2025-02-20

100th Death Anniversary of Marco Enrico Bossi

Marco Enrico Bossi (Italy, 1861 - 1925) - 6 Morceaux faciles et progressifs pour les enfants pour piano, Op. 80 (Napoli: Raffaele Izzo); No. 1. Mélodie. Allegretto cantabile (F major). À ma fille Zita.

今日はイタリアの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者・音楽教師、マルコ・エンリコ・ボッシ没後100年の命日です。今回はボッシ作曲「子供のための易しく段階的な6つのピアノ小品 Op. 80」より第1曲「メロディ ヘ長調」(娘ツィータに献呈) を弾きました。

マルコ・エンリコ・ボッシは1861年4月25日にイタリア王国北部ガルダ湖畔サロ (Salò) で生まれました。サロ大聖堂オルガン奏者である父のピエトロ・ボッシ (Pietro Bossi, 1834 - 1896) に学んだのち、1871年から1873年までボローニャ音楽高等学校 (現在のボローニャ音楽院) で学びました。次いで1873年から1881年までミラノ音楽院フランチェスコ・サンガッリ (Francesco Sangalli, 1820 - 1902) にピアノを、レアンドロ・カンパナーリ (Leandro Campanari, 1859 - 1939) にヴァイオリンを、ポリービオ・フマガッリ (Polibio Fumagalli, 1830 - 1900) にオルガンを、カルロ・ボニフォルティ (Carlo Boniforti, 1818 - 1879) に対位法を、アミルカーレ・ポンキエッリ (Amilcare Ponchielli, 1834 - 1886)、チェーザレ・ドミニチェーティ (Cesare Dominiceti, 1821 - 1888) に作曲法を師事しました。1879年に音楽院ピアノ科を優秀な成績で卒業し、1881年に作曲科を卒業しました。

1881年にコモ大聖堂楽長兼オルガン奏者に就任。優秀なオルガン奏者として名声を得ました。1890年にナポリに移り、ナポリ音楽院の和声法とオルガンの教師となりました。1895年から1902年までヴェネツィアのベネデット・マルチェッロ音楽学校 (現在のベネデット・マルチェッロ音楽院) 校長、1902年から1911年までボローニャ音楽高等学校校長、1916年から1923年までローマのサンタ・チェチーリア音楽高等学校 (1919年にサンタ・チェチーリア音楽院に改称) 校長を歴任。1925年2月20日に米国ニューヨークからイタリアへ帰国する途中の大西洋の船上で亡くなりました。

弟に作曲家・オルガン奏者のコスタンテ・アドルフォ・ボッシ (Costante Adolfo Bossi, 1876 - 1953)、子に作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師のレンツォ・ボッシ (Renzo Bossi, 1883 - 1965) がいます。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2025-02-10

150th Birth Anniversary of John Mokrejs

John Mokrejs (USA, 1875 - 1968) - Musical Sketches. 6 First and Second Grade Pieces for the Piano, Op. 11 (Chicago: Clayton F. Summy Co., 1908); No. 3. In the Hayloft. Dreamily (B flat major). To Mr. A. D. Jewett.

今日は米国の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、ジョン・モクレイス生誕150年の誕生日です。今回はモクレイス作曲「音楽のスケッチ集、ピアノのための第1、2級の6つの小品 Op. 11」より第3曲「干し草置き場の屋根裏で 変ロ長調」を弾きました。

ジョン・モクレイスは1875年2月10日にアイオワ州シーダーラピッズで、ボヘミア出身のビール醸造所労働者 (brewery worker) であるウェンシル・モクレイス (Wencil Mokrejs, 1836 - 1875) の子として生まれました。作曲家・ピアノ教師として活動し、1968年11月22日に生地のシーダーラピッズで、93歳という高齢で亡くなりました。シーダーラピッズにあるチェコ国立墓地 (Czech National Cemetery, Cedar Rapids, Iowa) に埋葬されています。

出典:

  • Iowa, U.S., Births (series) 1880-1904, 1921-1944 and Delayed Births (series), 1856-1940, via Ancestry.com. Retrieved 2025-02-10.
  • Iowa, U.S., Death Records, 1880-1968, via Ancestry.com. Retrieved 2025-02-10.
  • Find a Grave. Retrieved 2025-02-10.

2025-02-07

150th Birth Anniversary of Erkki Melartin

Erkki Melartin (Finland, 1875 - 1937) - Kaksi viikkoa. Pianokappaleita nuorisolle [Two weeks. Piano pieces for the Youth], Op. 143 (Helsinki: Musiikkikeskus OY, 1928); No. 4. Tanssi hämärissä [Dance in the Twilight]. Allegretto (A minor).

今日はフィンランドの作曲家・指揮者・音楽教師、エルッキ・メラルティン生誕150年の誕生日です。今回はメラルティン作曲「二週間、若者のためのピアノ小品集 Op. 143」(全7曲) より第4曲「薄明の舞曲 イ短調」を弾きました。

エルッキ・メラルティンは1875年2月7日にフィンランド大公国ヴィープリ州のカキサルミ (Käkisalmi. 現在のロシア領プリオゼルスク Priozersk) で生まれました。1892年から1899年までヘルシンキ音楽学校 (現在のシベリウス音楽院) で校長のマルティン・ヴェーゲリウス (Martin Wegelius, 1846 - 1906) に、1899年から1901年までオーストリア=ハンガリー帝国の首都ヴィーンでローベルト・フックス (Robert Fuchs, 1847 - 1927) に師事しました。母校のヘルシンキ音楽学校で1895年から1898年まで補助教員、1901年から1907年まで教員として音楽理論を教えました。1908年から1911年までヴィープリ (現在のロシア領ヴィーボルク) の管弦楽団で指揮者として活動し、同地でオーケストラの学校を設立しました。カール・エークマン (Karl Ekman, 1869 - 1947) の後任として1911年から1936年までヘルシンキ音楽学校の校長を務めました。1919年に名誉教授の称号を取得。指揮者としてフィンランド国外をしばしば演奏旅行で巡り、スカンジナビア、ロシア、ドイツ、北アフリカ、インド、エジプトを訪れました。1937年2月14日にヘルシンキプキンマキ地区 (Pukinmäki, Helsinki) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2025-02-02

150th Birth Anniversary of Fritz Kreisler

Fritz Kreisler (Austria/USA, 1875 - 1962) - Klassische Manuskripte (Klavier 2 händig); No. 2. Andantino im Stile von Padre Martini (F major. Mainz: B. Schott's Söhne, 1911).

今日はオーストリア出身の作曲家・ヴァイオリン奏者、フリッツ・クライスラー生誕150年の誕生日です。今回はクライスラー作曲「パードレ・マルティーニの様式によるアンダンティーノ」のピアノ独奏のために書かれたヴァージョンを弾きました。初版ではパードレ・マルティーニ (Padre Martini)、つまりジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ (Giovanni Battista Martini, 1706 - 1784) が作曲した楽曲の手稿譜を基にしたクライスラーによる編曲、という形で出版されましたが、1935年にこの作品を含む出典不明の古典的作品をクライスラーが偽作であることを認めました。原曲と言えるような過去の作曲家の手稿譜 (Klassische Manuskripte ; Classical Manuscripts) は存在せず、実はクライスラーのオリジナル作品だったということです。

以下に、初版 (ヴァイオリンとピアノの編成) に書かれた註釈を掲載します。

..Notice..

The original manuscripts used for these transcriptions are the private property of Mr. Fritz Kreisler and are now published for the first time; they are moreover so freely treated that they constitute, in fact, original works. Further transcriptions of any of these compositions wiil therefore constitute an infringement of copyright.

When played in public, Mr. Kreisler's name must be mentioned on the programme.

THE PUBLISHERS.

フリッツ・クライスラーは1875年2月2日にオーストリア=ハンガリー帝国の首都ヴィーンで生まれました。4歳のときに医師でアマチュアのヴァイオリン奏者でもあった父からヴァイオリンの手ほどきを受け、次いでジャック・アウバー (Jacques Auber) のレッスンを受けました。1882年にヴィーン楽友協会音楽院に最年少 (7歳) の学生として入学し、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世 (Joseph Hellmesberger Jr., 1855 - 1907) にヴァイオリンを、アントン・ブルックナー (Anton Bruckner, 1824 - 1896) に音楽理論を師事し、金メダルを獲得して音楽院を卒業。1885年から1887年までパリ音楽院で、ジョゼフ・ランベール・マサール (Joseph Lambert Massart, 1811 - 1892) にヴァイオリンを、レオ・ドリーブ (Léo Delibes, 1836 - 1891) に作曲法を師事し、12歳で一等賞を獲得して卒業。以後、ヴァイオリンの指導を受けることはありませんでした。

1889年から1890年にかけて、モーリツ・ローゼンタール (Moriz Rosenthal, 1862 - 1946) の共演者として米国を演奏旅行。ヴィーンに戻るとギムナジウムで2年間、さらに医科進学の予備校生として2年間学び、その後兵役に就くといったヴァイオリン演奏から遠ざかった時期を過ごしました。1896年に再び演奏家を志し、ヴィーンの宮廷楽団への入団を試みますが失敗。1899年12月のアルトゥール・ニキシュ (Arthur Nikisch, 1855 - 1922) 指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演が国際的な活躍の契機となりました。

第一次世界大戦が勃発すると陸軍士官としてオーストリア帝国軍に従軍。負傷して除隊となり、1914年11月に妻の母国である米国に向かいます。1923年の春には日本を訪問。1924年から1934年までベルリンに移住。ナチス・ドイツがオーストリアを併合するとフランス市民権を取得。1939年には米国に逃れ、1943年に米国市民権を取得。公開演奏としては1947年11月1日のカーネギー・ホールでの公演が最後となりました。1962年1月29日にニューヨークで亡くなりました。

出典:

  • Katz, Mark (2003/2016). “Kreisler, Fritz”. MGG Online. Retrieved 2025-02-02.
  • Schwarz, Boris (2001). “Kreisler, Fritz”. Grove Music Online. Retrieved 2025-02-02.
  • 岩井宏之「クライスラー」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館. コトバンク. Retrieved 2025-02-02.

2025-02-01

150th Death Anniversary of William Sterndale Bennett

Sir William Sterndale Bennett (England, 1816 - 1875) - Preludes and Lessons, Op. 33 (London: Augener & Co., 1853); No. 26. Prelude and Lesson “Il penseroso” in B flat minor.

今日はイングランドの作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、ウィリアム・スターンデイル・ベネット没後150年の命日です。今回はベネット作曲「30の前奏曲とレッスン Op. 33」より第26番「前奏曲とレッスン『沈思の人』 変ロ短調」を弾きました。副題の『沈思の人 Il penseroso 』の由来については分かりませんが、詩人ジョン・ミルトン (John Milton, 1608 - 1674) の同名の詩 Il Penseroso から取られたのかもしれません。

ベネットの作品については以前に2曲、「性格的練習曲 ト短調『熱情』 Op. 29 No. 2」(2012年4月13日録音) と「前奏曲 変ロ長調 WoO 60」(2016年2月2日録音) を演奏しているので、ここで併せて紹介します。

William Sterndale Bennett - 2 Characteristic Studies for Piano, Op. 29 (1841); No. 2. ‘L'Appassionata’ in G minor.

William Sterndale Bennett - Praeludium in B flat major for Piano, WoO 60 (1863).

父のロバート・ベネット (Robert Bennett, 1788 - 1819) は1811年よりシェフィールド教区教会 (Sheffield Parish Church) オルガン奏者・ピアノ教師を務めており、1812年5月28日にケンブリッジ大学植物園の学芸員ジェイムズ・ドン (James Donn) の娘エリザベス・ドン (Elizabeth Bennett, née Donn, 1791 - 1818) と結婚し、3人の娘と1人の息子をもうけました。1816年4月13日にシェフィールドで生まれた長男 (第3子) は、ロバートの作曲した「6つのメロディ 6 Melodies to Original Poetry」(1815) に詩を提供した彼の友人のウィリアム・ハンドリー・スターンデイル (William Handley Sterndale) にちなんで、ウィリアム・スターンデイル・ベネットと名付けられました。1818年5月7日に母エリザベスは三女を出産して間もなく亡くなり、その末娘も生まれて数日で亡くなりました。1819年11月3日には父ロバートも亡くなり、両親を失ったウィリアムと2人の姉は、ケンブリッジ大学俗人聖歌隊員 (バス) である祖父ジョン・ベネット (John Bennett, 1754 - 1837) に引き取られました。1824年2月17日より祖父の所属するキングズ・カレッジで聖歌隊員となり、1826年3月7日にキングズ・カレッジ副学長の推薦により王立音楽アカデミーに入学しました。

王立音楽アカデミーではパオロ・スパニョレッティ (Paolo Spagnoletti, 1768 - 1834)、アントニオ・ジェイムズ・ウーリ (Antonio James Oury, 1800 - 1883) にヴァイオリンを、ウィリアム・ヘンリ・ホームズ (William Henry Holmes, 1812 - 1885) にピアノを、ウィリアム・クロッチ (William Crotch, 1775 - 1847)、チプリアーニ・ポッター (Cipriani Potter, 1792 - 1871) に作曲法を師事しました。楽器演奏については、当初はヴァイオリンを、のちにピアノを主専攻にしています。1832年の夏に作曲を開始し、同年11月28日にケンブリッジで初演された「ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 Op. 1」は好評を博し、1833年6月26日の王立音楽アカデミー夏至演奏会でこの曲を聴いたフェーリクス・メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn, 1809 - 1847) により、ベネットはドイツへ招待されることになりました。1833年4月から1年間、ワンズワース聖アン教会 (St Anne's Church, Wandsworth) オルガン奏者を務めました。1836年5月にメンデルスゾーンが音楽監督を務めるデュッセルドルフニーダーライン音楽祭に参加。同年9月にアカデミーでの学業を終え、10月にドイツのライプツィヒへ渡りました。ライプツィヒではローベルト・シューマン (Robert Schumann, 1810 - 1856) と親しくなり、彼の批評でもベネットの作品や演奏は好意的に評価されました。

1837年7月に英国に戻り、10月から個人教授、王立音楽アカデミーの教師として活動を始めました。1844年に王立音楽アカデミーの教え子であるメアリー・ウッド (Mary Bennett, née Wood, 1824 - 1862) と結婚。1849年にロンドンでバッハ協会 (Bach Society) を設立。1855年にロンドン・フィルハーモニック協会 (The Philharmonic Society of London) 管弦楽団の指揮者に就任。1856年にケンブリッジ大学の音楽教授に選出。1866年に王立音楽アカデミー学長に就任。1875年1月に病気となり、2月1日にロンドンで死去。2月6日にウェストミンスター寺院に埋葬されました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2025-01-11

150th Birth Anniversary of Reinhold Glière

Reinhold Glière (Рейнгольд Моріцевич Глієр, Рейнгольд Морицевич Глиэр, Ukraine/Russia, 1875 - 1956) - 24 Pièces caractéristiques pour la jeunesse pour piano, Op. 34; No. 10. Au berceau ; У колыбели. Andante (D flat major).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・指揮者・音楽教師、レインゴリト・グリエール (レインホリド・フリイェール) 生誕150年の誕生日です。 今回はグリエール作曲「若者のための24の性格的小品 Op. 34」より第10曲「ゆりかごの中で 変ニ長調」を弾きました。

レインゴリト・グリエールは1875年1月11日 (ユリウス暦1874年12月30日) にロシア帝国キエフ県の県都キエフ (キーウ) で、 ザクセン王国ウンターザクセンベルク (現在のクリンゲンタール Klingenthal) 出身の管楽器製作者エルンスト・モーリツ・グリーア (Ernst Moritz Glier, 1834 - 1896) と、ポーランド立憲王国ワルシャワ出身のユゼファ・コルチャク (Józefa (Josephine) Korczak, 1849 - 1935) の二男として生まれました。キエフのルーテル聖カタリナ教会 (Лютеранська кірха Святої Катерини) で洗礼を受け、ラインホルト・エルンスト・グリーア (Reinhold Ernst Glier) と名付けられました。

キエフのギムナジウムで学んだのち、1891年からロシア音楽協会附属キエフ音楽学校 (現在のレインゴリト・グリエール記念キーウ音楽大学) で、オタカル・シェフチーク (Otakar Ševčík, 1852 - 1934) にヴァイオリンを、エウゲニュシュ・リプ (Eugeniusz Ryb, 1859 - 1924) に音楽理論を師事し、1894年に卒業。キエフ音楽学校時代の親友にイヴァン・クルィジャノーフスキー (Ivan Kryzhanovsky, 1867 - 1924)、ボレスラーフ・ヤヴォールスキー (Boleslav Yavorsky, 1877 - 1942)、レオニート・ニコラーエフ (Leonid Nikolayev, 1878 - 1942) がいます。1891年に演奏旅行で指揮者としてキエフを訪れたピョートル・チャイコフスキー (Pyotr Tchaikovsky, 1840 - 1893) の演奏に触れ、モスクワで学ぶことを決意しています。1894年に入学したモスクワ音楽院で、ニコライ・ソコローフスキー (Nikolay Sokolovsky, 1865 - 1921)、ヤン・フジーマリー (Jan Hřímalý, 1844 - 1915) にヴァイオリンを、アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906)、ゲオルギー・コニュス (Georgy Conus, 1862 - 1933) に和声法を、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を、ミハイル・イッポリトフ=イヴァノフ (Mikhail Ippolitov-Ivanov, 1859 - 1935) に作曲法を師事し、1900年に金メダルを獲得して音楽院の作曲科を卒業しました。モスクワに移ってからアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル (Aleksandr Goldenweiser, 1875 - 1961) と交友を深め、1902年にはゴリデンヴェイゼルからピアノのレッスンを受けています。1900年から1903年までサンクトペテルブルクのベリャーエフ・サークルに参加し、1901年からベリャーエフ社 (Leipzig: M. P. Belaieff) より自作の出版を始めています。1898年に作曲され、1902年にペテルブルクで初演された「弦楽六重奏曲第1番 Op. 1」(師タネーエフに献呈) により、1905年に最初のグリンカ賞を受賞しました。

1901年より、エレーナ・グネーシナ (Elena Gnesina, 1878 - 1967) らグネーシナ姉妹により設立されたモスクワのグネーシン音楽専門学校の教師。1902年に師タネーエフの推薦により1902年から1904年にかけてニコライ・ミャスコフスキーセルゲイ・プロコフィエフの個人教授をしました。1905年から1908年までドイツ帝国の首都ベルリンオスカー・フリート (Oskar Fried, 1871 - 1941) に指揮法を師事し、その後、再びグネーシン音楽専門学校に戻り教師を務めました。1913年の開校時にキエフ音楽院の作曲法の教授に就任し、翌年の1914年から1920年まで同音楽院の院長を務めました。1920年から1941年まで母校モスクワ音楽院で作曲法の教授を、1938年から1948年までソビエト連邦作曲家同盟組織委員会議長を務めました。1956年6月23日にモスクワで亡くなり、モスクワのノヴォデヴィチ墓地 (Новодевичье кладбище) に埋葬されました。

教え子に以下の人物がいます。

出典: