2025-01-11

150th Birth Anniversary of Reinhold Glière

Reinhold Glière (Рейнгольд Моріцевич Глієр, Рейнгольд Морицевич Глиэр, Ukraine/Russia, 1875 - 1956) - 24 Pièces caractéristiques pour la jeunesse pour piano, Op. 34; No. 10. Au berceau ; У колыбели. Andante (D flat major).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・指揮者・音楽教師、レインゴリト・グリエール (レインホリド・フリイェール) 生誕150年の誕生日です。 今回はグリエール作曲「若者のための24の性格的小品 Op. 34」より第10曲「ゆりかごの中で 変ニ長調」を弾きました。

レインゴリト・グリエールは1875年1月11日 (ユリウス暦1874年12月30日) にロシア帝国キエフ県の県都キエフ (キーウ) で、 ザクセン王国ウンターザクセンベルク (現在のクリンゲンタール Klingenthal) 出身の管楽器製作者エルンスト・モーリツ・グリーア (Ernst Moritz Glier, 1834 - 1896) と、ポーランド立憲王国ワルシャワ出身のユゼファ・コルチャク (Józefa (Josephine) Korczak, 1849 - 1935) の二男として生まれました。キエフのルーテル聖カタリナ教会 (Лютеранська кірха Святої Катерини) で洗礼を受け、ラインホルト・エルンスト・グリーア (Reinhold Ernst Glier) と名付けられました。

キエフのギムナジウムで学んだのち、1891年からロシア音楽協会附属キエフ音楽学校 (現在のレインゴリト・グリエール記念キーウ音楽大学) で、オタカル・シェフチーク (Otakar Ševčík, 1852 - 1934) にヴァイオリンを、エウゲニュシュ・リプ (Eugeniusz Ryb, 1859 - 1924) に音楽理論を師事し、1894年に卒業。キエフ音楽学校時代の親友にイヴァン・クルィジャノーフスキー (Ivan Kryzhanovsky, 1867 - 1924)、ボレスラーフ・ヤヴォールスキー (Boleslav Yavorsky, 1877 - 1942)、レオニート・ニコラーエフ (Leonid Nikolayev, 1878 - 1942) がいます。1891年に演奏旅行で指揮者としてキエフを訪れたピョートル・チャイコフスキー (Pyotr Tchaikovsky, 1840 - 1893) の演奏に触れ、モスクワで学ぶことを決意しています。1894年に入学したモスクワ音楽院で、ニコライ・ソコローフスキー (Nikolay Sokolovsky, 1865 - 1921)、ヤン・フジーマリー (Jan Hřímalý, 1844 - 1915) にヴァイオリンを、アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906)、ゲオルギー・コニュス (Georgy Conus, 1862 - 1933) に和声法を、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を、ミハイル・イッポリトフ=イヴァノフ (Mikhail Ippolitov-Ivanov, 1859 - 1935) に作曲法を師事し、1900年に金メダルを獲得して音楽院の作曲科を卒業しました。モスクワに移ってからアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル (Aleksandr Goldenweiser, 1875 - 1961) と交友を深め、1902年にはゴリデンヴェイゼルからピアノのレッスンを受けています。1900年から1903年までサンクトペテルブルクのベリャーエフ・サークルに参加し、1901年からベリャーエフ社 (Leipzig: M. P. Belaieff) より自作の出版を始めています。1898年に作曲され、1902年にペテルブルクで初演された「弦楽六重奏曲第1番 Op. 1」(師タネーエフに献呈) により、1905年に最初のグリンカ賞を受賞しました。

1901年より、エレーナ・グネーシナ (Elena Gnesina, 1878 - 1967) らグネーシナ姉妹により設立されたモスクワのグネーシン音楽専門学校の教師。1902年に師タネーエフの推薦により1902年から1904年にかけてニコライ・ミャスコフスキーセルゲイ・プロコフィエフの個人教授をしました。1905年から1908年までドイツ帝国の首都ベルリンオスカー・フリート (Oskar Fried, 1871 - 1941) に指揮法を師事し、その後、再びグネーシン音楽専門学校に戻り教師を務めました。1913年の開校時にキエフ音楽院の作曲法の教授に就任し、翌年の1914年から1920年まで同音楽院の院長を務めました。1920年から1941年まで母校モスクワ音楽院で作曲法の教授を、1938年から1948年までソビエト連邦作曲家同盟組織委員会議長を務めました。1956年6月23日にモスクワで亡くなり、モスクワのノヴォデヴィチ墓地 (Новодевичье кладбище) に埋葬されました。

教え子に以下の人物がいます。

出典: