2023-03-21

200th Death Anniversary of Matthew Peter King

Matthew Peter King (England, ca.1773 - 1823) - 6 Sonatinas for the Piano-forte or Harpsichord, Op. 4 (London: H. Andrews); Sonatina No. 3 in F major; I. Siciliana in F major.

イングランドの作曲家マシュー・ピーター・キング没後200年ということで、キング作曲「ピアノフォルテまたはハープシコードのための6つのソナティナ Op. 4」のソナティナ第3番 ヘ長調より第1楽章「シチリアーナ ヘ長調」を弾きました。

マシュー・ピーター・キングは1773年頃にグレートブリテン王国の首都ロンドンで生まれました。チャールズ・フレデリック・ホーン (Charles Frederick Horn, 1762 - 1830) に師事し、主にロンドンで活動しました。作品には主にライシーアム劇場 (Lyceum Theatre) で発表された劇音楽、グリー、バラード、ピアノ小品があり、通奏低音や和声法についての音楽理論書などの著作もあります。1823年1月にロンドンで亡くなりました。息子のC・M・キングもまた作曲家として歌曲やピアノ曲を発表しています。

出典:

  • Cudworth, Charles; Carr, Bruce (2001). “King, Matthew Peter”. Grove Music Online. Retrieved 2023-03-13.
  • Sharp, Robert Farquharson (1885-1900). “King, Matthew Peter”. Dictionary of National Biography. London: Smith, Elder & Co.

2023-03-17

100th Death Anniversary of Melecio Brull

Melecio Brull Ayerra (Spain, 1858 - 1923) - Flores y Mariposas. Álbum para piano (Madrid: Amagro y Cia.); No. 2. Polka (C major). A Maria Navarro.

今日はスペインの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、メレシオ・ブルル没後100年の命日です。今回はブルル作曲「花と蝶、ピアノのためのアルバム」より第2曲「ポルカ ハ長調」を弾きました。

メレシオ・ブルルは1858年2月8日にスペイン王国ナバラ州サン・マルティン・デ・ウンクス (San Martín de Unx) で生まれました。マドリード音楽院でピアノ、和声法、作曲法などを学び、ピアノと和声法で一等賞を取得しました。同音楽院で事務官兼ピアノ教授となり、37年間、音楽理論を教え、ピアノのレペティトゥールを務めました。また、1919年から1923年までスペイン王子の兄弟、ルイス・アルフォンソ・デ・バビエラ (Luis Alfonso de Baviera, 1906 - 1983) とホセ・エウヘニオ・デ・バビエラ (José Eugenio de Baviera, 1909 - 1966) の教師でもありました。1923年3月17日にマドリード (Madrid) で亡くなりました。兄に作曲家のアポリナル・ブルル (Apolinar Brull Ayerra, 1845 - 1905) がいます。

出典: “BRULL AYERRA, Melecio”. Gran enciclopedia de Navarra. Retrieved 2023-03-13.

2023-03-13

100th Death Anniversary of Ernő Lányi

Ernő Lányi (Ерне Лањи, Hungary/Serbia, 1861 - 1923) - Panasz ; Klage. Lento ma non troppo (F minor. Stuttgart/Leipzig: Neue Musik-Zeitung, 1903).

今日はハンガリーの作曲家・指揮者、ラーニ・エルネー没後100年の命日です。今回はラーニ作曲「嘆き ヘ短調」を弾きました。

ラーニ・エルネーは1861年7月19日にオーストリア帝国ハンガリー王国ペシュト (Pest) で生まれました。4歳からフランス帝国の首都パリで育ち、10代のときにドイツ帝国ミュンヘンバイエルン王立音楽学校で学びました。ヨーロッパ各地で学んでおり、師にはフランツ・リスト (Franz Liszt, 1811 - 1886)、フェルディナント・ヒラー (Ferdinand Hiller, 1811 - 1885)、ケスラー (Кеслер, おそらくハンス・ケスラー Hans Koessler, 1853 - 1926) がいます (Међуопштински завод за заштиту споменика културе са седиштем у Суботици 2018)。帰国ののち1880年代から指揮者として活動し、ブダペシュトハンガリー王立音楽院で学んだのち、1年間を歌劇団のコレペティートルとして活動しました。1889年から1892年までエゲルエゲル大聖堂 (Egri főszékesegyház) 聖歌隊指揮者を、1901年からミシュコルツの市立音楽学校の校長を務めました。1907年にサバトカ (Szabadka. 現在のセルビア領スボティツァ Subotica) に移り、教会の聖歌隊指揮者、市立音楽学校の校長、地元の合唱団の指揮者を務めました。1923年3月13日にセルビア人クロアチア人スロベニア人王国 (第一次世界大戦後に成立) のスボティツァ (サバトカ) で亡くなりました。

出典:

2023-03-05

150th Death Anniversary of Alexis de Castillon

Marie-Alexis Vicomte de Castillon de Saint-Victor (France, 1838 - 1873) - 5 Pièces dans le style ancien pour piano, Op. 9 (À Madame la Marquise d'Angosse); No. 4. Air. Andantino (D major).

今日はフランスの作曲家アレクシス・ド・カスティヨン没後150年の命日です。 今回はカスティヨン作曲「古い様式による5つの小品 Op. 9」より第4曲「エール ニ長調」を弾きました。 曲集はダンゴス侯爵夫人に献呈されています。

アレクシス・ド・カスティヨンは1838年12月13日にフランス王国ウール=エ=ロワール県の県庁所在地シャルトル (Chartres) で生まれました。ラングドックを起源とする歴史の古い貴族の一員であり、家族から軍人になることを期待されて育ちました。少年のころにシャルル・ドリュー (Charles Delioux, 1825 - 1915) にピアノを学び、カミーユ・サン=サーンス (Camille Saint-Saëns, 1835 - 1921) と友人になりました。1856年にサン=シール陸軍師範学校 (École spéciale militaire de Saint-Cyr) に入学しましたが、1861年末に軍を辞めて音楽の道に専念しました。ヴィクトル・マセ (Victor Massé, 1822 - 1884) に師事し、「ヴァイオリンソナタ Op. 6」や「ピアノ四重奏曲 Op. 7」などを作曲。これらの室内楽曲は、ピアノ奏者でもあったダンゴス侯爵夫人の友人として毎冬訪れていた、フランス南西部のポー (Pau) で初演されました。1869年の末からセザール・フランク (César Franck, 1822 - 1890) の指導を受けました。普仏戦争 (1870-1871) に従軍し、帰還後にサン=サーンス、フランクらとともに国民音楽協会 (Société Nationale de Musique) を設立しました。1872年3月10日には、被献呈者サン=サーンスの独奏、ジュール・パドルー (Jules Pasdeloup、1819 - 1887) の指揮するコンセール・ポピュレール(Concerts populaires) による演奏でカスティヨン作曲「ピアノ協奏曲 Op. 12」が初演されました。カスティヨンは健康を損ない1872年夏から療養のためポーに滞在していましたが、パリに戻って数日後の1873年3月5日に肺炎のために34歳の若さで亡くなりました。

カスティヨンの死後40年以上を経た1920年、サン=サーンスはカスティヨン作曲の未発表の旋律を用いて「ヴァイオリンとピアノのためのエレジー ヘ長調 Élégie pour violon et piano, Op. 160」(Paris: Durand & Cie., 1920) を作曲しました。この曲には「シャルル・ド・ガラン氏に、アレクシス・ド・カスティヨンの思い出に à Monsieur Charles de Galland / En souvenir d'Alexis de Castillon 」の献辞が付けられています。記事 100th Death Anniversary of Camille Saint-Saëns にも書きましたが、フィリップ・ベルノ (Philippe Bellenot, 1860 - 1928) 宛てのサン=サーンスの手紙で触れられています。

Et voilà que j'ai noirci du papier réglé! Castillon, qui fut un de mes grands amis et dont la mort prématurée fut un grand malheur pour la musique française, jouait souvent une phrase de huit mesures qu’il aimait et dont il ne s’est jamais servi. J’avais toujours eu l’idée de la monter comme on monte une perle, et j’avais toujours reculé devant cette tâche peu commode. ... (Camille Saint-Saëns. 1920-01-27, Algier. Letter addressed to Philippe Bellenot)

Camille Saint-Saëns (France, 1835 - 1921) - Élégie pour violon et piano. Molto moderato ed espressivo, Op. 160. Transcription pour piano par l'auteur (F major. Paris: Durand & Cie., 1920). À Charles de Galland. En souvenir d'Alexis de Castillon.

サン=サーンス作曲「エレジー Op. 160」(ピアノ独奏編自筆譜) に引用された、カスティヨンによる8小節の旋律 (Elégie // pour violon et piano // Transcription pour piano seul // par l'auteur [Camille Saint-Saëns] (manuscrit autographe). Bibliothèque nationale de France, département Musique, MS-715 (3), page 2)

旋律引用についての註釈が書かれたサン=サーンス作曲「エレジー Op. 160」ピアノ独奏編自筆譜表紙 (Elégie // pour violon et piano // Transcription pour piano seul // par l'auteur [Camille Saint-Saëns] (manuscrit autographe). Bibliothèque nationale de France, département Musique, MS-715 (3), cover)

出典: Fauquet, Joël-Marie (2001). “Castillon (de Saint-Victor), (Marie-)Alexis, Vicomte de”. Grove Music Online. Retrieved 2023-03-04.

2023-03-03

100th Death Anniversary of Karl Adolf Lorenz

Karl Adolf Lorenz (Germany/Poland, 1837 - 1923) - 5 Fugen für Klavier, Op. 95. Herrn Prof. Dr. Otto Klauwell hochachtungsvoll gewidmet (Berlin: Schlesinger, 1914). No. 1. Zweistimmige Fuge (Fugue for 2 voices). Lebhaft (C major).

今日はポンメルン出身のドイツの作曲家・オルガン奏者・指揮者・音楽教師、カール・アドルフ・ローレンツ没後100年の命日です。今回はローレンツ作曲「5つのフーガ Op. 95」より第1番「2声のフーガ ハ長調」を弾きました。曲集はオット・クラウヴェル (Otto Klauwell, 1851 - 1917) に献呈されています。

カール・アドルフ・ローレンツは1837年8月13日にプロイセン王国ポンメルン州ケスリン県のケスリン (Köslin. 現在のポーランド領コシャリン Koszalin) で生まれました。ポンメルン州の州都シュテティーン (Stettin. 現在のポーランド領シュチェチン Szczecin) で、カール・レーヴェ (Carl Loewe, 1796 - 1869) が声楽教師を務めていた王立マリーエンシュティフト・ギムナジウム (Königliches Marienstifts-Gymnasium) で学び、ベルリンジークフリート・デーン (Siegfried Dehn, 1799 - 1858)、フリードリヒ・キール (Friedrich Kiel, 1821 - 1885)、ゲーリヒ (Gehrig) に師事しました。また、ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学 (Friedrich-Wilhelms-Universität zu Berlin. 現在のフンボルト大学 Humboldt-Universität zu Berlin) でも学んで1861年に論文「アリストテレスの悲劇の定義における彼のカタルシス Die Katharsis des Aristoteles in seiner Definition der Tragödie 」により哲学博士 (Dr. phil. = Doctor philosophiae) を取得。マイクスナー合唱団 (Meixnerscher Gesangverein) の指揮者を務めました。

1864年にシュトラールズント (Stralsund) の音楽協会の指揮者に就任。 1866年にシュテティーンに戻り、シュテティーン市音楽監督 (レーヴェの後任)、シュテティーン音楽協会とヤーコビ聖歌隊と教師合唱団 (Lehrergesangverein) の指揮者、ヤーコビ教会 (Jakobikirche) オルガン奏者、母校マリーエンシュティフト・ギムナジウムの声楽教師を務めました。1885年、王室教授 (königlicher Professor)。1910年に引退。1923年3月3日にシュテティーンで亡くなりました。

教え子にレオン・イェッセル (Leon Jessel, 1871 - 1942) がいます。

出典:

  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1940). “Lorenz, Karl Adolf”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (4th edition). New York: G. Schirmer. page 679.
  • Einstein, Alfred, ed. (1929). “Lorenz, Karl Adolf”. Hugo Riemanns Musik Lexikon (11th edition). Berlin: Hesses Verlag. page 1065.
  • Glanz, Christian (2003) 2016. “Jessel, Léon”. MGG Online. Retrieved 2023-03-02.
  • Müller, Karl (1907). “Carl Adolf Lorenz zu seinem 70. Geburtstage dem 13. August 1907”. Die Musik. 6 (21). Berlin: Schuster & Loeffler. pages 137-142.
  • Musiol, Robert, ed. (1881). “Lorenz, Dr. Carl Adolf”. Julius Schuberth's Musikalisches Conversations-Lexicon : ein encyclopadisches Handbuch (10th edition). Leipzig: J. Schuberth. page 269.
  • Pfannkuch, Wilhelm (1987). “Löwe, Karl”. Neue Deutsche Biographie 15. pages 84-85. Retrieved 2023-03-02.

200th Death Anniversary of Antoine-Léonce Kuhn

Antoine-Léonce Kuhn (Anton Leontius Kuhn, France/Germany/Switzerland, 1753 - 1823) - Petites pièces pour le forte piano ou clavecin, Op. 8 (Basel: J. C. Gombart); No. 2. Tempo di Menuetto (C major).

フランス・アルザス出身の作曲家・オルガン奏者・指揮者、アントワーヌ=レオンス・クーン (アントン・レオンティウス・クーン) 没後200年の命日です。今回はクーン作曲「フォルテピアノまたはクラヴサンのための小品集 Op. 8」(全12曲) より第2曲 ハ長調を弾きました。

アントワーヌ=レオンス・クーンは1753年12月18日にフランス王国オート=アルザス地方 (Haute-Alsace) のスルツ (スルツ=オー=ラン Soultz-Haut-Rhin) で、オルガン奏者・教師のジャン=ジョルジュ・クーン (Jean-Georges Kuhn) の子として生まれました。父から音楽の手ほどきを受け、1767年から1773年までスイスポラントリュイ (Pruntrut) にあるイエズス会コレージュ (Collège des jésuites de Porrentruy) で学び、同校のオルガン奏者も務めました。フライブルク・イム・ブライスガウ (Freiburg im Breisgau) で音楽教師・指揮者・作曲家として活動したのち、バーゼル司教公により事務官兼コンサートマスターに任命され、宮廷楽団を指揮し、パリでも演奏された交響曲や室内楽曲を作曲しました。フランス革命 (1789 - 1799) ののち、視学官、寄宿学校運営者を経て、1809年にスイスザンクト・ガレン (Sankt Gallen) でカトリック・ギムナジウムの音楽とフランス語の教師、ザンクト・ガレン大聖堂音楽監督兼オルガン奏者に就任し、多くのミサ曲を作曲しました。1823年3月3日にザンクト・ガレンで亡くなりました。

出典: Puskás, Regula (2014-10-14). “Kuhn, Antoine-Léonce”. Historisches Lexikon der Schweiz (HLS). Retrieved 2023-02-28.

2023-03-01

100th Death Anniversary of Amalie Lumbye

Amalie Augusta Lumbye (Danmark, 1846 - 1923) - Ossetine-Polka (F major).

今日はデンマークの俳優・作曲家、アメーリェ・アウゴスタ・ロンビュー (ロンビ) 没後100年の命日です。今回はロンビュー作曲「オセティン・ポルカ ヘ長調」を弾きました。オセティンとはカフカース中央部のオセチヤに住む民族の名称で、オセット人とも呼ばれます。

アメーリェ・アウゴスタ・ロンビューは1846年5月23日に作曲家・指揮者のハンス・クレスチャン・ロンビュー (Hans Christian Lumbye, 1810 - 1874) の子として生まれ、1923年3月1日に亡くなりました。兄に作曲家・ヴァイオリン奏者・指揮者のカール・クレスチャン・ロンビュー (Carl Christian Lumbye, 1841 - 1911)、作曲家・指揮者のギーオウ・アウゴスト・ロンビュー (Georg August Lumbye, 1843 - 1922) がいます。アメーリェは蒸留家ピーダ・ピーダスン・フベア (Peter Petersen Høeberg, 1843 - 1918) と結婚し、子にチェロ奏者のエアンスト・フベア (Ernst Høeberg, 1871 - 1926)、作曲家・ヴァイオリン奏者・指揮者のギーオウ・フベア (Georg Høeberg, 1872 - 1950)、作曲家・ピアノ奏者のヴァルデマ・フベア (Valdemar Høeberg, 1877 - 1920)、バリトン歌手のアルバト・フベア (Albert Høeberg, 1879 - 1949) がいます。

出典:

  • Dansk Biografisk Leksikon. lex.dk. Retrieved 2023-02-27.
  • Berg, Sigurd (2001). “Lumbye family”. Grove Music Online. Retrieved 2023-02-27.