2024-11-14

250th Birth Anniversary of Gaspare Spontini

Gaspare Luigi Pacifico Spontini (Italy, 1774 - 1851) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Impitoyables dieux! (O Nume, tutelar degli infelici. Act 2) from La vestale.

今日はイタリアの作曲家ガスパーレ・スポンティーニ生誕250年の誕生日です。今回はスポンティーニ作曲のオペラ「ヴェスタの巫女」第2幕より「無慈悲な女神よ」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第45曲 Preghiera (dall'opera: La Vestale) (66頁) として収録されています。

ガスパーレ・スポンティーニは1774年11月14日に教皇領のマイオラーティ (Maiolati. 現在のイタリア領マイオラーティ Maiolati Spontini) で、職人兼小自作農の子として生まれました。楽才が認められたため、1793年にナポリピエタ・デイ・トゥルキーニ音楽院 (Conservatorio della Pietà dei Turchini. 現在のナポリ音楽院の前身校の一つ) に入学しました。音楽院ではニコラ・サーラ (Nicola Sala, 1713 - 1801)、ジャコモ・トリット (Giacomo Tritto, 1733 - 1824) に師事したと考えられていますが、スポンティーニ自身はドメニコ・チマローザ (Domenico Cimarosa, 1749 - 1801) の弟子であると主張していました。1796年の最初のオペラ・ブッファの初演以後、イタリアでオペラ作曲家として活動し、1802年の末に統領政府期フランスの首都パリに移りました。

パリでは声楽教師として活動を始めますが、やがてフランス皇后ジョゼフィーヌ (Joséphine de Beauharnais, 1763 - 1814) の庇護を得てオペラを発表し、「ヴェスタの巫女」(1807年パリ・オペラ座初演)、「フェルナン・コルテス、またはメキシコ征服」(1809年パリ・オペラ座初演) で大成功を収めました。1817年にフランス国籍を取得。1814年よりプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (Friedrich Wilhelm III, 1770 - 1840) から招聘を受け、1820年にプロイセン王国の首都ベルリンに赴き宮廷音楽家として音楽総監督 (Generalmusikdirektor) に就任しました。外国人作曲家でありながら宮廷音楽家として高い地位にいたスポンティーニを快く思わないものは多く、1840年6月のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の死後、その後ろ盾を失ったスポンティーニは激しい攻撃にさらされ、1841年7月には不敬罪 (不得手なドイツ語での声明中の語句について告発された) により禁固9ヶ月の刑が確定し職を解かれます。1842年5月に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (Friedrich Wilhelm IV, 1795 - 1861) によりその判決は取り消されたものの、スポンティーニはイタリアに帰国しました。1850年9月に生地マイオラーティに戻り、1851年1月24日に同地で亡くなりました。

出典:

  • Gerhard, Anselm (2001). “Spontini, Gaspare (Luigi Pacifico)”.Grove Music Online. Retrieved 2024-11-14.
  • 2024-11-09

    200th Death Anniversary of Jane Savage

    Jane Savage (England, 1752/1753 - 1824) - 6 Easy Lessons for the Harpsichord or Piano Forte, Op. 2; Sonata II (F major); Movement 1. Moderato (F major).

    今日はイングランドの作曲家・歌手・鍵盤楽器奏者、ジェイン・サヴェイジ没後200年の命日です。今回はサヴェイジ作曲「ハープシコードまたはピアノのための6つの易しいレッスン (ソナタ) Op. 2」の「ソナタ第2番 ヘ長調」より第1楽章を弾きました。

    ジェイン・サヴェイジは1752年または1753年に、作曲家・歌手・オルガン奏者のウィリアム・サヴェイジ (William Savage, 1720 - 1789) の子として生まれました。父の弟子たちとともに音楽を学んだと考えられており、父の弟子の一人リチャード・ジョン・サミュエル・スティーヴンズ (Richard John Samuel Stevens, 1757 - 1837) によると、彼は「サヴェイジ嬢」(Miss Savage) とウィリアム・サヴェイジとともにスティーヴンズ作の初期作品の三重唱曲を試唱しています。ジェインは私的な場でのみ演奏していたと考えられますが、両親の死の直前に自身の作品を自費出版しています。兄は母よりヨークシャーの地所を相続し、ジェインは父の遺産の唯一の相続人となりました。1793年にブルームズベリーセント・ジョージ教会 (St George's, Bloomsbury) で商人のロバート・ロールストン (Robert Rolleston) と結婚。1824年11月9日にロンドンのキャンバーウェルで亡くなりました。

    出典:

    2024-11-08

    100th Death Anniversary of Sergey Lyapunov

    Sergey Mikhaylovich Lyapunov (Сергей Михайлович Ляпунов, Russia, 1859 - 1924) - 6 Little Pieces for Piano (1918-1919. published in 1931 in Moscow); No. 1. C major.

    今日はロシアの作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、セルゲイ・リャプノフ没後100年の命日です。今回はリャプノフ作曲「6つのピアノ小品 6 Маленьких пьес для начинающих играть на фортепиано 」より第1曲 ハ長調を弾きました。この曲は変奏曲の形式で書かれているのですが、タチタチ (Тати-тати) とも呼ばれるこの主題は、ツェーザリ・キュイアナトーリー・リャードフニコライ・リムスキー=コルサコフアレクサンドル・ボロディンらによる合作のピアノ連弾作品「パラフレーズ集 Paraphrases 」(Hamburg: D. Rahter, 1879) の各曲で主題に使われたことでよく知られています。

    セルゲーイ・ミハーイロヴィチ・リャプノーフは1859年11月30日 (ユリウス暦18日) にヤロスラーヴリ (Ярославль) で、数学者・天文学者のミハイル・リャプノフ (Mikhail Lyapunov, 1820 - 1868) の子として生まれました。兄に数学者のアレクサンドル・リャプノフ (Aleksandr Lyapunov, 1857 - 1918)、弟に言語学者のボリス・リャプノフ (Boris Lyapunov, 1862 - 1943) がいます。

    1868年にヤロスラーヴリ近郊の天文台に勤めていた父が亡くなると、その翌々年の1870年にセルゲイは母ソフィヤ (Sofya Lyapunova, 1825 - 1879) に連れられニジニ・ノヴゴロドに移りました。ニジニ・ノヴゴロドではギムナージヤに通いつつ、ヴァシーリー・ヴィルアーン (Vasily Villoing, 1850 - 1922) が支部長を務めるロシア音楽協会ニジニ・ノヴゴロド支部の音楽講座で、1873年の支部設立時より学びました。ピアノの名手だった母に幼い頃よりピアノの手ほどきを受け、ニコライ・ルビンシテイン (Nikolay Rubinstein, 1835 - 1881) の推薦を受けて1878年にモスクワ音楽院に入学しました。音楽院ではカール・クリントヴォルト (Karl Klindworth, 1830 - 1916) にピアノを、ピョートル・チャイコフスキー (Potr Tchaikovsky, 1840 - 1893)、ニコライ・グーベルト (Nikolay Gubert, 1840 - 1888)、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に作曲法を師事し、1883年にピアノ科と作曲科を卒業しました。同年の末に知り合ったミリー・バラキレフ (Mily Balakirev, 1837 - 1910) とは彼の晩年に至るまで親しく交友しました。

    1885年からサンクトペテルブルクに定住。1890年に「ピアノ協奏曲第1番 変ホ短調 Op. 4」(1904年ベリャーエフ・グリンカ賞受賞) を作曲。1893年に帝室ロシア地理学会より依頼があり、モスクワの北東方向にあるヴォログダ、ヴィヤトカ (キーロフの旧称)、コストロマ周辺の地域でのロシア民謡収集をフョードル・イストーミン (Fyodor Istomin, 1856 - 1919/1920) とともに行いました。収集した民謡265曲のうち165曲を音楽協会より出版したほか、ピアノ伴奏付きの編曲も出版しました。1894年から1902年まで帝室礼拝堂の音楽助監督を、1902年から1910年までエレーナ学院 (Петербургский институт Святой Елены) 視学官を務め、1905年にバラキレフの無料音楽学校の理事に就任し、1908年から1911年まで同校の校長を務めました。バラキレフの死後、ペテルブルク音楽院で音楽理論とピアノの教師となりました。第一次世界大戦の前に、ピアノ奏者・指揮者としてドイツとオーストリアで数度の演奏旅行を行いました。1922年、教会閉鎖のために来たソビエト当局に音楽院内の教会の鍵を渡すのを拒否したために執行猶予付きの有罪判決 (禁固6ヶ月) を受けました。1923年にフランスパリに移住し、ロシア人亡命者のための音楽学校を組織したものの、翌年の1924年11月8日にパリで心臓発作のために亡くなりました。

    3人いる娘のうち二女のアナスタシーヤ・リャプノヴァ (Anastasiya Lyapunova, 1903 - 1973) は、レニングラード音楽院でピアノと音楽学を学んだのち、音楽理論の教師を経てペテルブルクのロシア公共図書館 (現在のロシア国立図書館) の司書となりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:

    2024-09-20

    150th Birth Anniversary of Noble Kreider

    Noble Wickham Kreider (USA, 1874 - 1959) - 6 Preludes for Pianoforte, Op. 7 (To Mrs. Mary Layman Forsyth. Newton Center, Massachusetts: The Wa-Wan Press, 1910); No. 3. Moderately (B flat major).

    今日は米国の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、ノーブル・ウィッカム・クライダー生誕150年の誕生日です。今回はクライダー作曲「ピアノのための6つの前奏曲 Op. 7」より第3番 変ロ長調を弾きました。曲集はインディアナポリスの音楽家クラレンス・フォーサイス (Clarence Forsyth, 1859 - 1912) の妻であるメアリー・レイマン・フォーサイス (Mary Layman Forsyth, 1865 - 1945) に献呈されています。

    ノーブル・クライダーは1874年9月20日にインディアナ州ゴーシェン (Goshen) で、医師のウィリアム・B・クライダー (William B. Kreider, 1849 - 1934) とヘンリエッタ (ネッティー)・C・クライダー、旧姓ウィッカム (Henrietta C. Kreider, née Wickham, 1853 - 1936) の子として生まれました。生地ゴーシェンなどでピアノと音楽理論の教師として活動。第一次世界大戦に従軍しています。1959年12月20日にゴーシェン総合病院 (Goshen General Hospital) で亡くなり (85歳)、ゴーシェンのヴァイオレット墓地 (Violett Cemetery) に埋葬されました。

    出典:

    2024-09-11

    100th Death Anniversary of Mieczysław Surzyński

    Mieczysław Surzyński (Gemany/Poland, 1866 - 1924) - Improvisation pour orgue ou harmonium, Op. 46a. Andante con moto (D flat major).

    今日はプロイセン王国ポーゼン州出身のポーランドの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、ミェチスワフ・スジニスキ没後100年の命日です。今回はスジニスキ作曲「即興曲 変ニ長調 Op. 46a」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第3巻 (Paris: Maurice Senart & Cie., 1912) の183-184頁に収録されています。

    ミェチスワフ・スジニスキは1866年12月20日にプロイセン王国ポーゼン州シュロダ (ポーランド語: Środa, ドイツ語: Schroda) で、オルガン奏者・指揮者・音楽教師であるフランチシェク・スジニスキ (Franciszek Surzyński, 1826 - 1878) の子として生まれました。 誕生日の12月20日というのはシュロダの洗礼簿によるもので、スジニスキ本人は自身の誕生日を12月22日と認識していたようです (Winowicz 2006/2016)。1885年から1887年まベルリンでオットー・ディーネル (Otto Dienel, 1839 - 1905)、ルートヴィヒ・ブスラー (Ludwig Bussler, 1838 - 1900)、ローベルト・ラーデケ (Robert Radecke, 1830 - 1911) に師事して音楽理論と作曲法とオルガンを学びました。1887年から1890年までライプツィヒ音楽院パウル・ホーマイヤー (Paul Homeyer, 1853 - 1908)、ザーロモン・ヤーダスゾーン (Salomon Jadassohn, 1831 - 1902) に、1891年にレーゲンスブルクの教会音楽学校でミヒャエル・ハラー (Michael Haller, 1840 - 1915)、フランツ・クサーヴァー・ハーベルル (Franz Xaver Haberl, 1840 - 1910) に師事しました。

    ポズナニ、リエパーヤ (1831)、サンクトペテルブルク (1893-ca.1903)、サラトフ、キーウ (1903/1904) でオルガン奏者・音楽教師として活動し、各地で聖歌隊を組織しました。1904年からワルシャワに移って合唱指揮者となり、1905年から1915年までワルシャワ音楽院のオルガンクラスの教授、1909年から対位法クラスの教授となりました。また、1909年から聖ヤン大聖堂オルガン奏者も務めました。1924年9月11日にワルシャワで亡くなりました。

    作品に合唱曲、ミサ曲、ピアノ小品、オルガンのための練習曲や小品があります。

    兄に神学者・作曲家のユゼフ・スジニスキ (Józef Surzyński, 1851 - 1919)、オルガン奏者・指揮者・作曲家のステファン・スジニスキ (Stefan Surzyński, 1855 - 1919)、オルガン奏者のピョトル・スジニスキ (Piotr Surzyński, 1859 - 1935) がいます。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:

    150th Birth Anniversary of Heinrich Kaspar Schmid

    Heinrich Kaspar Schmid (Germany, 1874 - 1953) - Das Kleine Klavierbuch. 6 Übungsstücke und 14 Charakterstücke für Klavier zu zwei Händen, Op. 53 (Mainz: Schott, 1927); Charakterstück No. 10. Der Greis. Langsam, mit Ausdruck (A minor).

    今日はドイツの作曲家・音楽教師、ハインリヒ・カスパー・シュミット生誕150年の誕生日です。今回はシュミット作曲「小さなピアノの本、ピアノ2手のための6つの訓練課題と14の性格的小品 Op. 53」より第2部第10曲「老夫 イ短調」を弾きました。

    ハインリヒ・カスパー・シュミットは、ドイツ帝国バイエルン王国ランダウ (Landau) で、学校の教師で合唱指揮者の子として生まれました。父より音楽の手ほどきを受けたのち、レーゲンスブルク聖ペトロ大聖堂の少年聖歌隊員となり、 そこでJ・ミテラー (J. Mitterer) の指導を受けました。

    ミュンヒェン王立音楽アカデミー (Königliche Akademie der Tonkunst) でルートヴィヒ・トゥイレ (Ludwig Thuille, 1861 - 1907) とハンス・ブースマイヤー (Hans Bußmeyer, 1853 - 1930) に師事。1903年にギリシャのアテネに移り、同地のオデオン (音楽堂) で音楽教師となりました。1905年にミュンヒェンに戻って母校の音楽アカデミーの教師となり、1919年から1921年まで同校の教授を務めました。第一次世界大戦後には、オーストリア、スカンジナビア、ロシアをツアーで巡り、作曲家・演奏家としても成功を収めました。1921年から1924年までカールスルーエバーデン音楽院院長、1924年から1932年までアウクスブルク音楽学校校長を歴任し、音楽教育者としては1932年に引退しました。1933年以降は教育省でさまざまな役職を務め、1933年にミュンヒェン音楽家協会会長、1934年に国民社会主義党 (ナチス) 音楽教育部長に就任しました。晩年には視力の衰えが進み全盲となりました。1953年1月8日にミュンヒェン近郊のガイゼルブラッハ (Geiselbullach) で亡くなりました。親族に教え子でもあるアルトゥール・ピーヒラー (Arthur Piechler, 1896 - 1974) がいます。

    作曲家としては、ミサ曲、歌曲、交響曲、室内楽曲、ピアノ曲などを書いています。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:

    2024-08-07

    100th Death Anniversary of Camille Zeckwer

    Camille W. Zeckwer (USA, 1875 - 1924) - Petite valse, Op. 96 No. 2. Lento (A major). (Philadelphia: Theodore Presser, 1922).

    今日は米国の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、カミーユ・ツェクヴァー (カミル・ゼクワー) 没後100年の命日です。今回はツェクヴァー作曲「小円舞曲 イ長調 Op. 96 No. 2」を弾きました。楽譜では題が "Petit valse" となっていますが、フランス語では女性単数名詞 (valse) を修飾する形容詞も女性単数形 (petite)となるため、フランス語による正しい題は "Petite valse" となります。

    カミーユ・ツェクヴァーは、プロイセン王国ザクセン州出身の作曲家・オルガン奏者・音楽教師であるリヒャルト・ツェクヴァー (リチャード・ゼクワー Richard Zeckwer, 1850 - 1922) の子として、1875年6月26日にペンシルベニア州フィラデルフィアで生まれました。フィラデルフィア音楽アカデミー (Philadelphia Musical Academy. 現在の芸術大学 University of the Arts) で父リヒャルトらに学び1893年に同校を卒業。1893年から1895年までニューヨークアントニーン・ドヴォジャーク (Antonín Dvořák, 1841 - 1904) に作曲法を師事。ドイツ帝国の首都ベルリンに渡り、フィーリプ・シャルヴェンカ (Philipp Scharwenka, 1847 - 1917) に作曲法を、フロリアーン・ザイーツ (Florián Zajíc, 1853 - 1926) にヴァイオリンを師事しました。米国フィラデルフィアに戻ると、父が学長を務める母校フィラデルフィア音楽アカデミーの教員となり、父が学長を退いた1917年には同校のジャーマンタウン支部長 (director of the Germantown branch) となりました。1924年8月7日にニューヨーク州サウサンプトン (Southampton, New York) で亡くなりました。

    作曲家としてはオペラ、カンタータ、合唱曲、歌曲、交響詩、ピアノ協奏曲、室内楽曲、多数のピアノ曲を作曲しました。1899年、1904年、1914年にはフィラデルフィア管弦楽団との共演で「ピアノ協奏曲 ホ短調 Op. 8」を演奏しています。

    出典:

    • Grove Music Online. Retrieved 2024-08-07.
    • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1919). Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd edition). New York: G. Schirmer.

    2024-06-12

    150th Birth Anniversary of Willem Landré

    Willem Landré (Guillaume Louis Frédéric Landré, Netherlands, 1874 - 1948) - Wiegelied. Rustig (D minor).

    今日はオランダの作曲家・音楽著述家・音楽教師、ウィレム・ランドレ生誕150年の誕生日です。今回はランドレ作曲、ハルモニウムまたはオルガンのための「子守歌 ニ短調」を弾きました。楽譜はハルモニウムまたはオルガンのための曲集 Edelsteenen. Verzameling Oorspronkelijke Werken van Nederlandsche Componisten voor harmonium of orgel. Band II. Werken van W. Landre (Rotterdam: Joh. de Heer) に第3曲として収録されています。

    ウィレム・ランドレは1874年6月12日にオランダ王国アムステルダム (Amsterdam) で生まれました。生地でベルナルト・ズヴェールス (Bernard Zweers, 1854 - 1924) に師事。学生時代に自作のオペラ「デカマの薔薇 De Roos van Dekama 」をハールレムで2度上演。学業を終えてハールレムに移り、1899年にハールレムの新聞 Opregte Haarlemsche Courant の音楽批評家、1901年にデン・ハーグの新聞 Nieuwe Courant の音楽編集者、1905年 (または1906年) から1937年までロッテルダムの新聞 Nieuwe Rotterdamsche Courant の音楽編集者となりました。また、ロッテルダム音楽院で音楽理論、作曲法、音楽史の教師を務めました。1948年1月1日にアイントホーフェン (Eindhoven) で亡くなりました。

    子に作曲家のギヨーム・ランドレ (Guillaume Landré, 1905 - 1968) がいます。

    出典:

    • Flothuis, Marius (2001). “Landré, Guillaume”. Grove Music Online. Retrieved 2024-06-12.
    • Slonimsky, Nicolas, ed. (1958). “Landré, Willem”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (5th edition). New York: G. Schirmer. page 906.
    • Willem Landré”. Onze Musici (3rd edition). 1923. Rotterdam: Nijgh & Van Ditmar. page 106.

    2024-06-11

    100th Death Anniversary of Théodore Dubois

    François-Clément-Théodore Dubois (France, 1837 - 1924) - À l'aventure. 12 Pièces brèves pour piano (Paris: Henri Heugel, 1918); No. 10. Petit prélude sérieux. Moderato (C minor).

    今日はフランスの作曲家・オルガン奏者・音楽教師、テオドール・デュボワ没後100年の命日です。今回はデュボワ作曲「気の向くままに、ピアノのための12の小品」より第10曲「厳格な小前奏曲 ハ短調」を弾きました。

    テオドール・デュボワは1837年8月24日にフランス共和国マルヌ県ロネ (Rosnay) で、父は籠職人、祖父は小学校教師という音楽とは縁遠い家庭に生まれました。ランス・ノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Reims) 聖歌隊指揮者ルイ・ファナール (Louis Fanart) の下でピアノを学んで楽才を示すと、ロネ市長ウジェーヌ・ブルイユ (Eugène de Breuil) によりパリ音楽院の教授陣に引き合わされ、1854年の音楽院入学の際には通学のための下宿をブルイユから用意されました。パリ音楽院ではアントワーヌ=フランソワ・マルモンテル (Antoine-François Marmontel, 1816 - 1898) にピアノを、フランソワ・ブノワ (François Benoist, 1794 - 1878) にオルガンを、フランソワ・バザン (François Bazin, 1816 - 1878) に和声法を、アンブロワーズ・トマ (Ambroise Thomas, 1811 - 1896) にフーガと対位法を師事し、1856年に和声法で、1857年にフーガと対位法で、1859年にオルガンでそれぞれ一等賞を獲得し卒業。音楽院在学中の1855年からサン・ルイ・デザンヴァリッド大聖堂 (Cathédrale Saint-Louis-des-Invalides) オルガン奏者、1858年からサント・クロチルド聖堂 (Basilique Sainte-Clotilde et Sainte-Valère) オルガン奏者 (このときの正オルガン奏者はセザール・フランク César Franck, 1822 - 1890) を務めました。1861年にはローマ賞第一等を受賞し、留学先のローマでジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ (Giovanni Pierluigi da Palestrina, ca. 1525 - 1594) の音楽に強い印象を受けました。

    1863年から1869年までサント・クロチルド聖堂聖歌隊指揮者、1870年代初頭に演奏会協会 (Société des Concerts) 指揮者を務め、1877年にカミーユ・サン=サーンス (Camille Saint-Saëns, 1835 - 1921) の後任としてマドレーヌ教会 (Église de la Madeleine) 大オルガン奏者に就任。母校のパリ音楽院で教員となり、1871年から1891年まで和声法、1891年から1896年まで作曲法を教え、1896年から1905年まで院長を務めました。1905年のローマ賞で、有力視されていたモーリス・ラヴェル (Maurice Ravel, 1875 - 1937) が一次予選で落選したこと、本選出場者全員が審査員シャルル・ルヌヴー (Charles Lenepveu, 1840 - 1910) 門下だったことがスキャンダルとなり、責任を追及されたデュボワはパリ音楽院院長を辞任することとなりました。また、1884年から1896年まで音楽視学官 (inspecteur d'éducation musicale) も務めています。音楽理論に関する著書に『対位法とフーガ概論 Traité de contrepoint et de fugue 』(Paris: Heugel, 1901)、『理論的で実践的な和声法概論 Traité d’harmonie théorique et pratique 』(Paris: Heugel, 1921) などがあります。1924年6月11日にパリで亡くなりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典:

    2024-06-04

    150th Birth Anniversary of Carl Wilhelm Kern

    Carl Wilhelm Kern (Germany/USA, 1874 - 1945) - 8 Easy and Melodious Recreations for the Pianoforte, Op. 392; No. 6. Mayflower Gavotte. Tempo di Gavotte (C major).

    今日はドイツ出身の米国の作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者・音楽理論家・音楽教師、カール・ヴィルヘルム・ケルン (カーン) 生誕150年の誕生日です。今回はケルン作曲「ピアノのための8つの易しく旋律的なレクリエーション Op. 392」より第6曲「メイフラワー・ガヴォット ハ長調」を弾きました。メイフラワー (Mayflower) というのは、サンザシ属 (Crataegus) など五月に咲く様々な花を指すようです。

    カール・ヴィルヘルム・ケルンは1874年6月4日にドイツ帝国ヘッセン大公国シュリッツ (Schlitz) で生まれました。父のカール・アウグスト・ケルン (Karl August Kern, 1836 - 1902) に学んだのち、マインツのパウル・シューマッハー音楽院 (Paul Schumacher’sches Conservatorium der Musik. 現在のペーター・コルネリウス音楽院 Peter-Cornelius-Konservatorium der Stadt Mainz) で、パウル・シューマッハー (Paul Schumacher, 1848 - 1891) にピアノを、フリードリヒ・ルクス (Friedrich Lux, 1820 - 1895) にオルガンを、アーダム・コイ (Adam Coy) に作曲法を師事しました。

    1893年に米国に渡り、同年から1894年までイリノイ州のエルムハースト音楽大学 (Elmhurst College of Music) のピアノ、オルガン、和声法の教員、1894年から1895年までウィスコンシン州メリルのオルガン奏者、1895年から1898年までオハイオ州のスプリングフィールド音楽学校 (Springfield School of Music) の教員、1898年から1903年までオハイオ州のデニソン音楽学校 (Dennison School of Music) の教員、1903年から1904年までテキサス州ダラス・バプティスト大学 (Dallas Baptist University) の教員、1904年から1922年までミズーリ州セントルイスのシュトラスベルガー音楽院 (Strassberger’s Conservatory of Music) の教員 (後に副学長)、1923年からセントルイスのオトマール・モル・ピアノ学校 (Ottmar Moll Piano School) の音楽理論の教員を務めました。セントルイスではシャッティンガー・ミュージック (Shattinger Music Company) で批評家・編集者としても活動しました。作曲家としては多くのピアノ曲や歌曲のほか、オペレッタ、合唱曲、オルガン曲などを書いています。1945年8月19日にセントルイスで亡くなりました。 出典:

    • Baker, Theodore; Remy, Alfred, eds. (1940). “Kern, Karl Wilhelm”. Baker's Biographical Dictionary of Musicians (4th edition). New York: G. Schirmer. page 580.
    • Krohn, Ernst Christopher (1924). “Kern, Carl Wilhelm”. A Century Of Missouri Music. Saint Louis: Privately Printed. page 114.
    • Carl Wilhelm Kern Archive”. Julian Edison Department of Special Collections. St. Louis, MO: Washington University. Retrieved 2024-06-04.