2026-06-05

200th Death Anniversary of Carl Maria von Weber

Carl Maria von Weber (Germany, 1786 - 1826) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Der Freischütz, Op. 77 (J. 277); Lied: „Hier im ird'schen Jammertal“ (Kaspar, Act 1 No. 4).

今日はドイツ出身の作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽批評家、カール・マリア・フォン・ヴェーバー没後200年の命日です。今回はヴェーバー作曲のオペラ「魔弾の射手」より第1幕第4番のリート「この悲しみの浮世では、すべてが嘆きと苦しみだ」(カスパール) の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第45曲 Canzone (dall'opera: Der Freischütz). Allegro non troppo (63頁) として収録されています。

カール・マリア・フォン・ヴェーバーは1786年に神聖ローマ帝国リューベック司教領オイティン (Eutin) で、町楽師 (Stadtmusicus) のフランツ・アントン・ヴェーバー (Franz Anton Weber, 1734 - 1812) と彼の2番目の妻である歌手で俳優のゲノフェーファ・ヴェーバー (Genovefa Weber, geb. Brenner, 1764 - 1798) の子として生まれました。オイティンのカトリック教会の教会記録簿には11月20日に受洗したとの記録があり、それを根拠として誕生日を11月18日か11月19日とする説があるものの、親と同居していた間は父のメモに記された12月18日を誕生日として祝っていたようです。1787年に父が町楽師を辞して自身とその家族を中心とした劇団を組織すると、それから1794年まで一家はドイツ・オーストリア各地を巡業しました。1795年から1796年にかけて一家はザルツブルクに滞在。1796年に母の妊娠と病気のためにカール・マリアと両親は劇団を離れてヒルトブルクハウゼンに移りました。父はカール・マリアを神童として売り出そうと考えていました。すでに父と、腹違いの長兄フリードリン・ヴェーバー (Fridolin Weber, 1761 - 1833) から音楽を学んでいたカール・マリアは、同年3月から同地でヨハン・ペーター・ホイシュケル (Johann Peter Heuschkel, 1773 - 1853) にピアノと通奏低音を師事しました。1797年の末に両親とともにザルツブルクに戻り、1798年初頭からミヒャエル・ハイドン (Michael Haydn, 1737 - 1806) に対位法を師事。同年3月13日に母が死去。同年の秋から1800年8月まで父とともにミュンヒェンに移り、ジョヴァンニ・ヴァレージ (Giovanni Valesi, 1735 - 1816) に声楽を、ヨハン・ネポムク・カルヒャー (Johann Nepomuk Kalcher, 1764 - 1827) にピアノを師事しました。1800年9月にフライベルクに、1801年3月にケムニッツに、同年11月から1802年7月まで再びザルツブルクに父とともに移住。1802年8月から同年末までの北ドイツ旅行ののちアウクスブルクに滞在し、1803年8月から1804年5月までヴィーンに滞在しました。ヴィーンではゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー (Georg Joseph Vogler, 1749 - 1814) に作曲法を師事。

1804年5月にフォーグラーの推挙によりブレスラウ歌劇場 (Oper Breslau. 現在のヴロツワフ歌劇場 Opera Wrocławska) の指揮者に就任しました。1806年に半年ほどシュレージエンのカールスルーエ (Carlsruhe O/S. 現在のポーランド領ポクイ) のヴュルテンベルク公オイゲン・フリードリヒ・ハインリヒ (Eugen Friedrich Heinrich von Württemberg, 1758 - 1822) の楽長を務めたものの、フランス帝国軍のシュレージエン占領の余波による劇場閉鎖を機に解任。1807年8月にオイゲン公の兄であるシュトゥットガルトルードウィヒ公 (Ludwig von Württemberg, 1756 - 1817) の秘書兼音楽教師に就任。1810年2月に公金横領の嫌疑でシュトゥットガルトを追放されると、マンハイムハイデルベルクダルムシュタットを拠点に各地で演奏旅行を行いました。1812年1月に肺結核を発症。1813年から1816年の秋までプラハスタヴォフスケー劇場 (Stavovské divadlo) の指揮者に就任。1816年10月から1817年1月までベルリンに滞在し、作曲に専念しました。1816年12月にドレスデンザクセン王国宮廷歌劇場 (現在のゼンパー・オーパー) においてドイツ・オペラ部門長となり、1817年2月に正式に宮廷楽長に就任。すでに宮廷楽長を務めておりイタリア・オペラ部門長となったフランチェスコ・モルラッキ (Francesco Morlacchi, 1784 - 1841) と競い合うようになります。同年11月4日、歌手で俳優のカロリーネ・ブラント (Caroline von Weber, geb. Brandt, 1794 - 1852) と結婚。1820年に「魔弾の射手」を完成し、1821年6月18日にベルリンで初演し成功を収めました。1821年にはカッセルヘッセン選帝侯国宮廷歌劇場 (現在のカッセル州立歌劇場) に勧誘され、同じ職位で現状よりはるかに高い給与 (ドレスデンでの年俸1500ターラーに対し2500ターラー) を提示されましたが辞退して代わりにルイ・シュポーア (Louis Spohr, 1784 - 1859) を推薦し、自身は宮廷との交渉によって年俸300ターラーの増額を得ました (Langer 1996)。1823年10月25日に「オイリアンテ Euryanthe 」をヴィーンで初演。このころから重くなった持病の肺結核に苦しむようになりました。1825年にロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場の依頼で「オベロン Oberon 」を作曲。1826年3月に渡英して、4月12日の「オベロン」初演で指揮を担当して成功を収めたものの、病の悪化により6月5日にロンドンで39歳で亡くなりました。遺体はロンドンにあるローマ・カトリック教会である聖メアリー・ムーアフィールズ教会 (St Mary Moorfields) に埋葬されましたが、1844年にリヒャルト・ヴァーグナー (Richard Wagner, 1813 - 1883) らの力添えによりドレスデンのカトリック墓地 (現在の旧カトリック墓地 Alter Katholischer Friedhof) に改葬されました。

伯父フランツ・フリードリン・ヴェーバー (Franz Fridolin Weber, 1733 - 1779) にはいずれも歌手となった4人の娘がおり、そのうちコンスタンツェ (Constanze Mozart, geb. Weber, 1762 - 1842) はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart, 1756 - 1791) と結婚。モーツァルト夫妻には成人した2人の息子、官吏のカール・トーマス・モーツァルト (Karl Thomas Mozart, 1784 - 1858)、作曲家・ピアノ奏者のフランツ・クサーヴァー・モーツァルト (Franz Xaver Wolfgang Mozart, 1791 - 1844) がいます。

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