2020-02-27

150th Birth Anniversary of Louis Adolphe Coerne

Louis Adolphe Coerne (USA, 1870 - 1922) - 5 Flower Impromptus for Piano, Op. 115; No. 3. Magnolia. Lentamente e con tenerezza (D major). Written for and dedicated to Mr. Harold Bauer (England, 1873 - 1951).

今日は米国の作曲家・指揮者、ルーイ・アドルフ・カーン生誕150年の誕生日です。今回はカーン作曲「5つの花の即興曲 Op. 115」より第3曲「マグノリア (モクレン属) ニ長調」を弾きました。イングランド出身のピアノ奏者、ハロルド・バウアーに献呈されています。「花の即興曲」の題名のとおり、そのほかの4曲にも「チャボアザミ Silver Thistle 」、「アマランサス Amaranth 」、「スミレ Violet 」、「パエオニア (ボタン属) Peony 」と花の名が付けられています。

1870年2月27日にニュージャージー州ニューアークで生まれたルーイ・アドルフ・カーンは、6歳から10歳までシュトゥットガルトパリでヴァイオリンを学びました。ボストンの公立学校を経て、ボストン交響楽団コンサートマスターを務めていたフランツ・クナイゼル (Franz Kneisel, 1865 - 1926) にヴァイオリンを、1888年から1890年までハーヴァード大学ジョン・ノウルズ・ペイン (John Knowles Paine, 1839 - 1906) に作曲を、ドイツに渡って1890年から1893年までミュンヘンのバイエルン王立音楽学校/王立音楽アカデミーでヨーゼフ・ラインベルガーにオルガンと作曲を師事しました。米国のバッファロー (1894-1897)、ニューヨークコロンバス (1897-1899) の各都市でオルガン奏者・指揮者として活動したのちに、1899年から1902年までドイツに移り、この間に師ラインベルガー作曲の未完成となった「ミサ曲 イ短調 Messe in a-Moll (Op. 197)」を補筆完成して1902年に出版しました。米国マサチューセッツ州のハーヴァード大学夏期講習音楽コース (1903) とスミス大学 (1903-1904) で教え、1905年にハーヴァード大学での論文「現代のオーケストレーションの発展 The Evolution of Modern Orchestration 」により、米国の大学によるものとしては初の音楽学博士 (Ph. D. in music) の学位を取得します。1905年から1907年までドイツを、1907年以降は米国を拠点とし、ニューヨーク州トロイの音楽監督 (1907-1909)、ミシガン州のオリヴェット大学の音楽院長 (1909-1910, 1910年に同大学で音楽博士 (Doctor in Music) の学位を取得)、ウィスコンシン州マディソンウィスコンシン大学音楽学部長 (1910-1915)、コネチカット州ニューロンドンコネチカット女子大学の教授 (1915-1922) を歴任し、1922年9月11日にボストンで亡くなりました。

追記: 生没についての加筆と出典リンクの変更を行いました。関連記事 100th Death Anniversary of Louis Adolphe Coerne (2022-09-11)。

出典:

  • Baltzell, Winton James, ed. (1914). “Coerne, Louis Adolphe”. Baltzell's Dictionary of Musicians (Revised edition). Boston: Oliver Ditson Company.
  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1919). “Coerne, Louis Adolphe”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd edition). New York: G. Schirmer. page 168.
  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1940). “Coerne, Louis Adolphe”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (4th edition). New York: G. Schirmer. pages 218-219.
  • Aldrich, Richard; Ledbetter, Steven (2001). “Coerne, Louis”. Grove Music Online.
  • Butterworth, Neil (2013). “Coerne, Louis (Adolphe)”. Dictionary of American Classical Composers. page 84.

2020-02-26

250th Death Anniversary of Giuseppe Tartini

Giuseppe Tartini (Italy, 1692 - 1770) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Sonata per violino. Il trillo del diavolo (G minor); I. Larghetto affettuoso

今日はイタリアの作曲家・ヴァイオリン奏者、ジュゼッペ・タルティーニ没後250年の命日です。今回はタルティーニ作曲「ヴァイオリンソナタ ト短調 『悪魔のトリル』」より第1楽章の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第7曲 Larghetto dalla Sonata per violino. Il trillo del diavolo として収録されています。

ヴェネツィア共和国ピラーノ (現在のクロアチア領ピラン) に生まれたジュゼッペ・タルティーニは、1708年に郷里を離れパドヴァ大学で法律を学びました。1710年の2歳年長のエリザベッタ・プレマゾーレ (Elisabetta Premazore) との結婚における確執のために、アッシジ聖フランチェスコ修道院 (Sacro Convento di San Francesco) に身を寄せます。同地の教会堂でオルガン奏者を務めていたボフスラフ・マチェイ・チェルノホルスキー (Bohuslav Matěj Černohorský, 1684 - 1742) に作曲を師事しました。1714年にはアンコーナ歌劇場の管弦楽団に所属し、以後ヴァイオリン奏者として活動します。1721年にサンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂のヴァイオリン首席奏者・指揮者 (primo violino e capo di concerto) に就任。1723年に神聖ローマ皇帝カール6世のボヘミア王としての戴冠式に関連するプラハでの演奏会に出演し、そのまま同地に滞在して1726年までフランツ・フェルディナント・キンスキー伯爵 (Franz Ferdinand Kinsky, 1678 - 1741) に仕えました。1728年にはパドヴァにヴァイオリンを教える音楽学校「諸国民の学校」 (La Scuola delle Nazioni) を設立します。

教え子に以下の人物がいます。

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2020-02-23

100th Death Anniversary of Aleksandr Ilyinsky

Aleksandr Ilyinsky (Александр Александрович Ильинский, Russia, 1859 - 1920) - La journée d'une petite fille. 24 Morceaux pour piano (difficulté moyenne) à l'usage de la jeunesse, Op. 19; No. 1. Веселое пробуждение ; Le réveil joyeux. Moderato (F major)

今日はロシアの作曲家・音楽教師、アレクサンドル・イリイーンスキー没後100年の命日です。今回はイリインスキー作曲「少女の一日、若者用の中難度の24のピアノ小品 Op. 19」(ヴェーラ・マーモントヴァに献呈) より第1曲「喜ばしい目覚め ヘ長調」を弾きました。曲集はその名の通り、目覚めからの少女の一日を描写して第24曲「眠り ヘ長調 Sommeil」で終わります。

ツァールスコエ・セローに生まれたアレクサンドル・イリインスキーは、ベルリンの新音楽アカデミー (Neue Akademie der Tonkunst) でテオドール・クラク (Theodor Kullak, 1818 - 1882) にピアノを、1881年から1884年までベルリン高等音楽学校ヴォルデマール・バルギール (Woldemar Bargiel, 1828 - 1897) に作曲を師事し、1885年にペテルブルク音楽院の作曲科卒業認定試験により自由芸術家 (свободный художник) の称号を得ました。同1885年からモスクワ音楽愛好家協会附属音楽演劇学校 (Музыкально-драматическое училище Московского филармонического общества) で音楽理論、作曲、ピアノの教師となり、1896年から1905年まで同校の教授を、1905年からモスクワ音楽院で音楽理論、音楽史、作曲の教師となり、1916年から同音楽院の正教授 (профессор 1-й степени) を務めました。

教え子に以下の人物がいます。

ヴァレンティン・セローフ画「桃と少女 (ヴェーラ・マーモントヴァの肖像)」 "Girl with peaches (Portrait of Vera Savvichna Mamontova)" by Valentin Serov

曲集「少女の一日 Op. 19」の被献呈者であるヴェーラ・マーモントヴァ (Vera Mamontova, 1875 - 1907) は絵画モデルとして知られ、父は資本家で芸術振興に寄与したサーヴァ・マーモントフ (Savva Mamontov, 1841 - 1918) です。1903年に政治家のアレクサンドル・サマーリン (Aleksandr Samarin, 1868 - 1932) と結婚しました。モデルとなった絵画にヴァレンティン・セローフ (Valentin Serov, 1865 - 1911) 画「桃と少女 (ヴェーラ・マーモントヴァの肖像) Девочка с персиками (Портрет В. С. Мамонтовой)」(1887, トレチャコフ美術館所蔵, 上図)、ヴィクトル・ヴァスネツォフ (Viktor Vasnetsov, 1848 - 1926) 画「ヴェーラ・マーモントヴァの肖像 (少女) Портрет Веры Саввишны Мамонтовой (Боярышня)」(1884, ヴィクトルおよびアポリナリー・ヴァスネツォフ記念ヴャトカ美術館所蔵) と 「ヴェーラ・マーモントヴァの肖像 Портрет Веры Саввишны Мамонтовой」(1896, アブラームツェヴォ所蔵)、ミハイル・ヴルーベリ (Mikhail Vrubel, 1856 - 1910) 画「棺の中のタマラ Тамара в гробу」(1890-1891, トレチャコフ美術館所蔵) などがあります。このうちヴァレンティン・セローフの両親、父アレクサンドル・セローフ (Aleksandr Serov, 1820 - 1871) と母ヴァレンティーナ・セローヴァ (Valentina Serova, 1846 - 1924) はともに作曲家です。

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2020-02-20

50th Death Anniversary of Albert Louis Wolff

Albert Louis Wolff (France, 1884 - 1970) - 3 Pièces marocaines pour piano. Au Maréchal Lyautey, en temoignage de tres respectueuse admiration (Paris: Editions Maurice Senart, 1922); No. 1. Prélude et Petite fugue (E minor / E major).

今日はフランスの作曲家・指揮者・ピアノ奏者・オルガン奏者、アルベール・ルイ・ヴォルフ没後50年の命日です。今回はアルベール・ヴォルフ作曲「ピアノのための3つのモロッコの小品」より第1番「前奏曲と小フーガ ホ短調/ホ長調」を弾きました。曲集は1912年から1925年までモロッコ駐在総弁務官を務めていたフランス元帥ユベール・リヨテ (Hubert Lyautey, 1854 - 1934) に献呈されています。第1番の前奏曲と小フーガについてはそれぞれに「前奏曲。一日のうちで最も暑いとき、自分のヒツジたちが眠る間に牧童アリーは何気なく即興で笛を吹く。 Prélude. A l'heure la plus chaude du jour, pendant que ses moutons sommeillent, Ali, le petit pâtre, improvise nonchalamment sur sa flûte.」、「小フーガ。アイサウア (イーサーウィーヤ教団) の老人たちの宗教歌による。 Petite fugue. D'après un chant religieux de vieillards Aï-saouas.」と説明がついています。

パリに生まれたアルベール・ヴォルフは、パリ音楽院グザヴィエ・ルルー (Xavier Leroux, 1863 - 1919)、アンドレ・ジェダルジュ (André Gédalge, 1856 - 1926)、ポール・ヴィダル (Paul Vidal, 1863 - 1931) に師事しました。 音楽院で学びながらキャバレーでピアノを弾き、サン・トマ・ダカン教会 (Église Saint-Thomas-d'Aquin) でオルガン奏者を務めました。 1906年にオペラ=コミック座の職員となり、1911年に同劇場の指揮者、 1921年から3年間アンドレ・メサジェ (André Messager, 1853 - 1929) の後任で同劇場の音楽監督、1945年に総監督となりました。1925年から1928年までコンセール・パドルーの次席指揮者、1928年から1934年までコンセール・ラムルーの首席指揮者、1934年から1940年までコンセール・パドルーの首席指揮者を務めました。

教え子に以下の人物がいます。

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2020-02-18

250th Birth Anniversary of Christian Heinrich Rinck

Johann Christian Heinrich Rinck (Germany, 1770 - 1846) - Fugato a 3 voci (G major). Beethoven-Album. Ein Gedenkbuch dankbarer Liebe und Verehrung, für den grossen Tonsetzer, gestiftet und beschrieben von einem Veriene von Künstlern und Kunstfreuden, aus Frankreich, England, Italien, Deutschland, Holland, Schweden, Ungarn und Russland (Stuttgart: Hallberger'sche Verlagshandlung, 1846). page 27.

今日はドイツの作曲家・オルガン奏者、ヨハン・クリスティアン・ハインリヒ・リンク生誕250年の誕生日です。今回はリンク作曲「3声のフガート ト長調」を弾きました。1846年出版の複数の作者による音楽・文学作品集「ベートーヴェン・アルバム」に収録された楽譜を使用しました。

ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国エルガースブルク (Elgersburg) に生まれたクリスティアン・ハインリヒ・リンクは、ヨハン・ゲオルク・アービヒト (Johann Georg Abicht, 1672 - 1740)、ヨハン・アドリアン・ユングハンス (Johann Adrian Junghans)、ハインリヒ・クリストフ・キルヒナー (Heinrich Christoph Kirchner, 1739 - 1818) に学んだのち、1786年から1789年までヨハン・クリスティアン・キッテル (Johann Christian Kittel, 1732 - 1809) に師事しました。1790年にヘッセン大公国ギーセンの市オルガン奏者 (Stadtorganist)、1805年にダルムシュタットの市オルガン奏者・カントル・ギムナジウム音楽教師となり、1813年にはヘッセン大公国宮廷オルガン奏者に就任しました。

教え子に以下の人物がいます。

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2020-02-13

150th Birth Anniversary of Leopold Godowsky

Educational Adaptations for the Pianoforte. Sacred Music Series. Motet: "Adoramus te" ("We adore thee") (St. Louis: Art Publication Society, 1915). Composed by Giovanni Pierluigi da Palestrina (Italy, ca.1525 - 1594). Adapted and edited by Leopold Godowsky (Lithuania/USA, 1870 - 1938)

今日はリトアニア出身の米国の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、レオポルト・ゴドフスキ (レオポルド・ゴドフスキー) 生誕150年の誕生日です。今回はゴドフスキの編曲によるジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ作曲の4声のモテット「御身を崇めん、キリストよ Adoramus te, Christe 」を弾きました。「教育用ピアノ編曲集 聖楽編」の一曲として1915年に出版されました。

レオポルト・ゴドフスキはロシア帝国ヴィーリナ県トローキ郡ジャスリャイ (現在のリトアニア領ジャスレイ Žasliai) に生まれたポーランド人でした。5歳で作曲を始め、9歳で最初のピアノ演奏会を行い、ヴィリニュスで2年間学んだのちにリトアニア東プロイセンを演奏旅行でまわるほどの早熟さを示しました。1884年にベルリンの王立高等音楽学校でエルンスト・ルードルフ (Ernst Rudorff, 1840 - 1916) に3ヶ月師事。同1884年に米国に渡りピアノ奏者として活動し、1885年にはヴァイオリン奏者のオヴィド・ミュザン (Ovide Musin, 1854 - 1929) と米国北東部とカナダを演奏旅行しました。1886年から1890年にかけてはイングランドとフランスで活動し、拠点としたパリではカミーユ・サン=サーンス (Camille Saint-Saëns, 1835 - 1921) の後援を受けました。

米国に戻るとニューヨーク音楽大学 (New York College of Music) で教師となり、1891年にニューヨークのフリーダ・サックス (Frieda Saxe) と結婚し米国市民権を取得しました。1894年にフィラデルフィアのコウム・ブロード・ストリート音楽院 (Combs Broad Street Conservatory of Music) ピアノ科長、1895年から1900年までウィリアム・ホール・シャーウッド (William Hall Sherwood, 1854 - 1911) の後任としてシカゴ音楽大学 (Chicago Musical College) のピアノ科長を務めました。1900年にベルリンに移住し、1909年にはフェルッチョ・ブゾーニ (Ferruccio Busoni, 1866 - 1924) の後任としてヴィーン音楽舞台芸術アカデミー (Akademie für Musik und darstellende Kunst) のマスタークラスを担当しました。1912年から1914年まで米国を演奏旅行し、ベルギー滞在中に第一次世界大戦が始まるとその後は米国で活動します。

1922年から1923年にかけてメキシコ、南アメリカ、アジア、南西ヨーロッパをめぐる演奏旅行を行い、東アジアと東南アジアでは日本、中国、イギリス領海峡植民地のシンガポール、オランダ領東インドのジャワ島、米領フィリピンのマニラ、米自治領ハワイ準州のホノルルを訪れています。1930年にロンドンでのスタジオ録音の最中に脳卒中で倒れて右半身を麻痺し、1938年に胃癌で亡くなりました。

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2020-02-10

200th Birth Anniversary of Cornelius Gurlitt

Gustav Cornelius Gurlitt (Denmark/Germany, 1820 - 1901) -
Fliegende Blätter for the pianoforte, Op. 112 (London: Augener, 1880/1881); No. 7. First Grief. Con moto, poco agitato (C minor)

The Classicality. The melody „Ach du lieber Augustin“ humorously treated in the style of classical Composers [10 variations], Op. 115 (London: Augener, 1880); Var. 5: G. F. Händel. Chor. Allegro (C major). Based on "See the conquering hero comes" from Judas Maccabaeus, HWV 63 by George Frideric Handel.

今日はデンマーク・ホルシュタイン公国出身の作曲家・ピアノ奏者、コルネリウス・グルリット生誕200年の誕生日です。今回はグルリット作曲の「移ろう紙葉集 Op. 112」より第7曲「初めての悲しみ ハ短調」と、「クラシカリティ、古典作曲家の様式による『ああ、かわいいアウグスティン』の諧謔的トランスクリプション集 Op. 115」より第5変奏「G. F. ヘンデル、合唱」(「ユダス・マカベウス」の「見よ勇者は帰る」の旋律を使用) を弾きました。

コルネリウス・グルリットが生まれたアルトナは、普墺戦争の前までホルシュタイン公国に属し、普墺戦争後の1866年にプロイセン王国に編入され、現在ではドイツの都市ハンブルクの一部となっています。当時のホルシュタイン公国はデンマーク王の統治下にありながらドイツ連邦に加盟している地域でした。

アルトナでピーダ・グランラン (Peter Grønland, 1761 - 1825) に、次いで1840年までルドルフ・ライネッケ (Rudolf Reinecke, 1795 - 1883. カール・ライネッケの父) に学んだのち、コペンハーゲンヨハン・エアンスト・ハートマン (Johan Ernst Hartmann, 1770 - 1844) とクリストフ・エアンスト・フリードリク・ヴァイセ (Christoph Ernst Friedrich Weyse, 1774 - 1842) に師事。ハアスホルムで音楽教師となりました。1845年から1848年までデンマーク王の奨学金を得てローマに留学。第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 (1848-1852) ではドイツ連邦側の軍楽隊長を務めました。アルトナに戻り、1866年にアルトナの中央教会 (Hauptkirche) のオルガン奏者、1874年に王室音楽監督、1879年にハンブルク音楽院の合唱団の教師、1887年にハンブルク音楽芸術家協会 (Hamburger Tonkünstlerverein) 名誉会員となりました。教え子にアルノルト・クルーク (Arnold Krug, 1849 - 1904) とアルフレート・クラインパウル (Alfred Kleinpaul, 1850 - 1936) がいます。

画家の兄ルイ・グルリット (Louis Gurlitt, 1812 - 1897) の孫に音楽学者のヴィリバルト・グルリット (Wilibald Gurlitt, 1889 - 1963)、作曲家・指揮者のマンフレート・グルリット (Manfred Gurlitt, 1890 - 1972) がいます。ただし、マンフレート・グルリットの母は彼の実父がヴィリ・ヴァルデッカー (Willi Waldecker) だと主張しており、ユダヤ系のグルリット家と血縁がないことを理由にマンフレートのナチス入党が認められています。

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