2022-03-29

200th Death Anniversary of Johann Wilhelm Hässler

Johann Wilhelm Häßler (Иоганн Вильгельм Гесслер, Germany/Russia, 1747 - 1822) - Clavier- und Singstücke verschiedener Art, componirt und dem Fräulein Caroline von Keller, Hofdame bey der regierenden Fürstin zu Nassau-Weilburg, gewidmet. Erste Sammlung (Erfurt: auf Kosten des Verfassers, 1782); Allegro I (C major) & Allegro II (C minor).

今日はドイツの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者、ヨハン・ヴィルヘルム・ヘスラー没後200年の命日です。今回はヘスラー作曲「様々な技法のクラヴィーアと歌の小品集」第1集より「2つのアレグロ ハ長調/ハ短調」を弾きました。

ヨハン・ヴィルヘルム・ヘスラーは1747年3月29日に神聖ローマ帝国マインツ選帝侯領エアフルトで生まれました。父が営む帽子製造工場で働くかたわら、おじ (母の兄弟) のヨハン・クリスティアン・キッテル (Johann Christian Kittel, 1732 - 1809) にクラヴィーア、オルガン、作曲を師事し、1762年頃にエアフルトの跣足教会 (Barfüßerkirche) のオルガン奏者に任命されました。1770年代にドイツの各地に演奏旅行におもむき、1771年にゲッティンゲンヨハン・ニコラウス・フォルケル (Johann Nikolaus Forkel, 1749 - 1818) に、ハンブルクカール・フィーリプ・エマヌエル・バッハ (Carl Philipp Emanuel Bach, 1714 - 1788) に、1773年にライプツィヒヨハン・アダム・ヒラー (Johann Adam Hiller, 1728 - 1804) とクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ (Christian Gottlob Neefe, 1748 - 1798) とダニエル・ゴットロープ・テュルク (Daniel Gottlob Türk, 1750 - 1813) に会いました。テュルクには数ヶ月の間、指導しています。

1779年に教え子で歌手のゾフィア・キール (Sophia Barbara Häßler, geb. Kiel, 1761 - 1844) と結婚し、1780年以降、彼女と「公共冬季演奏会」(Öffentlichen Winterkonzerte) を開催しています。1790年には末娘のヘンリエッテ (Henriette Eberwein, 1790 - 1849) が生まれています。ヘンリエッテは歌手となり、彼女の夫のカール・エーバーヴァイン (Carl Eberwein, 1789 - 1868) との間に生まれたマックス・カール・エーバーヴァイン (Max Karl Eberwein, 1814 - 1875) はピアノ奏者となりました。

ヘスラーは1780年代の演奏旅行でヴァイマルベルリンポツダムなどを訪れ、1784年に音楽商店と音楽貸出図書館 (Musikalische Leihbibliothek) をを設立し、1789年にはドレスデンヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart, 1756 - 1791) に会いました。1790年から1792年までグレートブリテン王国ロンドンでピアノ奏者・教師として成功しました。1792年にはロシア帝国リガ (現ラトビア) を経てサンクトペテルブルクに移り、1793年にロシア大公アレクサンドル・パーヴロヴィチ (後のロシア皇帝アレクサンドル1世 Aleksandr I, 1777 - 1825) のピアノ奏者に任命されました。1794年にモスクワに移り、ピアノ奏者・教師・音楽出版者として活動し、1822年3月29日に同地で亡くなりました。

教え子にマトヴェイ・ベルナルト (Matvey Bernard, 1794 - 1871)、ヨシフ・ゲニーシタ (Iosif Genishta, 1795 - 1853) がいます。

出典:

2022-03-22

100th Death Anniversary of Ika Peyron

Ika Peyron (Sweden, 1845 - 1922) - Gavotte et Chansonnette, Op. 1 (Stockholm: Abr. Lundquists förlag, 1888); No. 2. Chansonnette. Giocoso (G major).

今年はイーカ・ペイロン没後100年ということで、ペイロン作曲「ガヴォットとシャンソネット Op. 1」より第2曲「シャンソネット ト長調」を弾きました。

イーカ・ペイロンは1845年7月1日にスウェーデン=ノルウェーヴェステルノールランド県ティムロー (Timrå) で下女の非嫡出子として生まれ、幼いころにスンヅヴァルの卸売商人アントン・アスプ (Anton Asp, 1806 - 1878) の養子となり、フレドリーカ・アルベルティーナ・アスプ (Fredrika Albertina Asp) と名付けられました。1855年にストックホルムに移り、同地でルイーズ・エングストロム (Louise Engström) とイーヴァル・ハルストロム (Ivar Hallström, 1826 - 1901) にピアノを、アルベルト・リンドストロム (Albert Lindström, 1853 - 1935) にオルガンを師事しました。1865年に卸売商人で政治家のルードヴィグ・ペイロン (Ludvig Peyron, 1832 - 1915) と結婚。1870年から1872年までヤン・ファン・ボーム (Jan van Boom, 1807 - 1872) にピアノを師事。1880年代にアントン・ヨルゲン・アンデション (Anton Jörgen Andersen, 1845 - 1926) に管弦楽法を、ユーセフ・デンテ (Joseph Dente, 1838 - 1905) に対位法を、エミール・シェーグレン (Emil Sjögren, 1853 - 1918) に作曲を師事しました。1922年3月15日 (Ternhag 2015) または同月22日 (MusicSack) にストックホルムで亡くなりました。

出典:

2022-03-21

150th Birth Anniversary of Albert Chandelier

Albert Chandelier (France, 1872 - 1952) - 2 Pastels de La Tour; No. 2. Pavane. Moderato (A major). À Mademoiselle Marie-Élisabet Schneider.

今日はフランスの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者、アルベール・シャンドリエ生誕150年の誕生日です。今回はシャンドリエ作曲「2つのラ・トゥールのパステル画」より第1曲「パヴァーヌ イ長調」を弾きました。トゥール (tour) にはフランス語で「塔」などの意味がありますが、ここではおそらく画家のモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール (Maurice Quentin de La Tour, 1704 - 1788) を指すのでしょう。

アルベール・シャンドリエは1872年3月21日にフランス共和国ノール県ソレム (Solesmes) で生まれました。 1893年にパリのエコール・ニデルメイエールでオルガンの一等賞を取得しました。また、カミーユ・サン=サーンス (Camille Saint-Saëns, 1835 - 1921) に師事しています。

出典: “Albert Chandelier (1872-1952)”. Bnf Data. Bibliothèque nationale de France. Retrieved 2022-03-21.

2022-03-18

100th Death Anniversary of Ida Volkmann

II. Elementarstufe des Klavierspiels. Stückchen im Umfang von 8 Tönen für jede Hand von Ramann-Volkmann. Eingeführt in der Ramann-Volkmannschen Musikschule zu Nürnberg (Nürnberg & München: Wilhelm Schmid, 1868); No. 3. Alle Vögel sind schon da. Moderato (G major).

今日は東プロイセン出身のドイツの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、イーダ・フォルクマン (Ida Volkmann, Germany, 1838 - 1922) 没後100年の命日です。今回は、リーナ・ラーマン (Lina Ramann, 1833 - 1912)、イーダ・フォルクマン共著『第2ピアノ演奏初級階梯、各手8度音程の小品集』より第3曲「鳥たちが皆やってきた ト長調」を弾きました。この第3曲の課題は「対位法的演奏法の準備」(Vorbereitung contrapunktischer Ausfuhrungsweise.) と書かれています。原曲は同名のドイツ民謡であり、日本では唱歌「霞か雲か」の旋律として使われたことで知られています。楽譜にはカッコウ (Kuckuck)、サヨナキドリ (Nachtigall)、ヨーロッパウズラ (Wachtel) の名が書き込まれ、曲に使われたそれらの鳴き声を模倣した動機が示されています。

イーダ・フォルクマンは1838年8月28日にプロイセン王国東プロイセン州のインスターブルク (Insterburg. 現在のロシア連邦カリーニングラード州チェルニャホフスク Chernyakhovsk) で林業会計士のフリードリヒ・フォルクマン (Friedrich Volkmann, d. 1859) の子として生まれました。ティルジット (現在のソヴェーツク) を経てザクセン王国ライプツィヒに移り、1861年4月から1863年3月までライプツィヒ音楽院 (Conservatorium der Musik) で学びました。音楽院では当初は声楽を専攻し、ローベルト・パペリツ (Robert Papperitz, 1826 - 1903) とルイ・プライディ (Louis Plaidy, 1810 - 1874) にピアノを師事しました。 また、フランツ・リスト (Franz Liszt, 1811 - 1886) にもピアノの指導を受けています。 1863年にホルシュタイン公国グリュックシュタット (Glückstadt) にある女性のための音楽研究所 (1858年にリーナ・ラーマンにより設立) の教師となりましたが、 翌1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争のために音楽研究所は閉鎖されました。1865年にニュルンベルクでラーマンとともにラーマン=フォルクマン音楽学校 (Ramann-Volkmannsche Musikschule) を設立。1890年にアウグスト・ゲレリヒ (August Göllerich, 1859 - 1923) が学校経営を引き継ぎ、ラーマンとフォルクマンはミュンヒェンに移ります。フォルクマンは1922年3月18日にミュンヒェンで亡くなりました。

出典: Hoffmann, Freia (2012). “Volkmann, Volckmann, Ida (Julie Luise, Louise, oder Friederike Julie)”. Sophie Drinker Institut. Retrieved 2022-03-18.

2022-03-16

150th Birth Anniversary of Edwin Vaile McIntyre

Edwin Vaile McIntyre (USA, 1872 - 1934) - At-a-ló-wa Melodies of Piano Pieces, Op. 51; No. 5. The Harpist. Allegretto (F major). To Willa Doris Morgan.

今日は米国の作曲家・オルガン奏者、エドウィン・ヴェイル・マッキンタイア生誕150年の誕生日です。今回はマッキンタイア作曲「ピアノ小品集のアタローワ旋律集 Op. 51」より第5曲「ハープ奏者 ヘ長調」を弾きました。楽譜の脚註によると、アタローワ (At-a-ló-wa) とはインディアン部族のチョクトー族 (Choctaw) が話すチョクトー語で「歌」(ataloa, atalwa) を意味し、この曲集はインディアンの旋律やその手法で書かれたものではないが、チョクトー族を含む文明化五部族 (Five Civilized Tribes) が居住するオクラホマで作曲されたものだということです。

エドウィン・ヴェイル・マッキンタイアは1872年3月16日にアメリカ合衆国インディアナ州リッチモンド (Richmond) で生まれました。ミズーリ州セントルイスのスミス・アカデミー (Smith Academy) で学び、エドワード・モリス・ボウマン (Edward Morris Bowman, 1848 - 1913) に師事し、アメリカン・カレッジ・オブ・ミュージシャンズ (American College of Musicians) のピアノとオルガンの学位を取得しました。セントルイスとオクラホマシティ (1911年以後) で教会オルガン奏者や合唱指揮者を務めました。1919年に中風に罹りますが、1922年に回復しています。

出典: Krohn, Ernst C. (1924). “McIntyre, Edwin Vaile”. A Century Of Missouri Music. St. Louis: Privately Printed. page 118.

2022-03-10

100th Death Anniversary of Hans Sitt

Hans Sitt (Hanuš Sitt, Czech/Germany, 1850 - 1922) - Lose Blätter. 10 Stücke für Pianoforte, Op. 37 (Frau Elise Laiblin zugeeignet. Leipzig: Ernst Eulenberg, 1890); No. 10. Andante e molto tranquillo (E flat major).

今日はチェコ・ボヘミア出身のドイツの作曲家・ヴァイオリン奏者・ヴィオラ奏者・指揮者・音楽教育者、ハンス・ジット (ハヌシュ・シット) 没後100年の命日です。今回はジット作曲「未綴じの紙葉集、ピアノのための10の小品 Op. 37」より第10曲 変ホ長調を弾きました。

ハンス・ジットは1850年9月21日にオーストリア帝国ボヘミア王国プラハで生まれました。父のアントン・ジット (アントニーン・シット) 1世 (Anton Sitt der Ältere, 1819 - 1878) はハンガリー生まれのヴァイオリン職人であり、兄にヴァイオリン奏者のアントン・ジット2世 (1847 - 1929)、妹にソプラノ歌手のマリエ・ペツォルドヴァー=シットヴァー (Marie Petzoldová-Sittová, 1852 - 1907) がいます。

ハンスは1861年から1867年までプラハ音楽院アントニーン・ベンネヴィツ (Antonín Bennewitz, 1833 - 1926) とモーリツ・ミルドナー (Moritz Mildner, 1812 - 1865) にヴァイオリンを、 ヤン・ベドジフ・キトル (Jan Bedřich Kittl, 1806 - 1868) とヨゼフ・クレイチー (Josef Krejčí (1821/1822 - 1881) に作曲を師事しました。 1867年から1870年までプロイセン王国シュレージエン州のブレスラウ (ヴロツワフ) でコンサートマスターと楽長、次いでプラハの国立ドイツ劇場 (現在のスタヴォフスケー劇場) の副楽長、1873年から1880年までドイツ帝国ザクセン王国ケムニッツ市立劇場の楽長、 1880年にフランス共和国ニースでロシア貴族の私設管弦楽団の指揮者を務めました。 1883年にドイツ帝国ザクセン王国のライプツィヒに移住して、1884年から1921年までライプツィヒ音楽院 (Königliches Konservatorium der Musik zu Leipzig) のヴァイオリンと管弦楽演奏法と総譜演奏法の教授、1885年から1903年まで合唱団「バッハ・フェライン Der Bach-Verein zu Leipzig 」の指揮者 (設立者ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク Heinrich von Herzogenberg の後任)、ブロツキー四重奏団 (Brodsky-Quartetts) ヴィオラ奏者、演奏会主催者を務めました。1922年3月10日に同地で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

150th Birth Anniversary of Camillo Schumann

Camillo Schumann (Germany, 1872 - 1946) - Andante con moto (G minor. Dédié à Monsieur le Pasteur L. Koch (Ruhla). Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium. Recueillies et publiées par l'Abbe Jos. Joubert. Volume 3. pages 167-169. Paris: Senart, Roudanez & Cie., 1912).

今日はドイツの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者、カミロ・シューマン生誕150年の誕生日です。今回はシューマン作曲、オルガンまたはハルモニウムのための「アンダンテ・コン・モート ト短調」を弾きました。楽譜はジョゼフ・ジュベール (Joseph Joubert, 1878 - 1963) 編纂「オルガンの現代の巨匠、オルガンまたはハルモニウムのための未発表作品集」第3巻に収録されています。

カミロ・シューマンは1872年3月10日にドイツ帝国ザクセン王国ケーニヒシュタイン (Königstein) に生まれました。父はケーニヒシュタイン市音楽監督のクレメンス・シューマン1世 (Clemens Schumann, senior, 1839 - 1918) で、兄に作曲家のゲオルク・シューマン (Georg Schumann, 1866 - 1952) がいます。

父から音楽の手ほどきを受けたのち、1889年から1893年までライプツィヒ王立音楽院 (Königliches Konservatorium der Musik zu Leipzig) でカール・ライネッケ (Carl Reinecke, 1824 - 1910) に作曲を、ザーロモン・ヤーダスゾーン (Salomon Jadassohn, 1831 - 1902) に音楽理論を、ブルーノ・ツヴィンチャー (Bruno Zwintscher, 1838 - 1905) にピアノを、パウル・ホーマイヤー (Paul Homeyer, 1853 - 1908) にオルガンを師事。1894年から1895年までベルリン王立高等音楽学校 (Königliche Akademische Hochschule für ausübende Tonkunst) でヴォルデマール・バルギール (Woldemar Bargiel, 1828 - 1897) とローベルト・ラーデケ (Robert Radecke, 1830 - 1911) に師事しました。1896年にアイゼナハゲオルク教会ヴァルトブルク城のオルガン奏者に、1911年にザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の音楽監督と宮廷オルガン奏者に就任。また、アイゼナハの音楽学校でオルガンと音楽理論の教師となりました。1914年にバート・ゴットロイバ (Bad Gottleuba) に移って作曲に専念し、1946年12月29日に同地で亡くなりました。

出典:

  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1919). “Schumann, Camillo”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd edition). New York: G. Schirmer. page 850.
  • Slonimsky, Nicolas , ed. (1958). “Schumann, Camillo”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (5th edition). New York: G. Schirmer. page 1473.
  • Warszawski, Jean-Marc (2020-06-05). “Schumann Camillo”. musicologie.org. Retrieved 2022-03-07.

2022-03-06

150th Birth Anniversary of Paul Juon

Paul Juon (Павел Фёдорович Юон, Russia/Switzerland, 1872 - 1940) - Kleine Suite für Klavier, Op. 20 (Berlin: Schlesinger'sche Buch- und Musikhandlung, 1902); II. Traurig. Andante doloroso (D minor).

今日はロシア出身の作曲家・音楽教師、パウル・ユオン (パーヴェル・フョードロヴィチ・ユオン) 生誕150年の誕生日です。今回はユオン作曲「ピアノのための小組曲 ハ長調 Op. 20」より第2楽章「悲しい ニ短調」を弾きました。

パウル・ユオンは1872年3月6日 (ユリウス暦2月23日, Gudger & Levi 2001) または同月8日 (ユリウス暦2月25日, SL & Langner 2003/2016) にロシア帝国モスクワに生まれました。ユオン家はスイス東部のグラウビュンデン州から移住してきたスイス人の家庭で、弟に画家・舞台美術家のコンスタンチン・ユオン (Konstantin Yuon, 1875 - 1958) がいます。パウルは1889年にモスクワ音楽院に入学し、ヤン・フジーマリー (Jan Hřímalý, 1844 - 1915) にヴァイオリンを、アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906) とセルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に作曲を師事しました。1894年10月から1895年4月までドイツ帝国ベルリン国立高等音楽学校 (Staatliche Akademische Hochschule für Musik) でヴォルデマール・バルギール (Woldemar Bargiel, 1828 - 1897) に師事し、1896年にプロイセン王国より作曲でメンデルスゾーン奨学金 (Mendelssohn-Stipendium) を得ています。1年間、ロシア帝国バクー県バクーのバクー音楽学校 (現在のアゼルバイジャン国立音楽院附属アサフ・ゼイナリ記念バクー音楽カレッジ Azərbaycan Milli Konservatoriyası nəzdində Musiqi Kolleci. アントニーナ・エルモラーエヴァ Antonina Yermolayeva により設立) でヴァイオリンと音楽理論の教師を務めたのち、1897年からベルリンに定住しました。1905年から母校のベルリン高等音楽学校で音楽理論の臨時教員、1906年から正規教員となり、1911年に作曲の教授に就任しました。1919年に王立芸術アカデミー (Königliche Akademie der Künste) 会員に選出。1934年に健康状態悪化のため退職してスイスのヴヴェイ (Vevey) に移り、1940年8月21日に同地で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:


2022-03-01

150th Birth Anniversary of Alfred Kaiser

Henry Alfred Kaiser (Belgium/England, 1872 - 1917) - Arlequinade. Suite for the Pianoforte (Boston: Arthur P. Schmidt, 1910); No. 5. Pierrot. Allegretto vivace (D major).

今年はベルギー出身の英国の作曲家アルフレッド・カイザー生誕150年 (誕生日は2月29日) です。今回はカイザー作曲「アルルキナード (道化芝居)、ピアノのための組曲」より第5曲「ピエロ ニ長調」を弾きました。

1872年2月29日にベルギーの首都ブリュッセルで生まれたアルフレッド・カイザーは、オーストリア帝国ヴィーンアントン・ブルックナー (Anton Bruckner, 1824 - 1896) に、プラハヨゼフ・ボフスラフ・フェルステル (Josef Bohuslav Foerster, 1859 - 1951) に師事しました。 その後、英国ロンドンに渡り、1917年10月1日にボーンマス (Bournemouth) で亡くなりました。作品にオペラ、付随音楽、交響曲、ピアノ協奏曲、弦楽合奏のための3つのセレナード、2つのピアノ三重奏曲などがあります。

出典:

  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1940). “Kaiser, Alfred”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (4th edition). New York: G. Schirmer. pages 568-569.
  • Slonimsky, Nicolas; Kuhn, Laura; McIntire, Dennis, eds. (2001). “Kaiser, Alfred”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (9th edition). Retrieved 2022-02-28 from Encyclopedia.com.