2024-05-30

150th Birth Anniversary of Elena Gnesina

Yelena Fabianovna Gnesina (Елена Фабиановна Гнесина, Russia, 1878 - 1967) - Пьески-Картинки [pieces-pictures]; No. 12. Рассказ про старину [story about old times]. Спокойно. Певуче (F major).

今日はロシアの作曲家・ピアノ奏者・音楽教育者、エレーナ・グネーシナ生誕150年の誕生日です。今回はグネーシナ作曲「絵画小品集」より第12曲「過ぎし日の物語 ヘ長調」を弾きました。

エレーナ・グネーシナは1874年5月30日 (ユリウス暦5月18日) にロシア帝国ドン軍管州ロストフ・ナ・ドヌ (Ростов-на-Дону) で生まれました。1886年から1893年までモスクワ音楽院エドゥアルト・ランゲル (Eduard Langer, 1835 - 1905)、フェルッチョ・ブゾーニ (Ferruccio Busoni, 1866 - 1924)、パウル・シュレーツァー (Paul de Schlözer, 1841 - 1898)、ヴァシーリー・サフォーノフ (Vasily Safonov, 1852 - 1918) にピアノを、ニコライ・カーシキン (Nikolay Kashkin, 1839 - 1920)、アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906) に音楽理論と作曲法を師事し、サフォーノフのクラスで銀メダルを獲得して卒業しました。

1891年から演奏家・音楽教師としての活動を開始。カヴェーリン (A. P. Kaverin) の援助を受け、1895年に姉妹エヴゲーニヤ・サーヴィナ=グネーシナ (Yevgeniya Savina-Gnesina, 1870 - 1940)、マリーヤ・グネーシナ (Mariya Gnesina, 1876 - 1918) とともに、モスクワにグネーシン音楽専門学校 (Музыкальное училище Е. и М. Гнесиных. 現在のグネーシン音楽大学 Российская академия музыки имени Гнесиных) を設立しました。1923年から1936年まで弟のミハイル・グネーシン (Mikhail Gnesin, 1883 - 1957) を同校の作曲教師に採用 (ミハイルはレニングラード音楽院で教授を務めたのち1944年に再びグネーシン音楽専門学校に戻り1951年まで作曲の教授を務めました)。1935年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国名誉芸術家 (Заслуженный артист РСФСР) 、1943年に教授 (профессор) の称号を得ました。1967年6月4日にモスクワで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典:

2024-05-21

200th Birth Anniversary of Friedrich Zikoff

Friedrich Zikoff (Germany, 1824 - 1877) - Champagner-Polka (G major).

今日はドイツの作曲家・指揮者、フリードリヒ・ツィーコフ生誕200年の誕生日です。今回はツィーコフ作曲「シャンパン・ポルカ ト長調」を弾きました。

フリードリヒ・ツィーコフは1824年5月21日にプロイセン王国西プロイセン州トルン (ドイツ語: Thorn, ポーランド語: Toruń, 現ポーランド領) で生まれました。ザクセン州アンナブルクの陸軍少年学院 (Militär-Knaben-Erziehungs-Institut zu Annaburg) で音楽監督のヘルリング (Herrling) から音楽の訓練を受けました。1842年10月1日にシュレージエン州グラーツ (ドイツ語: Glatz, ポーランド語: クウォツコ Kłodzko, 現ポーランド領) を拠点とするプロイセン王国陸軍第18歩兵連隊軍楽隊に入隊し、1855年には同隊のカペルマイスターに就任しました。作曲家としては行進曲や舞曲が人気を博し、広く知られるようになりました。1877年4月22日に亡くなりました。

出典: Mendel, Hermann; Reissmann, August, eds. (1879). “Zikoff, Friedrich”. Musikalisches Conversations-Lexikon. Eine Encyklopädie der gesammten musikalischen Wissenschaften. Für gebildete aller Stände. Band 11. Berlin: Verlag von Robert Oppenheim. page 484.

2024-05-06

100th Death Anniversary of Émile Wambach

Émile-Xavier Wambach (Belgium, 1854 - 1924) - Klokkenlied uit den Schouwspeldans (Matig. D major. Antwerp: Vlaamse Muziekhandel, 1906).

今日はベルギーの作曲家・ヴァイオリン奏者・ピアノ奏者・オルガン奏者・音楽教育者、エミール・ヴァンバッハ没後100年の命日です。今回はヴァンバッハ作曲「演劇の踊り」より「鐘の歌 ニ長調」を弾きました。

エミール・ヴァンバッハは1854年11月26日にベルギー王国ワロン地域リュクサンブール州の州都アルロン (Arlon) で、王立歌劇場管弦楽団とアントウェルペンの音楽学校でファゴット奏者を務めていたパウル・ヴァンバッハ (Paul Wambach) の子として生まれました。父パウルから音楽の手ほどきを受けたのち、アントウェルペンの音楽学校で1861年からピエール・フベン (Pierre Hoeben) からヴァイオリンを学び、1866年から1867年までブリュッセル王立音楽院ジャン=バティスト・コレインス (Jean-Baptiste Colyns, 1834 - 1902) に、1867年から1872年までアントウェルペン市立音楽学校 (Stedelijke muziekschool van Antwerpen) でペーテル・ブノワ (Peter Benoit, 1834 - 1901)、ジョゼフ・メルテンス (Joseph Mertens, 1834 - 1901) マチュー・ヘネン (Mathieu Hennen, 1828 - 1883)、ジョゼフ・カラーツ (Joseph Callaerts, 1830 - 1901) に師事しました。1875年から1877年までアドルフ・サミュエル (Adolphe Samuel, 1824 - 1898) から個人教授で作曲を学びました。

当初はアントウェルペン王立フランス歌劇場 (現在のブルラ劇場) などでヴァイオリン奏者を務めたほか音楽教師・音楽批評家として活動しました。1881年にアントウェルペン聖グレゴリオ協会 (Antwerpse Sint Gregoriusvereniging) を設立。1893年にセルクル・サンフォニク・ダンヴェルス (Cercle symphonique d’Anvers) 音楽監督に、1902年にベルギーの音楽学校の視学官に、1913年にヤン・ブロックス (Jan Blockx, 1851 - 1912) の後任としてアントウェルペン王立フラマン語音楽院 (Koninklijk Vlaams Conservatorium Antwerpen) の院長に就任。1894年から1919年まで聖母大聖堂のカペルマイスターを務めました。1924年5月6日にアントウェルペン (Antwerpen) で亡くなりました。

教え子にカレル・カンダール (Karel Candael, 1883 - 1948)、クレメント・ドーヘ (Clement D’Hooghe, 1899 - 1951) がいます。

出典:

  • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1940). “Wambach, Emile”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (4th edition). New York: G. Schirmer. pages 1162-1163.
  • Champlin, John Denison; Apthorp, William Foster, eds. (1890). “Wambach, Emile”. Cyclopedia of music and musicians. New York: Charles Scribner's Sons. page 563.
  • Knockaert, Yves (2001). “Wambach, Emile”. Grove Music Online. Retrieved 2024-05-06.
  • MGG Online. Retrieved 2024-05-20.

追記: MGG-Onlineを出典として加筆しました (2024-05-20)。

2024-05-05

50th Death Anniversary of Leopold Ashton

Léopold Ashton (France/England, 1884 - 1874) - Lamento en ut mineur pour orgue ou harmonium. Moderato. À Monsieur Joseph Gogniat, Organiste de l'église Saint-Jacques à Lunéville.

今日はフランス出身の英国の作曲家・オルガン奏者・音楽教師、レオポルド・アシュトン没後50年の命日です。今回はアシュトン作曲「オルガンまたはハルモニウムのためのラメント ハ短調」を弾きました。リュネヴィルサン=ジャッック教会オルガン奏者を務めていたジョゼフ・ゴニア (Joseph Gogniat, 1881 - 1954) に献呈されており、楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第5巻 (Paris: Maurice Senart & Cie., 1914) の8頁に収録されています。

レオポルド・アシュトンはパリのエコール・ニデルメイエール (École Niedermeyer de Paris) で学び、ピアノとオルガンで一等賞を獲得しました。1903年から1910年までサン=ジョゼフ教会 (Église Saint-Joseph) のオルガン奏者を務め、その後英国に渡りロンドンでオルガン奏者として活動し、教授を務めました。

Ancestry.com で調べたところ、レオポルド・アシュトンは1884年12月8日にフランスで生まれ (1911 England Census, Class RG14; Piece: 132)、1974年5月5日にロンドンにおいて89歳で亡くなっています (England & Wales, National Probate Calendar (Index of Wills and Administrations), 1858-1995)。

出典:

  • Joubert, Joseph (1914). “Léopold ASHTON”. Notices biographiques et bibliographiques. Maîtres contemporains de l’orgue, pièces inédites pour orgue ou harmonium, Volume 5. Paris: Maurice Senart & Cie. page 1.
  • Ancestry.com. Retrieved 2024-05-04.

2024-05-03

250th Death Anniversary of Johann Nikolaus Tischer

Johann Nikolaus Tischer (Germany, 1707 - 1774) - Der anmuthigen Clavier Früchte Zweyte Sammlung, bestehend in noch VI Kleinen Suiten; Suite No. 1 (G major); I. Prelude (G major).

今日はドイツの作曲家・オーボエ奏者・ヴァイオリン奏者・ヴィオラ奏者・オルガン奏者・クラヴィーア奏者、ヨハン・ニコラウス・ティッシャー没後250年の命日です。今回はティッシャー作曲「6つの小組曲からなる優美なクラヴィーアの果実」第2集の「組曲第1番 ト長調」より第1楽章「前奏曲 ト長調」を弾きました。

ヨハン・ニコラウス・ティッシャーは1707年に神聖ローマ帝国テューリンゲン地方シュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯爵領 (Grafschaft Schwarzburg-Rudolstadt) のベーレン (Böhlen) で生まれました。1719年に生地ベーレンでヨハン・バルタザール・ラウヘ (Johann Balthasar Rauche) にオルガンを、1722年に書記官として赴いたハルバーシュタットで教会オルガン奏者グラーフ (Graf)、おそらくクリスティアン・ダーヴィト・グラフ (Christian David Graff, 1700 - 1774) にクラヴィーアを、次いでアルンシュタットでシュヴァイツェルベルク (Schweitzelberg) にヴァイオリンとヴィオラダモーレと作曲法を師事し、ルードルシュタットヨハン・グラーフ (Johann Graf, 1684 - 1750) に学びました。オーボエについても熟達した奏者となり、エアフルト、ブラウンシュヴァイク、ハンブルク、ベルリン、ドレスデンを巡ったのち、1728年にブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯アウグスト・ヴィルヘルム (August Wilhelm von Braunschweig-Wolfenbüttel, 1662 - 1731) に雇われて近衛連隊のオーボエ奏者兼ヴァイオリン奏者となりました。1731年にシュマルカルデンに移り市オルガン奏者に、その後ほどなくザクセン=マイニンゲン公国宮廷コンツェルトマイスターにも就任。晩年に健康を害すると、1768年にシュマルカルデンでの教え子ヨハン・ゴットフリート・フィーアリング (Johann Gottfried Vierling, 1750 - 1813) を補佐 (のちに後任) としました。1774年5月3日にシュマルカルデンで亡くなりました。

出典: