2025-08-09

150th Birth Anniversary of Albert Ketèlbey

Albert William Ketèlbey (England, 1875 - 1959) / Rolf Bender - Zigeuner-Walzer ; Valse tzigane ; Gipsy Waltz. Tempo di Valse moderato (A minor. Mainz: B. Schott's Söhne, 1928).

今日はイングランドの作曲家・オルガン奏者・指揮者、アルバート・ウィリアム・ケテルビー生誕150年の誕生日です。今回はケテルビー作曲、ヴァイオリンとピアノのための「ジプシー・ワルツ イ短調」の、ロルフ・ベンダーによるピアノ独奏編曲を弾きました。編曲者のベンダーについては詳細が分からなかったのですが、ショット社で編曲家として活動した人物のようです。

アルバート・ケテルビーは1875年8月9日に英国イングランドのバーミンガム (Birmingham) 近郊の街アストン (Aston. 現在はバーミンガム市内に含まれる) で生まれました。アルフレッド・ゴール (Alfred Robert Gaul, 1837 - 1913)、ハーバート・ウェアリング (Herbert Wareing, 1857 - 1918) に師事したのち、13歳のときにヴィクトリア女王奨学金 (作曲) を得て、ロンドンのトリニティ・カレッジ・オブ・ミュージックでジョージ・バンブリッジ (George Edmund Bambridge, 1842 - 1916)、ゴードン・ソーンダーズ (Gordon Saunders, 1837 - 1912)、フレデリック・コーダー (Frederick Corder, 1852 - 1932) に師事しました。

16歳でウィンブルドンの聖ジョン教会 (St. John's Church in Wimbledon) オルガン奏者に、22歳でヴォードヴィル劇場 (Vaudeville Theatre) 音楽監督に就任。作曲家としては「ファントム・メロディ The Phantom Melody 」(1912. 原曲はチェロとピアノのための作品)、「修道院の庭にて In a Monastery Garden 」(1915)、「ペルシャの市場にて In a Persian Market 」(1920)、「中国寺院の庭にて In a Chinese Temple Garden 」(1923)、「心の奥深く Sanctuary of the Heart 」(1924)、「エジプトの秘境にて In the Mystic Land of Egypt 」(1931) など、軽音楽の分野の管弦楽曲で人気を博したほか、コミック・オペラや室内楽曲などを書いています。晩年はワイト島で過ごし、1959年11月26日にワイト島北岸のカウズ (Cowes) で亡くなりました。

出典

2025-08-06

150th Birth Anniversary of Marcel Labey

Marcel Labey (France, 1875 - 1968) - 2 Pièces pour harmonium, Op. 14; No. 2. Élévation (D minor. Juillet 1913).

今日はフランスの作曲家・指揮者、マルセル・ラベ生誕150年の誕生日です。今回はラベ作曲「ハルモニウムのための2つの小品 Op. 14」より第2曲「エレヴァシオン (聖体奉挙) ニ短調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第4巻 (Paris: Maurice Senart & Cie., 1914) の162-168頁に収録されています。

マルセル・ラベは1875年8月6日にフランス共和国セーヌ=エ=オワーズ県ル・ヴェジネ (Le Vésinet) で弁護士の子として生まれました。当初、パリで法律を学んで1897年に法学博士を取得し、1901年まで弁護士として活動しました。学位取得後に音楽の道に転向してスコラ・カントルム (Schola Cantorum de Paris) に入学し、エリ=ミリアム・ドラボルド (Élie-Miriam Delaborde, 1839 - 1913)、ルイ・ブライトナー (Louis Breitner, b. 1851) にピアノを、ルネ・ルノルマン (René Lenormand, 1846 - 1932) に和声法を、ヴァンサン・ダンディ (Vincent d'Indy, 1851 - 1931) に作曲法を師事しました。1903年から1913年まで同校でダンディの管弦楽クラスの助手となり、ピアノ教授となりました。ダンディの死後の1931年から1935年までは同校の理事を務めました。1935年から1954年まで、共同設立者の一人となったエコール・セザール・フランク (École César Franck) でも理事を務めました。1968年11月25日にムルト=エ=モゼル県ナンシー (Nancy) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典

  • Grove Music Online. Retrieved 2025-08-06.
  • Argoeuves, Michel Gorguette d' (1940). “Marcel LABEY”. Musica et Memoria. Retrieved 2025-08-06.

2025-08-03

150th Death Anniversary of Konrad Max Kunz

Konrad Max Kunz (Germany, 1812 - 1875) - Zwiefache. 12 der schönsten alten Oberpfälzer Bauern-Tänze (National-Melodien) zum ersten Male herausgegeben und für das Piano-Forte eingerichtet (Mainz: B. Schott's Söhnen, 1849); No. 11 in B flat major.

今日はドイツの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者・歌手・指揮者・音楽教師、コンラート・マックス・クンツ没後150年の命日です。今回はクンツによりピアノ独奏用に編曲された「ツヴィーファッハー集、最も美しく古い12のオーバープファルツ農民舞曲」より第11番 変ロ長調を弾きました。ツヴィーファッハー (Zwiefacher) は南部ドイツとその周辺に伝わる輪舞 (Rundtanz) の一つで、繰り返されるフレーズの中で3拍子 (ワルツ Walzer) と2拍子 (ドレーアー Dreher) の部分が時に不規則に交替するのが特徴です。

コンラート・マックス・クンツは1812年4月29日にバイエルン王国オーバープファルツ地方シュヴァンドルフ (Schwandorf) で生まれました。管楽器奏者であり街の塔守を務めていた (古くからの塔守の家系であった) 父フランツ・ミヒャエル・クンツ (Franz Micharl Kunz, 1783 - 1828) から音楽の手ほどきを受け、幼少期から祝祭、教会、公的な催し物で演奏しました。ギムナジウムで学んだのち、アンベルクの哲学神学校 (Philosophisch-theologisches Seminar) に進学し、ヨハン・エヴァンゲリスト・ダイシャー (Johann Evangelist Deischer, 1802 - 1839) に師事しました。 ギムナジウムの学生だったころから、神学校付属教会のオルガン奏者、ギムナジウムの器楽教師、トルコ音楽を奏でる学校オーケストラの指揮者を務めていました。

1832年からミュンヒェン大学で神学を、翌年から法律を学びましたが、1837年に退学して音楽教師、聖歌隊指揮者となりました。1840年に合唱団ミュンヒェナー・リーダーターフェル (Münchener Liedertafel) を設立し、その指揮者に就任。1845年にミュンヒェン宮廷劇場(現在のバイエルン国立歌劇場)指揮者フランツ・ラハナー (Franz Paul Lachner, 1803 - 1890) の指名により同劇場の合唱と付随音楽の監督に就任。1860年に「バイエルン賛歌 Bayernhymne 」(ミヒャエル・エクスナー Michael Öchsner 詞、バイエルン王国国歌、歌詞を変え現在のバイエルン州歌となった) を初演しました。1875年8月3日にミュンヒェンで亡くなりました。

出典:

  • MGG Online. Retrieved 2025-08-03.
  • Timmermann, Johannes; Weiß, Dieter J.; Zech-Kleber, Bernhard von (2017-05-31). “Bayernhymne”. Historisches Lexikon Bayerns. Retrieved 2025-08-03.
  • Kunz, Konrad Max”. Bayerisches Musiker-Lexikon Online (BMLO). Retrieved 2025-08-03.

2025-07-31

150th Birth Anniversary of Alexandre Denéréaz

Alexandre Denéréaz (Switzerland, 1875 - 1947) - 3 Préludes pour orgue ou harmonium; No. 3. Allegro (B flat major).

今日はスイスの作曲家・オルガン奏者・合唱指揮者・音楽著述家・音楽教師、アレクサンドル・ドネレア生誕150年の誕生日です。今回はドネレア作曲「オルガンまたはハルモニウムのための3つの前奏曲」より第3番 変ロ長調を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第5巻 (Paris: Maurice Senart & Cie., 1914) の67-68頁に収録されています。

アレクサンドル・ドネレアは1875年7月31日にスイス西部にあるローザンヌで、ピアノ奏者・ヴァイオリン奏者・合唱指揮者のシャルル=セザール・ドネレア (Charles-César Denéréaz) と、ピアノ奏者のシャルロット=エリーズ・ピレ (Charlotte-Elise Pilet) の子として生まれました。ローザンヌのコレージュ・クラシークでシャルル・ブランシェ (Charles Blanchet, 1833 - 1900) にピアノ、オルガン、和声法のレッスンを受けました。1891年から1895年までドイツ帝国ザクセン王国ドレスデン王立ドレスデン音楽院 (Königliches Konservatorium zu Dresden) で、カール・ハインリヒ・デーリング (Karl Heinrich Döring, 1834 - 1916) にピアノを、パウル・ヤンセン (Paul Janssen, 1852 - 1921) にオルガンを、フェーリクス・ドレーゼケ (Felix Draeseke, 1835 - 1913) に作曲法を師事。1896年に「交響曲第1番」で作曲の一等賞を獲得。

同年、ローザンヌのサン=フランソワ教会 (Église Saint-François de Lausanne) オルガン奏者に就任し (師シャルル・ブランシェの後任)、ローザンヌ音楽院 (Conservatoire de Lausanne) の作曲法、和声法、対位法の教師となりました。1897年から1934年までローザンヌ男声合唱団 (Chœur d'hommes de Lausanne) とサント=セシル混声合唱団 (Chœur mixte Saint-Cécile) の指揮者。1918年から1945年まで大学で音楽美学の私講師となりました。1933年にピアノ奏者のマルグリット・シャイエ (Marguerite Chaillet) と結婚。1947年7月25日にローザンヌで亡くなりました (満71歳)。

教え子に以下の人物がいます

出典:

2025-07-29

150th Birth Anniversary of Antoni Grudziński

Antoni Wawrzyniec Grudziński (Poland, 1875 - 1929) - Berceuse et prélude pour piano (Warsaw: Jan Fiszer, 1898); No. 2. Prélude. Andante (G major). Dedicated to Mademoiselle Eléonore Kanusewicz.

今日はポーランドの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、アントニ・ヴァヴジニェツ・グルヅィニスキ生誕150年の誕生日です。今回はグルヅィニスキ作曲「ピアノのための子守歌と前奏曲」より第2曲「前奏曲 ト長調」を弾きました。

アントニ・グルヅィニスキは1875年7月29日にロシア帝国沿ヴィスワ地方 (Привислинский край. ロシア帝国領ポーランド) セイニ (Sejny) で生まれました。1929年2月4日にワルシャワで亡くなり、ワルシャワのポウォンズキ墓地 (Cmentarz Powązkowski w Warszawie) に埋葬されました。

子に作曲家・音楽教師のチェスワフ・グルヅィニスキ (Czesław Grudziński, 1911 - 1992)、孫 (チェスワフの子) に音楽著述家・音楽批評家のアントニ・グルヅィニスキ (Antoni Grudziński) がいます。

出典:

2025-06-05

150th Birth Anniversary of Konstantin Eiges

Konstantin Romanovich Eyges (Ukraine/Russia, 1875 - 1950) - Études-fantaisies pour piano, Heft 1, Op. 22 (Moscow: Muzsketor gosizdata / Wien: Universal Edition, 1927); No. 2. Étude polyphonique. Moderato. Cantabile (B flat major).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・ピアノ奏者・音楽批評家・音楽教師、コンスタンチーン・ロマーノヴィチ・エイゲス生誕150年の誕生日です。今回はエイゲス作曲「幻想練習曲集 第1巻 Op. 22」(全5曲) より第2曲「多声的練習曲 変ロ長調」を弾きました。

コンスタンチン・エイゲスは1875年6月5日 (ユリウス暦5月24日) にロシア帝国ハリコフ県ボゴドゥーホフ (現ウクライナ領ハルキウ州ボホドゥーヒウ Bohodukhiv) で生まれました。1900年から1905年までモスクワ音楽院で学び、ミハイル・イッポリトフ=イヴァノフ (Mikhail Ippolitov-Ivanov, 1859 - 1935) に作曲法を、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を、アドーリフ・ヤロシェーフスキー (Adolf Yaroshevsky, 1863 - 1910) にピアノを師事しました。

その後はピアノ奏者、ピアノと音楽理論の教師として活動しており、1919年から1926年までモスクワのヤロシェーフスキー音楽学校校長を務め、1939年から1941年までモスクワの中央通信制教育大学、1941年から1943年までスヴェルドロフスク音楽院(現在のモデスト・ムソルグスキー記念ウラル音楽院)、1944年にモスクワの赤軍高等軍楽隊長大学で、音楽理論を教えました。ピアノの教え子にアレクセイ・スタンチンスキー (Aleksey Stanchinsky, 1888 - 1914) がいます。1910年代から1920年代にかけて、モスクワのパーヴェル・ラーム (Pavel Lamm, 1882 - 1951) のアパートで開かれていた音楽サークルに参加していました。1950年12月2日にモスクワで亡くなりました。

弟に音楽批評家・ピアノ奏者のヨシフ・エイゲス (Iosif Eiges, 1887 - 1953)、子に作曲家・ピアノ奏者のオレーク・エイゲス (Oleg Eiges, 1905 - 1992) がいます。

出典:

2025-06-04

200th Birth Anniversary of Anton Herzberg

Anton Herzberg (Poland/Austria, b. 1825) - 2 Mazurkas pour piano, Op. 42 (Leipzig: Friedrich Hofmeister, 1856). Dedicated to Amelia Łubieńska (1816 - 1885); No. 1. Lento (G minor, ends in B flat major).

今日はガリツィア出身の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、アントン・ヘルツベルク生誕200年の誕生日です。今回はヘルツベルク作曲「ピアノのための2つのマズルカ Op. 42」より第1番 ト短調を弾きました。このマズルカはト短調で始まりますが、平行調の変ロ長調で終わります。

アントン・ヘルツベルクは1825年6月4日にオーストリア帝国ガリツィア・ロドメリア王国のタルノフ (Tarnow. 現在のポーランド領マウォポルスカ県タルヌフ Tarnów) で生まれました。帝国の首都ヴィーンに移り、大学で学びながら、カール・マリア・フォン・ボクレト (Carl Maria von Bocklet, 1801 - 1881) にピアノを、ゴットフリート・フォン・プライヤー (Gottfried von Preyer, 1807 - 1901) に和声法と作曲法を師事しました。ワルシャワ、ヴィーン、ハンガリー (1年半滞在) でピアノ奏者として活動したのち、ロシア南部を演奏旅行で巡り、演奏家として成功を収めました。1866年にモスクワに移住してピアノ教師となりました。1868年にドイツとフランスで演奏活動をしています。そのほかにトルコ、ギリシャ、イタリア、英国、オランダを訪れました。サロン用のピアノ曲など130ほどの作品が複数の都市で出版されています。1889年の時点で存命 (Champlin Jr. & Apthorp 1889) とのことですが、その後の消息については資料が見つかりませんでした。ポルトガル王よりキリスト騎士団勲章を、ガージャール朝ペルシャ王より勲章を授与されています。

出典:

  • Bernsdorf, Eduard, ed. (1865). “Herzberg, Anton”. Neues Universal-Lexikon der Tonkunst : für Künstler, Kunstfreunde und alle Gebildeten. Dresden: Robert Schäfer. page 205.
  • Champlin Jr., John Denison; Apthorp, William Foster, eds. (1889). “Herzberg, Anton”. Cyclopedia of Music and Musicians. New York: Charles Scribner's Sons. Volume 2. page 266.
  • Mendel, Hermann, ed. (1875). “Herzberg, Anton”. Musikalisches Conversations-Lexikon : eine Encyclopädie der gesammten musikalischen Wissenschaft für Gebildete aller Stände. Volume 5. Berlin: Robert Oppenheim. pages 220-221.

2025-06-03

150th Death Anniversary of Georges Bizet

Georges Bizet (France, 1838 - 1875) / Paul Blumenthal (Germany, 1843 - 1930) - Carmen. Opéra-comique en 4 actes; Act IV, No. 26. Si tu m'aimes, Carmen.

今日はフランスの作曲家ジョルジュ・ビゼー没後150年の命日です。今回はビゼー作曲「カルメン」より第4幕第26曲「もしお前が俺を好きなら、カルメン」の、パウル・ブルーメンタールによるハルモニウム独奏編曲を弾きました。楽譜はパウル・ブルーメンタール編纂の楽譜集「ハルモニウム・アルブム Harmonium-Album 」第3巻 (Frankfurt an der Oder: Georg Bratfisch, No. 38, 1923) の15頁に第11曲 Lied „Liebst du mich“ aus der Oper: Carmen. Andantino (D major) として収録されています。

ジョルジュ・ビゼーは1838年10月25日にフランス王国の首都パリで、いずれも声楽教師のアドルフ=アルマン・ビゼー (Adolphe-Armand Bizet, 1810 - 1886)、エメ・ビゼー (Aimée Bizet née Delsarte, 1815 - 1861) の子として生まれました。母から音楽の手ほどきを受け、その兄である伯父の音楽家フランソワ・デルサルト (François Delsarte, 1811 -1871) からも大きな影響を受けました。幼くして楽才を示し、10歳の誕生日を迎える手前の1848年10月9日にパリ音楽院に入学しました。アントワーヌ・マルモンテル (Antoine-François Marmontel, 1816 - 1898) のピアノのクラスで学び始め、入学から半年も経たないうちにソルフェージュで一等賞を獲得。マルモンテルの前任者であるピエール=ジョゼフ・ジメルマン (Pierre-Joseph-Guillaume Zimmerman, 1785 - 1853)、ジメルマンの娘婿であるシャルル・グノー (Charles Gounod, 1818 - 1893) からもピアノとソルフェージュの個人レッスンを受け、1852年にピアノで一等賞を獲得。また、1852年からフランソワ・ブノワ (François Benoist, 1794 - 1878) にオルガンを、1853年からフロマンタル・アレヴィ (Jacques-Fromental Halévy, 1799 - 1862) に作曲法を師事し、1855年にオルガンと作曲法で一等賞を獲得しました。ローマ賞では1856年に第二等首席を、1857年に第一等首席を受賞し、同年12月からローマに留学しました。

1860年9月に友人で同じくローマ賞第一等受賞者 (1859年) のエルネスト・ギロー (Ernest Guiraud, 1837 - 1892) との北イタリア旅行中のヴェネツィアで母の病を知り、単身パリに帰還。帰国後は主にオペラの作曲家として活動しました。1862年に家政婦のマリ・レテール (Marie Reiter) との間に私生児であるジャン・レテール (Jean Reiter) を儲けました。1869年に師アレヴィの遺子であるジュヌヴィエーヴ (Geneviève Halévy-Bizet-Straus, 1849 - 1926) と結婚し、1872年に息子のジャック・ビゼー (Jacques Bizet, 1872 - 1922) が生まれます。1872年に付随音楽「アルルの女 L'Arlésienne 」を完成・上演。1874年に4幕のオペラ=コミック「カルメン」を完成し、1875年3月3日に初演しました。同年5月末にパリ近郊のブージヴァル (Bougival) に移住。セーヌ川に泳ぎに行ったのち、5月30日に重度のリウマチ発作に、その後2度の心臓発作に襲われ、6月3日にブージヴァルにおいて36歳で亡くなりました。6月5日にサントトリニテ教会 (Église de la Sainte-Trinité de Paris) で葬儀が執り行われ、ペール・ラシェーズ墓地 (Cimetière du Père-Lachaise) に埋葬されました。

出典: Grove Music Online. Retrieved 2025-06-03.

2025-05-16

200th Birth Anniversary of Antonio de la Cruz

Antonio de la Cruz Quesada (Spain, 1825 - 1889) - Flores de mi jardín. 5 Mazourkas para piano, Op. 100. A la Señora Doña Mercedes P. del Pulgar de Dávila (Madrid: Nicolás Toledo); No. 5. Madreselva. Moderato (E flat major).

今日はスペインの作曲家・音楽教師、アントニオ・デ・ラ・クルス・ケサダ生誕200年の誕生日です。今回はクルス作曲「我が庭の花々、ピアノのための5つのマズルカ Op. 100」より第5曲「マドレセルバ (スイカズラ属)」を弾きました。曲集に含まれる楽曲は「ケシ Amapola 」、「スミレ属 Violeta 」、「キョウチクトウ Adelfa 」、「ユリ Azucena 」、「スイカズラ属」と、いずれも花の名を題名としています。

アントニオ・デ・ラ・クルスは1825年5月16日にスペイン王国アンダルシア州グラナダ県の県都グラナダ (Granada) で生まれました。ホセ・タマヨ (José Tamayo)、ベルナベ・ルイス・デ・エナレス (Bernabé Ruiz de Henares, 1809 - 1878) に師事し、文学サークル「グラナダの綱 La cuerda granadina 」に参加しました。首都マドリードやアンダルシア州アルメリア県アルメリアに移ってピアノ、声楽、和声法の教師として活動し、作曲家としてはアリアや歌曲などの声楽曲、ポルカやワルツといった舞曲などのピアノ曲を含め、200曲以上を書きました。マドリードでは多くの作品を出版し、フランシスコ・アセンホ・バルビエリ (Francisco Asenjo Barbieri, 1823 - 1894) と親交を結んでいます。1889年9月25日にマドリードで亡くなりました。

出典:

2025-05-07

200th Death Anniversary of Antonio Salieri

Antonio Salieri (Italy/Austria, 1750 - 1825) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - "Pantomime" (Act 3) from Les Danaïdes (1784).

今日はイタリア出身のオーストリアの作曲家・指揮者・音楽教師、アントーニオ・サリエーリ (アントニオ・サリエリ) 没後200年の命日です。 今回はサリエーリ作曲、5幕の抒情悲劇「ダナオスの娘たち」(1784) より第3幕終曲「パントミム (パントマイム)」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第45曲 Pantomima (dall'opera: Le Danaidi) (64-65頁) として収録されています。

アントニオ・サリエーリは1750年8月18日にヴェネツィア共和国レニャーゴ (Legnago) で生まれ、兄のフランチェスコ・サリエーリ (Francesco Salieri, 1741 - 1826) と当地のオルガン奏者ジュゼッペ・シモーニ (Giuseppe Simoni) にヴァイオリンと鍵盤楽器を学びました。1763年に母が1765年に父が相次いで亡くなるとヴェネツィアに移り、テノール歌手のフェルディナンド・パチーニ (Ferdinando Pacini) に声楽を、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペシェッティ (Giovanni Battista Pescetti, 1704 - 1766) に作曲法を師事しました。1766年にヴェネツィアで自作のオペラ「スキュロス島のアキレウス Achille in Sciro 」制作の監督をしていたフローリアン・レオポルト・ガスマン (Florian Leopold Gassmann, 1729 - 1774) に才能と野心を見いだされ、ガスマンに連れられてハプスブルク帝国の首都ヴィーンに移り彼の弟子となりました。間もなくオペラを書く機会を得て、1769年に最初の上演されたオペラである「女文士たち Le donne letterate 」が作曲されました。1771年7月には「アルミーダ Armida 」が上演され、高く評価されました。1774年にガスマンが亡くなると、後任としてハプスブルク宮廷の室内楽作曲家 (Kammerkomponist)、イタリア・オペラ監督に就任。パリ国立オペラからの委嘱作品に手が回らなくなっていたクリストフ・ヴィリバルト・グルックChristoph Willibald Gluck, 1714 - 1787) の依頼によりフランス王国の首都パリを訪れ、1784年にパリで「ダナオスの娘たち」を上演し成功を収めました。1787年には同じくパリでフランス・オペラ3作目となる「タラール Tarare 」を上演して大きな成功を収めましたが、これはオペラにおけるサリエーリの最高傑作とも評されています。1788年にジュゼッペ・ボンノ (Giuseppe Bonno, 1711 - 1788) の後任としてハプスブルク宮廷楽長に就任。1790年に庇護者でもあった神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世 (Joseph II, 1741 - 1790) が亡くなると、楽長業務のうち劇場でのリハーサルや指揮などを弟子のヨーゼフ・ヴァイグル (Joseph Weigl, 1766 - 1848) に委譲しました。1815年のヴィーン会議では音楽行事の企画・指揮を担当。1825年5月7日にヴィーンで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2025-04-30

150th Birth Anniversary of Ilya Sats

Ilya Aleksandrovich Sats (Ilja Satz ; Илья Александрович Сац ; Ілля Олександрович Сац, 1875 - 1912) - Prélude pour piano. Tranquillo (A minor. Moscow: P. Jurgenson).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・指揮者・音楽教師、イリヤー・アレクサーンドロヴィチ・サーツ (イリャー・オレクサーンドロヴィチ・サーツ) 生誕150年の誕生日です。今回はサーツ作曲「前奏曲 イ短調」を弾きました。

イリヤー・サーツは1875年4月30日 (ユリウス暦4月18日) にロシア帝国キエフ県ラドムィスリ郡チョルノーブィリ (チェルノブイリ) で、弁護士の子として生まれました。キーウ (キエフ) に移り1891年からチェロを学び始め、キーウ音楽学校 (現在のグリエール記念キーウ市立音楽アカデミー) を経て、1897年から1899年までモスクワ音楽院チェロ科で学び、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を師事しました。

1900年に国外に移り、スイスでゲオールギー・プレハーノフ (Georgy Plekhanov, 1856 - 1918)、ヴラディーミル・ボーンチ=ブルエーヴィチ (Vladimir Bonch-Bruyevich, 1873 - 1955) といった社会主義活動家と交流を持ちました。モスクワに戻ると反政府活動との関わりから警察に捜索されたため、イルクーツクに移ることを余儀なくされました。1900年から1903年までイルクーツクで合唱とチェロの指導者となり、新聞「イルクーツク報知 Иркутские ведомости 」に寄稿しました。1903年から1907年までモスクワ・フィルハーモニー協会音楽演劇学校指揮科で学びました。 1905年にはポヴァルスカヤ演劇スタジオ (Театр-студия на Поварской) の音楽部長に、1906年にモスクワ芸術座の音楽部長兼指揮者に就任。劇音楽やオペラの作曲家として評価を得て、1908年には代表曲となるモーリス・メーテルリンク (Maurice Maeterlinck, 1862 - 1949) の童話劇「青い鳥 L'oiseau bleu」のための音楽 (モスクワ芸術座) を作曲しました。作曲家としては舞台音楽のほか管弦楽曲、ピアノ曲、ロマンス、歌曲などを書いています。1912年10月24日 (ユリウス暦10月12日) にモスクワで死去 (満37歳)。モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されました。

娘に演出家・劇作家・俳優・劇場支配人のナターリヤ・サーツ (Nataliya Sats, 1903 - 1993) がいます。

出典:

  • Сац Илья Александрович”. Большая российская энциклопедия. 2023-03-31. Retrieved 2025-04-29.
  • Келдыш, Юрий Всеволодович, ed. (1973-1982). “Сац И. А.”. Музыкальная энциклопедия. Советская энциклопедия, Советский композитор. Retrieved 2025-04-29.
  • ナターリヤ サーツ”. 20世紀西洋人名事典. コトバンク. Retrieved 2025-04-29.

2025-04-11

250th Birth Anniversary of Charles-François Dumonchau

Charles-François Dumonchau (France, 1775 - 1821) - 3 Sonates pour le piano dans le stile de Haydn, Mozart et Clementi, dédiée à Madame de Montherot, Op. 30 (Paris: Mme. Duhan); Sonata No. 3 (F major); II. Fuga (F major).

今日はアルザス出身のフランスの作曲家・ピアノ奏者・チェロ奏者・音楽教師、シャルル=フランソワ・デュモンショ生誕250年の誕生日です。今回はデュモンショ作曲「ハイドン、モーツァルト、クレメンティの様式によるピアノのための3つのソナタ Op. 30」のソナタ第3番 ヘ長調より第2楽章「フーガ ヘ長調」を弾きました。

シャルル=フランソワ・デュモンショは1775年4月11日にフランス王国アルザス州の州都ストラスブールで生まれました。チェロ奏者でストラスブールの芸術集会劇場 (Théâtre de la réunion des arts) 監督を務めた父のシャルル=ジョゼフ・デュモンショ (Charles-Joseph Dumonchau, 1750 - 1843) にチェロと音楽の手ほどきを受け、次いで、バウマイア (Baumayr/Baumeyer) にピアノを、ベルク (Berg) に作曲法を師事しました。軍の糧食管理部門で働いたのち、おそらく1800年頃に首都パリに移ったと考えられています。パリではロドルフ・クロイツェル (Rodolphe Kreutzer, 1766 - 1831) の友人となりました。パリ音楽院に入学し、フランス革命暦X年 (1801/1802年) からシャルル=シモン・カテル (Charles-Simon Catel, 1773 - 1830) の和声法のクラスで学びました。また、1801年にパリに移住したヨーゼフ・ヴェルフル (Joseph Wölfl, 1773 - 1812) にも師事しました。1805年にストラスブールに戻り、教師として活動しました。1808年にはローヌ県リヨンに移り、教師・作曲家として名声を得ました。1821年1月1日にリヨンで亡くなりました。

弟にピアノ曲を作曲したシルヴァン・デュモンショ (Sylvain Dumonchau, 1776 - 1847) がいます。

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2025-04-02

100th Death Anniversary of Léopold Dauphin

Léopold Dauphin (France, 1847 - 1925) - Petites chansons sans paroles. Recueil de 20 morceaux faciles pour piano (Avec des Quatrains épigraphiques par Émile Blémont), Op. 51 (Paris: Henry Lemoine, 1885).

No. 5. Marche religieuse. Larghetto (C major). à André Victor Wilder.

Orgues célestes, pars rayons,
Parfum de l'encens qui s'embrase,
Dites-nous la sublime extase
Des saintes exaltations.

No. 9. Chagrin d'enfant. Adagio sostenuto (C major). à Judith et Rachel Léon Cladel.

Madeleine ext triste et préoccupée;
C'est un grand chagrin dans son petit cœur;
Son frère un méchant, son frère un moqueur,
A peur d'épouser sa belle poupée.

今日はフランスの作曲家・ヴァイオリン奏者・詩人・小説家・批評家、レオポルド・ドーファン没後100年の命日です。今回はドーファン作曲「小無言歌集、ピアノのための20の易しい小品 (エミール・ブレモン (Émile Blémont, 1839 - 1927) による題辞としての四行詩つき) Op. 51」(全20曲) より、第5曲「宗教的行進曲 ハ長調」と第9曲「子供の悲しみ ハ長調」を弾きました。第5曲「宗教的行進曲」はヴィクトル・ヴィルデル (Victor Wilder, 1835 - 1892) の息子、アンドレ・ヴィルデル (André Wilder, 1871 - 1965) に、第9曲「子供の悲しみ」はレオン・クラデル (Léon Cladel, 1834 - 1892) の2人の娘、ラシェル=ルイーズ・クラデル (Rachel-Louise Cladel, 1878 - 1943)、ジュディット・クラデル (Judith Cladel, 1873 - 1958) に献呈されています。

レオポルド・ドーファンは1847年11月1日にフランス共和国エロー県の地中海に面した都市ベジエ (Béziers) で生まれました。18歳のときに首都パリに移り、パリ音楽院フランソワ・バザン (François Bazin, 1816 - 1878) に作曲法を師事。1925年4月2日に亡くなりました。

子にジャーヌ、マリ=マドレーヌ、マルグリートという3人の娘がいます。ジャーヌ・ドーファン (Jeanne "Jane" Dauphin, 1875 - 1952) はジョゼフ・ラロ (Joseph Lalo) と結婚。挿絵画家となったマリ=マドレーヌ・ドーファン (Marie-Madeleine Dauphin, 1878 - 1942) は台本作家・詩人のフラン=ノアン (Franc-Nohain, 1872 - 1934) と結婚。マルグリート・ドーファン (Marguerite Dauphin, b. 1879) は著述家・音楽批評家のアドルフ・ボショ (Adolphe Boschot, 1871 - 1955) と結婚しました。

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2025-03-27

100th Death Anniversary of Oscar Depuydt

Oscar Depuydt (1858 - 1925) - Interlude for Organ or Harmonium. Andantino (A minor).

今日はベルギー・フランデレンの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、オスカル・デペイト没後100年の命日です。今回はデペイト作曲「オルガンまたはハルモニウムのための間奏曲 イ短調」を弾きました。楽譜は「教会オルガン奏者、古今の大家によるオルガンまたはハルモニウムのための易しい小品集 De Kerkorgelist. gemakkelijke orgel of harmoniumstukken van oude en moderne meesters 」第1巻 (Bruxelles: Breitkopf und Härtel, 1922) に第21曲として収録されています。

オスカル・デペイトは1858年10月20日にベルギー王国ウェスト=フランデレン州ブルッヘ (Brugge) で生まれました。幼少期に生地ブルッヘの救世主大聖堂の聖歌隊員となり、1870年にアントウェルペン州メヘレン (Mechelen) に移りました。メヘレンに移住したのは、その頃デペイトが孤児となって里親に引き取られたためとされています。1877年からヘント音楽院 (Koninklijk Conservatorium Gent) で学び、ヨゼフ・ティルボルフス (Jozef Tilborghs, 1830 - 1910) にオルガンを、アドルフ・サミュエル (Adolphe Samuel, 1824 - 1898)、カレル・ミリ (Karel Miry, 1823 - 1889) に和声法、対位法、フーガを師事しました。1880年に和声法、1881年にオルガンと対位法、1882年にフーガで賞を獲得して音楽院を卒業しました。

1880年の末にメヘレンのハンスウェイク聖母教会 (Onze-Lieve-Vrouw van Hanswijk) のオルガン奏者に就任。1881年10月1日にメヘレンの聖ロンバウツ大聖堂 (Sint-Romboutskathedraal) のオルガン奏者に就任し、以後亡くなるまで務めました。同じ頃に聖ロンバウツ・カレッジ (初等・中等教育学校. Sint-Romboutscollege) のピアノ教師になりました。1896年にエドハル・ティネル (Edgar Tinel, 1854 - 1912) がブリュッセル音楽院の対位法とフーガの教師に就任すると、当時レメンス音楽院 (Lemmensinstituut) 院長だったティネルの後任として同音楽院のピアノ、オルガン、伴奏法、対位法の教師に任命されました。 1921年にレメンス音楽院オルガン教師勤続25年の祝賀会が催され、それを機にレオポルド勲章騎士章を受章しました。1925年3月27日にメヘレンで亡くなりました。

作曲家としては主にオルガン曲を書いており、そのほかにモテット、歌曲、グレゴリオ聖歌の伴奏譜を作曲しています。

教え子に以下の人物がいます。

出典: Focquaert, Annelies. “Depuydt, Oscar Leopold Theodoor”. Studiecentrum Vlaamse Muziek. Retrieved 2025-03-25.

2025-03-21

150th Birth Anniversary of Amédée Reuchsel

Amédée Reuchsel (France, 1875 - 1931) - Interlude pour orgue ou harmonium. Andantino non troppo (E major). À son collègue Monsieur l'abbé Joubert.

今日はフランスの作曲家・オルガン奏者、アメデ・ロイクセル (アメデ・ルクセル) 生誕150年の誕生日です。今回はロイクセル作曲「間奏曲 ホ長調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l'orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第2巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912) の116-117頁に収録されており、この曲集の編纂者であるジョゼフ・ジュベール (Joseph Joubert, 1878 - 1963) に献呈されています。

ロイクセル家はドイツ系フランス人の音楽一族で、アメデ・ロイクセルの祖父であるヨハン・ロイクセル (Johann Reuchsel, 1791/1792 - 1871/1873) はザクセン=マイニンゲン公国のベテンハウゼン (Bettenhausen) 出身のオルガン奏者・指揮者です。1853年にヨハンの家族はフランス王国のリヨンに移住。ヨハンの子の多くは音楽家となり、そのうちの作曲家・オルガン奏者レオン・ロイクセル (Léon Reuchsel, 1840 - 1915) の子に、作曲家・オルガン奏者のアメデ・ロイクセル (Amédée Reuchsel, 1875 - 1931)、作曲家・ヴァイオリン奏者・オルガン奏者のモーリス・ロイクセル (Maurice Reuchsel, 1880 - 1968) がいます。アメデの子ウジェーヌ・ロイクセル (Eugène Reuchsel, 1900 - 1988) は作曲家・ピアノ奏者・オルガン奏者となりました。

アメデ・ロイクセルは1875年3月21日にフランス共和国ローヌ県の県都リヨンで生まれました。ブリュッセル王立音楽院オーギュスト・デュポン (Auguste Dupont1827 - 1890) にオルガンを、アルフォンス・メリ (Alphonse Mailly, 1833 - 1918) に和声法を、エドハル・ティネル (Edgar Tinel, 1854 - 1912) に作曲法を師事し、オルガン、和声法、対位法、作曲法の4つの一等賞を取得。次いでパリでガブリエル・フォーレ (Gabriel Fauré, 1845 - 1924) に師事。

学生時代にリヨンのリセ=アンペール付属礼拝堂のオルガン奏者を務め、次いでリヨン大教会堂 (Grand temple de Lyon) オルガン奏者となり、パリに移ってからサン=ドニ=デュ=サン=サクルマン教会 (Église Saint-Denys-du-Saint-Sacrement) のオルガン奏者を務めました。1908年にシャルティエ賞 (Prix Chartier. 優れた室内楽作品に与えられる作曲賞)を受賞。1931年7月10日にロワレ県モントロー (Montereau) で亡くなりました。

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2025-03-14

150th Birth Anniversary of Norman O'Neill

Norman Houstoun O'Neill (England, 1875 - 1934) - 4 Little Dances for Pianoforte (London: The Anglo-French Music Co., 1923); No. 1. Gopak. Brightly and rather quickly (A minor).

今日はイングランドの作曲家・指揮者・音楽教師、ノーマン・オニール生誕150年の誕生日です。今回はオニール作曲「ピアノのための4つの小舞曲」より第1曲「ホパーク (ゴパーク) イ短調」を弾きました。

ノーマン・オニールは1875年3月14日に英国の首都ロンドンで、画家ジョージ・バーナード・オニール (George Bernard O'Neill, 1828 - 1917) の子として生まれました。1890年から1893年までロンドンでアーサー・サマヴェル (Arthur Somervell, 1863 - 1937) に師事したのち、1893年から1897年までドイツ帝国フランクフルト・アム・マインホッホ音楽院イヴァン・クノル (Iwan Knorr, 1853 - 1916) に師事しました。同音楽院の英国と英領ヴィクトリア植民地 (オーストラリア) 出身の学友にヘンリ・バルフォア・ガーディナー (Henry Balfour Gardiner, 1877 - 1950)、ロジャー・クィルター (Roger Quilter, 1877 - 1953)、シリル・スコット (Cyril Scott, 1879 - 1970)、パーシー・グレインジャー (Percy Grainger, 1882 - 1961) がおり、いずれもクノルの教え子である彼ら (オニールを含む) は「フランクフルト・グループ Frankfurt group 」または「ギャング gang 」と呼ばれています。

オニールは1909年から1919年までと1920年から1932年までヘイマーケット王立劇場 (Theatre Royal Haymarket) の常任指揮者を、1919年から1920年までセント・ジェームズ劇場 (St James's Theatre) の指揮者を務めました。1916年から1934年までロイヤル・フィルハーモニック協会の会計係。1924年から王立音楽アカデミーの教員、英国王立音楽検定協会 (Associated Board of the Royal Schools of Music, ABRSM) の審査員を務めました。1934年3月3日にロンドンで亡くなりました。

妻のアディーン・オニール (Adine O'Neill, née Ruckert, 1875 - 1947) はピアノ奏者・音楽批評家・音楽教師で、1903年からハマースミスセントポール女学校の音楽科長を務めました。

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2025-03-10

150th Birth Anniversary of Aleksandr Goldenweiser

Aleksandr Borisovich Goldenweiser (Александр Борисович Гольденвейзер, Moldova/Russia, 1875 - 1961) - 15 Fughettas, Op. 16; No. 13. Andante (A minor).

今日はベッサラビア出身のロシアの作曲家・ピアノ奏者・音楽批評家・音楽教師、アレクサンドル・ボリーソヴィチ・ゴリデンヴェイゼル生誕150年の誕生日です。今回はゴリデンヴェイゼル作曲「ピアノのための15のフゲッタ Op. 16」より第13番 イ短調を弾きました。

アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルは1875年3月10日 (ユリウス暦2月26日) にロシア帝国ベッサラビア県の県都キシニョーフ (現在のモルドバの首都キシナウ) で生まれました。子供の頃にヴァシーリー・プロクーニン (Vasily Prokunin, 1848 - 1910) からピアノのレッスンを受けました。モスクワ音楽院アレクサンドル・ジローティ (Aleksandr Siloti, 1863 - 1945)、パーヴェル・パプスト (Pavel Pabst, 1854 - 1897) にピアノを、ヴァシーリー・サフォーノフ (Vasily Safonov, 1852 - 1918) に室内アンサンブルを師事。1895年に金メダルを獲得して音楽院ピアノ科を卒業。アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906)、ミハイル・イッポリトフ=イヴァノフ (Mikhail Ippolitov-Ivanov, 1859 - 1935) に作曲法を、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を師事して1897年に音楽院作曲科を卒業しました。

1904年から1906年までモスクワ・フィルハーモニー協会音楽演劇学校 (現在のロシア舞台芸術アカデミー) のピアノ教師。1906年から1961年までモスクワ音楽院教授を、1922年から1924年、1939年から1942年まで同院院長を務めました。1932年にモスクワ音楽院附属中央音楽学校を設立。 1961年11月26日にモスクワ近郊のニコーリナ・ゴラー (Nikolina-Gora) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

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2025-03-09

150th Death Anniversary of Apollon Gussakovsky

Apollon Silvestrovich Gussakovsky (Аполлон Сильвестрович Гуссаковский ; Аполлон Селіверстович Гуссаковський, Ukraine/Russia, 1841 - 1875) - Альбомные листки [4 Albumblätter]; No. 3. В альбом Яковлевой [To Yakovleva's album]. Allegretto (B minior).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・ピアノ奏者・土壌化学者アポッローン・シリヴェーストロヴィチ・グッサコーフスキー (アポッローン・セリヴェールストヴィチ・フッサコーフシキー) 没後150年の命日です。今回はグッサコーフスキー作曲「4つのアルバムの綴り」より第3番「ヤーコヴレヴァのアルバムに、アレグレット ロ短調」を弾きました。

アポッローン・グッサコーフスキーは1841年にロシア帝国ハリコフ県アフトゥイル郡の郡都アフトゥイルカ (現在のウクライナ領オフトゥイルカ Okhtyrka) で生まれました。1857年にミリー・バラキレフ (Mily Balakirev, 1837 - 1910) と出会い、彼に作曲法を学びながらバラキレフ・サークルの一員となりました。

このサークルにはツェーザリ・キュイ (César Cui, 1835 - 1918)、モデスト・ムソルグスキー (Modest Mussorgsky, 1839 - 1881) が参加しており、1861年にグッサコーフスキーがサークルを離れたのち、入れ替わるようにニコライ・リムスキー=コルサコフ (Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908) が、1862年にアレクサンドル・ボロディン (Aleksandr Borodin, 1833 - 1887) が参加します。1867年5月24日 (ユリウス暦5月12日) の演奏会のヴラディーミル・スターソフ (Vladimir Stasov, 1824 - 1906) による音楽批評から、彼らは「力強い一団 Могучая кучка 」と呼ばれ、のちに「五人組 Groupe des Cinq 」とも呼ばれるようになります。ロシア五人組の5人には数えられませんでしたが、1866年からニコライ・ロディジェンスキー (Nikolay Lodyzhensky, 1843 - 1916)、1871年からニコライ・シチェルバチョーフ (Nikolay Shcherbachyov, 1853 - 1922) もこのサークルに参加していました。

グッサコーフスキーは1863年にサンクトペテルブルク大学自然科学部を卒業し、化学の学位を取得。ロシア帝国宮内省帝室領局 (Департамент уделов) の官吏となったのち、1863年から1867年まで国外で化学と農学を学びました。1869年からサンクトペテルブルク農業大学 (Санкт-Петербургский земледельческий институт) で教鞭を執りました。1875年3月9日 (ユリウス暦2月25日) にサンクトペテルブルクで亡くなりました。

作曲家としては50以上の作品が残されており、管弦楽曲、室内楽曲、劇音楽のほか、多数のピアノ曲があります。それらのほとんどはバラキレフ・サークルに参加していた1857年から1861年にかけて書かれました。

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2025-03-07

100th Death Anniversary of Anton Schmoll

Anton Schmoll (Antoine Schmoll, Germany/France, 1841 - 1925) - 80 Études moyennes et progressives formant suite à la Méthode Schmoll, Opp. 116-119; No. 29 (Deuxième série, 7me dégre de force, Op. 117 No. 4). Mignardise. Allegro (E minor). Travail de syncopes, qui n'offre de la difficulté qu'en raison du mouvement animé. Faire ressortir les contrastes de sonorité et de mouvement qui caractérisent la 2de reprise. À Mademoiselle Pagnon (Saint-Étienne).

今日はドイツ出身のフランスの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師・天文学者、アントン・シュモル (アントワーヌ・シュモル) 没後100年の命日です。今回はシュモル作曲「中程度で段階的な80の練習曲 Op. 116-119」より第29番 (第2巻 Op. 117 第4番)「可憐さ ホ短調」を弾きました。

アントン・シュモルは1841年8月17日にプロイセン王国ライン州コブレンツ県にあるクロイツナハ近郊のシュトロームベルク (Stromberg) で、ルクセンブルク出身の両親の子として生まれました。7歳より義兄のマルティン・エールハルト (Martin Ehrhardt) からピアノを学びはじめ、次いでオルガン、和声法、作曲法を学び、コブレンツを拠点に活動していたフランツ・ヒュンテン (Franz Hünten, 1792 - 1878) のレッスンを受けました。1853年には公開の演奏会で自作のマズルカを弾きました。18歳になると父の意向により鉱山学校に入学し、そこで2年間学んだのち、3年間兵役に就きました。兵役を終えると、家族の反対を振り切って音楽家の道に進むことを決意し、フランスに向かいました。

1864年にトゥールーズに移り、同地でイニャス・レイバック (Ignace Xavier Joseph Leybach, 1817 - 1891) に師事しました。1873年にブリュッセルに移ったのち、1875年にパリに定住しピアノ教師として名声を得ました。パリではアンリ・エルツ (Henri Herz, 1803 - 1888)、アドリアン・タレクシ (Adrien Talexy, 1820 - 1881)、フリードリヒ・ブルクミュラー (Friedrich Burgmüller, 1806 - 1874)、ステファン・ヘラー (Stephen Heller, 1813 - 1888) と親交を深めました。ヘラーとは特に親しくなり、墓所のあるペール・ラシェーズ墓地にヘラーの記念碑を建設する運動を主導しました。作曲家としては教育的作品を中心とした数多くのピアノ曲を出版しています。

また、天文学者カミーユ・フラマリオン (Camille Flammarion, 1842 - 1925) の著作から天文学や超心理学に興味を持ち、フランス天文学協会の雑誌『天文学 L ' Astronomie 』に太陽黒点数の統計についてのレポートなどを投稿した一方で、ミュンヒェンの神智学雑誌『スフィンクス Sphinx 』、ライプツィヒの雑誌『心霊現象研究 Psychische Studien 』に寄稿したほか、ロンドンの心霊現象研究協会にテレパシーについての実験レポートを提出しています。1925年3月7日にパリで亡くなりました。忌日については、シュモルの一人娘フアナ・シュモル (Juana Schmoll Piquand, 1885 - 1957) の知人の証言が典拠であり、 IMSLP の Forum #7443. Death date ⟨Category:Schmoll, Anton⟩ (Posted at 2019-08-08 by Carolus) に詳細が書かれています。

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