2025-02-01

150th Death Anniversary of William Sterndale Bennett

Sir William Sterndale Bennett (England, 1816 - 1875) - Preludes and Lessons, Op. 33 (London: Augener & Co., 1853); No. 26. Prelude and Lesson “Il penseroso” in B flat minor.

今日はイングランドの作曲家・ピアノ奏者・指揮者・音楽教師、ウィリアム・スターンデイル・ベネット没後150年の命日です。今回はベネット作曲「30の前奏曲とレッスン Op. 33」より第26番「前奏曲とレッスン『沈思の人』 変ロ短調」を弾きました。副題の『沈思の人 Il penseroso 』の由来については分かりませんが、詩人ジョン・ミルトン (John Milton, 1608 - 1674) の同名の詩 Il Penseroso から取られたのかもしれません。

ベネットの作品については以前に2曲、「性格的練習曲 ト短調『熱情』 Op. 29 No. 2」(2012年4月13日録音) と「前奏曲 変ロ長調 WoO 60」(2016年2月2日録音) を演奏しているので、ここで併せて紹介します。

William Sterndale Bennett - 2 Characteristic Studies for Piano, Op. 29 (1841); No. 2. ‘L'Appassionata’ in G minor.

William Sterndale Bennett - Praeludium in B flat major for Piano, WoO 60 (1863).

父のロバート・ベネット (Robert Bennett, 1788 - 1819) は1811年よりシェフィールド教区教会 (Sheffield Parish Church) オルガン奏者・ピアノ教師を務めており、1812年5月28日にケンブリッジ大学植物園の学芸員ジェイムズ・ドン (James Donn) の娘エリザベス・ドン (Elizabeth Bennett, née Donn, 1791 - 1818) と結婚し、3人の娘と1人の息子をもうけました。1816年4月13日にシェフィールドで生まれた長男 (第3子) は、ロバートの作曲した「6つのメロディ 6 Melodies to Original Poetry」(1815) に詩を提供した彼の友人のウィリアム・ハンドリー・スターンデイル (William Handley Sterndale) にちなんで、ウィリアム・スターンデイル・ベネットと名付けられました。1818年5月7日に母エリザベスは三女を出産して間もなく亡くなり、その末娘も生まれて数日で亡くなりました。1819年11月3日には父ロバートも亡くなり、両親を失ったウィリアムと2人の姉は、ケンブリッジ大学俗人聖歌隊員 (バス) である祖父ジョン・ベネット (John Bennett, 1754 - 1837) に引き取られました。1824年2月17日より祖父の所属するキングズ・カレッジで聖歌隊員となり、1826年3月7日にキングズ・カレッジ副学長の推薦により王立音楽アカデミーに入学しました。

王立音楽アカデミーではパオロ・スパニョレッティ (Paolo Spagnoletti, 1768 - 1834)、アントニオ・ジェイムズ・ウーリ (Antonio James Oury, 1800 - 1883) にヴァイオリンを、ウィリアム・ヘンリ・ホームズ (William Henry Holmes, 1812 - 1885) にピアノを、ウィリアム・クロッチ (William Crotch, 1775 - 1847)、チプリアーニ・ポッター (Cipriani Potter, 1792 - 1871) に作曲法を師事しました。楽器演奏については、当初はヴァイオリンを、のちにピアノを主専攻にしています。1832年の夏に作曲を開始し、同年11月28日にケンブリッジで初演された「ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 Op. 1」は好評を博し、1833年6月26日の王立音楽アカデミー夏至演奏会でこの曲を聴いたフェーリクス・メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn, 1809 - 1847) により、ベネットはドイツへ招待されることになりました。1833年4月から1年間、ワンズワース聖アン教会 (St Anne's Church, Wandsworth) オルガン奏者を務めました。1836年5月にメンデルスゾーンが音楽監督を務めるデュッセルドルフニーダーライン音楽祭に参加。同年9月にアカデミーでの学業を終え、10月にドイツのライプツィヒへ渡りました。ライプツィヒではローベルト・シューマン (Robert Schumann, 1810 - 1856) と親しくなり、彼の批評でもベネットの作品や演奏は好意的に評価されました。

1837年7月に英国に戻り、10月から個人教授、王立音楽アカデミーの教師として活動を始めました。1844年に王立音楽アカデミーの教え子であるメアリー・ウッド (Mary Bennett, née Wood, 1824 - 1862) と結婚。1849年にロンドンでバッハ協会 (Bach Society) を設立。1855年にロンドン・フィルハーモニック協会 (The Philharmonic Society of London) 管弦楽団の指揮者に就任。1856年にケンブリッジ大学の音楽教授に選出。1866年に王立音楽アカデミー学長に就任。1875年1月に病気となり、2月1日にロンドンで死去。2月6日にウェストミンスター寺院に埋葬されました。

教え子に以下の人物がいます。

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