2023-05-15

150th Birth Anniversary of Nikolay Tcherepnin

Nikolay Nikolayevich Tcherepnin (Николай Николаевич Черепнин, Russia, 1873 - 1945) - Pièces sentimentales (London: J. & W. Chester, 1929. À Alexandre Tchérepnine); No. 2. Con moto piacevole (E flat minor).

今日はロシアの作曲家・指揮者・音楽教師、ニコライ・チェレプニンの生誕150年の誕生日です。 今回はチェレプニン作曲「感傷的小品集」(全10曲) より第2曲を弾きました。曲集は子のアレクサンドル・チェレプニン (Aleksandr Tcherepnin, 1899 - 1977) に献呈されました。

ニコライ・ニコラーエヴィチ・チェレプニンは1873年5月15日 (ユリウス暦5月3日) に、音楽を好む医者ニコライ・ペトローヴィチ・チェレプニンの子として、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで生まれました。父方のおばにピアノの手ほどきを受けたのち、ニコライ・シーシキン (Nikolay Shishkin, 1857 - 1918)、ヴラディーミル・デミャンスキー (Vladimir Demyansky, 1846 - 1915)、カール・ジケ (Karl Sicke, 1850 - 1890) に師事しました。1883年から1891年までペテルブルク第6ギムナジウム (Шестая Санкт-Петербургская гимназия) で学び、1895年にペテルブルク大学法学部を卒業しました。大学卒業前からペテルブルク音楽院でも学び、カルル・ファン=アルク (Karl van Ark, 1839 - 1902) にピアノを、ニコライ・ソロヴィヨーフ (Nikolay Solovyov, 1846 - 1916)とニコライ・リムスキー=コルサコフ (Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908) に作曲を師事して、1898年に音楽院を卒業しました。 1897年に、画家アリベールト・ベヌアー (Albert Benois, 1852 - 1936) の娘である歌手のマリーヤ・ベヌアー (Mariya Tcherepnina, née Benois, 1876 - 1958) と結婚し、1899年には後に作曲家・ピアノ奏者・指揮者となる子のアレクサンドル・チェレプニン (Aleksandr Tcherepnin) が生まれました。

1905年から1918年まで母校のペテルブルク音楽院の教師となり、1906年には指揮科クラスを開設し、1909年に教授に、1915年にオペラクラスの音楽監督に就任しました。指揮者としては1902年にロシア交響楽演奏会 (Русские симфонические концерты) 常任指揮者に就任したほか、ロシア音楽協会、モスクワフィルハーモニー協会、アレクサンドル・ジローティ (Aleksandr Siloti, 1863 - 1945) の演奏会、セルゲイ・ヴァシレンコ (Sergey Vasilenko, 1872 - 1956) の歴史的演奏会などに客演し、1906年から1909年にかけてマリインスキー劇場の指揮者を務めました。興業主セルゲイ・ディアギレフ (Sergey Dyagilev, 1872 - 1929) が主宰するバレエにおいては、1909年にパリでのセゾン・リュス (Saison russe) の公演に、1909年から1914年にかけてベルリンロンドンモンテカルロパリローマでのバレエ・リュスの公演に出演しました。また、ペテルブルク時代にはミトロファン・ベリャーエフ (Mitrofan Belyayev, 1836 - 1904) の音楽サークルや「現代音楽の夕べ Вечера современной музыки 」に参加しています。

1918年から1921年までチフリス (現在のジョージアの首都トビリシ) に移り、チフリス音楽院院長とチフリス帝国歌劇場指揮者を務めました。1921年にフランス共和国の首都パリに移住。1922年から1924年にかけてアンナ・パヴロヴァ (Anna Pavlova, 1881 - 1931) のバレエ団の作曲家兼指揮者として欧米を演奏旅行。1925年にはパリにロシア音楽院 (Парижская русская консерватория / Conservatoire russe de Paris. 現在のラフマニノフ音楽院) を設立し、院長 (1925-1929, 1938-1945) を務めました。1926年に音楽出版社ベリャーエフ (Musikverlag M. P. Belaieff) の理事となり、1937年には同社の理事長に就任しました。聴覚の悪化のため1933年に演奏活動を停止。1945年6月26日にパリ近郊のイシー=レ=ムリノー (Issy-les-Moulineaux) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:


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