2025-08-09

150th Birth Anniversary of Albert Ketèlbey

Albert William Ketèlbey (England, 1875 - 1959) / Rolf Bender - Zigeuner-Walzer ; Valse tzigane ; Gipsy Waltz. Tempo di Valse moderato (A minor. Mainz: B. Schott's Söhne, 1928).

今日はイングランドの作曲家・オルガン奏者・指揮者、アルバート・ウィリアム・ケテルビー生誕150年の誕生日です。今回はケテルビー作曲、ヴァイオリンとピアノのための「ジプシー・ワルツ イ短調」の、ロルフ・ベンダーによるピアノ独奏編曲を弾きました。編曲者のベンダーについては詳細が分からなかったのですが、ショット社で編曲家として活動した人物のようです。

アルバート・ケテルビーは1875年8月9日に英国イングランドのバーミンガム (Birmingham) 近郊の街アストン (Aston. 現在はバーミンガム市内に含まれる) で生まれました。アルフレッド・ゴール (Alfred Robert Gaul, 1837 - 1913)、ハーバート・ウェアリング (Herbert Wareing, 1857 - 1918) に師事したのち、13歳のときにヴィクトリア女王奨学金 (作曲) を得て、ロンドンのトリニティ・カレッジ・オブ・ミュージックでジョージ・バンブリッジ (George Edmund Bambridge, 1842 - 1916)、ゴードン・ソーンダーズ (Gordon Saunders, 1837 - 1912)、フレデリック・コーダー (Frederick Corder, 1852 - 1932) に師事しました。

16歳でウィンブルドンの聖ジョン教会 (St. John's Church in Wimbledon) オルガン奏者に、22歳でヴォードヴィル劇場 (Vaudeville Theatre) 音楽監督に就任。作曲家としては「ファントム・メロディ The Phantom Melody 」(1912. 原曲はチェロとピアノのための作品)、「修道院の庭にて In a Monastery Garden 」(1915)、「ペルシャの市場にて In a Persian Market 」(1920)、「中国寺院の庭にて In a Chinese Temple Garden 」(1923)、「心の奥深く Sanctuary of the Heart 」(1924)、「エジプトの秘境にて In the Mystic Land of Egypt 」(1931) など、軽音楽の分野の管弦楽曲で人気を博したほか、コミック・オペラや室内楽曲などを書いています。晩年はワイト島で過ごし、1959年11月26日にワイト島北岸のカウズ (Cowes) で亡くなりました。

出典

2025-08-06

150th Birth Anniversary of Marcel Labey

Marcel Labey (France, 1875 - 1968) - 2 Pièces pour harmonium, Op. 14; No. 2. Élévation (D minor. Juillet 1913).

今日はフランスの作曲家・指揮者、マルセル・ラベ生誕150年の誕生日です。今回はラベ作曲「ハルモニウムのための2つの小品 Op. 14」より第2曲「エレヴァシオン (聖体奉挙) ニ短調」を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第4巻 (Paris: Maurice Senart & Cie., 1914) の162-168頁に収録されています。

マルセル・ラベは1875年8月6日にフランス共和国セーヌ=エ=オワーズ県ル・ヴェジネ (Le Vésinet) で弁護士の子として生まれました。当初、パリで法律を学んで1897年に法学博士を取得し、1901年まで弁護士として活動しました。学位取得後に音楽の道に転向してスコラ・カントルム (Schola Cantorum de Paris) に入学し、エリ=ミリアム・ドラボルド (Élie-Miriam Delaborde, 1839 - 1913)、ルイ・ブライトナー (Louis Breitner, b. 1851) にピアノを、ルネ・ルノルマン (René Lenormand, 1846 - 1932) に和声法を、ヴァンサン・ダンディ (Vincent d'Indy, 1851 - 1931) に作曲法を師事しました。1903年から1913年まで同校でダンディの管弦楽クラスの助手となり、ピアノ教授となりました。ダンディの死後の1931年から1935年までは同校の理事を務めました。1935年から1954年まで、共同設立者の一人となったエコール・セザール・フランク (École César Franck) でも理事を務めました。1968年11月25日にムルト=エ=モゼル県ナンシー (Nancy) で亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典

  • Grove Music Online. Retrieved 2025-08-06.
  • Argoeuves, Michel Gorguette d' (1940). “Marcel LABEY”. Musica et Memoria. Retrieved 2025-08-06.

2025-08-03

150th Death Anniversary of Konrad Max Kunz

Konrad Max Kunz (Germany, 1812 - 1875) - Zwiefache. 12 der schönsten alten Oberpfälzer Bauern-Tänze (National-Melodien) zum ersten Male herausgegeben und für das Piano-Forte eingerichtet (Mainz: B. Schott's Söhnen, 1849); No. 11 in B flat major.

今日はドイツの作曲家・オルガン奏者・ピアノ奏者・歌手・指揮者・音楽教師、コンラート・マックス・クンツ没後150年の命日です。今回はクンツによりピアノ独奏用に編曲された「ツヴィーファッハー集、最も美しく古い12のオーバープファルツ農民舞曲」より第11番 変ロ長調を弾きました。ツヴィーファッハー (Zwiefacher) は南部ドイツとその周辺に伝わる輪舞 (Rundtanz) の一つで、繰り返されるフレーズの中で3拍子 (ワルツ Walzer) と2拍子 (ドレーアー Dreher) の部分が時に不規則に交替するのが特徴です。

コンラート・マックス・クンツは1812年4月29日にバイエルン王国オーバープファルツ地方シュヴァンドルフ (Schwandorf) で生まれました。管楽器奏者であり街の塔守を務めていた (古くからの塔守の家系であった) 父フランツ・ミヒャエル・クンツ (Franz Micharl Kunz, 1783 - 1828) から音楽の手ほどきを受け、幼少期から祝祭、教会、公的な催し物で演奏しました。ギムナジウムで学んだのち、アンベルクの哲学神学校 (Philosophisch-theologisches Seminar) に進学し、ヨハン・エヴァンゲリスト・ダイシャー (Johann Evangelist Deischer, 1802 - 1839) に師事しました。 ギムナジウムの学生だったころから、神学校付属教会のオルガン奏者、ギムナジウムの器楽教師、トルコ音楽を奏でる学校オーケストラの指揮者を務めていました。

1832年からミュンヒェン大学で神学を、翌年から法律を学びましたが、1837年に退学して音楽教師、聖歌隊指揮者となりました。1840年に合唱団ミュンヒェナー・リーダーターフェル (Münchener Liedertafel) を設立し、その指揮者に就任。1845年にミュンヒェン宮廷劇場(現在のバイエルン国立歌劇場)指揮者フランツ・ラハナー (Franz Paul Lachner, 1803 - 1890) の指名により同劇場の合唱と付随音楽の監督に就任。1860年に「バイエルン賛歌 Bayernhymne 」(ミヒャエル・エクスナー Michael Öchsner 詞、バイエルン王国国歌、歌詞を変え現在のバイエルン州歌となった) を初演しました。1875年8月3日にミュンヒェンで亡くなりました。

出典:

  • MGG Online. Retrieved 2025-08-03.
  • Timmermann, Johannes; Weiß, Dieter J.; Zech-Kleber, Bernhard von (2017-05-31). “Bayernhymne”. Historisches Lexikon Bayerns. Retrieved 2025-08-03.
  • Kunz, Konrad Max”. Bayerisches Musiker-Lexikon Online (BMLO). Retrieved 2025-08-03.

2025-07-31

150th Birth Anniversary of Alexandre Denéréaz

Alexandre Denéréaz (Switzerland, 1875 - 1947) - 3 Préludes pour orgue ou harmonium; No. 3. Allegro (B flat major).

今日はスイスの作曲家・オルガン奏者・合唱指揮者・音楽著述家・音楽教師、アレクサンドル・ドネレア生誕150年の誕生日です。今回はドネレア作曲「オルガンまたはハルモニウムのための3つの前奏曲」より第3番 変ロ長調を弾きました。楽譜は「オルガンの同時代の大家、オルガンまたはハルモニウムのための未発表小品集 Maîtres contemporains de l’orgue. Pièces inédites pour orgue ou harmonium 」第5巻 (Paris: Maurice Senart & Cie., 1914) の67-68頁に収録されています。

アレクサンドル・ドネレアは1875年7月31日にスイス西部にあるローザンヌで、ピアノ奏者・ヴァイオリン奏者・合唱指揮者のシャルル=セザール・ドネレア (Charles-César Denéréaz) と、ピアノ奏者のシャルロット=エリーズ・ピレ (Charlotte-Elise Pilet) の子として生まれました。ローザンヌのコレージュ・クラシークでシャルル・ブランシェ (Charles Blanchet, 1833 - 1900) にピアノ、オルガン、和声法のレッスンを受けました。1891年から1895年までドイツ帝国ザクセン王国ドレスデン王立ドレスデン音楽院 (Königliches Konservatorium zu Dresden) で、カール・ハインリヒ・デーリング (Karl Heinrich Döring, 1834 - 1916) にピアノを、パウル・ヤンセン (Paul Janssen, 1852 - 1921) にオルガンを、フェーリクス・ドレーゼケ (Felix Draeseke, 1835 - 1913) に作曲法を師事。1896年に「交響曲第1番」で作曲の一等賞を獲得。

同年、ローザンヌのサン=フランソワ教会 (Église Saint-François de Lausanne) オルガン奏者に就任し (師シャルル・ブランシェの後任)、ローザンヌ音楽院 (Conservatoire de Lausanne) の作曲法、和声法、対位法の教師となりました。1897年から1934年までローザンヌ男声合唱団 (Chœur d'hommes de Lausanne) とサント=セシル混声合唱団 (Chœur mixte Saint-Cécile) の指揮者。1918年から1945年まで大学で音楽美学の私講師となりました。1933年にピアノ奏者のマルグリット・シャイエ (Marguerite Chaillet) と結婚。1947年7月25日にローザンヌで亡くなりました (満71歳)。

教え子に以下の人物がいます

出典:

2025-07-29

150th Birth Anniversary of Antoni Grudziński

Antoni Wawrzyniec Grudziński (Poland, 1875 - 1929) - Berceuse et prélude pour piano (Warsaw: Jan Fiszer, 1898); No. 2. Prélude. Andante (G major). Dedicated to Mademoiselle Eléonore Kanusewicz.

今日はポーランドの作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、アントニ・ヴァヴジニェツ・グルヅィニスキ生誕150年の誕生日です。今回はグルヅィニスキ作曲「ピアノのための子守歌と前奏曲」より第2曲「前奏曲 ト長調」を弾きました。

アントニ・グルヅィニスキは1875年7月29日にロシア帝国沿ヴィスワ地方 (Привислинский край. ロシア帝国領ポーランド) セイニ (Sejny) で生まれました。1929年2月4日にワルシャワで亡くなり、ワルシャワのポウォンズキ墓地 (Cmentarz Powązkowski w Warszawie) に埋葬されました。

子に作曲家・音楽教師のチェスワフ・グルヅィニスキ (Czesław Grudziński, 1911 - 1992)、孫 (チェスワフの子) に音楽著述家・音楽批評家のアントニ・グルヅィニスキ (Antoni Grudziński) がいます。

出典:

2025-06-05

150th Birth Anniversary of Konstantin Eiges

Konstantin Romanovich Eyges (Ukraine/Russia, 1875 - 1950) - Études-fantaisies pour piano, Heft 1, Op. 22 (Moscow: Muzsketor gosizdata / Wien: Universal Edition, 1927); No. 2. Étude polyphonique. Moderato. Cantabile (B flat major).

今日はウクライナ出身のロシアの作曲家・ピアノ奏者・音楽批評家・音楽教師、コンスタンチーン・ロマーノヴィチ・エイゲス生誕150年の誕生日です。今回はエイゲス作曲「幻想練習曲集 第1巻 Op. 22」(全5曲) より第2曲「多声的練習曲 変ロ長調」を弾きました。

コンスタンチン・エイゲスは1875年6月5日 (ユリウス暦5月24日) にロシア帝国ハリコフ県ボゴドゥーホフ (現ウクライナ領ハルキウ州ボホドゥーヒウ Bohodukhiv) で生まれました。1900年から1905年までモスクワ音楽院で学び、ミハイル・イッポリトフ=イヴァノフ (Mikhail Ippolitov-Ivanov, 1859 - 1935) に作曲法を、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を、アドーリフ・ヤロシェーフスキー (Adolf Yaroshevsky, 1863 - 1910) にピアノを師事しました。

その後はピアノ奏者、ピアノと音楽理論の教師として活動しており、1919年から1926年までモスクワのヤロシェーフスキー音楽学校校長を務め、1939年から1941年までモスクワの中央通信制教育大学、1941年から1943年までスヴェルドロフスク音楽院(現在のモデスト・ムソルグスキー記念ウラル音楽院)、1944年にモスクワの赤軍高等軍楽隊長大学で、音楽理論を教えました。ピアノの教え子にアレクセイ・スタンチンスキー (Aleksey Stanchinsky, 1888 - 1914) がいます。1910年代から1920年代にかけて、モスクワのパーヴェル・ラーム (Pavel Lamm, 1882 - 1951) のアパートで開かれていた音楽サークルに参加していました。1950年12月2日にモスクワで亡くなりました。

弟に音楽批評家・ピアノ奏者のヨシフ・エイゲス (Iosif Eiges, 1887 - 1953)、子に作曲家・ピアノ奏者のオレーク・エイゲス (Oleg Eiges, 1905 - 1992) がいます。

出典:

2025-06-04

200th Birth Anniversary of Anton Herzberg

Anton Herzberg (Poland/Austria, b. 1825) - 2 Mazurkas pour piano, Op. 42 (Leipzig: Friedrich Hofmeister, 1856). Dedicated to Amelia Łubieńska (1816 - 1885); No. 1. Lento (G minor, ends in B flat major).

今日はガリツィア出身の作曲家・ピアノ奏者・音楽教師、アントン・ヘルツベルク生誕200年の誕生日です。今回はヘルツベルク作曲「ピアノのための2つのマズルカ Op. 42」より第1番 ト短調を弾きました。このマズルカはト短調で始まりますが、平行調の変ロ長調で終わります。

アントン・ヘルツベルクは1825年6月4日にオーストリア帝国ガリツィア・ロドメリア王国のタルノフ (Tarnow. 現在のポーランド領マウォポルスカ県タルヌフ Tarnów) で生まれました。帝国の首都ヴィーンに移り、大学で学びながら、カール・マリア・フォン・ボクレト (Carl Maria von Bocklet, 1801 - 1881) にピアノを、ゴットフリート・フォン・プライヤー (Gottfried von Preyer, 1807 - 1901) に和声法と作曲法を師事しました。ワルシャワ、ヴィーン、ハンガリー (1年半滞在) でピアノ奏者として活動したのち、ロシア南部を演奏旅行で巡り、演奏家として成功を収めました。1866年にモスクワに移住してピアノ教師となりました。1868年にドイツとフランスで演奏活動をしています。そのほかにトルコ、ギリシャ、イタリア、英国、オランダを訪れました。サロン用のピアノ曲など130ほどの作品が複数の都市で出版されています。1889年の時点で存命 (Champlin Jr. & Apthorp 1889) とのことですが、その後の消息については資料が見つかりませんでした。ポルトガル王よりキリスト騎士団勲章を、ガージャール朝ペルシャ王より勲章を授与されています。

出典:

  • Bernsdorf, Eduard, ed. (1865). “Herzberg, Anton”. Neues Universal-Lexikon der Tonkunst : für Künstler, Kunstfreunde und alle Gebildeten. Dresden: Robert Schäfer. page 205.
  • Champlin Jr., John Denison; Apthorp, William Foster, eds. (1889). “Herzberg, Anton”. Cyclopedia of Music and Musicians. New York: Charles Scribner's Sons. Volume 2. page 266.
  • Mendel, Hermann, ed. (1875). “Herzberg, Anton”. Musikalisches Conversations-Lexikon : eine Encyclopädie der gesammten musikalischen Wissenschaft für Gebildete aller Stände. Volume 5. Berlin: Robert Oppenheim. pages 220-221.

2025-06-03

150th Death Anniversary of Georges Bizet

Georges Bizet (France, 1838 - 1875) / Paul Blumenthal (Germany, 1843 - 1930) - Carmen. Opéra-comique en 4 actes; Act IV, No. 26. Si tu m'aimes, Carmen.

今日はフランスの作曲家ジョルジュ・ビゼー没後150年の命日です。今回はビゼー作曲「カルメン」より第4幕第26曲「もしお前が俺を好きなら、カルメン」の、パウル・ブルーメンタールによるハルモニウム独奏編曲を弾きました。楽譜はパウル・ブルーメンタール編纂の楽譜集「ハルモニウム・アルブム Harmonium-Album 」第3巻 (Frankfurt an der Oder: Georg Bratfisch, No. 38, 1923) の15頁に第11曲 Lied „Liebst du mich“ aus der Oper: Carmen. Andantino (D major) として収録されています。

ジョルジュ・ビゼーは1838年10月25日にフランス王国の首都パリで、いずれも声楽教師のアドルフ=アルマン・ビゼー (Adolphe-Armand Bizet, 1810 - 1886)、エメ・ビゼー (Aimée Bizet née Delsarte, 1815 - 1861) の子として生まれました。母から音楽の手ほどきを受け、その兄である伯父の音楽家フランソワ・デルサルト (François Delsarte, 1811 -1871) からも大きな影響を受けました。幼くして楽才を示し、10歳の誕生日を迎える手前の1848年10月9日にパリ音楽院に入学しました。アントワーヌ・マルモンテル (Antoine-François Marmontel, 1816 - 1898) のピアノのクラスで学び始め、入学から半年も経たないうちにソルフェージュで一等賞を獲得。マルモンテルの前任者であるピエール=ジョゼフ・ジメルマン (Pierre-Joseph-Guillaume Zimmerman, 1785 - 1853)、ジメルマンの娘婿であるシャルル・グノー (Charles Gounod, 1818 - 1893) からもピアノとソルフェージュの個人レッスンを受け、1852年にピアノで一等賞を獲得。また、1852年からフランソワ・ブノワ (François Benoist, 1794 - 1878) にオルガンを、1853年からフロマンタル・アレヴィ (Jacques-Fromental Halévy, 1799 - 1862) に作曲法を師事し、1855年にオルガンと作曲法で一等賞を獲得しました。ローマ賞では1856年に第二等首席を、1857年に第一等首席を受賞し、同年12月からローマに留学しました。

1860年9月に友人で同じくローマ賞第一等受賞者 (1859年) のエルネスト・ギロー (Ernest Guiraud, 1837 - 1892) との北イタリア旅行中のヴェネツィアで母の病を知り、単身パリに帰還。帰国後は主にオペラの作曲家として活動しました。1862年に家政婦のマリ・レテール (Marie Reiter) との間に私生児であるジャン・レテール (Jean Reiter) を儲けました。1869年に師アレヴィの遺子であるジュヌヴィエーヴ (Geneviève Halévy-Bizet-Straus, 1849 - 1926) と結婚し、1872年に息子のジャック・ビゼー (Jacques Bizet, 1872 - 1922) が生まれます。1872年に付随音楽「アルルの女 L'Arlésienne 」を完成・上演。1874年に4幕のオペラ=コミック「カルメン」を完成し、1875年3月3日に初演しました。同年5月末にパリ近郊のブージヴァル (Bougival) に移住。セーヌ川に泳ぎに行ったのち、5月30日に重度のリウマチ発作に、その後2度の心臓発作に襲われ、6月3日にブージヴァルにおいて36歳で亡くなりました。6月5日にサントトリニテ教会 (Église de la Sainte-Trinité de Paris) で葬儀が執り行われ、ペール・ラシェーズ墓地 (Cimetière du Père-Lachaise) に埋葬されました。

出典: Grove Music Online. Retrieved 2025-06-03.

2025-05-16

200th Birth Anniversary of Antonio de la Cruz

Antonio de la Cruz Quesada (Spain, 1825 - 1889) - Flores de mi jardín. 5 Mazourkas para piano, Op. 100. A la Señora Doña Mercedes P. del Pulgar de Dávila (Madrid: Nicolás Toledo); No. 5. Madreselva. Moderato (E flat major).

今日はスペインの作曲家・音楽教師、アントニオ・デ・ラ・クルス・ケサダ生誕200年の誕生日です。今回はクルス作曲「我が庭の花々、ピアノのための5つのマズルカ Op. 100」より第5曲「マドレセルバ (スイカズラ属)」を弾きました。曲集に含まれる楽曲は「ケシ Amapola 」、「スミレ属 Violeta 」、「キョウチクトウ Adelfa 」、「ユリ Azucena 」、「スイカズラ属」と、いずれも花の名を題名としています。

アントニオ・デ・ラ・クルスは1825年5月16日にスペイン王国アンダルシア州グラナダ県の県都グラナダ (Granada) で生まれました。ホセ・タマヨ (José Tamayo)、ベルナベ・ルイス・デ・エナレス (Bernabé Ruiz de Henares, 1809 - 1878) に師事し、文学サークル「グラナダの綱 La cuerda granadina 」に参加しました。首都マドリードやアンダルシア州アルメリア県アルメリアに移ってピアノ、声楽、和声法の教師として活動し、作曲家としてはアリアや歌曲などの声楽曲、ポルカやワルツといった舞曲などのピアノ曲を含め、200曲以上を書きました。マドリードでは多くの作品を出版し、フランシスコ・アセンホ・バルビエリ (Francisco Asenjo Barbieri, 1823 - 1894) と親交を結んでいます。1889年9月25日にマドリードで亡くなりました。

出典:

2025-05-07

200th Death Anniversary of Antonio Salieri

Antonio Salieri (Italy/Austria, 1750 - 1825) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - "Pantomime" (Act 3) from Les Danaïdes (1784).

今日はイタリア出身のオーストリアの作曲家・指揮者・音楽教師、アントーニオ・サリエーリ (アントニオ・サリエリ) 没後200年の命日です。 今回はサリエーリ作曲、5幕の抒情悲劇「ダナオスの娘たち」(1784) より第3幕終曲「パントミム (パントマイム)」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第1巻に第45曲 Pantomima (dall'opera: Le Danaidi) (64-65頁) として収録されています。

アントニオ・サリエーリは1750年8月18日にヴェネツィア共和国レニャーゴ (Legnago) で生まれ、兄のフランチェスコ・サリエーリ (Francesco Salieri, 1741 - 1826) と当地のオルガン奏者ジュゼッペ・シモーニ (Giuseppe Simoni) にヴァイオリンと鍵盤楽器を学びました。1763年に母が1765年に父が相次いで亡くなるとヴェネツィアに移り、テノール歌手のフェルディナンド・パチーニ (Ferdinando Pacini) に声楽を、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペシェッティ (Giovanni Battista Pescetti, 1704 - 1766) に作曲法を師事しました。1766年にヴェネツィアで自作のオペラ「スキュロス島のアキレウス Achille in Sciro 」制作の監督をしていたフローリアン・レオポルト・ガスマン (Florian Leopold Gassmann, 1729 - 1774) に才能と野心を見いだされ、ガスマンに連れられてハプスブルク帝国の首都ヴィーンに移り彼の弟子となりました。間もなくオペラを書く機会を得て、1769年に最初の上演されたオペラである「女文士たち Le donne letterate 」が作曲されました。1771年7月には「アルミーダ Armida 」が上演され、高く評価されました。1774年にガスマンが亡くなると、後任としてハプスブルク宮廷の室内楽作曲家 (Kammerkomponist)、イタリア・オペラ監督に就任。パリ国立オペラからの委嘱作品に手が回らなくなっていたクリストフ・ヴィリバルト・グルックChristoph Willibald Gluck, 1714 - 1787) の依頼によりフランス王国の首都パリを訪れ、1784年にパリで「ダナオスの娘たち」を上演し成功を収めました。1787年には同じくパリでフランス・オペラ3作目となる「タラール Tarare 」を上演して大きな成功を収めましたが、これはオペラにおけるサリエーリの最高傑作とも評されています。1788年にジュゼッペ・ボンノ (Giuseppe Bonno, 1711 - 1788) の後任としてハプスブルク宮廷楽長に就任。1790年に庇護者でもあった神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世 (Joseph II, 1741 - 1790) が亡くなると、楽長業務のうち劇場でのリハーサルや指揮などを弟子のヨーゼフ・ヴァイグル (Joseph Weigl, 1766 - 1848) に委譲しました。1815年のヴィーン会議では音楽行事の企画・指揮を担当。1825年5月7日にヴィーンで亡くなりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典: