2022-04-06

350th Birth Anniversary of André Cardinal Destouches

André Cardinal Destouches (France, 1672 - 1749) / Isidor Philipp (Hungary/France, 1863 - 1958) - Amadis de Grèce, tragédie en musique en un prologue et 5 actes; Canaries (Act 4).

今日はフランスの作曲家アンドレ・カルディナル・デトゥーシュ生誕350年の受洗日です。今回はデトゥーシュ作曲、抒情悲劇「ギリシャのアマディス」第4幕より「カナリー」の、イジドール・フィリップによるピアノ独奏編曲を弾きました。楽譜はフィリップ編纂「フランス・ピアノ音楽のアンソロジー」第1巻「初期の作曲家」(Anthology of French Piano Music. Volume 1: Early Composers. Boston: Oliver Ditson Co., 1906) に収録されています。原曲の総譜は、アンドレ・ダニカン・フィリドール1世 (André Danican Philidor l'ainé, ca.1652 - 1730) による1699年の手稿譜が残されています (フランス国立図書館)。

アンドレ・カルディナル・デトゥーシュは、裕福なパリの商人のエティエンヌ・カルディナル、セニュール・デ・トゥーシュ・エ・ド・ギユヴィル (Etienne Cardinal, Seigneur des Touches et de Guilleville) の子として生まれ、1672年4月6日に洗礼を受けました。1681年から1686年までサンジャック通りイエズス会による教育を受けたのち、1687年1月からギ・タシャール神父 (Gui Tachard, 1651 - 1712) に随行してサヤーム (タイ王国の古称) へ向かう使節団の一員となり、1688年7月に帰国。その4年後にフランス王室の軍人となり、黒色銃士隊 (mousquetaires noir) として1692年のナミュール包囲戦に参加。軍務のかたわらにギターを学んで作曲を試み、ついには音楽に専念するために1694年に軍を退役しました。

アンドレ・カンプラ (André Campra, 1660 - 1744) の弟子となり、カンプラのオペラ=バレ「優雅なヨーロッパ L'Europe galante 」の1698年改訂版にはデトゥーシュ作曲の3つのエアを加えることを許可されました。1697年10月7日にフォンテーヌブローで初演された最初のオペラである英雄的牧歌劇「イセ Issé 」は成功を収めました。この作品に非常に満足したフランス国王ルイ14世 (Louis XIV, 1638 - 1715) により「リュリ以降これほどの喜びを与えてくれる音楽はなかった」(Titon du Tillet, Évrard. « le Roi l’assura que depuis Lulli aucune musique ne lui avait fait plus plaisir ».)という言葉とともに200ルイを贈られました。デトゥーシュはルイ14世のお気に入りの音楽家となり、1713年1月8日に新設された役職である王立音楽アカデミー (Académie royale de musique. 現在のパリ国立オペラ Opéra de Paris) 総監 (inspecteur général) に任命されました。

1718年2月8日、ミシェル=リシャール・ド・ラランド (Michel-Richard de Lalande, 1657 - 1726) の要請により、宮廷室内音楽隊監督 (surintendant de la musique de la chambre) に就任。1724年1月15日、アンヌ=アントワネット・ド・レイノルド・ド・ラ・フェリエール (Anne-Antoinette de Reynold de la Ferrière) と結婚。1727年9月28日、亡くなったド・ラランドの後任として宮廷室内音楽隊楽長 (maître de musique de la chambre) に就任。1728年2月8日、引退するジャン=ニコラ・ド・フランシーヌ (Jean-Nicolas de Francine, 1662 - 1735) の後任として王立音楽アカデミー総長 (directeur) に就任しましたが、1730年6月1日に総長・総監を辞任。1725年以降、王妃マリー・レクザンスカ (Marie Leszczyńska, 1703 - 1768) のために演奏会を企画・監督し、1745年まで王妃の演奏会を管理しました。70歳のときに、国王ルイ15世 (Louis XV、1710 - 1774) の王女たちの仮面舞踏会を指揮しました。1749年2月7日にパリで亡くなりました。

出典:

2022-04-04

150th Birth Anniversary of Nikolay Amani

Nikolay Nikolayevich Amani (Николай Николаевич Амани, Russia, 1872 - 1904) - Album pour la jeunesse. 12 Pièces pour piano (Moyenne difficulté) (Альбом для юношества. 12 Пьес для фортепиано средней трудности), Op. 15 (Moscow: P. Jurgenson); No. 9. Prière d’enfant (Детская просьба). Moderato (C minor).

今日はロシアの作曲家・ピアノ奏者、ニコライ・ニコラーエヴィチ・アマニ生誕150年の誕生日です。今回はアマニ作曲「子供のためのアルバム、ピアノのための中難度の12の小品 Op. 15」より第9曲「子供の願い ハ短調」を弾きました。曲集の各曲はそれぞれ別の人物に献呈されていて、この第9曲は歌手マリーヤ・チェレプニナ (Mariya Tcherepnina, Мария Альбертовна Черепнина, 1876 - 1958) に献呈されています。チェレプニナは、画家のアリベルト・ベヌアー (Albert Nikolayevitch Benois, 1852 - 1936) と、ピアノ奏者でペテルブルク音楽院教授のマリーヤ・ベヌアー=エフローン (Mariya Benois-Efron, 1856 - 1909) の娘であり、ニコライ・チェレプニン (Nikolay Tcherepnin, 1873 - 1945) の妻、アレクサンドル・チェレプニン (Aleksandr Tcherepnin, 1899 - 1977) の母でもあります。

ニコライ・アマニは1872年4月4日 (ユリウス暦 3月23日) にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで生まれました。若くして楽才を示し、11歳でピアノ奏者として演奏会に出演しました。ニコライ・ドゥバーソフ (Nikolay Dubasov, 1869 - 1935) からピアノの指導を受けたのち、1890年にペテルブルク音楽院に入学しました。音楽院ではテオドール・シュタイン (Theodor Stein, 1819 - 1893) とアーンナ・エーシポヴァ (Anna Yesipova, 1851 - 1914) にピアノを、アナトーリー・リャードフ (Anatoly Lyadov, 1855 - 1914) に和声法を、ニコライ・リムスキー=コルサコフ (Nikolay Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908) に作曲理論を師事し、ピアノ科を1897年に、作曲科を1900年に卒業しました。同年に自作の「弦楽三重奏曲 ニ短調 Op. 1」(師ニコライ・リムスキーコルサコフに献呈) により、ペテルブルク室内楽協会 (Санкт-Петербургское общество камерной музыки) の作曲コンクールで入賞しました。

音楽院を卒業するとイタリアに渡り、1900年7月29日のナポリでの演奏会で自作のピアノ曲を弾きました。1901年にドイツに、1902年にクリミアに移住。1904年10月17日 (ユリウス暦 10月4日) にタヴリダ県クリミア半島にあるヤルタ結核のために32歳で亡くなりました。

出典:

  • Slonimsky, Nicolas , ed. (1958). “Amani, Nikolay Nikolayevitch”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (5th edition). New York: G. Schirmer. page 29.
  • Slonimsky, Nicolas; Kuhn, Laura; McIntire, Dennis, eds. (2001). “Amani, Nikolai”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (9th edition). Retrieved 2022-04-02 from Encyclopedia.com.
  • Keldyshm, Yury Vsevolodovich (Келдыш, Юрий Всеволодович), ed. (1973-1982). “Амани Н. Н.”. Музыкальная энциклопедия. Retrieved 2022-04-02.
  • Амани Николай Николаевич”. Биографический словарь. 2000. Retrieved 2022-04-02.

2022-04-01

150th Birth Anniversary of Tadeusz Joteyko

Tadeusz Joteyko (Тадеуш Йотейко, Ukraine/Poland, 1872 - 1932) - Miniatures. 12 Petits morceaux pour piano, Op. 23; No. 6. Les regrets. Moderato assai (D minor).

今日はウクライナ出身のポーランドの作曲家・チェロ奏者・指揮者・音楽教師・批評家、タデウシュ・ヨテイコ (イオテイコ) 生誕150年の誕生日です。今回はヨテイコ作曲「細密画集、ピアノのための12の小品 Op. 23」より第6曲「後悔 ニ短調」を弾きました。

タデウシュ・ヨテイコは1872年4月1日にロシア帝国キエフ県ポチューイキ (現在のウクライナジトーミル州ジトーミル地区のポチューイクィ) で生まれました。姉に生理学者・心理学者のユゼファ・ヨテイコ (ヨセファ・イオテイコ, Józefa Joteyko, 1866 - 1928) がいます (DNB)。12歳のときにヴァイオリンを学びはじめ、1889年から1891年までブリュッセル王立音楽院フランソワ=オーギュスト・ヘヴァールト (François-Auguste Gevaert, 1828 - 1908) に作曲を、エドゥアール・ヤーコプス (Édouard Jacobs, 1851 - 1925) にチェロを師事。1891年から1895年までワルシャワ音楽研究所 (Warszawski Instytut Muzyczny. 第一次世界大戦後にワルシャワ音楽院に改称) でジグムント・ノスコフスキ (Zygmunt Noskowski, 1846 - 1909) に作曲を、アントニ・チンク (Antoni Cink, 1863 - 1933) にチェロを師事しました。

在学中から合唱指揮者として活動し、1895年に音楽研究所を卒業すると、ルブリンラドムウッチカリシュといったロシア帝国沿ヴィスワ地方 (Привислинский край. ロシア帝国領ポーランド) の各都市で指揮者や教師としても活動しはじめました。1897年からラドムのルトニア合唱団 (Towarzystwo Śpiewacze Lutnia w Radomiu) の監督、1900年から1902年までワルシャワ大劇場のチェロ奏者、1902年からウッチ音楽協会の監督、次いでカリシュ音楽協会の監督を務めました。1914年からワルシャワに定住し、ワルシャワフィルハーモニー管弦楽団の指揮者 (1918年まで)、ワルシャワ音楽院の教授を務めました。1932年にポーランド作曲家協会 (Stowarzyszenie Kompozytorów Polskich) の副会長兼会計に就任。1932年8月20日にポーランド共和国チェシンで亡くなりました。

出典:

  • Chylińska, Teresa (2001). “Joteyko, Tadeusz”. Grove Music Online. Retrieved 2022-03-30.
  • Gmys, Martin (2008) 2016. “Joteyko, Tadeusz”. MGG Online, edited by Laurenz Lütteken. Bärenreiter, Metzler, RILM, 2016–. Retrieved 2022-03-30.
  • Dziębowska, Elżbieta, ed. (1993). “Joteyko, Tadeusz”. Encyklopedia Muzyczna PWM. 4. Kraków: Polskie Wydawnictwo Muzyczna. [Wikisource].
  • Joteyko, Tadeusz”. Katalog. Deutsche Nationalbibliothek (DNB). Retrieved 2022-03-30.