2024-11-30

200th Death Anniversary of Johann Georg Christoph Schetky

Johann Georg Christoph Schetky (Germany/Scotland, 1737 - 1824) - Vivace in B flat major.

今日はドイツ出身の英国スコットランドの作曲家・チェロ奏者、ヨハン・ゲオルク・クリストフ・シェトキー没後200年の命日です。今回はシェトキー作曲「ヴィヴァーチェ 変ロ長調」を弾きました。楽譜は「名匠たちによるクラヴサンのジャーナル Journal de clavecin par les meilleurs maîtres 」(Paris: Le Duc) 2年次 (1783年) 第11号の82-83頁に収録されています。

ヨハン・ゲオルク・クリストフ・シェトキーは1737年8月19日にダルムシュタットで、ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ8世 (Ludwig VIII, 1691 - 1768) に仕える秘書兼音楽家のエルンスト・ゴットリープ・シェトキー (Ernst Gottlieb Schetky, 1716 - 1767) の子として生まれました。イェーナ大学で法律を学んだと伝えらていますが、15歳のときにダルムシュタット管弦楽団の首席チェロ奏者の職に応募。1758年の宮廷音楽家の給与支払名簿に掲載されています。宮廷副楽長のヨハン・ザームエル・エンドラー (Johann Samuel Endler, 1694 - 1762) に作曲を、マンハイム周辺で活動していたアントン・フィルス (Anton Fils, 1733 - 1760) にチェロを師事しました。

1768年から1769年までハンブルクで活動したのち、ドイツとフランスを旅行。1772年の初めにロンドンに向かい、出版者のロバート・ブレムナー (Robert Bremner, ca. 1713 - 1789) に説かれてエディンバラ音楽協会の首席チェロ奏者に就任しました。オーストリア出身のトランペット奏者ヨーゼフ・ライナグレ1世 (Joseph Reinagle) の娘であるマリア・テレジア・ライナグレ (Maria Theresia Reinagle) と1774年に結婚し、11人の子をもうけました。子のうちジョン・ジョージ・シェトキー (John George Schetky, 1776 - 1831) は作曲家・チェロ奏者・音楽出版者・音楽教師に、ジョン・クリスティアン・シェトキー (John Christian Schetky, 1778 - 1874) は画家になりました。チェロの教え子に、義弟であるヒュー・ライナグレ (Hugh Reinagle, 1759 - 1785)、ヨーゼフ・ライナグレ2世 (Joseph Reinagle, 1762 - 1825) がいます。1815年までチェロ奏者として公開演奏を行い、1824年11月30日にエディンバラで亡くなりました。

出典:

2024-11-29

100th Death Anniversary of Giacomo Puccini

Giacomo Puccini (Italy, 1858 - 1924) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - "In quelle trine morbide" (Act 2) from Manon Lescaut.

今日はイタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニ没後100年の命日です。今回はプッチーニ作曲の4幕のオペラ「マノン・レスコー」第2幕より「この柔らかなレースの中で」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第5曲 Melodia (dall'opera; Manon Lescaut) (6-7頁) として収録されています。

プッチーニ家トスカーナ大公国ルッカ (Lucca) を拠点としていた音楽家一族で、音楽家としては4代前の高祖父で同名のジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini (I), 1712 - 1781) までさかのぼることができます。

ジャコモ・プッチーニは1858年12月22日にミケーレ・プッチーニ (Michele Puccini, 1813 - 1864) の子としてルッカで生まれました。1874年からルッカのパチーニ音楽院 (Istituto Musicale Pacini) で、叔父 (母の弟) のフォルトゥナート・マージ (Fortunato Magi, 1839 - 1882) の下で音楽を学びはじめ、カルロ・アンジェローニ (Carlo Angeloni, 1834 - 1901) に管弦楽法を師事しました。1877年作曲のモテット「プラウディーテ・ポプリ Plaudite populi 」と「クレド」で最初の成功を収め、1880年から1883年までミラノ音楽院アントニオ・バッジーニ (Antonio Bazzini, 1818 - 1897)、アミルカレ・ポンキエッリ (Amilcare Ponchielli, 1834 - 1886)、アミントーレ・ガッリ (Amintore Galli, 1845 - 1919) に師事しました。音楽院時代の作品には「クレド」(1877) を転用した「4声のミサ曲」(1880)、「交響的前奏曲 イ長調」(1882)、卒業制作作品である「交響的奇想曲」(1883) などがあります。

オペラ第1作「レ・ヴィッリ」(1884年ミラノ初演)、第2作「エドガール」(1889年ミラノ初演) に続く、第3作「マノン・レスコー」(1893年トリノ初演) の成功によりオペラ作曲家としての地位を確立し、 「ラ・ボエーム」(1896年トリノ初演)、「トスカ」(1900年ローマ初演)、「蝶々夫人」(1904年ミラノ初演)、「西部の娘」(1910年米国ニューヨーク初演)、「つばめ」(1917年モナコ公国モンテカルロ初演)、「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」の三部作 (1918年ニューヨーク初演)、「トゥーランドット」(遺作、未完) といった、現代でも主要なレパートリーとなっている作品を残しました。1924年11月29日に旅先のベルギー王国ブリュッセルで、喉頭癌の緊急手術のあとに起きた心臓発作のために亡くなりました。遺作となった「トゥーランドット」はフランコ・アルファーノ (Franco Alfano, 1875 - 1954) により補筆され、1926年にミラノで初演されました。

出典:

2024-11-14

250th Birth Anniversary of Gaspare Spontini

Gaspare Luigi Pacifico Spontini (Italy, 1774 - 1851) / Alessandro Longo (Italy, 1864 - 1945) - Impitoyables dieux! (O Nume, tutelar degli infelici. Act 2) from La vestale.

今日はイタリアの作曲家ガスパーレ・スポンティーニ生誕250年の誕生日です。今回はスポンティーニ作曲のオペラ「ヴェスタの巫女」第2幕より「無慈悲な女神よ」の、アレッサンドロ・ロンゴによるピアノ独奏編曲を弾きました。ロンゴが編纂した「金の図書館、あらゆる時代と地域の巨匠の作品からの700のピアノ小品 Biblioteca d'Oro, 700 pezzi per pianoforte tratti dalle opere di Maestri di ogni tempo e paese 」の第3巻に第45曲 Preghiera (dall'opera: La Vestale) (66頁) として収録されています。

ガスパーレ・スポンティーニは1774年11月14日に教皇領のマイオラーティ (Maiolati. 現在のイタリア領マイオラーティ Maiolati Spontini) で、職人兼小自作農の子として生まれました。楽才が認められたため、1793年にナポリピエタ・デイ・トゥルキーニ音楽院 (Conservatorio della Pietà dei Turchini. 現在のナポリ音楽院の前身校の一つ) に入学しました。音楽院ではニコラ・サーラ (Nicola Sala, 1713 - 1801)、ジャコモ・トリット (Giacomo Tritto, 1733 - 1824) に師事したと考えられていますが、スポンティーニ自身はドメニコ・チマローザ (Domenico Cimarosa, 1749 - 1801) の弟子であると主張していました。1796年の最初のオペラ・ブッファの初演以後、イタリアでオペラ作曲家として活動し、1802年の末に統領政府期フランスの首都パリに移りました。

パリでは声楽教師として活動を始めますが、やがてフランス皇后ジョゼフィーヌ (Joséphine de Beauharnais, 1763 - 1814) の庇護を得てオペラを発表し、「ヴェスタの巫女」(1807年パリ・オペラ座初演)、「フェルナン・コルテス、またはメキシコ征服」(1809年パリ・オペラ座初演) で大成功を収めました。1817年にフランス国籍を取得。1814年よりプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (Friedrich Wilhelm III, 1770 - 1840) から招聘を受け、1820年にプロイセン王国の首都ベルリンに赴き宮廷音楽家として音楽総監督 (Generalmusikdirektor) に就任しました。外国人作曲家でありながら宮廷音楽家として高い地位にいたスポンティーニを快く思わないものは多く、1840年6月のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の死後、その後ろ盾を失ったスポンティーニは激しい攻撃にさらされ、1841年7月には不敬罪 (不得手なドイツ語での声明中の語句について告発された) により禁固9ヶ月の刑が確定し職を解かれます。1842年5月に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (Friedrich Wilhelm IV, 1795 - 1861) によりその判決は取り消されたものの、スポンティーニはイタリアに帰国しました。1850年9月に生地マイオラーティに戻り、1851年1月24日に同地で亡くなりました。

出典:

  • Gerhard, Anselm (2001). “Spontini, Gaspare (Luigi Pacifico)”.Grove Music Online. Retrieved 2024-11-14.
  • 2024-11-09

    200th Death Anniversary of Jane Savage

    Jane Savage (England, 1752/1753 - 1824) - 6 Easy Lessons for the Harpsichord or Piano Forte, Op. 2; Sonata II (F major); Movement 1. Moderato (F major).

    今日はイングランドの作曲家・歌手・鍵盤楽器奏者、ジェイン・サヴェイジ没後200年の命日です。今回はサヴェイジ作曲「ハープシコードまたはピアノのための6つの易しいレッスン (ソナタ) Op. 2」の「ソナタ第2番 ヘ長調」より第1楽章を弾きました。

    ジェイン・サヴェイジは1752年または1753年に、作曲家・歌手・オルガン奏者のウィリアム・サヴェイジ (William Savage, 1720 - 1789) の子として生まれました。父の弟子たちとともに音楽を学んだと考えられており、父の弟子の一人リチャード・ジョン・サミュエル・スティーヴンズ (Richard John Samuel Stevens, 1757 - 1837) によると、彼は「サヴェイジ嬢」(Miss Savage) とウィリアム・サヴェイジとともにスティーヴンズ作の初期作品の三重唱曲を試唱しています。ジェインは私的な場でのみ演奏していたと考えられますが、両親の死の直前に自身の作品を自費出版しています。兄は母よりヨークシャーの地所を相続し、ジェインは父の遺産の唯一の相続人となりました。1793年にブルームズベリーセント・ジョージ教会 (St George's, Bloomsbury) で商人のロバート・ロールストン (Robert Rolleston) と結婚。1824年11月9日にロンドンのキャンバーウェルで亡くなりました。

    出典:

    2024-11-08

    100th Death Anniversary of Sergey Lyapunov

    Sergey Mikhaylovich Lyapunov (Сергей Михайлович Ляпунов, Russia, 1859 - 1924) - 6 Little Pieces for Piano (1918-1919. published in 1931 in Moscow); No. 1. C major.

    今日はロシアの作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、セルゲイ・リャプノフ没後100年の命日です。今回はリャプノフ作曲「6つのピアノ小品 6 Маленьких пьес для начинающих играть на фортепиано 」より第1曲 ハ長調を弾きました。この曲は変奏曲の形式で書かれているのですが、タチタチ (Тати-тати) とも呼ばれるこの主題は、ツェーザリ・キュイアナトーリー・リャードフニコライ・リムスキー=コルサコフアレクサンドル・ボロディンらによる合作のピアノ連弾作品「パラフレーズ集 Paraphrases 」(Hamburg: D. Rahter, 1879) の各曲で主題に使われたことでよく知られています。

    セルゲーイ・ミハーイロヴィチ・リャプノーフは1859年11月30日 (ユリウス暦18日) にヤロスラーヴリ (Ярославль) で、数学者・天文学者のミハイル・リャプノフ (Mikhail Lyapunov, 1820 - 1868) の子として生まれました。兄に数学者のアレクサンドル・リャプノフ (Aleksandr Lyapunov, 1857 - 1918)、弟に言語学者のボリス・リャプノフ (Boris Lyapunov, 1862 - 1943) がいます。

    1868年にヤロスラーヴリ近郊の天文台に勤めていた父が亡くなると、その翌々年の1870年にセルゲイは母ソフィヤ (Sofya Lyapunova, 1825 - 1879) に連れられニジニ・ノヴゴロドに移りました。ニジニ・ノヴゴロドではギムナージヤに通いつつ、ヴァシーリー・ヴィルアーン (Vasily Villoing, 1850 - 1922) が支部長を務めるロシア音楽協会ニジニ・ノヴゴロド支部の音楽講座で、1873年の支部設立時より学びました。ピアノの名手だった母に幼い頃よりピアノの手ほどきを受け、ニコライ・ルビンシテイン (Nikolay Rubinstein, 1835 - 1881) の推薦を受けて1878年にモスクワ音楽院に入学しました。音楽院ではカール・クリントヴォルト (Karl Klindworth, 1830 - 1916) にピアノを、ピョートル・チャイコフスキー (Potr Tchaikovsky, 1840 - 1893)、ニコライ・グーベルト (Nikolay Gubert, 1840 - 1888)、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に作曲法を師事し、1883年にピアノ科と作曲科を卒業しました。同年の末に知り合ったミリー・バラキレフ (Mily Balakirev, 1837 - 1910) とは彼の晩年に至るまで親しく交友しました。

    1885年からサンクトペテルブルクに定住。1890年に「ピアノ協奏曲第1番 変ホ短調 Op. 4」(1904年ベリャーエフ・グリンカ賞受賞) を作曲。1893年に帝室ロシア地理学会より依頼があり、モスクワの北東方向にあるヴォログダ、ヴィヤトカ (キーロフの旧称)、コストロマ周辺の地域でのロシア民謡収集をフョードル・イストーミン (Fyodor Istomin, 1856 - 1919/1920) とともに行いました。収集した民謡265曲のうち165曲を音楽協会より出版したほか、ピアノ伴奏付きの編曲も出版しました。1894年から1902年まで帝室礼拝堂の音楽助監督を、1902年から1910年までエレーナ学院 (Петербургский институт Святой Елены) 視学官を務め、1905年にバラキレフの無料音楽学校の理事に就任し、1908年から1911年まで同校の校長を務めました。バラキレフの死後、ペテルブルク音楽院で音楽理論とピアノの教師となりました。第一次世界大戦の前に、ピアノ奏者・指揮者としてドイツとオーストリアで数度の演奏旅行を行いました。1922年、教会閉鎖のために来たソビエト当局に音楽院内の教会の鍵を渡すのを拒否したために執行猶予付きの有罪判決 (禁固6ヶ月) を受けました。1923年にフランスパリに移住し、ロシア人亡命者のための音楽学校を組織したものの、翌年の1924年11月8日にパリで心臓発作のために亡くなりました。

    3人いる娘のうち二女のアナスタシーヤ・リャプノヴァ (Anastasiya Lyapunova, 1903 - 1973) は、レニングラード音楽院でピアノと音楽学を学んだのち、音楽理論の教師を経てペテルブルクのロシア公共図書館 (現在のロシア国立図書館) の司書となりました。

    教え子に以下の人物がいます。

    出典: