、アレクサンドル・シェーフェルによるピアノ独奏のための編曲も併せて紹介します。

    セルゲイ・ラフマニノフは1873年4月1日 (ユリウス暦 3月20日) にロシア帝国ノヴゴロド県で生まれました。出生地については、教会の出生届によるセミョーノヴォ (Семёново) とする説もありますが、ラフマニノフ自身は幼少期を過ごした邸宅のあるオネーク (Онег) であると考えていました。

    セルゲイの父方の祖父アルカージー・アレクサンドロヴィチ・ラフマニノフ (Arkady Rakhmaninov, 1808 - 1881) は早期に退役したロシア帝国陸軍の軍人でしたが、ジョン・フィールド (John Field, 1782 - 1837) からピアノのレッスンを受けた音楽家でもありました。アルカージーには、ジローティ家に嫁いだユーリヤ (Yuliya Ziloti, 1835 - 1925)、セルゲイの父であるヴァシーリー (Vasily Rakhmaninov, 1841 - 1916)、サーチン家に嫁いだヴァルヴァーラ (Varvara Satina, 1852 - 1941) ら多くの子がいました。セルゲイの母リュボーフィ (Lyubov Petrovna Rakhmaninova, 1853? - 1929) は将軍ピョートル・イヴァーノヴィチ・ブタコーフ (Pyotr Ivanovich Butakov, 1810 - 1877) の娘であり、裕福だったブタコーフ家から結婚の持参金としてオネークを含む5つの領地を持ってきました (Harrison 2016, pages 12-13)。

    セルゲイ・ラフマニノフは母から音楽の手ほどきを受けたのち、グスタフ・クロス (Gustav Kross, 1831 - 1885) の教え子でサンクトペテルブルク音楽院を卒業したアンナ・オルナーツカヤ (Anna Dmitriyevna Ornatskaya) に学びました。1882年に困窮した父が手放したオネークの邸宅を離れて家族とともにペテルブルクに移り、奨学金を得てペテルブルク音楽院でヴラジーミル・デミャンスキー (Vladimir Demyansky, 1846 - 1915) にピアノを、アレクサンドル・ルーベツ (Aleksandr Rubets, 1837 - 1913) に和声法を師事しました。ジフテリアによるソフィヤ (Sofiya Rakhmaninova, d. 1883) と悪性虚血性貧血によるエレーナ (Yelena Rakhmaninova, 1867 - 1885) の2人の姉妹の死、父との別居という事情もあったためか、音楽院での成績は振るわず音楽院からの奨学金の取り消しの危機が生じました。従兄 (伯母ユーリヤの子) のアレクサンドル・ジローティ (Aleksandr Siloti, 1864 - 1945) のすすめでモスクワ音楽院で学ぶこととなり、1885年の秋からニコライ・ズヴェーレフ (Nikolay Zverev, 1832- 1893) に寄宿生として師事することになりました。このときの寄宿生にはマトヴェーイ・プレスマン (Matvey Presman, 1870 - 1941) とレオニート・マクシーモフ (Leonid Maksimov, 1873 - 1904) がいました。1886年にはズヴェーレフの他の2人の弟子とともに音楽院の理論と和声法の教師ニコライ・ラドゥーヒン (Nikolay Ladukhin, 1860 - 1918) の授業を受け、同年秋の音楽院の試験用の勉強をしました (Harrison 2016, page 21)。1888年の春からモスクワ音楽院の上級部に進級してジローティにピアノを師事し、同年秋からセルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を、アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906) に和声法と作曲法を師事しました。1889年にズヴェーレフとの不和から彼の家を出て、音楽院作曲科の友人のミハイル・スロノフ (Mikhail Slonov, 1869 - 1930) としばらく暮らしたのち、モスクワの叔母ヴァルヴァーラの嫁ぎ先であるサーチン家に寄寓しました。夏になるとタンボフ近郊のイヴァーノフカにあるサーチン家の別荘 (現在のS・V・ラフマニノフ邸宅博物館イヴァーノフカ) で過ごしました。1891年6月5日 (ユリウス暦5月24日) の試験によりモスクワ音楽院のピアノ科を、1892年5月19日 (ユリウス暦5月7日) の試験により作曲科を卒業しました。作曲科卒業の際にはオペラ「アレコ」により大金メダルを獲得しています。この大金メダルは1875年のセルゲイ・タネーエフと1891年のアルセーニー・コレシチェンコ (Arseny Koreshchenko, 1870 - 1921) に続く3人目の快挙ということです。

    1892年に「前奏曲 嬰ハ短調」(第2曲) を含む「幻想的小品集 Op. 3」、1895年に「交響曲第1番 ニ短調 Op. 13」、1901年に「ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op. 18」(1904年にグリンカ賞を受賞)、「チェロソナタ ト短調 Op. 19」を作曲。音楽院卒業後ほどなく作曲家としての名声を得ました。1902年に従妹 (叔母ヴァルヴァーラの子) のナターリヤ・サーチナ (Natalie Rachmaninoff, née Natalya Satina, 1877 - 1951) と結婚。1904年から1906年まで帝室大劇場 (ボリショイ劇場) 指揮者を務めました。1906年に拠点をドイツ帝国ドレスデンに移し、「交響曲第2番 ホ短調 Op. 27」(1906-1908年作曲、1908年にグリンカ賞第1位を受賞)、「ピアノソナタ第1番 Op. 28」(1907年) などを作曲しました。1909年から1910年まで米国で主にピアノ奏者や指揮者として活動し、ニューヨークでは「ピアノ協奏曲 第3番 ニ短調 Op. 30」を自身のピアノ演奏により初演しました。1910年から1917年まで再びモスクワを拠点に活動し、合唱交響曲「鐘 Op. 35」(1913年)、「ピアノソナタ第2番 Op. 36」(初稿1913年)、「ヴォカリーズ Op. 34 No. 14」(1915年) を作曲しています。ロシア革命が起こると母国を離れ、1918年から米国に定住しました。米国移住後の作品として「ピアノ協奏曲 第4番 ト短調 Op. 40」(1926年)、「パガニーニの主題による狂詩曲 Op. 43」(1934年)、「交響曲第3番 イ短調 Op. 44」(1936年)、「交響的舞曲 Op. 45」(1940年) などがあります。1943年3月28日に米国カリフォルニア州ビバリーヒルズのエルムドライヴ (Elm Drive) にある自宅で悪性黒色腫のために亡くなりました。

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