2026-02-20

150th Birth Anniversary of Théodore Akimenko

Fedir Stepanovych Yakymenko (Федір Степанович Якименко, Фёдор Степанович Акименко, Théodore Akimenko, Ukraine/France, 1876 - 1945) - Album pittoresque. 8 Morceaux pour piano, Op. 59 (St. Petersburg: W. Bessel & Cie.); No. 3. Méditation. Andante sostenuto (F major).

今日はウクライナ出身の作曲家・ピアノ奏者・合唱指揮者、フョードル・ステパーノヴィチ・アキメンコ (フェーディル・ステパーノヴィチ・ヤクィメンコ、テオドール・アキメンコ) 生誕150年の誕生日 (異説あり) です。今回はアキメンコ作曲「ピトレスクなアルバム、ピアノのための8つの小品 Op. 59」より第3曲「瞑想曲 ヘ長調」を弾きました。曲集はロシアの美術家・画家・デザイナーのリュボーフィ・ポポーヴァ (Lyubov Popova, 1889 - 1924) に献呈されています。

フョードル・アキメンコは1876年2月15日 (ユリウス暦2月3日, Алейников 2012) または2月20日 (ユリウス暦2月8日, Baley 2001) にロシア帝国ハリコフ県クーピャンスク・ウエズドペースキ (Peski, 現在のウクライナ領ハルキウ州クープヤンシク・ラヨンのピスクィー Pisky) で生まれました。1886年に弟のヤーコフ・アキメンコ (ヤーキウ・ステポヴィイ, Yakiv Stepovy, 1883 - 1921) とともにサンクトペテルブルクの帝室礼拝堂合唱団 (Императорская придворная певческая капелла) の団員となり、1895年まで同団の音楽学校でピョートル・クラスノクツキー (Pyotr Krasnokutsky, 1849 - 1900) にヴァイオリンを、ゴルブノーフ (A. Ya. Gorbunov) にピアノを、アナトーリー・リャードフ (Anatoly Lyadov, 1855 - 1914) に和声法を師事しました。そのほかにミリイ・バラキレフ (Mily Balakirev, 1837 - 1910) とセルゲイ・リャプノフ (Sergey Lyapunov, 1859 - 1924) にも指導を受け、彼らの影響で作曲を始めました。アレクセイ・ペトローフ (Aleksey Petrov, 1859 - 1919) から和声法と対位法の指導を受けたのち、1895年からペテルブルク音楽院ニコライ・リムスキー=コルサコフ ( Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908)、アナトーリー・リャードフ (Anatoly Lyadov, 1855 - 1914)、ヤーゼプス・ヴィートルス (Jāzeps Vītols, 1863 - 1948) に作曲法を、フランチシェク・チェルニー (František Černý, 1830 - 1900) にピアノを、ルイ・ホーミリウス (Louis Homilius, 1845 - 1908) にオルガンを師事し、1900年に卒業。

1902年まで帝室礼拝堂合唱団で音楽教師を務め、1901年から1902年にかけての冬の3か月間には個人教授でイーゴリ・ストラヴィンスキー (Igor Stravinsky, 1882 - 1971) に和声法と対位法を教えています。また、1900年からベリャーエフ・サークルに所属しており、ロシア交響楽演奏会では自作の管弦楽作品がリムスキー=コルサコフとアレクサンドル・グラズノフ (Aleksandr Glazunov, 1865 - 1936) により指揮されました。1902年から1903年までトビリシロシア音楽協会ティフリス音楽学校 (Тифлисское музыкальное училище Императорского русского музыкального общества) の音楽クラス視学官と校長を務めたのち、1903年から1905年までフランスのニースの正教会で合唱指揮者、その後は1906年まで主にイタリア各地、フランスのパリ、スイスのジュネーヴで作曲家・ピアノ奏者として活動しました。1906年にはアレクサンドル・スクリャービン (Aleksandr Scriabin, 1872 - 1915) からピアノのレッスンを受けています。

1906年から1911年までハリコフでロシア音楽協会ハリコフ音楽学校 (現在のボリス・リャトシンシキー記念ハルキウ音楽専門大学) とハリコフ貴族女子学院 (Харьковский институт благородных девиц) で教師となりました。母校のペトログラード音楽院 (ペテルブルク音楽院から改称) に招聘されて1915年から講師、1916年から上級講師 (старший преподаватель) となり、1919年から1923年まで作曲法と音楽理論の二級教授となりました。1923年にソビエト連邦 (ロシア革命により前年に成立) を離れ亡命。1924年にチェコスロバキアの首都プラハにあるミハイロ・ドラホマーノフ記念ウクライナ高等教育大学 (Ukrajinský vyšší pedagogický institut) の音楽学部長に就任。ピアノ奏者・合唱指揮者としてヨーロッパ各地で演奏活動し、1928年以降はフランスのニースに、次いでパリに移住し、1932年よりセルゲイ・ラフマニノフ記念パリ・ロシア音楽院で副院長兼ピアノ教授に就任。1945年1月8日にパリで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

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