2020-12-31

150th Birth Anniversary of Percy Elliott

Percy Elliott (England, 1870 - 1934) - Vox Maris. 3 Seascapes for the Piano (London: Paxton, 1920); No. 3. Night Seas. Lento e tranquillo (D major)

今日はイングランドの作曲家・ヴァイオリン奏者・指揮者、パーシー・エリオット生誕150年の誕生日です。今回はエリオット作曲「海の声、ピアノのための3つの海景」より第3曲「夜の海」を弾きました。

1870年12月31日にダンスタブル (Dunstable) に生まれたパーシー・エリオットは、1887年に王立音楽アカデミーに入学し、ヴァイオリン演奏で銅メダルと銀メダルを取得しました。ヴァイオリン独奏者としてセント・ジェイムズ・ホール (St. James's Hall) での演奏会に出演し、1903年から1904年にかけて20ヶ月の間、音楽監督として南アフリカを演奏旅行しました。

出典: Wyndham, H. Saxe; L'Epine, Geoffrey, eds. (1913). “Elliott, Percy”. Who's Who in Music. Boston: Small, Maynard and Company. page 75.

2020-12-30

250th Birth Anniversary of Jacob Cubitt Pring

Jacob Cubitt Pring (England, 1770 - 1799) - Easy Progressive Lessons with the Fingering Mark'd for Young Beginners on the Piano Forte or Harpsichord; Sonatina No. 4 in G major

イングランドの作曲家・オルガン奏者、ジェイコブ・キュービット・プリング生誕250年ということで、プリング作曲「若い初学者のための運指つきの易しく段階的なレッスン集」より「ソナティナ第4番 ト長調」を弾きました。

ジェイコブ・キュービット・プリングは1770年11月3日にルイシャムのセント・メアリー教会で受洗しました。1797年にオックスフォード大学を卒業 (Bachelor of Music) し、オールゲイトのセント・ボトルフ教会 (St Botolph's Aldgate) でオルガン奏者を務めました。アンセムやグリーなどの声楽曲で知られ、合唱団 Concentores Sodales の創設者の一人でもあります。

弟に、いずれもオルガン奏者のジョゼフ・プリング (Joseph Pring, 1773/1776 - 1842) とアイザック・プリング (Isaac Pring, 1777 - 1799) がおり、この三兄弟はいずれもロバート・ハドソン (Robert Hudson, 1732 - 1815) の指導下でセント・ポール大聖堂聖歌隊の一員となっていました。

出典:

2020-12-29

250th Birth Anniversary of Lev Gurilyov

Lev Stepanovich Gurilyov (L. Gourileff ; Лев Степанович Гурилёв, Russia, 1770 - 1844) - 24 préludes et 1 fugue pour le pianoforte (1810), composées et dédiées à son Excellence Monsieur le Comte Vladimir Grigoriwitsch Orloff; Fuga a quattro voci. Allegro vivace (D major)

ロシアの作曲家・指揮者のレフ・グリリョーフ生誕250年ということで、グリリョーフ作曲「24の前奏曲と1つのフーガ」より「4声のフーガ ニ長調」を弾きました。1810年に出版されたこの曲集は五度圏の配列による12の長調の前奏曲、12の短調の前奏曲、フーガからなり、農奴としてのグリリョーフの主人であるヴラディーミル・オルローフ伯爵 (Vladimir Grigoryevich Orlov, 1743 - 1831) に献呈されました。

モスクワ県セルプホフ郡セミョーノフスコエ (Семёновское) にあったオルローフ邸オトラーダ (Отрада-Семёновское) の農園で農奴として育ったレフ・グリリョーフは、ロシア帝国宮廷礼拝堂楽長のジュゼッペ・サルティ (Giuseppe Sarti, 1729 - 1802) の指導を受け、農奴オーケストラの指揮者となりました。作品には変奏曲、ソナタ、舞曲などのピアノ独奏曲、カンタータなどの宗教曲があります。子のアレクサンドル・グリリョーフ (Aleksandr Gurilyov, 1803 - 1858) はレフに音楽の手ほどきを受け、歌曲で知られる作曲家となりました。1831年に主人のオルローフが亡くなると、父子ともに農奴の身分から解放されました。

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2020-12-18

150th Birth Anniversary of Arseny Koreshchenko

Arseny Koreshchenko (Арсений Николаевич Корещенко, Russia, 1870 - 1921) - Scènes enfantines pour le piano, Op. 22 (à mon cher ami Josef Hofmann [Józef Hofmann (1876 - 1957)]. Sankt-Peterburg: W. Bessel & Cie., 1897); 4. Жалоба ; Complainte. Andante doloroso (B minor)

今日はロシアの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師・批評家、アルセーニー・コレシチェンコ生誕150年の誕生日です。今回はコレシチェンコ作曲、ピアノのための「子供の情景 Op. 22」(ヨゼフ・ホフマンに献呈) より第4曲「不満 ロ短調」を弾きました。曲集は「ブーカ (オグル) ハ短調」「五月に、小スケルツォ ヘ長調」「小行進曲 ハ長調」「不満」「モーツァルト風メヌエット ニ長調」「ナポリ風ワルツ ト長調」の6曲からなります。

アルセーニー・コレシチェンコは1870年12月18日 (ユリウス暦12月6日) にモスクワで生まれました。幼少のころから楽才を示し、3歳でピアノ演奏を、4歳で作曲を始めました。8歳のときにアントン・ルビンシテイン (Anton Rubinstein, 1829 - 1894) の面前で演奏し、その才能を認めたルビンシテインの勧めにより、ニコライ・ズヴェーレフ (Nikolay Zverev, 1832 - 1893) にピアノを、アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906) に音楽理論を師事しました。1884年に入学したモスクワ音楽院セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) のピアノ科クラス、アレンスキーの作曲科クラスで学び、1891年に大金メダル (большая золотая медаль) を得て音楽院を卒業しました。

モスクワ音楽院 (1891-1903)、教会聖歌シノド学校 (Синодальное училище церковного пения. 1893-1894, 1898)、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団附属音楽演劇学校 (Музыкально-драматическое училище Московского филармонического общества, 1906-1919) などでピアノ・音楽理論・作曲などを教えました。アルメニアやジョージア (グルジア) などカフカースの民謡を録音・研究し、それら民謡の編曲の出版や、民謡の旋律を取り入れた自作の発表をしました。1919年からウクライナのハルキウ音楽院の教授となり、翌1920年には同音楽院の院長に就任しました。1921年1月6日にハルキウ (ハリコフ) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

  • ニコライ・ダニーリン (Nikolay Danilin, Николай Михайлович Данилин, 1878-1945)
  • ヴャチェスラーフ・パスハーロフ (Vyacheslav Paskhalov, Вячеслав Викторович Пасхалов, 1878-1951)
  • ニコライ・ガールブゾフ (Nikolay Garbuzov, Николай Александрович Гарбузов, 1880-1955)
  • アレクセイ・パルシノフ (Aleksey Parusinov, Алексей Васильевич Парусинов, 1882-1961)
  • アレクサンドル・クレイン (Aleksandr Kreyn, Александр Абрамович Крейн, 1883-1951)
  • ボリス・クラーシン (Boris Krasin, Борис Борисович Красин, 1884-1936)
  • ミハイル・バグリノーフスキー (Mikhail Bagrinovsky, Михаил Михайлович Багриновский, 1885-1966)
  • イヴァン・クルィローフ (Ivan Krylov, Иван Андреевич Крылов, 1885-1935)
  • アルセーニー・アヴラアーモフ (Arseny Avraamov, Арсений Михайлович Авраамов, 1886-1944)
  • グリゴーリー・ロバチョーフ (Grigory Lobachyov, Григорий Григорьевич Лобачёв, 1888-1953)
  • イヴァン・シショーフ (Ivan Shishov, Иван Петрович Шишов, 1888-1947)
  • コンスタンチン・アレクセーエフ (Konstantin Alekseyev, Константин Сильвестрович Алексеев, 1889-1951)
  • アレクサンドル・スヴェーシニコフ (Aleksandr Sveshnikov, Александр Васильевич Свешников, 1890-1980)
  • アレクサンドル・ヅゼゲリョーノク (Aleksandr Dzegelyonok, Александр Михайлович Дзегелёнок, 1891-1969)
  • ヴァシーリー・ネボリシーン (Vasily Nebolsin, Василий Васильевич Небольсин, 1898-1958)
  • ソロモーン・ファーイントゥフ (Solomon Fayntukh, Соломон Евсеевич Файнтух, 1899-1985)
  • レオニート・ウサチョーフ (Leonid Usachov, Леонід Антонович Усачов, 1899-1965)

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  • 2020-12-17

    150th Death Anniversary of Saverio Mercadante

    Saverio Mercadante (Italy, 1795 - 1870) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Il giuramento; Act I. Bella, adorata Incognita (Biblioteca d'oro. Vol. 3 No. 37. Cavatina dall' opera: Il giuramento. Andante mosso (B flat major))

    今日はサヴェリオ・メルカダンテ没後150年の命日です。今回はメルカダンテ作曲の歌劇「誓い Il giuramento 」第1幕よりアリア「美しく愛しき謎の女よ Bella, adorata Incognita 」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第37曲 Cavatina dall' opera: Il giuramento として収録されています。

    サヴェリオ・メルカダンテは、ナポリ王国アルタムーラで貴族の私生児として生まれました。1799年に一時期成立したパルテノペア共和国が王国側の反撃で倒れ、その際の略奪により一家は財産を失いますが、1806年以後のフランス占領下のナポリで父が官吏となったため、一家はナポリに移りました。

    異母兄からギターとクラリネットを学び楽才を示したメルカダンテは、1808年にサン・セバスティアーノ音楽院 (ナポリ音楽院の前身校) に入学し、ヴァイオリン、フルート、声楽を学んだほか、ジョヴァンニ・フルノ (Giovanni Furno, 1748 - 1837) に通奏低音を、ジャコーモ・トリット (Giacomo Tritto, 1733 - 1824) に対位法を、1813年から音楽院の新院長に就任したニコロ・アントニオ・ジンガレッリ (Niccolò Antonio Zingarelli, 1752 - 1837) に作曲を師事しました。同音楽院では作曲と声楽の教師であるルイージ・カポトルティ (Luigi Capotorti, 1767 - 1842) にも学んでいます。

    音楽院在学中には代表作の一つである「フルート協奏曲第2番 ホ短調」を作曲し、活動初期には室内楽曲 (主にフルートのための) の出版により収入を得ています。1819年8月19日初演 (ナポリ、サン・カルロ劇場) の最初のオペラ「ヘラクレスの神格化 L’apoteosi d’Ercole 」は成功を収め、1821年10月30日初演 (ミラノ、スカラ座) の7作目のオペラ「エリーザとクラウディオ Elisa e Claudio 」の成功は国外にも名声を広めました。1823年の春に興業主のドメニコ・バルバイア (Domenico Barbaia, 1778 - 1841) に3年間の契約で雇われ、ジョアキーノ・ロッシーニ (Gioacchino Rossini, 1792 - 1862) の後任としてサン・カルロ劇場のオペラ作曲家を務めました。1826年初めの「スペインの女王カリテア Caritea, regina di Spagna 」(ヴェネツィア初演) の成功ののち、同年にマドリードにある劇場の音楽監督に就任しました。1827年7月にリスボンに、1829年初めにカディスに移り、1830年にイタリアに戻りました。

    1837年3月11日にスカラ座で初演された「誓い Il giuramento 」は、メルカダンテのオペラの中でも最高傑作とされています。1838年に炎症により片目の視力を失いました。1840年にナポリ音楽院院長に就任し、1845年から1856年まで音楽院院長との兼任でサン・カルロ劇場音楽監督を務めました。1852年に両シチリア王国宮廷軍楽隊監察官に任命されました。1861年にイタリア王国が成立すると、音楽院からの要望によりサン・カルロ劇場音楽監督に再任されました。1862年に発症した脳卒中により、全盲となりました。視力を失いながらも音楽院では院長の地位にとどまり、学生に新作を口述筆記させることを通して作曲を教え、完成した最後のオペラである「ヴィルジニア Virginia 」(1866年4月7日にナポリで初演) も成功を収めました。脳卒中の再発後ほどなくして1870年12月17日にナポリで亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:


    2020-12-16

    250th Birth Anniversary of Ludwig van Beethoven

    Ludwig van Beethoven (Germany, 1770 - 1827) / Leopold Godowsky (Lithuania/USA, 1870 - 1938) - Violin Sonata No. 9 in A major, Op. 47; I. Adagio sostenuto - Presto (Educational Adaptations for the Pianoforte. Chamber Music Series. L. van Beethoven: Kreutzer Sonata, Op. 47. Adapted and edited by Leopold Godowsky. St. Louis: Art Publication Society, 1915)

    今年はドイツ出身の作曲家・ピアノ奏者、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン生誕250年の記念年です。今回はベートーヴェン作曲「ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調 Op. 47」(ロドルフ・クロイツェル (Rodolphe Kreutzer, 1766 - 1831) に献呈) の、レオポルト・ゴドフスキによるピアノのための教育的編曲より第1楽章を弾きました。ボンのレミギウス教会 (St. Remigius in Bonn) の洗礼記録ではベートーヴェンの受洗日を1770年12月17日としていて、当時のカトリックのラインラントでの洗礼の慣習よりその前日の12月16日が誕生日である可能性が高いようです。会話帳にある甥カール・ヴァン・ベートーヴェン (Karl van Beethoven, 1806 - 1858) の記述 (1823-12-15) より、ベートーヴェン自身は誕生日を12月15日と認識していたと考えられています。

    ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ケルン選帝侯宮廷テノール歌手ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン (Johan van Beethoven, ca.1740 - 1792) の子としてケルン選帝侯領 (Kurköln) の首都ボンに生まれました。父方の祖父は南ネーデルラントメヘレン (あるいはアントヴェルペン) 出身で1746年より選帝侯宮廷楽長を務めたローデヴェイク・ファン・ベートホーヴェン (Lodewijk (Ludwig) van Beethoven, 1712 - 1773) です。父に音楽の手ほどきを受けたのち、1780年頃までにジル・ファン・デン・エーデン (Gilles Van den Eeden, ca.1708 - 1782) とフランシスコ会教会オルガン奏者修道士ヴィリバルト・コッホ (Willibald Koch) とボンのミュンスター教会 (Bonner Münster) オルガン奏者ツェンザー/ツェンゼン (Zenser/Zensen) にオルガンを、トビアス・フリードリヒ・プファイファー (Tobias Friedrich Pfeiffer, 1751? - 1805?) にピアノを、フランツ・ゲオルク・ロヴァンティーニ (Franz Georg Rovantini, 1757 - 1781) にヴァイオリンとヴィオラを師事しました。1781年2月に宮廷オルガン奏者に就任したクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ (Christian Gottlob Neefe, 1748 - 1798) にピアノ、オルガン、通奏低音、作曲を、1784年5月から1787年4月まで宮廷ヴァイオリン奏者フランツ・アントン・リース (Franz Anton Ries, 1755 - 1846) にヴァイオリンを師事しました。1782年6月には師の一人ファン・デン・エーデンの埋葬式でネーフェの代わりにオルガンを演奏し、おそらく同年に最初の楽譜「ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲 WoO 63」を出版します。ヨゼフ・レイハ (Joseph Reicha, 1752 - 1795. 1785年に宮廷楽団楽師長としてボンに着任) の甥で養子のアントニーン・レイハ (Anton Reicha, 1770 - 1836) と友人となり、1789年にはともにボン大学聴講生となります。

    1792年7月にヨーゼフ・ハイドン (Franz Joseph Haydn, 1732 - 1809) がボンを訪れたことを機に、同年11月にハイドンに作曲を学ぶためにヴィーンに移りました。その後、1794年1月までハイドンに師事したほか、ヨハン・バプティスト・シェンク (Johann Baptist Schenk, 1753 - 1836) に対位法の指導を受けました。1794年から1795年までシュテファン大聖堂 (Stephansdom) 楽長ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー (Johann Georg Albrechtsberger, 1736 - 1809)に対位法を、 同じ頃にイグナーツ・シュパンツィク (Ignaz Schuppanzigh, 1776 - 1830) にヴァイオリンを師事しました。1801年から1802年初までアントーニオ・サリエ-リ (Antonio Salieri, 1750 - 1825) にイタリア語付曲の指導を受けました。

    1794年に選帝侯からの俸給が止められますが、複数の貴族からの年金支給などの後援もあり、作曲家として大成します。

    ピアノ、音楽理論、作曲の教え子にルドルフ大公 (Rudolph Johann Joseph Rainer, Erzherzog von Österreich, 1788 - 1831)、音楽家として著名なピアノの教え子にフェルディナント・リース (Ferdinand Ries, 1784 - 1838)、カール・チェルニー (Carl Czerny, 1791 - 1857) がいます。

    出典:


    2020-12-06

    100th Death Anniversary of Karel Kovařovic

    Karel Kovařovic (Czech, 1862 - 1920) - Walzer (Valčík). Tempo di valse (E flat major)

    今日はチェコ・ボヘミアの作曲家・クラリネット奏者・ハープ奏者・ピアノ奏者・指揮者・音楽教育者、カレル・コヴァジョヴィツ没後100年の命日です。今回はコヴァジョヴィツ作曲「ワルツ 変ホ長調」を弾きました。

    プラハに生まれたカレル・コヴァジョヴィツは、1873年に入学したプラハ音楽院でユリウス・ピサジョヴィツ (Julius Pisařovic, 1811 - 1881) にクラリネットを、ヴァーツラフ・アロイス・スタニェク (Václav Alois Staněk, 1835 - 1910) にハープを、ヨゼフ・イラーネク (Josef Jiránek, 1855 - 1940) にピアノを師事し、1879年に音楽院を卒業しました。個人教授でズデニェク・フィビフ (Zdeněk Fibich, 1850 - 1900) に作曲を (1878年から1880年まで)、ヤン・ルドヴィーク・ルケス (Jan Ludvík Lukes, 1824 - 1906) とフランチシェク・ピヴォダ (František Pivoda, 1824 - 1898) に声楽を師事しました。

    1879年12月17日に芸術協会 (Umělecká beseda 芸術ベセダ) の演奏会でフィビフ作曲、クラリネットとピアノ (または管弦楽) のための「牧歌 変ロ長調 Selanka, Op. 16」をクラリネット奏者として初演したほか、1879年から1885年までプラハの仮劇場 (Prozatimní divadlo) と国民劇場 (Národní divadlo. 1881年開館) でハープ奏者として、1881年から1887年までヴァイオリン奏者フランチシェク・オンドジーチェク (František Ondříček, 1857 - 1922) とバリトン歌手レオポルト・ストロプニツキー (Leopold Stropnický, 1845 - 1914) のピアノ伴奏者として活動しました。1880年から1900年までピヴォダの声楽学校 (Pěvecká škola) でコレペティートルと教師を、1898年にピヴォダが亡くなるとその後継として1900年まで同校校長を務めました。

    1885年9月から1886年3月までブルノ国民劇場 (Národní divadlo Brno) で、1886年9月から1887年7月までプルゼニ市立劇場 (Městské divadlo v Plzni) で指揮者を務め、1895年にプラハで開催されたチェコスラヴ民俗学博覧会 (Národopisná výstava českoslovanská v Praze) における管弦楽演奏会の指揮者に任命されました。1896年から1898年まで、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の最初期の指揮者の一人となり、1900年から1920年までまでプラハ国民劇場の歌劇監督を務めました。1901年にチェコ科学芸術アカデミー (Česká akademie věd a umění) の準会員に、1906年に同アカデミー正会員に選出され、1918年から1920年まで芸術協会音楽部門議長を務めました。1910年にはフランス共和国公共教育省より教育功労章オフィシエ・ダカデミー (officier d'académie) を授与されました。1920年12月6日にプラハで亡くなりました。

    出典:

    • Kuna, Milan (2001). “Kovařovic, Karel”. Grove Music Online.
    • Šálek, Cyril (2003) 2016. “Kovařovic, Karel”. In Lütteken, Laurenz (ed.). MGG Online. Bärenreiter, Metzler, RILM, 2016–.
    • Macek, Petr; Kalina, Petr; Steinmetz, Karel; Zahrádková, Šárka, eds. (2016-04-12). “Kovařovic, Karel”. Český hudební slovník osob a institucí. Centrum hudební lexikografie, Ústav hudební vědy Filozofické fakulty Masarykovy univerzity.