2024-11-09

200th Death Anniversary of Jane Savage

Jane Savage (England, 1752/1753 - 1824) - 6 Easy Lessons for the Harpsichord or Piano Forte, Op. 2; Sonata II (F major); Movement 1. Moderato (F major).

今日はイングランドの作曲家・歌手・鍵盤楽器奏者、ジェイン・サヴェイジ没後200年の命日です。今回はサヴェイジ作曲「ハープシコードまたはピアノのための6つの易しいレッスン (ソナタ) Op. 2」の「ソナタ第2番 ヘ長調」より第1楽章を弾きました。

ジェイン・サヴェイジは1752年または1753年に、作曲家・歌手・オルガン奏者のウィリアム・サヴェイジ (William Savage, 1720 - 1789) の子として生まれました。父の弟子たちとともに音楽を学んだと考えられており、父の弟子の一人リチャード・ジョン・サミュエル・スティーヴンズ (Richard John Samuel Stevens, 1757 - 1837) によると、彼は「サヴェイジ嬢」(Miss Savage) とウィリアム・サヴェイジとともにスティーヴンズ作の初期作品の三重唱曲を試唱しています。ジェインは私的な場でのみ演奏していたと考えられますが、両親の死の直前に自身の作品を自費出版しています。兄は母よりヨークシャーの地所を相続し、ジェインは父の遺産の唯一の相続人となりました。1793年にブルームズベリーセント・ジョージ教会 (St George's, Bloomsbury) で商人のロバート・ロールストン (Robert Rolleston) と結婚。1824年11月9日にロンドンのキャンバーウェルで亡くなりました。

出典:

2024-11-08

100th Death Anniversary of Sergey Lyapunov

Sergey Mikhaylovich Lyapunov (Сергей Михайлович Ляпунов, Russia, 1859 - 1924) - 6 Little Pieces for Piano (1918-1919. published in 1931 in Moscow); No. 1. C major.

今日はロシアの作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、セルゲイ・リャプノフ没後100年の命日です。今回はリャプノフ作曲「6つのピアノ小品 6 Маленьких пьес для начинающих играть на фортепиано 」より第1曲 ハ長調を弾きました。この曲は変奏曲の形式で書かれているのですが、タチタチ (Тати-тати) とも呼ばれるこの主題は、ツェーザリ・キュイアナトーリー・リャードフニコライ・リムスキー=コルサコフアレクサンドル・ボロディンらによる合作のピアノ連弾作品「パラフレーズ集 Paraphrases 」(Hamburg: D. Rahter, 1879) の各曲で主題に使われたことでよく知られています。

セルゲーイ・ミハーイロヴィチ・リャプノーフは1859年11月30日 (ユリウス暦18日) にヤロスラーヴリ (Ярославль) で、数学者・天文学者のミハイル・リャプノフ (Mikhail Lyapunov, 1820 - 1868) の子として生まれました。兄に数学者のアレクサンドル・リャプノフ (Aleksandr Lyapunov, 1857 - 1918)、弟に言語学者のボリス・リャプノフ (Boris Lyapunov, 1862 - 1943) がいます。

1868年にヤロスラーヴリ近郊の天文台に勤めていた父が亡くなると、その翌々年の1870年にセルゲイは母ソフィヤ (Sofya Lyapunova, 1825 - 1879) に連れられニジニ・ノヴゴロドに移りました。ニジニ・ノヴゴロドではギムナージヤに通いつつ、ヴァシーリー・ヴィルアーン (Vasily Villoing, 1850 - 1922) が支部長を務めるロシア音楽協会ニジニ・ノヴゴロド支部の音楽講座で、1873年の支部設立時より学びました。ピアノの名手だった母に幼い頃よりピアノの手ほどきを受け、ニコライ・ルビンシテイン (Nikolay Rubinstein, 1835 - 1881) の推薦を受けて1878年にモスクワ音楽院に入学しました。音楽院ではカール・クリントヴォルト (Karl Klindworth, 1830 - 1916) にピアノを、ピョートル・チャイコフスキー (Potr Tchaikovsky, 1840 - 1893)、ニコライ・グーベルト (Nikolay Gubert, 1840 - 1888)、セルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に作曲法を師事し、1883年にピアノ科と作曲科を卒業しました。同年の末に知り合ったミリー・バラキレフ (Mily Balakirev, 1837 - 1910) とは彼の晩年に至るまで親しく交友しました。

1885年からサンクトペテルブルクに定住。1890年に「ピアノ協奏曲第1番 変ホ短調 Op. 4」(1904年ベリャーエフ・グリンカ賞受賞) を作曲。1893年に帝室ロシア地理学会より依頼があり、モスクワの北東方向にあるヴォログダ、ヴィヤトカ (キーロフの旧称)、コストロマ周辺の地域でのロシア民謡収集をフョードル・イストーミン (Fyodor Istomin, 1856 - 1919/1920) とともに行いました。収集した民謡265曲のうち165曲を音楽協会より出版したほか、ピアノ伴奏付きの編曲も出版しました。1894年から1902年まで帝室礼拝堂の音楽助監督を、1902年から1910年までエレーナ学院 (Петербургский институт Святой Елены) 視学官を務め、1905年にバラキレフの無料音楽学校の理事に就任し、1908年から1911年まで同校の校長を務めました。バラキレフの死後、ペテルブルク音楽院で音楽理論とピアノの教師となりました。第一次世界大戦の前に、ピアノ奏者・指揮者としてドイツとオーストリアで数度の演奏旅行を行いました。1922年、教会閉鎖のために来たソビエト当局に音楽院内の教会の鍵を渡すのを拒否したために執行猶予付きの有罪判決 (禁固6ヶ月) を受けました。1923年にフランスパリに移住し、ロシア人亡命者のための音楽学校を組織したものの、翌年の1924年11月8日にパリで心臓発作のために亡くなりました。

3人いる娘のうち二女のアナスタシーヤ・リャプノヴァ (Anastasiya Lyapunova, 1903 - 1973) は、レニングラード音楽院でピアノと音楽学を学んだのち、音楽理論の教師を経てペテルブルクのロシア公共図書館 (現在のロシア国立図書館) の司書となりました。

教え子に以下の人物がいます。

出典: