2025-04-02

100th Death Anniversary of Léopold Dauphin

Léopold Dauphin (France, 1847 - 1925) - Petites chansons sans paroles. Recueil de 20 morceaux faciles pour piano (Avec des Quatrains épigraphiques par Émile Blémont), Op. 51 (Paris: Henry Lemoine, 1885).

No. 5. Marche religieuse. Larghetto (C major). à André Victor Wilder.

Orgues célestes, pars rayons,
Parfum de l'encens qui s'embrase,
Dites-nous la sublime extase
Des saintes exaltations.

No. 9. Chagrin d'enfant. Adagio sostenuto (C major). à Judith et Rachel Léon Cladel.

Madeleine ext triste et préoccupée;
C'est un grand chagrin dans son petit cœur;
Son frère un méchant, son frère un moqueur,
A peur d'épouser sa belle poupée.

今日はフランスの作曲家・ヴァイオリン奏者・詩人・小説家・批評家、レオポルド・ドーファン没後100年の命日です。今回はドーファン作曲「小無言歌集、ピアノのための20の易しい小品 (エミール・ブレモン (Émile Blémont, 1839 - 1927) による題辞としての四行詩つき) Op. 51」(全20曲) より、第5曲「宗教的行進曲 ハ長調」と第9曲「子供の悲しみ ハ長調」を弾きました。第5曲「宗教的行進曲」はヴィクトル・ヴィルデル (Victor Wilder, 1835 - 1892) の息子、アンドレ・ヴィルデル (André Wilder, 1871 - 1965) に、第9曲「子供の悲しみ」はレオン・クラデル (Léon Cladel, 1834 - 1892) の2人の娘、ラシェル=ルイーズ・クラデル (Rachel-Louise Cladel, 1878 - 1943)、ジュディット・クラデル (Judith Cladel, 1873 - 1958) に献呈されています。

レオポルド・ドーファンは1847年11月1日にフランス共和国エロー県の地中海に面した都市ベジエ (Béziers) で生まれました。18歳のときに首都パリに移り、パリ音楽院フランソワ・バザン (François Bazin, 1816 - 1878) に作曲法を師事。1925年4月2日に亡くなりました。

子にジャーヌ、マリ=マドレーヌ、マルグリートという3人の娘がいます。ジャーヌ・ドーファン (Jeanne "Jane" Dauphin, 1875 - 1952) はジョゼフ・ラロ (Joseph Lalo) と結婚。挿絵画家となったマリ=マドレーヌ・ドーファン (Marie-Madeleine Dauphin, 1878 - 1942) は台本作家・詩人のフラン=ノアン (Franc-Nohain, 1872 - 1934) と結婚。マルグリート・ドーファン (Marguerite Dauphin, b. 1879) は著述家・音楽批評家のアドルフ・ボショ (Adolphe Boschot, 1871 - 1955) と結婚しました。

出典:

2025-03-27

100th Death Anniversary of Oscar Depuydt

Oscar Depuydt (1858 - 1925) - Interlude for Organ or Harmonium. Andantino (A minor).

今日はベルギー・フランデレンの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、オスカル・デペイト没後100年の命日です。今回はデペイト作曲「オルガンまたはハルモニウムのための間奏曲 イ短調」を弾きました。楽譜は「教会オルガン奏者、古今の大家によるオルガンまたはハルモニウムのための易しい小品集 De Kerkorgelist. gemakkelijke orgel of harmoniumstukken van oude en moderne meesters 」第1巻 (Bruxelles: Breitkopf und Härtel, 1922) に第21曲として収録されています。

オスカル・デペイトは1858年10月20日にベルギー王国ウェスト=フランデレン州ブルッヘ (Brugge) で生まれました。幼少期に生地ブルッヘの救世主大聖堂の聖歌隊員となり、1870年にアントウェルペン州メヘレン (Mechelen) に移りました。メヘレンに移住したのは、その頃デペイトが孤児となって里親に引き取られたためとされています。1877年からヘント音楽院 (Koninklijk Conservatorium Gent) で学び、ヨゼフ・ティルボルフス (Jozef Tilborghs, 1830 - 1910) にオルガンを、アドルフ・サミュエル (Adolphe Samuel, 1824 - 1898)、カレル・ミリ (Karel Miry, 1823 - 1889) に和声法、対位法、フーガを師事しました。1880年に和声法、1881年にオルガンと対位法、1882年にフーガで賞を獲得して音楽院を卒業しました。

1880年の末にメヘレンのハンスウェイク聖母教会 (Onze-Lieve-Vrouw van Hanswijk) のオルガン奏者に就任。1881年10月1日にメヘレンの聖ロンバウツ大聖堂 (Sint-Romboutskathedraal) のオルガン奏者に就任し、以後亡くなるまで務めました。同じ頃に聖ロンバウツ・カレッジ (初等・中等教育学校. Sint-Romboutscollege) のピアノ教師になりました。1896年にエドハル・ティネル (Edgar Tinel, 1854 - 1912) がブリュッセル音楽院の対位法とフーガの教師に就任すると、当時レメンス音楽院 (Lemmensinstituut) 院長だったティネルの後任として同音楽院のピアノ、オルガン、伴奏法、対位法の教師に任命されました。 1921年にレメンス音楽院オルガン教師勤続25年の祝賀会が催され、それを機にレオポルド勲章騎士章を受章しました。1925年3月27日にメヘレンで亡くなりました。

作曲家としては主にオルガン曲を書いており、そのほかにモテット、歌曲、グレゴリオ聖歌の伴奏譜を作曲しています。

教え子に以下の人物がいます。

出典: Focquaert, Annelies. “Depuydt, Oscar Leopold Theodoor”. Studiecentrum Vlaamse Muziek. Retrieved 2025-03-25.

2025-03-21

150th Birth Anniversary of Amédée Reuchsel

Amédée Reuchsel (France, 1875 - 1931) - Interlude pour orgue ou harmonium. Andantino non troppo (E major). À son collègue Monsieur l'abbé Joubert.

今日はフランスの作曲家・オルガン奏者、アメデ・ロイクセル (アメデ・ルクセル) 生誕150年の誕生日です。今回はロイクセル作曲「間奏曲 ホ長調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l'orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第2巻 (Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912) の116-117頁に収録されており、この曲集の編纂者であるジョゼフ・ジュベール (Joseph Joubert, 1878 - 1963) に献呈されています。

ロイクセル家はドイツ系フランス人の音楽一族で、アメデ・ロイクセルの祖父であるヨハン・ロイクセル (Johann Reuchsel, 1791/1792 - 1871/1873) はザクセン=マイニンゲン公国のベテンハウゼン (Bettenhausen) 出身のオルガン奏者・指揮者です。1853年にヨハンの家族はフランス王国のリヨンに移住。ヨハンの子の多くは音楽家となり、そのうちの作曲家・オルガン奏者レオン・ロイクセル (Léon Reuchsel, 1840 - 1915) の子に、作曲家・オルガン奏者のアメデ・ロイクセル (Amédée Reuchsel, 1875 - 1931)、作曲家・ヴァイオリン奏者・オルガン奏者のモーリス・ロイクセル (Maurice Reuchsel, 1880 - 1968) がいます。アメデの子ウジェーヌ・ロイクセル (Eugène Reuchsel, 1900 - 1988) は作曲家・ピアノ奏者・オルガン奏者となりました。

アメデ・ロイクセルは1875年3月21日にフランス共和国ローヌ県の県都リヨンで生まれました。ブリュッセル王立音楽院オーギュスト・デュポン (Auguste Dupont1827 - 1890) にオルガンを、アルフォンス・メリ (Alphonse Mailly, 1833 - 1918) に和声法を、エドハル・ティネル (Edgar Tinel, 1854 - 1912) に作曲法を師事し、オルガン、和声法、対位法、作曲法の4つの一等賞を取得。次いでパリでガブリエル・フォーレ (Gabriel Fauré, 1845 - 1924) に師事。

学生時代にリヨンのリセ=アンペール付属礼拝堂のオルガン奏者を務め、次いでリヨン大教会堂 (Grand temple de Lyon) オルガン奏者となり、パリに移ってからサン=ドニ=デュ=サン=サクルマン教会 (Église Saint-Denys-du-Saint-Sacrement) のオルガン奏者を務めました。1908年にシャルティエ賞 (Prix Chartier. 優れた室内楽作品に与えられる作曲賞)を受賞。1931年7月10日にロワレ県モントロー (Montereau) で亡くなりました。

出典:

2025-03-14

150th Birth Anniversary of Norman O'Neill

Norman Houstoun O'Neill (England, 1875 - 1934) - 4 Little Dances for Pianoforte (London: The Anglo-French Music Co., 1923); No. 1. Gopak. Brightly and rather quickly (A minor).

今日はイングランドの作曲家・指揮者・音楽教師、ノーマン・オニール生誕150年の誕生日です。今回はオニール作曲「ピアノのための4つの小舞曲」より第1曲「ホパーク (ゴパーク) イ短調」を弾きました。

ノーマン・オニールは1875年3月14日に英国の首都ロンドンで、画家ジョージ・バーナード・オニール (George Bernard O'Neill, 1828 - 1917) の子として生まれました。1890年から1893年までロンドンでアーサー・サマヴェル (Arthur Somervell, 1863 - 1937) に師事したのち、1893年から1897年までドイツ帝国フランクフルト・アム・マインホッホ音楽院イヴァン・クノル (Iwan Knorr, 1853 - 1916) に師事しました。同音楽院の英国と英領ヴィクトリア植民地 (オーストラリア) 出身の学友にヘンリ・バルフォア・ガーディナー (Henry Balfour Gardiner, 1877 - 1950)、ロジャー・クィルター (Roger Quilter, 1877 - 1953)、シリル・スコット (Cyril Scott, 1879 - 1970)、パーシー・グレインジャー (Percy Grainger, 1882 - 1961) がおり、いずれもクノルの教え子である彼ら (オニールを含む) は「フランクフルト・グループ Frankfurt group 」または「ギャング gang 」と呼ばれています。

オニールは1909年から1919年までと1920年から1932年までヘイマーケット王立劇場 (Theatre Royal Haymarket) の常任指揮者を、1919年から1920年までセント・ジェームズ劇場 (St James's Theatre) の指揮者を務めました。1916年から1934年までロイヤル・フィルハーモニック協会の会計係。1924年から王立音楽アカデミーの教員、英国王立音楽検定協会 (Associated Board of the Royal Schools of Music, ABRSM) の審査員を務めました。1934年3月3日にロンドンで亡くなりました。

妻のアディーン・オニール (Adine O'Neill, née Ruckert, 1875 - 1947) はピアノ奏者・音楽批評家・音楽教師で、1903年からハマースミスセントポール女学校の音楽科長を務めました。

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2025-03-10

150th Birth Anniversary of Aleksandr Goldenweiser

Aleksandr Borisovich Goldenweiser (Александр Борисович Гольденвейзер, Moldova/Russia, 1875 - 1961) - 15 Fughettas, Op. 16; No. 13. Andante (A minor).

今日はベッサラビア出身のロシアの作曲家・ピアノ奏者・音楽批評家・音楽教師、アレクサンドル・ボリーソヴィチ・ゴリデンヴェイゼル生誕150年の誕生日です。今回はゴリデンヴェイゼル作曲「ピアノのための15のフゲッタ Op. 16」より第13番 イ短調を弾きました。

アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルは1875年3月10日 (ユリウス暦2月26日) にロシア帝国ベッサラビア県の県都キシニョーフ (現在のモルドバの首都キシナウ) で生まれました。子供の頃にヴァシーリー・プロクーニン (Vasily Prokunin, 1848 - 1910) からピアノのレッスンを受けました。モスクワ音楽院アレクサンドル・ジローティ (Aleksandr Siloti, 1863 - 1945)、パーヴェル・パプスト (Pavel Pabst, 1854 - 1897) にピアノを、ヴァシーリー・サフォーノフ (Vasily Safonov, 1852 - 1918) に室内アンサンブルを師事。1895年に金メダルを獲得して音楽院ピアノ科を卒業。アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906)、ミハイル・イッポリトフ=イヴァノフ (Mikhail Ippolitov-Ivanov, 1859 - 1935) に作曲法を、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を師事して1897年に音楽院作曲科を卒業しました。

1904年から1906年までモスクワ・フィルハーモニー協会音楽演劇学校 (現在のロシア舞台芸術アカデミー) のピアノ教師。1906年から1961年までモスクワ音楽院教授を、1922年から1924年、1939年から1942年まで同院院長を務めました。1932年にモスクワ音楽院附属中央音楽学校を設立。 1961年11月26日にモスクワ近郊のニコーリナ・ゴラー (Nikolina-Gora) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

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2025-03-09

150th Death Anniversary of Apollon Gussakovsky

Apollon Silvestrovich Gussakovsky (Аполлон Сильвестрович Гуссаковский ; Аполлон Селіверстович Гуссаковський, Ukraine/Russia, 1841 - 1875) - Альбомные листки [4 Albumblätter]; No. 3. В альбом Яковлевой [To Yakovleva's album]. Allegretto (B minior).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・ピアノ奏者・土壌化学者アポッローン・シリヴェーストロヴィチ・グッサコーフスキー (アポッローン・セリヴェールストヴィチ・フッサコーフシキー) 没後150年の命日です。今回はグッサコーフスキー作曲「4つのアルバムの綴り」より第3番「ヤーコヴレヴァのアルバムに、アレグレット ロ短調」を弾きました。

アポッローン・グッサコーフスキーは1841年にロシア帝国ハリコフ県アフトゥイル郡の郡都アフトゥイルカ (現在のウクライナ領オフトゥイルカ Okhtyrka) で生まれました。1857年にミリー・バラキレフ (Mily Balakirev, 1837 - 1910) と出会い、彼に作曲法を学びながらバラキレフ・サークルの一員となりました。

このサークルにはツェーザリ・キュイ (César Cui, 1835 - 1918)、モデスト・ムソルグスキー (Modest Mussorgsky, 1839 - 1881) が参加しており、1861年にグッサコーフスキーがサークルを離れたのち、入れ替わるようにニコライ・リムスキー=コルサコフ (Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908) が、1862年にアレクサンドル・ボロディン (Aleksandr Borodin, 1833 - 1887) が参加します。1867年5月24日 (ユリウス暦5月12日) の演奏会のヴラディーミル・スターソフ (Vladimir Stasov, 1824 - 1906) による音楽批評から、彼らは「力強い一団 Могучая кучка 」と呼ばれ、のちに「五人組 Groupe des Cinq 」とも呼ばれるようになります。ロシア五人組の5人には数えられませんでしたが、1866年からニコライ・ロディジェンスキー (Nikolay Lodyzhensky, 1843 - 1916)、1871年からニコライ・シチェルバチョーフ (Nikolay Shcherbachyov, 1853 - 1922) もこのサークルに参加していました。

グッサコーフスキーは1863年にサンクトペテルブルク大学自然科学部を卒業し、化学の学位を取得。ロシア帝国宮内省帝室領局 (Департамент уделов) の官吏となったのち、1863年から1867年まで国外で化学と農学を学びました。1869年からサンクトペテルブルク農業大学 (Санкт-Петербургский земледельческий институт) で教鞭を執りました。1875年3月9日 (ユリウス暦2月25日) にサンクトペテルブルクで亡くなりました。

作曲家としては50以上の作品が残されており、管弦楽曲、室内楽曲、劇音楽のほか、多数のピアノ曲があります。それらのほとんどはバラキレフ・サークルに参加していた1857年から1861年にかけて書かれました。

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2025-03-07

100th Death Anniversary of Anton Schmoll

Anton Schmoll (Antoine Schmoll, Germany/France, 1841 - 1925) - 80 Études moyennes et progressives formant suite à la Méthode Schmoll, Opp. 116-119; No. 29 (Deuxième série, 7me dégre de force, Op. 117 No. 4). Mignardise. Allegro (E minor). Travail de syncopes, qui n'offre de la difficulté qu'en raison du mouvement animé. Faire ressortir les contrastes de sonorité et de mouvement qui caractérisent la 2de reprise. À Mademoiselle Pagnon (Saint-Étienne).

今日はドイツ出身のフランスの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師・天文学者、アントン・シュモル (アントワーヌ・シュモル) 没後100年の命日です。今回はシュモル作曲「中程度で段階的な80の練習曲 Op. 116-119」より第29番 (第2巻 Op. 117 第4番)「可憐さ ホ短調」を弾きました。

アントン・シュモルは1841年8月17日にプロイセン王国ライン州コブレンツ県にあるクロイツナハ近郊のシュトロームベルク (Stromberg) で、ルクセンブルク出身の両親の子として生まれました。7歳より義兄のマルティン・エールハルト (Martin Ehrhardt) からピアノを学びはじめ、次いでオルガン、和声法、作曲法を学び、コブレンツを拠点に活動していたフランツ・ヒュンテン (Franz Hünten, 1792 - 1878) のレッスンを受けました。1853年には公開の演奏会で自作のマズルカを弾きました。18歳になると父の意向により鉱山学校に入学し、そこで2年間学んだのち、3年間兵役に就きました。兵役を終えると、家族の反対を振り切って音楽家の道に進むことを決意し、フランスに向かいました。

1864年にトゥールーズに移り、同地でイニャス・レイバック (Ignace Xavier Joseph Leybach, 1817 - 1891) に師事しました。1873年にブリュッセルに移ったのち、1875年にパリに定住しピアノ教師として名声を得ました。パリではアンリ・エルツ (Henri Herz, 1803 - 1888)、アドリアン・タレクシ (Adrien Talexy, 1820 - 1881)、フリードリヒ・ブルクミュラー (Friedrich Burgmüller, 1806 - 1874)、ステファン・ヘラー (Stephen Heller, 1813 - 1888) と親交を深めました。ヘラーとは特に親しくなり、墓所のあるペール・ラシェーズ墓地にヘラーの記念碑を建設する運動を主導しました。作曲家としては教育的作品を中心とした数多くのピアノ曲を出版しています。

また、天文学者カミーユ・フラマリオン (Camille Flammarion, 1842 - 1925) の著作から天文学や超心理学に興味を持ち、フランス天文学協会の雑誌『天文学 L ' Astronomie 』に太陽黒点数の統計についてのレポートなどを投稿した一方で、ミュンヒェンの神智学雑誌『スフィンクス Sphinx 』、ライプツィヒの雑誌『心霊現象研究 Psychische Studien 』に寄稿したほか、ロンドンの心霊現象研究協会にテレパシーについての実験レポートを提出しています。1925年3月7日にパリで亡くなりました。忌日については、シュモルの一人娘フアナ・シュモル (Juana Schmoll Piquand, 1885 - 1957) の知人の証言が典拠であり、 IMSLP の Forum #7443. Death date ⟨Category:Schmoll, Anton⟩ (Posted at 2019-08-08 by Carolus) に詳細が書かれています。

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2025-03-04

100th Death Anniversary of Moritz Moszkowski

Moritz Moszkowski (Maurycy Moszkowski, Poland/Germany/France, 1854 - 1925) - 6 Morceaux pour piano, Op. 81 (Mainz: B. Schott's Söhne, 1909); No. 5. Romance. Moderato e dolente (F minor). À Monsieur Ossip Gabrilowitsch.

今日はシュレージエン出身のドイツの作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、モーリツ・モシュコフスキ (マウリツィ・モシュコフスキ) 没後100年の命日です。今回はモシュコフスキ作曲「ピアノのための6つの小品 Op. 81」より第5曲「ロマンス ヘ短調」を弾きました。各曲はそれぞれ異なるピアノ奏者に献呈されており、この第5曲はオーシプ・ガブリローヴィチ (Ossip Gabrilowitsch, 1878 - 1936) に献呈されています。ガブリーロヴィチは曲集が出版された1909年に、小説家マーク・トウェイン (Mark Twain, 1835 - 1910) の娘でありモシュコフスキのベルリン時代のピアノの教え子であるコントラルト歌手クララ・クレメンズ (Clara Clemens, 1874 - 1962) と結婚しています。

モーリツ・モシュコフスキは1854年8月23日にプロイセン王国シュレージエン州の州都ブレスラウ (現在のポーランド領ヴロツワフ) で生まれました。兄に後にベルリンで風刺作家・音楽批評家となったアレクサンダー・モシュコフスキ (Alexander Moszkowski, 1851 - 1943) がいます。兄弟は裕福なユダヤ人の家庭で育ち、モーリツは幼少の頃から楽才を示しました。1865年に家族とともにドレスデンに移り、ドレスデン音楽院 (現在のドレスデン音楽大学) で学びました。1869年に首都ベルリンに移り、シュテルン音楽院エドゥアルト・フランク (Eduard Franck, 1817 - 1893) にピアノを、フリードリヒ・キール (Friedrich Kiel, 1821 - 1885) に作曲法を師事しました。次いで、新音楽アカデミーで校主テオドール・クラク (Theodor Kullak, 1818 - 1882) にピアノを、リヒャルト・ヴュルスト (Richard Wüerst, 1824 - 1881) に作曲法を師事しました。17歳のときにクラクに要請され同校のピアノ教師となり、1872年から25年以上務めました。また、ヴァイオリン演奏も堪能で、新音楽アカデミー管弦楽団で第一ヴァイオリン奏者を務めることもありました。

1873年にピアノ奏者としてベルリンでデビュー。1875年には新音楽アカデミーの学友だったフィーリプ・シャルヴェンカ (Philipp Scharwenka, 1847 - 1917) と企画したベルリンでの演奏会で、現在では多くが失われた初期の管弦楽作品が演奏されました。その作品と演奏はフランツ・リスト (Franz Liszt, 1811 - 1886) に賞讃され、その後、演目の一つであった「ピアノ協奏曲 ロ短調 Op. 3」の2台ピアノ用編曲を裕福な聴衆を集めた非公開演奏会でリストと共演する機会を得たこともあり、作曲家・ピアノ奏者としての名声を高めました。1880年に神経障害を発症し、演奏ツアーで活躍するようなヴィルトゥオーゾを続けることを断念。ピアノ奏者として活動することはあったものの、作曲活動に重点を置くようになります。指揮者としても活躍し、1885年には指揮活動を評価されてロンドン・フィルハーモニック協会に招待され、後に同協会の名誉終身会員となりました。1893年 (Eastick 2001) または1899年 (PWM 2022) にベルリンの王立芸術アカデミーの会員に選出。

1884年にセシル・シャミナード (Cécile Chaminade, 1857 - 1944) の妹アンリエット・シャミナード (Henriette Chaminade, 1863 - 1900) と結婚。アンリエットとの間にマルセル (Marcel Moszkowski, 1887 - 1971)、シルヴィア (Sylvia Moszkowski, 1889 - 1906) の二子をもうけたものの、1890年にアンリエットはパリに戻り、1892年に離婚が成立しました。

1897年にフランス共和国の首都パリに移住。離婚と娘シルヴィアの死去、1910年頃からの健康状態の悪化、聴衆の好みの変化による作品の人気の低下などの不幸が重なり、作曲への熱意を失いつつありました。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ、ポーランド、ロシアの政府証券として所有していた多くの資産を失いました。貧困で苦しんでいたモシュコフスキを助けるために、1921年に米国の旧友が集まって、収益を彼に寄贈するための謝恩演奏会をカーネギー・ホールで開催しました。モシュコフスキは1925年3月4日にパリで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典

2025-02-26

100th Death Anniversary of Adhemar Decq

Adhemar Decq (France, 1850 - 1925) - Sonate en fa majeur pour piano, Op. 55. À Mademoiselle Amélie Parent (Paris: H. Delafontaine, 1884); II. Anadnte (C major).

今日はフランスの作曲家・ピアノ奏者・オルガン奏者、アデマール・デック没後100年の命日です。今回はデック作曲「ピアノソナタ ヘ長調 Op. 55」より第2楽章 ハ長調を弾きました。楽譜の表紙には注意書き (Nota) として、 "Cette Sonate fait suite aux Sonatines de CLÉMENTI." とあり、このソナタがムツィオ・クレメンティ (Muzio Clementi, 1752 - 1832) のソナチネ集に続いて取り組むべき課題として書かれたものだと示されています。

アデマール・デックは1850年4月26日にフランス共和国エーヌ県マルル (Marle) で生まれました。 サントノレ・デロー教会 (Église Saint-Honoré d'Eylau) オルガン奏者を務め、1925年2月26日にパリ第17区で亡くなりました。

出典: “Adhemar Decq (1850-1925)”. Bnf Data. Bibliothèque nationale de France. Retrieved 2025-02-23.

2025-02-20

100th Death Anniversary of Marco Enrico Bossi

Marco Enrico Bossi (Italy, 1861 - 1925) - 6 Morceaux faciles et progressifs pour les enfants pour piano, Op. 80 (Napoli: Raffaele Izzo); No. 1. Mélodie. Allegretto cantabile (F major). À ma fille Zita.

今日はイタリアの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者・音楽教師、マルコ・エンリコ・ボッシ没後100年の命日です。今回はボッシ作曲「子供のための易しく段階的な6つのピアノ小品 Op. 80」より第1曲「メロディ ヘ長調」(娘ツィータに献呈) を弾きました。

マルコ・エンリコ・ボッシは1861年4月25日にイタリア王国北部ガルダ湖畔サロ (Salò) で生まれました。サロ大聖堂オルガン奏者である父のピエトロ・ボッシ (Pietro Bossi, 1834 - 1896) に学んだのち、1871年から1873年までボローニャ音楽高等学校 (現在のボローニャ音楽院) で学びました。次いで1873年から1881年までミラノ音楽院フランチェスコ・サンガッリ (Francesco Sangalli, 1820 - 1902) にピアノを、レアンドロ・カンパナーリ (Leandro Campanari, 1859 - 1939) にヴァイオリンを、ポリービオ・フマガッリ (Polibio Fumagalli, 1830 - 1900) にオルガンを、カルロ・ボニフォルティ (Carlo Boniforti, 1818 - 1879) に対位法を、アミルカーレ・ポンキエッリ (Amilcare Ponchielli, 1834 - 1886)、チェーザレ・ドミニチェーティ (Cesare Dominiceti, 1821 - 1888) に作曲法を師事しました。1879年に音楽院ピアノ科を優秀な成績で卒業し、1881年に作曲科を卒業しました。

1881年にコモ大聖堂楽長兼オルガン奏者に就任。優秀なオルガン奏者として名声を得ました。1890年にナポリに移り、ナポリ音楽院の和声法とオルガンの教師となりました。1895年から1902年までヴェネツィアのベネデット・マルチェッロ音楽学校 (現在のベネデット・マルチェッロ音楽院) 校長、1902年から1911年までボローニャ音楽高等学校校長、1916年から1923年までローマのサンタ・チェチーリア音楽高等学校 (1919年にサンタ・チェチーリア音楽院に改称) 校長を歴任。1925年2月20日に米国ニューヨークからイタリアへ帰国する途中の大西洋の船上で亡くなりました。

弟に作曲家・オルガン奏者のコスタンテ・アドルフォ・ボッシ (Costante Adolfo Bossi, 1876 - 1953)、子に作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師のレンツォ・ボッシ (Renzo Bossi, 1883 - 1965) がいます。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2025-02-10

150th Birth Anniversary of John Mokrejs

John Mokrejs (USA, 1875 - 1968) - Musical Sketches. 6 First and Second Grade Pieces for the Piano, Op. 11 (Chicago: Clayton F. Summy Co., 1908); No. 3. In the Hayloft. Dreamily (B flat major). To Mr. A. D. Jewett.

今日は米国の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、ジョン・モクレイス生誕150年の誕生日です。今回はモクレイス作曲「音楽のスケッチ集、ピアノのための第1、2級の6つの小品 Op. 11」より第3曲「干し草置き場の屋根裏で 変ロ長調」を弾きました。

ジョン・モクレイスは1875年2月10日にアイオワ州シーダーラピッズで、ボヘミア出身のビール醸造所労働者 (brewery worker) であるウェンシル・モクレイス (Wencil Mokrejs, 1836 - 1875) の子として生まれました。作曲家・ピアノ教師として活動し、1968年11月22日に生地のシーダーラピッズで、93歳という高齢で亡くなりました。シーダーラピッズにあるチェコ国立墓地 (Czech National Cemetery, Cedar Rapids, Iowa) に埋葬されています。

出典:

  • Iowa, U.S., Births (series) 1880-1904, 1921-1944 and Delayed Births (series), 1856-1940, via Ancestry.com. Retrieved 2025-02-10.
  • Iowa, U.S., Death Records, 1880-1968, via Ancestry.com. Retrieved 2025-02-10.
  • Find a Grave. Retrieved 2025-02-10.

2025-02-07

150th Birth Anniversary of Erkki Melartin

Erkki Melartin (Finland, 1875 - 1937) - Kaksi viikkoa. Pianokappaleita nuorisolle [Two weeks. Piano pieces for the Youth], Op. 143 (Helsinki: Musiikkikeskus OY, 1928); No. 4. Tanssi hämärissä [Dance in the Twilight]. Allegretto (A minor).

今日はフィンランドの作曲家・指揮者・音楽教師、エルッキ・メラルティン生誕150年の誕生日です。今回はメラルティン作曲「二週間、若者のためのピアノ小品集 Op. 143」(全7曲) より第4曲「薄明の舞曲 イ短調」を弾きました。

エルッキ・メラルティンは1875年2月7日にフィンランド大公国ヴィープリ州のカキサルミ (Käkisalmi. 現在のロシア領プリオゼルスク Priozersk) で生まれました。1892年から1899年までヘルシンキ音楽学校 (現在のシベリウス音楽院) で校長のマルティン・ヴェーゲリウス (Martin Wegelius, 1846 - 1906) に、1899年から1901年までオーストリア=ハンガリー帝国の首都ヴィーンでローベルト・フックス (Robert Fuchs, 1847 - 1927) に師事しました。母校のヘルシンキ音楽学校で1895年から1898年まで補助教員、1901年から1907年まで教員として音楽理論を教えました。1908年から1911年までヴィープリ (現在のロシア領ヴィーボルク) の管弦楽団で指揮者として活動し、同地でオーケストラの学校を設立しました。カール・エークマン (Karl Ekman, 1869 - 1947) の後任として1911年から1936年までヘルシンキ音楽学校の校長を務めました。1919年に名誉教授の称号を取得。指揮者としてフィンランド国外をしばしば演奏旅行で巡り、スカンジナビア、ロシア、ドイツ、北アフリカ、インド、エジプトを訪れました。1937年2月14日にヘルシンキプキンマキ地区 (Pukinmäki, Helsinki) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2025-02-02

150th Birth Anniversary of Fritz Kreisler

Fritz Kreisler (Austria/USA, 1875 - 1962) - Klassische Manuskripte (Klavier 2 händig); No. 2. Andantino im Stile von Padre Martini (F major. Mainz: B. Schott's Söhne, 1911).

今日はオーストリア出身の作曲家・ヴァイオリン奏者、フリッツ・クライスラー生誕150年の誕生日です。今回はクライスラー作曲「パードレ・マルティーニの様式によるアンダンティーノ」のピアノ独奏のために書かれたヴァージョンを弾きました。初版ではパードレ・マルティーニ (Padre Martini)、つまりジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ (Giovanni Battista Martini, 1706 - 1784) が作曲した楽曲の手稿譜を基にしたクライスラーによる編曲、という形で出版されましたが、1935年にこの作品を含む出典不明の古典的作品をクライスラーが偽作であることを認めました。原曲と言えるような過去の作曲家の手稿譜 (Klassische Manuskripte ; Classical Manuscripts) は存在せず、実はクライスラーのオリジナル作品だったということです。

以下に、初版 (ヴァイオリンとピアノの編成) に書かれた註釈を掲載します。

..Notice..

The original manuscripts used for these transcriptions are the private property of Mr. Fritz Kreisler and are now published for the first time; they are moreover so freely treated that they constitute, in fact, original works. Further transcriptions of any of these compositions wiil therefore constitute an infringement of copyright.

When played in public, Mr. Kreisler's name must be mentioned on the programme.

THE PUBLISHERS.

フリッツ・クライスラーは1875年2月2日にオーストリア=ハンガリー帝国の首都ヴィーンで生まれました。4歳のときに医師でアマチュアのヴァイオリン奏者でもあった父からヴァイオリンの手ほどきを受け、次いでジャック・アウバー (Jacques Auber) のレッスンを受けました。1882年にヴィーン楽友協会音楽院に最年少 (7歳) の学生として入学し、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世 (Joseph Hellmesberger Jr., 1855 - 1907) にヴァイオリンを、アントン・ブルックナー (Anton Bruckner, 1824 - 1896) に音楽理論を師事し、金メダルを獲得して音楽院を卒業。1885年から1887年までパリ音楽院で、ジョゼフ・ランベール・マサール (Joseph Lambert Massart, 1811 - 1892) にヴァイオリンを、レオ・ドリーブ (Léo Delibes, 1836 - 1891) に作曲法を師事し、12歳で一等賞を獲得して卒業。以後、ヴァイオリンの指導を受けることはありませんでした。

1889年から1890年にかけて、モーリツ・ローゼンタール (Moriz Rosenthal, 1862 - 1946) の共演者として米国を演奏旅行。ヴィーンに戻るとギムナジウムで2年間、さらに医科進学の予備校生として2年間学び、その後兵役に就くといったヴァイオリン演奏から遠ざかった時期を過ごしました。1896年に再び演奏家を志し、ヴィーンの宮廷楽団への入団を試みますが失敗。1899年12月のアルトゥール・ニキシュ (Arthur Nikisch, 1855 - 1922) 指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演が国際的な活躍の契機となりました。

第一次世界大戦が勃発すると陸軍士官としてオーストリア帝国軍に従軍。負傷して除隊となり、1914年11月に妻の母国である米国に向かいます。1923年の春には日本を訪問。1924年から1934年までベルリンに移住。ナチス・ドイツがオーストリアを併合するとフランス市民権を取得。1939年には米国に逃れ、1943年に米国市民権を取得。公開演奏としては1947年11月1日のカーネギー・ホールでの公演が最後となりました。1962年1月29日にニューヨークで亡くなりました。

出典:

  • Katz, Mark (2003/2016). “Kreisler, Fritz”. MGG Online. Retrieved 2025-02-02.
  • Schwarz, Boris (2001). “Kreisler, Fritz”. Grove Music Online. Retrieved 2025-02-02.
  • 岩井宏之「クライスラー」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館. コトバンク. Retrieved 2025-02-02.

2025-02-01

150th Death Anniversary of William Sterndale Bennett

Sir William Sterndale Bennett (England, 1816 - 1875) - Preludes and Lessons, Op. 33 (London: Augener & Co., 1853); No. 26. Prelude and Lesson “Il penseroso” in B flat minor.

今日はイングランドの作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、ウィリアム・スターンデイル・ベネット没後150年の命日です。今回はベネット作曲「30の前奏曲とレッスン Op. 33」より第26番「前奏曲とレッスン『沈思の人』 変ロ短調」を弾きました。副題の『沈思の人 Il penseroso 』の由来については分かりませんが、詩人ジョン・ミルトン (John Milton, 1608 - 1674) の同名の詩 Il Penseroso から取られたのかもしれません。

ベネットの作品については以前に2曲、「性格的練習曲 ト短調『熱情』 Op. 29 No. 2」(2012年4月13日録音) と「前奏曲 変ロ長調 WoO 60」(2016年2月2日録音) を演奏しているので、ここで併せて紹介します。

William Sterndale Bennett - 2 Characteristic Studies for Piano, Op. 29 (1841); No. 2. ‘L'Appassionata’ in G minor.

William Sterndale Bennett - Praeludium in B flat major for Piano, WoO 60 (1863).

父のロバート・ベネット (Robert Bennett, 1788 - 1819) は1811年よりシェフィールド教区教会 (Sheffield Parish Church) オルガン奏者・ピアノ教師を務めており、1812年5月28日にケンブリッジ大学植物園の学芸員ジェイムズ・ドン (James Donn) の娘エリザベス・ドン (Elizabeth Bennett, née Donn, 1791 - 1818) と結婚し、3人の娘と1人の息子をもうけました。1816年4月13日にシェフィールドで生まれた長男 (第3子) は、ロバートの作曲した「6つのメロディ 6 Melodies to Original Poetry」(1815) に詩を提供した彼の友人のウィリアム・ハンドリー・スターンデイル (William Handley Sterndale) にちなんで、ウィリアム・スターンデイル・ベネットと名付けられました。1818年5月7日に母エリザベスは三女を出産して間もなく亡くなり、その末娘も生まれて数日で亡くなりました。1819年11月3日には父ロバートも亡くなり、両親を失ったウィリアムと2人の姉は、ケンブリッジ大学俗人聖歌隊員 (バス) である祖父ジョン・ベネット (John Bennett, 1754 - 1837) に引き取られました。1824年2月17日より祖父の所属するキングズ・カレッジで聖歌隊員となり、1826年3月7日にキングズ・カレッジ副学長の推薦により王立音楽アカデミーに入学しました。

王立音楽アカデミーではパオロ・スパニョレッティ (Paolo Spagnoletti, 1768 - 1834)、アントニオ・ジェイムズ・ウーリ (Antonio James Oury, 1800 - 1883) にヴァイオリンを、ウィリアム・ヘンリ・ホームズ (William Henry Holmes, 1812 - 1885) にピアノを、ウィリアム・クロッチ (William Crotch, 1775 - 1847)、チプリアーニ・ポッター (Cipriani Potter, 1792 - 1871) に作曲法を師事しました。楽器演奏については、当初はヴァイオリンを、のちにピアノを主専攻にしています。1832年の夏に作曲を開始し、同年11月28日にケンブリッジで初演された「ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 Op. 1」は好評を博し、1833年6月26日の王立音楽アカデミー夏至演奏会でこの曲を聴いたフェーリクス・メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn, 1809 - 1847) により、ベネットはドイツへ招待されることになりました。1833年4月から1年間、ワンズワース聖アン教会 (St Anne's Church, Wandsworth) オルガン奏者を務めました。1836年5月にメンデルスゾーンが音楽監督を務めるデュッセルドルフニーダーライン音楽祭に参加。同年9月にアカデミーでの学業を終え、10月にドイツのライプツィヒへ渡りました。ライプツィヒではローベルト・シューマン (Robert Schumann, 1810 - 1856) と親しくなり、彼の批評でもベネットの作品や演奏は好意的に評価されました。

1837年7月に英国に戻り、10月から個人教授、王立音楽アカデミーの教師として活動を始めました。1844年に王立音楽アカデミーの教え子であるメアリー・ウッド (Mary Bennett, née Wood, 1824 - 1862) と結婚。1849年にロンドンでバッハ協会 (Bach Society) を設立。1855年にロンドン・フィルハーモニック協会 (The Philharmonic Society of London) 管弦楽団の指揮者に就任。1856年にケンブリッジ大学の音楽教授に選出。1866年に王立音楽アカデミー学長に就任。1875年1月に病気となり、2月1日にロンドンで死去。2月6日にウェストミンスター寺院に埋葬されました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2025-01-11

150th Birth Anniversary of Reinhold Glière

Reinhold Glière (Рейнгольд Моріцевич Глієр, Рейнгольд Морицевич Глиэр, Ukraine/Russia, 1875 - 1956) - 24 Pièces caractéristiques pour la jeunesse pour piano, Op. 34; No. 10. Au berceau ; У колыбели. Andante (D flat major).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・指揮者・音楽教師、レインゴリト・グリエール (レインホリド・フリイェール) 生誕150年の誕生日です。 今回はグリエール作曲「若者のための24の性格的小品 Op. 34」より第10曲「ゆりかごの中で 変ニ長調」を弾きました。

レインゴリト・グリエールは1875年1月11日 (ユリウス暦1874年12月30日) にロシア帝国キエフ県の県都キエフ (キーウ) で、 ザクセン王国ウンターザクセンベルク (現在のクリンゲンタール Klingenthal) 出身の管楽器製作者エルンスト・モーリツ・グリーア (Ernst Moritz Glier, 1834 - 1896) と、ポーランド立憲王国ワルシャワ出身のユゼファ・コルチャク (Józefa (Josephine) Korczak, 1849 - 1935) の二男として生まれました。キエフのルーテル聖カタリナ教会 (Лютеранська кірха Святої Катерини) で洗礼を受け、ラインホルト・エルンスト・グリーア (Reinhold Ernst Glier) と名付けられました。

キエフのギムナジウムで学んだのち、1891年からロシア音楽協会附属キエフ音楽学校 (現在のレインゴリト・グリエール記念キーウ音楽大学) で、オタカル・シェフチーク (Otakar Ševčík, 1852 - 1934) にヴァイオリンを、エウゲニュシュ・リプ (Eugeniusz Ryb, 1859 - 1924) に音楽理論を師事し、1894年に卒業。キエフ音楽学校時代の親友にイヴァン・クルィジャノーフスキー (Ivan Kryzhanovsky, 1867 - 1924)、ボレスラーフ・ヤヴォールスキー (Boleslav Yavorsky, 1877 - 1942)、レオニート・ニコラーエフ (Leonid Nikolayev, 1878 - 1942) がいます。1891年に演奏旅行で指揮者としてキエフを訪れたピョートル・チャイコフスキー (Pyotr Tchaikovsky, 1840 - 1893) の演奏に触れ、モスクワで学ぶことを決意しています。1894年に入学したモスクワ音楽院で、ニコライ・ソコローフスキー (Nikolay Sokolovsky, 1865 - 1921)、ヤン・フジーマリー (Jan Hřímalý, 1844 - 1915) にヴァイオリンを、アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906)、ゲオルギー・コニュス (Georgy Conus, 1862 - 1933) に和声法を、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を、ミハイル・イッポリトフ=イヴァノフ (Mikhail Ippolitov-Ivanov, 1859 - 1935) に作曲法を師事し、1900年に金メダルを獲得して音楽院の作曲科を卒業しました。モスクワに移ってからアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル (Aleksandr Goldenweiser, 1875 - 1961) と交友を深め、1902年にはゴリデンヴェイゼルからピアノのレッスンを受けています。1900年から1903年までサンクトペテルブルクのベリャーエフ・サークルに参加し、1901年からベリャーエフ社 (Leipzig: M. P. Belaieff) より自作の出版を始めています。1898年に作曲され、1902年にペテルブルクで初演された「弦楽六重奏曲第1番 Op. 1」(師タネーエフに献呈) により、1905年に最初のグリンカ賞を受賞しました。

1901年より、エレーナ・グネーシナ (Elena Gnesina, 1878 - 1967) らグネーシナ姉妹により設立されたモスクワのグネーシン音楽専門学校の教師。1902年に師タネーエフの推薦により1902年から1904年にかけてニコライ・ミャスコフスキーセルゲイ・プロコフィエフの個人教授をしました。1905年から1908年までドイツ帝国の首都ベルリンオスカー・フリート (Oskar Fried, 1871 - 1941) に指揮法を師事し、その後、再びグネーシン音楽専門学校に戻り教師を務めました。1913年の開校時にキエフ音楽院の作曲法の教授に就任し、翌年の1914年から1920年まで同音楽院の院長を務めました。1920年から1941年まで母校モスクワ音楽院で作曲法の教授を、1938年から1948年までソビエト連邦作曲家同盟組織委員会議長を務めました。1956年6月23日にモスクワで亡くなり、モスクワのノヴォデヴィチ墓地 (Новодевичье кладбище) に埋葬されました。

教え子に以下の人物がいます。

出典: