Sergey Vasilyevich Rakhmaninov (Сергей Васильевич Рахманинов, Russia/USA, 1873 - 1943) - Всенощное бдение ; All-Night Vigil. Vesper Mass in memory of Stepan Smolensky, Op. 37 (Moscow: Russkie Muzikalnoye Izdatielstvo, 1915); No. 5. Ныне отпущаеши ; Nunc dimittis: "Lord, now lettest thou thy servant depart in peace". Melody of the Kiev Tradition. Slowly (B flat minor).
Sergey Rakhmaninov - 6 Romances, Op. 4; No. 1. Oh nein, ich fleh, geh nicht von mir! Transcribed for piano by Aleksandr Nikolayevich Schaefer (Александр Николаевич Шефер, 1866 - 1914).
今日はロシア出身の作曲家・ピアノ奏者・指揮者、セルゲイ・ラフマニノフ生誕150年の誕生日です。今回はラフマニノフ作曲「徹夜祷 Всенощное бдение, Op. 37」(ステパン・スモレーンスキー (Stepan Smolensky, 1848 - 1909) の思い出に) より第5曲「主宰や、今爾の言にしたがい Ныне отпущаеши 」(ルカによる福音書 第2章第29-32節) の、作曲者自身によるピアノ独奏のための編曲を弾きました。以前に弾いた、ラフマニノフ作曲「6つの歌曲 Op. 4」より第1曲「いや、お願いだ、行かないで! О, нет, молю, не уходи!」(ドミートリー・メレシコーフスキー Dmitry Merezhkovsky 詞) の、アレクサンドル・シェーフェルによるピアノ独奏のための編曲も併せて紹介します。
セルゲイ・ラフマニノフは1873年4月1日 (ユリウス暦 3月20日) にロシア帝国ノヴゴロド県で生まれました。出生地については、教会の出生届によるセミョーノヴォ (Семёново) とする説もありますが、ラフマニノフ自身は幼少期を過ごした邸宅のあるオネーク (Онег) であると考えていました。
セルゲイの父方の祖父アルカージー・アレクサンドロヴィチ・ラフマニノフ (Arkady Rakhmaninov, 1808 - 1881) は早期に退役したロシア帝国陸軍の軍人でしたが、ジョン・フィールド (John Field, 1782 - 1837) からピアノのレッスンを受けた音楽家でもありました。アルカージーには、ジローティ家に嫁いだユーリヤ (Yuliya Ziloti, 1835 - 1925)、セルゲイの父であるヴァシーリー (Vasily Rakhmaninov, 1841 - 1916)、サーチン家に嫁いだヴァルヴァーラ (Varvara Satina, 1852 - 1941) ら多くの子がいました。セルゲイの母リュボーフィ (Lyubov Petrovna Rakhmaninova, 1853? - 1929) は将軍ピョートル・イヴァーノヴィチ・ブタコーフ (Pyotr Ivanovich Butakov, 1810 - 1877) の娘であり、裕福だったブタコーフ家から結婚の持参金としてオネークを含む5つの領地を持ってきました (Harrison 2016, pages 12-13)。
セルゲイ・ラフマニノフは母から音楽の手ほどきを受けたのち、グスタフ・クロス (Gustav Kross, 1831 - 1885) の教え子でサンクトペテルブルク音楽院を卒業したアンナ・オルナーツカヤ (Anna Dmitriyevna Ornatskaya) に学びました。1882年に困窮した父が手放したオネークの邸宅を離れて家族とともにペテルブルクに移り、奨学金を得てペテルブルク音楽院でヴラジーミル・デミャンスキー (Vladimir Demyansky, 1846 - 1915) にピアノを、アレクサンドル・ルーベツ (Aleksandr Rubets, 1837 - 1913) に和声法を師事しました。ジフテリアによるソフィヤ (Sofiya Rakhmaninova, d. 1883) と悪性虚血性貧血によるエレーナ (Yelena Rakhmaninova, 1867 - 1885) の2人の姉妹の死、父との別居という事情もあったためか、音楽院での成績は振るわず音楽院からの奨学金の取り消しの危機が生じました。従兄 (伯母ユーリヤの子) のアレクサンドル・ジローティ (Aleksandr Siloti, 1864 - 1945) のすすめでモスクワ音楽院で学ぶこととなり、1885年の秋からニコライ・ズヴェーレフ (Nikolay Zverev, 1832- 1893) に寄宿生として師事することになりました。このときの寄宿生にはマトヴェーイ・プレスマン (Matvey Presman, 1870 - 1941) とレオニート・マクシーモフ (Leonid Maksimov, 1873 - 1904) がいました。1886年にはズヴェーレフの他の2人の弟子とともに音楽院の理論と和声法の教師ニコライ・ラドゥーヒン (Nikolay Ladukhin, 1860 - 1918) の授業を受け、同年秋の音楽院の試験用の勉強をしました (Harrison 2016, page 21)。1888年の春からモスクワ音楽院の上級部に進級してジローティにピアノを師事し、同年秋からセルゲイ・タネーエフ (Sergey Taneyev, 1856 - 1915) に対位法を、アントン・アレンスキー (Anton Arensky, 1861 - 1906) に和声法と作曲法を師事しました。1889年にズヴェーレフとの不和から彼の家を出て、音楽院作曲科の友人のミハイル・スロノフ (Mikhail Slonov, 1869 - 1930) としばらく暮らしたのち、モスクワの叔母ヴァルヴァーラの嫁ぎ先であるサーチン家に寄寓しました。夏になるとタンボフ近郊のイヴァーノフカにあるサーチン家の別荘 (現在のS・V・ラフマニノフ邸宅博物館イヴァーノフカ) で過ごしました。1891年6月5日 (ユリウス暦5月24日) の試験によりモスクワ音楽院のピアノ科を、1892年5月19日 (ユリウス暦5月7日) の試験により作曲科を卒業しました。作曲科卒業の際にはオペラ「アレコ」により大金メダルを獲得しています。この大金メダルは1875年のセルゲイ・タネーエフと1891年のアルセーニー・コレシチェンコ (Arseny Koreshchenko, 1870 - 1921) に続く3人目の快挙ということです。
1892年に「前奏曲 嬰ハ短調」(第2曲) を含む「幻想的小品集 Op. 3」、1895年に「交響曲第1番 ニ短調 Op. 13」、1901年に「ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op. 18」(1904年にグリンカ賞を受賞)、「チェロソナタ ト短調 Op. 19」を作曲。音楽院卒業後ほどなく作曲家としての名声を得ました。1902年に従妹 (叔母ヴァルヴァーラの子) のナターリヤ・サーチナ (Natalie Rachmaninoff, née Natalya Satina, 1877 - 1951) と結婚。1904年から1906年まで帝室大劇場 (ボリショイ劇場) 指揮者を務めました。1906年に拠点をドイツ帝国のドレスデンに移し、「交響曲第2番 ホ短調 Op. 27」(1906-1908年作曲、1908年にグリンカ賞第1位を受賞)、「ピアノソナタ第1番 Op. 28」(1907年) などを作曲しました。1909年から1910年まで米国で主にピアノ奏者や指揮者として活動し、ニューヨークでは「ピアノ協奏曲 第3番 ニ短調 Op. 30」を自身のピアノ演奏により初演しました。1910年から1917年まで再びモスクワを拠点に活動し、合唱交響曲「鐘 Op. 35」(1913年)、「ピアノソナタ第2番 Op. 36」(初稿1913年)、「ヴォカリーズ Op. 34 No. 14」(1915年) を作曲しています。ロシア革命が起こると母国を離れ、1918年から米国に定住しました。米国移住後の作品として「ピアノ協奏曲 第4番 ト短調 Op. 40」(1926年)、「パガニーニの主題による狂詩曲 Op. 43」(1934年)、「交響曲第3番 イ短調 Op. 44」(1936年)、「交響的舞曲 Op. 45」(1940年) などがあります。1943年3月28日に米国カリフォルニア州ビバリーヒルズのエルムドライヴ (Elm Drive) にある自宅で悪性黒色腫のために亡くなりました。
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