2024-03-12

150th Birth Anniversary of Edmund Eysler

Edmund Eysler (Austria, 1874 - 1949) - Freut euch des Lebens. Marsch. Flottes Marschtempo (C major. Wien: Sirius, 1931).

今日はオーストリアの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、エドムント・アイスラー生誕150年の誕生日です。今回はアイスラー作曲「人生を楽しめ、行進曲 ハ長調」を弾きました。

エドムント・アイスラーは1874年3月12日にオーストリア=ハンガリー帝国エンス川下オーストリア大公国ヘルナルス (Hernals. 現在のヴィーン市ヘルナルス区) で、ユダヤ人商人ベルンハルト・アイスラー (Bernhard Eisler) の子、ザーロモン・アイスラー (Salomon Eisler) として生まれました。6歳からピアノを学び始め、1882年からアントン・シュヴァープ (Anton Schwab) に、次いでテレーゼ・フライシュマン (Therese Fleischmann) にピアノを学びました。1889年に後の作曲家レオ・ファル (Leo Fall, 1873 - 1925) と知り合い、すぐに親友となりました。ヴィーン楽友協会音楽院に入学し、1890年から1892年までアントン・ドーア (Anton Door, 1833 - 1919) にピアノを、ローベルト・フックス (Robert Fuchs, 1847 - 1927) に和声法と対位法を師事し、1892年からヨハン・ネポムク・フックス (Johann Nepomuk Fuchs, 1842 - 1899) に、1894年から1895年までローベルト・フックスに作曲法を師事し、1895年に卒業しました。

音楽院卒業後、文学芸術協会 (Literarisch-künstlerischer Verein) の個人音楽教授・ピアノ伴奏者を務めました。1897年に子守女中のレオポルディーネ・マリー・アルノッホ (Leopoldine Marie Allnoch, 1874 - 1959) と結婚し、ユダヤ教から離教。1898年にローマ・カトリックに改宗し、ザーロモン (Salomon) からエドムント (Edmund) に改名しました。1901年から劇場付きの娯楽施設「ヴィーンのヴェネツィア Venedig in Wien 」と「ウンターブレットル Unterbrettl 」のピアノ奏者・劇場付作曲家を務めました。1903年にアン・デア・ヴィーン劇場で上演したオペレッタ「シュトラウビンガー兄弟 Bruder Straubinger 」が成功を収めました。このとき音楽監督ヴィルヘルム・カルツァグ (Wilhelm Karczag, 1857 - 1923) の提案により自身の姓アイスラーの綴りを Eisler から Eysler に変更し、1909年に公式に改姓しました。1927年にはアン・デア・ヴィーン劇場で代表作となるオペレッタ「金の女親方 Die gold’ne Meisterin 」を上演。オペレッタの人気作曲家となりましたが、1938年にアンシュルスによってオーストリアがナチス・ドイツの統治下となると、ユダヤ人であるアイスラーの作品も演奏禁止となったため、再びピアノ教師として生計を立てました。ユダヤ人でありながらも第二次世界大戦を生き延び、1949年10月4日にヴィーンで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

  • Grove Music Online. Retrieved 2024-03-11.
  • Linhardt, Marion (2001/2016). “Eysler, Edmund”. MGG Online. Retrieved 2024-03-11.
  • Oesterreichisches Musiklexikon online. Retrieved 2024-03-11.

2024-03-03

200th Death Anniversary of Giovanni Battista Viotti

Giovanni Battista Viotti (Italy, 1755 - 1824) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Violin Concerto No. 28 in A minor; II. Andante sostenuto (F major).

今日はイタリア出身の作曲家・ヴァイオリン奏者・興行主、ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ没後200年の命日です。今回はヴィオッティ作曲「ヴァイオリン協奏曲第28番 イ短調」より第2楽章 ヘ長調の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第82曲 Melodia (dal XXVIII Concerto per violino) (118頁) として収録されています。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティは1755年5月12日に、サルデーニャ王国フォンタネット・ポー (Fontanetto Po) で鍛冶屋の子として生まれ、9歳頃までにはヴァイオリンを学んでいました。1766年に、チステルナ・ダスティ公ジュゼッペ・アルフォンソ (Giuseppe Alfonso dal Pozzo, IV principe di Cisterna d'Asti, 1748 - 1819) の庇護の下で赴いたトリノで教育を受けました。トリノでは最初に、チェロニアート氏 (Signor Celoniat)、おそらくカルロ・アントニオ・チェロニアーティ (Carlo Antonio Celoniati, ca. 1730 - 1791) に師事し、次いで1769年にロンドンから帰還したガエターノ・プニャーニ (Gaetano Pugnani, 1731 - 1798) に師事しました。1773年からトリノのレージョ劇場 (Teatro Regio di Torino) 管弦楽団の第2ヴァイオリン奏者を、1775年からサルデーニャ王国宮廷管弦楽団の第1ヴァイオリン奏者を務めました。1779年から師プニャーニとともに演奏旅行に出発し、スイスドレスデンベルリンワルシャワサンクトペテルブルクモスクワを巡り、1781年に再びベルリンを訪れました。ベルリンでは最初の出版楽譜である「ヴァイオリン協奏曲 イ長調」(現在では第3番の番号で知られる) を出版しました。その後、師と別れ (プニャーニはトリノに帰還)、単身でパリに向かいました。

パリでは私的演奏会に出演したのち、1782年3月17日にコンセール・スピリチュエルでパリでのデビューを果たしました。デビューから1年半は頻繁に演奏会に出演して名声を高めましたが、1783年9月8日の演奏会ののち公開演奏会から引退し、ヴェルサイユで王妃マリー・アントワネット (Marie-Antoinette, reine de France et de Navarre, 1755 - 1793) に仕え年金を得るようになりました。プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ (後のフランス国王ルイ18世 Louis XVIII, 1755 - 1824) の後援を得て、1788年にムッシュ劇場 (1791年7月にフェドー劇場 Théâtre Feydeau と改称) を設立。ルイジ・ケルビーニ (Luigi Cherubini, 1760 - 1842) を作曲家として雇用し、1786年から6年間ケルビーニと共有していたアパルトマンでは日曜日にマチネーの音楽会を開きました。作曲家としての活動も充実し、出版作品のうちのおそらく半数は10年間のこの最初のパリ時代に出版されています。

1792年7月にフランス革命から逃れ英国ロンドンに渡りました。ロンドンでのデビューとなる、1793年2月7日のヨハン・ペーター・ザーロモン (Johann Peter Salomon, 1745 - 1815) 主催のハノーヴァー・スクエア・ルームズでの演奏会で成功を収めました。1797年にヴィルヘルム・クラーマー (Wilhelm Cramer, 1746 - 1799) の後任として国王劇場とオペラ・コンサートの管弦楽団のコンサートマスター兼監督に就任しました。ところが、1798年2月に英国政府にジャコバン派支持者と疑われたために国外退去を命じられました。この追放には演奏旅行でロンドンを訪れていたかつての弟子ピエール・ロード (Pierre Rode, 1774 - 1830) も巻き込まれ、ロードはパリに帰還しました。ヴィオッティ自身はこの疑惑をタイムズ紙に掲載された声明と自叙伝「ヴィオッティの生涯の概要 Précis de la vie de J. B. Viotti 」で否定しています。1799年7月までの1年半の間、ホルシュタイン公国シェーネフェルト (Schenefeld) の知人宅に滞在しました。同年、英国に戻り、渡英後に親しくなっていた資産家のチナリー夫妻、財務省官吏のウィリアム (William Bassett Chinnery) とピアノの名手マーガレット (Margaret Chinnery) の住むロンドン郊外の邸宅ギルウェルに寄寓しました。1811年に英国永住市民権 (denizenship) を取得。1813年にロンドン・フィルハーモニック協会の創設者の一人となり、理事に選出されました。1818年に革命前から続けていたワイン事業に失敗し、英国の友人たちに対して多くの借金を負うことになりました。

1819年11月にパリ国立オペラとしても知られる王立音楽アカデミー (Académie Royale de Musique) とイタリア劇場 (Théâtre italien de Paris) の監督に就任。フランスではかつての後援者であるプロヴァンス伯が国王に即位しルイ18世となっていました。音楽アカデミー監督になって間もない1820年2月にベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワ (Charles Ferdinand d'Artois, duc de Berry, 1778 - 1820) が国立劇場から出るところをボナパルト派の馬具屋ルイ=ピエール・ルヴェル (Louis-Pierre Louvel) に暗殺されたことで、民衆から批判の的となったヴィオッティはしばらく苦しむこととなりました。音楽監督としての評価もそれほど上がることはなく、借金を返済できないまま失意のうちにパリを去りました。1823年11月に英国の支援者マーガレット・チナリーとともに再びロンドンに渡り、1824年3月3日にロンドンのポートマン・スクエアの借家で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2024-03-01

100th Death Anniversary of Gustav Helsted

Gustav Carl Helsted (Denmark, 1857 - 1924) - Pastorale. Moderato (D flat major).

今日はデンマークの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、ゴスタウ・ヘルステズ没後100年の命日です。今回はヘルステズ作曲の「パストラル 変ニ長調」を弾きました。楽譜は「クリスマス、デンマークの作曲家によるピアノのための気分と絵画集 Jul. Stemninger og Billeder for Klaver af Danske komponister. Christian Barnekow, Victor Bendix, Louis Glass, Gustav Helsted, Fini Henriques, Peter Erasmus Lange-Müller, Otto Malling, Carl Nielsen, Alfred Tofft 」(Copenhagen: Dansk Tonekunstner Forenings Forlag, 1905) に第4曲 (10-11頁) として収録されています。

ゴスタウ・ヘルステズは1857年1月30日にデンマーク王国の首都コペンハーゲンで、作曲家・声楽教師のカール・ヘルステズ (Carl Helsted, 1818 - 1904) とフランシスカ・マリーア・クレスチェーネ・ヘルステズ、旧姓ヘーイン (Franciska Maria Christiane Helsted (Hagen), 1824 - 1878) の子として生まれました。伯父 (カールの兄) のイズヴァト・ヘルステズ (Edvard Helsted, 1816 - 1900) は作曲家・音楽教師でした。ゴスタウは幼い頃から音楽に強く興味を示して作曲を始め、一旦は父の意向により親族の貿易事務所で働きましたが、1879年から1882年までコペンハーゲン音楽院 (Kjøbenhavns Musikkonservatorium) で学びました。音楽院ではヴァルデマ・トフテ (Valdemar Tofte, 1832 - 1907) にヴァイオリンを学んだほか、ヨハン・クレスチャン・ゲバウア (Johan Christian Gebauer, 1808 - 1884)、エドムンド・ノイペルト (Edmund Neupert, 1842 - 1888)、ニルス・ゲーゼ (Niels Wilhelm Gade, 1817 - 1890)、ヨハン・ピーダ・イミーリウス・ハートマン (Johan Peter Emilius Hartmann, 1805 - 1900)、ゴトフレズ・マティソン=ハンスン (Gottfred Matthison-Hansen, 1832 - 1909) からも指導を受けました。1891年にコペンハーゲンのイエス教会 (Jesuskirken) オルガン奏者に、1915年にコペンハーゲンの聖母教会 (Vor Frue Kirke) オルガン奏者に就任。1892年にコペンハーゲン音楽院の音楽理論の教授に就任し、1904年から亡くなるまで同音楽院のオルガンの教授を務めました。1924年3月1日にコペンハーゲンで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2024-02-17

100th Death Anniversary of Oskar Merikanto

Oskar Merikanto (Finland, 1868 - 1924) - Nuorisolle. 8 Pientä pianokappaletta, Op. 92; No. 3. Tanssi. Allegro molto (D minor). / För ungdomen. 8 Små pianostycken, Op. 92; No. 3. Dans.

今日はフィンランドの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者・指揮者・批評家・音楽教師、オスカル・メリカント没後100年の命日です。今回はメリカント作曲「若者のために、8つのピアノ小品 Op. 92」より第3曲「舞曲 ニ短調」を弾きました。

オスカル・メリカントは1868年8月5日にフィンランド大公国の首都ヘルシンキ (fi: Helsinki; sv: Helsingfors) で生まれました。ヘルシンキ古教会 (fi: Helsingin vanha kirkko; sv: Gamla kyrkan i Helsingfors) オルガン奏者で鐘撞オルガン奏者学校 (fi: Helsingin lukkari-urkurikoulu; sv: Helsingfors klockare-organistskola) 教師のラウリ・ハマライネン (Lauri Hämäläine, 1832 - 1888) から音楽の手ほどきを受け、17歳の頃には作曲をしていました。1887年にヘルシンキで自作を含むプログラムでピアノ奏者・オルガン奏者としてデビュー。フィンランド上院から奨学金を得て、慈善家のアウロラ・カラムジン (Aurora Karamzin, 1808 - 1902)、菓子職人・実業家のフレドリク・エークベリ (Fredrik Ekberg, 1825 - 1891) からの支援も受けました。1887年から1888年までライプツィヒ音楽院ローベルト・パペリッツ (Robert Papperitz, 1826 - 1903)、グスタフ・シュレック (Gustav Schreck, 1849 - 1918) に師事しました。師ハマライネンの死後、後任の古教会オルガン奏者の職を得ようとしましたが叶わず、1890年から1891年までベルリンでアルベルト・ベッカー (Albert Becker, 1834 - 1899) に師事しました。

ヘルシンキに戻り、1891年から1914年まで鐘撞オルガン奏者学校のオルガン教師を、1892年から亡くなるまでヘルシンキ新教会 (sv: Nya kyrkan i Helsingfors. 現在の聖ヨハネ教会 fi: Johanneksenkirkko; sv: Johanneskyrkan) オルガン奏者を、1904年から1920年までヘルシンキ音楽院 (fi: Helsingin musiikkiopisto; sv: Helsingfors musikinstitut. 現在のシベリウス音楽院) の教師を務めました。教え子にヘイッキ・クレメッティ (Heikki Klemetti, 1876 - 1953) がいます。演奏家としては、アイノ・アクテ (Aino Ackté, 1876 - 1944) の共演者としても知られ、ジャン・シベリウス (Jean Sibelius, 1865 - 1957) 作曲の数多くの歌曲の初演を果たしました。1911年には国立オペラ (sv: Inhemsk Opera; fi: Kotimainen Ooppera) を結成し、1922年まで同団の監督を務めました。1918年に心臓病を患い、1924年2月17日にオイッティ (Oitti) で亡くなりました。

出典:

2024-02-16

250th Birth Anniversary of Pierre Rode

Jacques-Pierre-Joseph Rode (France, 1774 - 1830) - 24 Caprices en forme d'études pour le violon seul dans les vingt-quatre tons de la gamme. Dediés à Monseigneur le Prince de Chimay; No. 12. Commodo (G sharp minor). Arrangement for piano and transposed to G minor by Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945).

今日はフランスの作曲家・ヴァイオリン奏者、ピエール・ロード生誕250年の誕生日です。今回はロード作曲「ヴァイオリン独奏のためのエチュードの形式による24の奇想曲」より第12番 嬰ト短調の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲 (ト短調に移調) を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第70曲 Capriccio (dal Capricci per violino solo). Allegro comodo (100-101頁) として収録されています。「24の奇想曲」は24の全ての調を使って作曲されており、シメイ公フランソワ=ジョゼフ=フィリップ・ド・リケ・ド・カラマン (François-Joseph-Philippe de Riquet de Caraman, prince de Chimay, 1771 - 1843) に献呈されています。また、作品番号の22については生前の版では確認できませんでしたが、1868年の Schott 新版 (Nouvelle édition. Mainz: Schott) に書かれているようです。

ピエール・ロードは1774年2月16日にフランス王国南西部のボルドー (Bordeaux) で生まれました。6歳から8年間、アンドレ=ジョゼフ・フォヴェル (André-Joseph Fauvel) に師事し、12歳のときにはボルドーでの演奏会で協奏曲を弾きました。1787年にフォヴェルに率いられ他の彼の優秀な弟子たちとともに首都パリに赴き、そこでロードはジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ (Giovanni Battista Viotti, 1755 - 1824) に才能を認められ、ヴィオッティの弟子となりました。1790年に師ヴィオッティ作曲のヴァイオリン協奏曲第13番を演奏してパリでのデビューを果たし、1792年にはヴィオッティの新作である第17番と第18番の協奏曲の初演を任されます。これらの公演はヴィオッティが音楽監督を務めていたムッシュ劇場 (Théâtre de Monsieur. 後のフェドー劇場 Théâtre Feydeau) で行われました。

1795年11月22日に、新設されて間もないパリ音楽院 (Conservatoire de musique) のヴァイオリンの教授に任命されました。パリでの教え子にシャルル=フィリップ・ラフォン (Charles-Philippe Lafont, 1781 - 1839)、ジャン=アンリ・シモン (Jean-Henri Simon, 1783 - 1861) がいます。休暇を取ってオランダ、ドイツ、英国ロンドンを巡る演奏旅行をしたのち、1799年に音楽院に復職し、オペラ座での独奏者を務めました。1799年の暮れにはスペインのマドリードで演奏し、当地でルイジ・ボッケリーニ (Luigi Boccherini, 1743 - 1805) の友人となりました。この頃作曲した「ヴァイオリン協奏曲第6番」をスペイン王妃マリア・ルイサ (María Luisa de Borbón-Parma, 1751 - 1819) に献呈しています。1800年にパリに戻ると第一執政ナポレオン・ボナパルト (Napoléon Bonaparte, 1769 - 1821) の下でヴァイオリン独奏者に指名され、代表曲となる「ヴァイオリン協奏曲第7番 イ短調 Op. 9」を初演しました。

1803年にはロシアに赴くことを決意し、道中のドイツ各地で演奏しました。ブラウンシュヴァイクでの演奏はルイ・シュポーア (Louis Spohr, 1784 - 1859) を魅了しました。1804年から1808年までロシア帝国の首都サンクトペテルブルクにおいて、皇帝アレクサンドル1世 (Aleksandr I, 1777 - 1825) の下でヴァイオリン独奏者を務めました。同時期のロシア宮廷では作曲家のフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー (François-Adrien Boieldieu, 1775 - 1834) も活動していました。

1808年12月22日にはパリで再び演奏会を開き、「ヴァイオリン協奏曲第10番 ロ短調 Op. 19」を演奏しました。ペテルブルクではハンガリー出身のヨーゼフ・ベーム (Joseph Böhm, 1795 - 1876) を指導しました。1811年に再びヨーロッパを巡る演奏旅行を行い、1812年12月にヴィーンで、ピアノのルドルフ大公 (Rudolph von Österreich, 1788 - 1831) とともにルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827) 作曲のヴァイオリンソナタ第10番を初演しました。1814年にプロイセン王国の首都ベルリンに移り、プロイセン宮廷画家の娘カロリーネ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ・ヴェローナ (Caroline Sophie Wilhelmine Verona) と結婚しました。ベルリンではフェーリクス・メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn, 1809 - 1847) のヴァイオリンの師で友人として知られるエドゥアルト・リッツ (Eduard Ritz, 1802 - 1832) を指導しました。1819年頃に家族を伴いフランスに戻り、生地のボルドーに定住しました。1828年の、息子エドモン (Edmond Rode, b. 1816) の教育のために訪れた久々のパリでの演奏会は失敗に終わり、その失敗の原因と考えられる麻痺 (脳血管障害) の悪化により、1830年11月25日にダマザン (Damazan) 近郊にある自邸であるブルボン邸 (Château de Bourbon) で亡くなりました。

出典:

2024-02-05

100th Death Anniversary of Alexis Hollaender

Alexis Hollaender (Silesia/Germany, 1840 - 1924) - Sarabande und Gavotte für das Pianoforte, Op. 23. Herrn Dr. Carl Pauly zugeeignet (Berlin: Schlesinger, 1878); No. 1. Sarabande. Andante sostenuto (D flat major).

今日はシュレージエン出身のドイツの作曲家・合唱指揮者・音楽教師、アレクシス・ホレンダー没後100年の命日です。今回はホレンダー作曲「ピアノのためのサラバンドとガヴォット Op. 23 」より第1曲「サラバンド 変ニ長調」を弾きました。

アレクシス・ホレンダーは1840年2月25日にプロイセン王国シュレージエン州のラーティボーア (Ratibor. 現在のポーランド領ラチブシュ Racibórz) で生まれました。州都ブレスラウ (現在のポーランド領ヴロツラフ) でカール・シュナーベル (Karl Schnabel, 1809 - 1881) にピアノを、アドルフ・フリードリヒ・ヘッセ (Adolf Friedrich Hesse, 1809 - 1863) にオルガンを師事しました。当地の聖エリーザベト・ギムナジウム (Sankt Elisabeth-Gymnasium) の生徒として合唱団の指揮、管弦楽演奏会への出演といった活動を経て、フランケ財団 (Franckesche Stiftungen) から奨学金を得て、1858年に首都ベルリンに移りました。フンボルト大学ベルリンで哲学を学びながら、1858年から1861年までプロイセン芸術アカデミーエドゥアルト・グレル (Eduard Grell, 1800 - 1886) とアウグスト・ヴィルヘルム・バッハ (August Wilhelm Bach, 1796 - 1869) に作曲法と音楽理論を師事し、カール・ベーマー (Karl Böhmer, 1799 - 1884) からの個人教授も受けました。

1861年に新音楽アカデミー (Neue Akademie der Tonkunst) の声楽とピアノの教師となり、女声合唱団と混声合唱団を結成しました。1870年に自身の合唱団アレクシス・ホレンダー協会 (Alexis Holländer'sche Verein) とツェツィーリエ協会 (Cäcilien-Verein) を併せ、1902年まで指揮者を務めました。1877年からヴィクトリア・シューレ (Viktoria-Schule) で声楽教師となり、1888年に教授 (Professor) の称号を取得。1903年からフンボルト・アカデミー (Humboldt-Akademie) の講師 (Dozent) となりました。1924年2月5日にベルリンで亡くなりました。

出典:

  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1919). “Hollaender, Alexis”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd edition). New York: G. Schirmer. page 409.
  • Fellinger, Imogen (1972). “Holländer, Alexis”. Neue Deutsche Biographie 9. page 536.

2024-01-21

150th Birth Anniversary of Pyotr Kotov

Pyotr Aleksandrovich Kotov (Пётр Александрович Котов, P. Kotow, Russia, 1874 - 1968) - 6 Morceaux lyriques pour piano, Op. 1 (Moscow: P. Jurgenson); No. 5. Non lento (F major).

今日はロシアの作曲家・ピアノ奏者・音楽学者、ピョートル・コートフ生誕150年の誕生日です。今回はコートフ作曲「ピアノのための6つの抒情小品 Op. 1」より第5曲 ヘ長調を弾きました。

ピョートル・アレクサンドロヴィチ・コートフは1874年1月21日にロシア帝国のモスクワで生まれました。モスクワ・フィルハーモニー協会音楽演劇学校 (Музыкально-драматическое училище Московского филармонического общества) でパーヴェル・パープスト (Pavel Pabst, 1854 - 1897) にピアノを、パーヴェル・ブラランベールク (Pavel Blaramberg, 1841 - 1907) とアレクサンドル・イリイーンスキー (Aleksandr Ilyinsky, 1859 - 1920) に音楽理論を師事しました。1902年にアレクサンドル・マースロフ (Aleksandr Maslov, 1876 - 1914) とイヴァン・テザヴロフスキー (Ivan Tezavrovsky, 1876 - 1941) とともに音楽学校を設立。1906年から母校の音楽演劇学校 (1918年に音楽演劇研究所に再編、1922年よりロシア舞台芸術アカデミー Российский институт театрального искусства — ГИТИС) のピアノと音楽理論の教師を、1916年から1940年まで教授を務めました。1940年から1958年までボリショイ劇場でソルフェージュの講師となりました。1968年3月16日にモスクワで亡くなりました。

出典: “Котов, Петр Александрович”. Большая биографическая энциклопедия. 2009. Retrieved 2024-01-21.

2024-01-12

350th Death Anniversary of Giacomo Carissimi

Giacomo Carissimi (Italy, 1605 - 1674) - Prélude. Moderato (C minor) from Laudate II, Collection de morceaux pour orgue sans pédales (Brussels: A. Ledent-Malay, 1919).

今日はイタリアの作曲家・オルガン奏者、ジャコモ・カリッシミ没後350年の命日です。今回はカリッシミ作曲「前奏曲 ハ短調」を弾きました。

ジャコモ・カリッシミは教皇領マリーノ (Marino) に生まれ、1605年4月18日に受洗しました。幼いころの音楽教育については史料が残されていないようです。1623年10月からティヴォリ大聖堂 (Duomo di Tivoli) 聖歌隊歌手を、1624年10月から1627年10月まで大聖堂第一オルガン奏者を務めました。1628年にアッシジ聖ルフィーノ大聖堂 (Cattedrale di San Rufino di Assisi) の楽長 (maestro di cappella) に就任。23歳のときにドイツ語話者のための神学校であるドイツ・ハンガリー学校 (Collegium Germanicum et Hungaricum ; Collegio Germanico-Ungarico) に雇われ、ロレンツォ・ラッティ (Lorenzo Ratti, ca. 1590 - 1630) の後任として1629年から亡くなるまでの44年あまり同校の楽長を務めました。1674年1月12日にローマで亡くなりました。

楽長だったころのドイツ・ハンガリー学校の学生に1630年から1638年まで在籍したジョヴァンニ・バッティスタ・モッキ (Giovanni Battista Mocchi, ca. 1620 - 1688)、1633年から1636年まで在籍したカスパー・フェルスター (Kaspar Förster der Jüngere, 1616 - 1673)、1641年から1646年まで在籍したヴィンチェンツォ・アルブリーチ (Vincenzo Albrici, 1631 - 1687)、1644年から1651年まで在籍したフィーリプ・ヤーコプ・バウドレクセル (Philipp Jakob Baudrexel, 1627 - 1691) がおり、学外のカリッシミの弟子には1654年頃のマルカントワーヌ・シャルパンティエ (Marc-Antoine Charpentier, 1643 - 1704)、1656年以前のヨハン・カスパー・ケルル (Johann Caspar Kerll, 1627 - 1693)、1657年のクリストフ・ベルンハルト (Christoph Bernhard, 1628 - 1692) がいます。

出典:

  • 樋口隆一「カリッシミ」『日本大百科全書 (ニッポニカ)』小学館 (コトバンク). Retrieved 2024-01-12.
  • Jones, Andrew V. (2001). “Carissimi, Giacomo [Jacomo]”. Grove Music Online. Retrieved 2024-01-12.

2024-01-11

150th Birth Anniversary of Otto Zweig

Otto Zweig (Czech, 1874 - 1942) - 10 Klavierstücke, Op. 7 (Leipzig: Kistner, 1906); No. 1. Albumblatt. Andante (G major).

今日はチェコ・モラヴィアの作曲家・製麦業者、オットー・ツヴァイク生誕150年の誕生日です。今回はツヴァイク作曲「10のピアノ小品 Op. 7」より第1曲「アルバムの綴り ト長調」を弾きました。

オットー・ツヴァイクは1874年1月11日に、綾織綿布 (バルヘント Barchent, ファスチャン織 Fustian) 製造業者ジークムント・メナヘム・ツヴァイク (Sigmund Menachem Zweig, 1845 - 1910) とカロリーネ・ツヴァイク (Karoline Zweig, geb. Doctor, 1853 - 1874) の子として、オーストリア=ハンガリー帝国モラヴィア辺境伯領プロスチェヨフ (Prostějov. ドイツ語名: プロスニッツ Proßnitz) で生まれました。生後半月ほどたった1月28日に母カロリーネを亡くし、1876年には父が叔母 (カロリーネの妹) ヨゼフィーネ・ドクトア (Josephine Zweig, geb. Doctor, 1856 - 1930) と再婚しました。一家はオロモウツ (Olomouc) に移り、父は製麦工場を営み始めました。

オットー・ツヴァイクはヴィーンオイゼビウス・マンディチェフスキ (Eusebius Mandyczewski, 1857 - 1929) に音楽理論と作曲法を、アントン・ドーア (Anton Door, 1833 - 1919) にピアノを師事し、1896年にオロモウツに戻って異母弟のフェーリクス・ツヴァイク (Felix Zweig, 1879 - 1939) と共同で製麦工場「マルクス・ツヴァイクス・ゼーネ Marcus Zweig's Söhne 」を経営しました。1942年7月8日にナチス・ドイツにより捕らえられ、チェコ・ボヘミア北部のテレジーンにある強制収容所テレージエンシュタットに収容されました。同年10月15日にはポーランドのトレブリンカ強制収容所に移送され、その後の消息を絶ちました。トレブリンカ移送の数日後には殺害されたと考えられています。

出典:

  • Breithaupt, Rudolf Maria (1913). “Otto Zweig”. Die natürliche Klaviertechnik. Leipzig: C. F. Kahnt. page 673.
  • Schmidl, Carlo (1938). “Otto Zweig”. Supplemento al Dizionario universale dei musicisti : appendice, aggiunte e rettifiche al primo e secondo volume. Milano: Sonzogno. page 788.
  • Otto Zweig”. Lexikon verfolgter Musiker und Musikerinnen der NS-Zeit (LexM). 2012-01-23. Universität Hamburg. Retrieved 2024-01-11.
  • SAMMLUNG EGON MICHAEL ZWEIG UND FAMILIE –P149”. The Central Archives for the History of the Jewish People Jerusalem (CAHJP). Retrieved 2024-01-11.
  • Otto Zweig”. Židovská obec Olomouc. Retrieved 2024-01-11.

2023-12-29

200th Death Anniversary of Daniel Steibelt

Daniel Steibelt (Germany/France/Russia, 1765 - 1823) - Exercice No. 4. Allegro in A minor. Méthode de piano ou l'art d'enseigner cet instrument (Paris: Imbault, 1805). page 138.

ドイツ出身の作曲家・ピアノ奏者、ダニエル・シュタイベルト没後200年 (グレゴリオ暦1823年10月2日没) ということで、シュタイベルト著「ピアノ教程またはピアノ教授法」に収録された「エチュード集とエグゼルシス集 Études and exercices (8つのエグゼルシス)」よりエグゼルシス第4番 イ短調を弾きました。

ダニエル・シュタイベルトは1765年10月22日に神聖ローマ帝国プロイセン王国の首都ベルリンで、プロイセン陸軍将校で後にピアノ・チェンバロ製作者となる父と、フランスから亡命したユグノーの家庭出身の母の間に生まれました。プロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム (後のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世) の後援で、ベルリンのヨハン・フィーリプ・キルンベルガー (Johann Philipp Kirnberger, 1721 - 1783) に師事することとなり、1782年には最初の出版作品である8小節の歌曲が歌曲集の一曲として出版されました。父からプロイセン軍への入隊を強いられたために1784年にプロイセン国外に逃れ、しばらく旅をしながらピアノ奏者として暮らしました。

1788年にはミュンヒェンで「ソナタ集 Opp. 1-4」を出版。1789年にはザクセンハノーファーで演奏会を開き、1790年にはパリの永住権を得てます。フランス宮廷におけるヨハン・ダーヴィト・ヘルマン (Johann David Hermann, 1764 - 1852) との作曲勝負では、ヘルマンとシュタイベルトがそれぞれ変ロ長調のアレグロの楽曲を作曲しており、それらを2つの楽章としたフランス王妃マリー・アントワネットのためのソナタ「ラ・コケット La coquette 」が後に出版されています。この勝負の存在によりシュタイベルトがフランス革命前 (1789年以前) にはパリを訪れたことがあると考えられています。1793年に、パトロンでもあるジョゼフ=アレクサンドル・ド・セギュール (Joseph-Alexandre de Ségur, 1756 - 1805) の台本に付曲したオペラ「ロメオとジュリエット Roméo et Juliette 」が、パリのフェドー劇場 (Théâtre Feydeau) で初演されました。このオペラの成功により、シュタイベルトは作曲家・音楽教師としての名声を得ました。その後の15年間をパリとロンドンを拠点に活動し、ヨーロッパの主な首都のほとんどを演奏旅行で巡りました。1798年3月19日にロンドンでピアノ協奏曲第3番 ホ長調「嵐」 (嵐の模倣を序奏とするロンド・パストラルを第3楽章に持つ) を演奏。ロンドンでキャサリン (Catharine) という名のイングランド人ピアノ奏者・タンブラン奏者と結婚し、結婚後は自作の多くにタンブランやトライアングルのパートを加えました。1799年後半から1年間の演奏旅行ではハンブルクドレスデンプラハ、ベルリン、ヴィーンを訪問。ヴィーンのモーリツ・フォン・フリース伯爵 (Moritz von Fries, 1777 - 1826) 邸でのルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827) との有名なピアノ演奏技能勝負はフェルディナント・リース (Ferdinand Ries, 1784 - 1838) 著『ベートーヴェンに関する伝記的覚え書 Biographische Notizen über Ludwig van Beethoven 』(Koblenz: Bädeker, 1838) に書かれています。1800年8月にはパリに戻り、同年12月24日にオペラ座にてフランス第一執政ナポレオン・ボナパルト (Napoléon Bonaparte, 1769 - 1821) の御前でヨーゼフ・ハイドン (Joseph Haydn, 1732 - 1809) 作曲セギュール訳「天地創造 Die Schöpfung 」を上演、1802年3月3日にはオペラ座でバレエ「ゼピュロスの帰還 Le retour de Zephyr 」を上演し、いずれも成功しました。1805年に「ピアノ教程またはピアノ教授法」を出版。

1808年秋に、増えすぎた債務による投獄から逃れるようにパリを離れ、フランクフルト・アム・マインライプツィヒ、ブレスラウ (ヴロツワフ)、ワルシャワ、ヴィルナ (ヴィリニュス、この地ではポーランド語訳のハイドン「天地創造」を指揮)、リガを巡って、1809年春に終焉の地となるサンクトペテルブルクに到着しました。1810年頃にフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー (François-Adrien Boieldieu, 1775 - 1834) の後任として同地のフランス・オペラ座の監督に就任。1812年にフランス皇帝となったナポレオン1世 (Napoléon Ier) 率いるフランス軍がモスクワを占領すると、ロシア国家に献げられたピアノのための幻想曲「モスクワ大火 L'incendie de Moscou 」を作曲しました。1820年3月16日に合唱を伴うバッカナール風ロンドを終楽章に持つピアノ協奏曲第8番を初演。痛みのある病に冒され、1823年10月2日 (ユリウス暦9月20日) にペテルブルクで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典: